共通ルート1.あなたに正しく出会う方法(上)
最も早い早番シフトを終えた伊予のルーティンは、マンネリである。
駅、スーパー、家の三点セット。
最寄り駅とスーパーに家が挟まれているのだが、それでも遠回りするのは、一度家に踏み入れたら外に出る気が損なわれてしまうのが唯一の原因ではない。宵闇が訪れる前に、外の用事を済ませたいという、一人住まいの若き女性特有の思惑に傾いてしまうからだ。
それが命取りになっているのだ。
コートのポケットから血が滲み出したサングラスの大男と、二人だけになった帰り道の路地でレンズ越しにたまたま視線が合ってしまい、不審に思って背を向けても背後から急促な足音が迫ると聞こえた瞬間、伊予はそう思った。
追われてしまった。
なんということだ。10…いや、たとえ5分遅れてスーパーから出ていたとしても、こんなことにはならなかっただろう。
牛乳売り場をもう一周もすれば済んだことなのに。
しかしながら、人生というものは、朝起きて今日自分が死ぬと分かって過ごすものとは程遠い。安全のための行動であっても逆効果を招き得ると能書き気味に言われても、それが明日の日の出を見るまでに起こるものだと誰も予想できるはずがない。
伊予は、予想しなかった事態にパニックになった勢いで、すぐ近くのもう一方の路地に逃げ込んでしまった。
人通りのあるに後退するのが得策だとは、余裕持った高みの見物即ち後知恵。実際に危機が訪れる時、手近な逃げ道へと、たとえそれが現実逃避だと分かっていたとしても逃げ込みたくなる衝動にそそられるのは、ダチョウに限った話ではない。
案の定、足音は等速直線運動をしているかのように付かず離れず追って来た。敢えて加速しないのは、あちらの体力の温存、こちらの体力の消耗、またはそういう性癖なだけといった複数の理由が考えられるが、追究するだけ無駄である。
伊予は、状況を理解するのを諦めた。
だが、考えるのをやめたところで、脚力の差は確かに存在する。あまりにも華奢な伊予のその体型は、耐力があったとしても、平均筋力が男性に劣っているのが紛れもない事実。何らかの形で横槍を入れてもらえなければ、いずれは中学生時代うんざり程解けた等速直線運動問題が言ってたように追いつかれる。
叫んで助けを求めるのはもちろん一つの方法だが、人気のない細長い路地で絶叫したとしても誰かが来てくれるとは限らない。そんな遠水近火を救わずなことに意識を割くより、呼吸を整えて路地を走り切って、逆側の大通りを目指す方が余程役に立つと伊予は思った。
ちょうどその時ーーこの言葉を待ちくたびれていたがーー路地の逆方向に、一人の通行人の姿が伊予の目に映った。
今叫んだら、あの人には聞こえるはず。しかし、このことを意識できたのと同時に、背後の足音も重くなった。追い手もとうとう、本気を出したのである。
にもかかわらず、事が志しと違うと言わんばかりに、突如伊予に脱力感が襲い掛かった。向かってくるその人影が見えた瞬間、彼女自身も理解できずに、助けられた時だけに湧き出すはずの疲労感が、一気に体内で爆発したのだ。
「あ…!」
足に力が入らないせいか、何もない平地そのものに、伊予は容赦なく躓つまづいた。そして、パニックか恐怖かそれとも疲労か、足に力が入らないままそれっきりで、彼女はその場から動くことすらままならなかった。
地面に映った影がその隙を逃さずに背後から凄まじいスピードで近づき、一瞬にして彼女の小さな体を覆うような形になった。
安堵と暖かさを焼き付くはずの午後3時の日差しが今、黒き影の上げた右手に握っている鉈の形を、地面と共に、伊予の網膜に焼きついた。
伊予には、その光と影の境界線に、むしろ恐怖と冷酷を感じた。
現実逃避なのか、こういう時こそ、強調されたいかと言わんばかりに人影の遥か上に振り上げた刃より、彼女は何故か路地の向こうの人影に目を向けることにした。
(助けて…)
叫ぶには時すでに遅し、聞こえたところで百メートル離れたところから助けが届くはずもない。伊予は、叫び声を絞り出すより、来たる苦痛への忍耐に力を回そうと咄嗟に決めた。
しかし、助けを求める自由は、たとえ死と不幸が確約されている瞬間であったとしても人が行使していい権利であるかのように、求援きゅうえんに応じる自由もまた然る也。
異常な気配に気づいていたのか、こちらを振り向くと、遠き通行人が足を速めて小走りになった。
もちろん、間に合わないのだが、その些細な気づきに、伊予もまた些細な報いを感じた。
だが、癒しだろうと悔いだろうと、所詮一瞬に過ぎない。
振り下ろす刃の瞬き、頭を抱えながら絶叫する伊予、そして…