④2人だけが辿り着ける思考の領域
ラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリー、夜神月とLは、それぞれ「作中世界に冠絶した智者2人」であり「お互いに対抗できるのはお互いだけ」という関係性に描かれています。
「第二主人公が第一主人公よりもわずかに優れている」という点はこれまでも本文中で幾度も繰り返してきましたがそれはあくまで”わずか”であり、その他の登場人物たちと比べればやはり主人公2人は突出した天才でほぼ同格として頂点に並び立っている、と考えて間違いないでしょう。
(※これはあくまで本編時間軸上での話です。『銀河英雄伝説』の前史で活躍したリン・パオやユースフ・トパロウル、また『DEATHNOTE』本編の9年後が舞台となった読み切り『DEATHNOTE aキラ編』に登場した田中実などは考慮の対象外としています。ご了承のほどを)
そしてそのことを端的に表現する為、両作とも同じ手法を採用しています。つまり「余人には想像することさえできない思考の領域に2人だけが到達している」描写を何度も繰り返す、というものです。
具体例を見ていきましょう。
まずは『銀英伝』において、帝国軍がガイエスブルク要塞をイゼルローン要塞至近にワープアウトさせた第八次イゼルローン攻防戦。戦局が膠着したほぼ同じタイミングで、共に遠く戦地をはなれたラインハルトとヤンは「要塞同士をぶつけてしまえばそれで済む」という全く同じ見解を口にしています。
これはこの時点で、両名以外の誰ひとりとして思いついていない戦法です。ミッターマイヤー、ロイエンタール両名すら援軍として出兵するようラインハルトから命じられて訝しんでいることから、おそらく着想できていないと推察されます。
帝国遠征軍の総司令官ケンプは最終局面に至ってこの戦法を思いつき実行していますが、これはギリギリまで追い詰められ他に勝機がなくなった段階でようやく気づいたもので、そのはるか前段階で当然のように発想していた両主人公とはやはり明確な開きがあります(「普通ならばこんな異常な戦法を思いつくのはラインハルトやヤンのような天才か全くの素人だけだ」という趣旨のことが地の文でも書かれています)。実際、すでに対抗策を考えついていたヤンが戦場に到着したことで、この策は破られています。
まあラインハルトに関しては、「思いついてんなら出兵前にケンプにアドバイスしてやれよ」と思わんでもないのですが……
また"神々の黄昏"作戦により帝国軍が同盟領に侵攻したことを受け、ヤンがイゼルローン要塞の放棄を決断した時、まだ自分たちには唯一の勝機が残っていると仄めかしシェーンコップに訝しがられています。その場の他の面々も、ヤンが何を言いたいのか気づいた様子はありません。
魔術師の意図にたどり着けるのは、やはり蒼氷色の瞳の天才だけです。ヤンがイゼルローンを放棄した報を受けたラインハルトは、彼が唯一の勝機を得るため動き始めたことを悟ります。困惑する副官シュトライトに、それは「戦場で自分を倒すことだ」と告げるのです。
これに関してはラインハルトの傍にいるヒルダも気づいていた可能性が高いのですが、いずれにしろ「ラインハルトを戦場で倒して後継者なき帝国軍を空中分解させる」という着想が相当高次元のものとして描かれており、これを媒介としてラインハルト≒ヤンという力関係が表現されていることは間違いないでしょう。
『DEATHNOTE』にも目を転じましょう。わかりやすいのはLが死神レムを尋問するシーンです。Lから「ノートから切り取った切れ端に名前を書いても効果はあるか」という質問を受けたレムが、「やはりこいつは夜神月と同じレベルで物を考えている」と内心で警戒感を高めます。
実際、デスノートの切れ端に名前を書いて対象を殺すというのはそれまで月が頻繁に用いていた、いわば常套手段でした。本作ではこれがとても高度な発想として描かれています。月以外のノート使用者が自力でこの発想に到達した形跡はありませんし、初対面時月にノートを差し出した弥海砂(ミサ)が「ページを切り取って隠してるんじゃないか」と月から疑惑を向けられた時は「そんな使い方思いもついていない」と抗弁しています。
神の視点の読者には今ひとつピンと来ないでしょうが、やはりこれは天才のみが至れる着想として「設定されている」、と考えていいでしょう。そしてその着想媒介として月の能力≒Lの能力と定義している、というのは上でみた銀英伝の手法と全く同じです。
漫画のアドヴァンテージを活かし、この等式を視覚的に表現しているシーンもあります。月がノート所有権を放棄して記憶を失いLと共に四葉キラを追っていた時、四葉に潜入したミサが機転を利かせ四葉キラ=火口の「自分がキラだと証明するために犯罪者裁きを止める」という決定的証言を録音し、本部に持ち帰りました。本部の他のメンバーは関心したり喜ぶばかりでしたが、ただ2人月とLだけは不審な表情を浮かべます。
これはちょっとあざとすぎるシーンです。総一郎くらいはミサに不審を抱いても良さそうなのに、何の疑念も浮かんでいない様子。つまりここでは「ミサに疑問を抱く(その行動の問題点に気づく)=一段上の知性」ということにして、そこに到達した月とLが「周囲とはレベルが違う2人である」ということを無理を押してでも作者が表現したかったのです。これなども極めて銀英伝的な手法と言えます。
記憶を失っている時期の月は今一つ精彩を欠いている印象が強めですが、ここではミサがどうやって火口から証言を引き出せたのか疑惑を抱くと同時に、「このまま裁きが止まったらキラの殺しの方法を突き止めるのが難しくなる」というLと同等の思考にまで至っています。やはりこの時期でも月≒Lの力関係は基本的には崩れていないと考えるべきでしょう。
あとどちらの作品でも、第三者が「主人公2人が同格だ」ということをしきりに口にしていますね。これもうサブリミナル狙ってんのか、ってくらいに(笑)。『銀英伝』においてヤン艦隊がドーリア星域会戦で勝利を収めた際、シェーンコップがヤンの傍らで「この銀河には不敗の名声を誇る人間がもう一人いる、帝国のローエングラム侯ラインハルトだ」と内心で述懐するシーンなどは顕著でしょう。
『デスノ』ではLに第二のキラが存在する可能性を隠されたままミサがテレビ局に送ったテープを見せられた月が「これを送ったのは今までのキラとは別人の可能性が高い」と指摘したシーンで、松田たちが「竜崎|(L)の推理と全く同じだ……」と驚いています。まあ月はキラ自身なわけだからそれ知ってて当たり前なんですが(笑)、Lの思惑を見抜き咄嗟に機転を利かせた月はやはりここでもLレベルの知性に描かれている、と見ていいでしょう。いささか変則的な手法ながら、ここでも月≒Lが読者に印象づけられています。
「第一主人公と第二主人公は同格の知性を有し、それは作中世界の頂点に位置するものである」。両作とも、この点をくどい位強調していることがお分かりいただけたと思います。何故なら銀英伝もデスノートもそこが「頭脳戦」としての醍醐味を支える骨子であることを、作者方が自覚しておられるからなのです。やはり根幹部で通じ合っている二作です。