なんでもない日
冬の朝ってなんだかいいですよね。
足の冷たさで目が覚める。
カーテンの隙間から差し込む白い光。時計に目をやると5時15分を指している。
立花柑乃はぼーっとした頭で寝返りを打つ。
顔を向けた先には布団に潜り込む吉田晴紀の姿。
規則的な寝息に合わせて布団が上下する。
じっと眺めていると、はた、と気づく。
「毛布…」
一緒にかぶっていたはずの毛布が自分の上に無い。
寒さをこらえ布団をめくる。
中では晴紀がひとり、毛布に包まり縮こまっている。
くそう、と頬を膨らませる柑乃。
眠る晴紀の毛布の中へ自分の足を突っ込んだ。
ぬくい…。そして柔らかい。
足先で晴紀の足を見つける柑乃。
そっとズボンの裾から自分の冷えた足先を晴紀の足へ寄せる。
チッ・チッ・チッ。
静かな朝、時計の秒針の進む音が部屋に響く。
「…んん…」
冷たさから逃れようとしたのか、晴紀がもぞもぞと寝返りを打つ。
「ふふ」
柑乃より大きな晴紀が小さく丸まっているのが、なんだか可笑しくて笑ってしまう。
笑い声が聞こえたのか、晴紀がうっすらと目を開く。
「…つめたい」
起きていない、掠れた声で呟く晴紀に口を尖らせながら反抗する。
「毛布とられたんですけど」
「ええ…」
今にも閉じそうな目で布団の中を確認する晴紀。
視線を戻し、柑乃と目を合わせる。
「…」
「…」
チッ・チッ・チッ。
数秒、時を刻む音。
「…ん」
毛布を少し持ち上げ、柑乃を呼ぶ晴紀。
「よし」
口元をほんの少し緩め、晴紀の近くへと擦り寄る。
柑乃が寄り添うのを確認し、毛布を掛ける晴紀。
柑乃は先ほどの仕返しかのように、冷えた足先を逃げる晴紀の足先へと寄せる。
「だーかーら、冷たい」
不機嫌そうな声。同時に柑乃の頭の下に腕が差し込まれる。
「もうちょっと、寝よ…」
言い切る前に、うとうとと目を閉じる晴紀。
見ている柑乃もだんだんと瞼が重くなる。
柔らかな毛布に包まれた足先は重なったままである。
パチ、と目を開く。
毛布に包まれた身体はぽかぽかと暖かい。
隣に晴紀の姿はなく、リビングの方からTVの音声が漏れ聞こえる。
これはニュース番組か?いや、笑い声が聞こえるからバラエティコーナーか。
聞こえてくる声で番組の内容を予想する。
肩口に冷たい空気が触れ、毛布の中へ潜り込む柑乃。
嫌々時計を見るが、背を向けていて時間は見えない。
まだ起きたくない。
しかし一度意識してしまうと頭は覚醒し始める。
何の番組か確認したい…
動くか、動かないか。
対照的な行動が脳内でせめぎ合う。
「…むう」
迷っているうちに段々と瞼が重くなってきた。
まあ、番組とかなんでもいいや。
決めかねて再び眠りに落ちかける。
ガチャ。
扉の開く音がする。
「柑乃?」
「…うう」
名前を呼ばれ、敢えて顔を毛布に隠す。
目だけ出して声の聞こえる方を見る。
晴紀がドアノブに手をかけ、こちらを見ていた。
「あ、起きてんじゃん」
「起きてないもん今にも夢の世界へGOだもん」
「ああそう」
早口で訴える柑乃に、適当に返事をする晴紀。
柑乃は少しだけ頬を膨らませる。
「で、早起きした晴紀くんはどうしたのかな?やっぱり柑乃ちゃんがいなくて寂しいの?」
にやにやとわざとらしく尋ねてみる。
晴紀は心底面倒、という顔で眉をしかめていた。
「…冗談だって」
「知ってる」
「…でしょうね。でもさ、それならそれでもうちょっと乗っかってよー」
「ここで甘やかしたら女優にはなれないよ?」
「演技が下手って言いたいのかな?」
毛布に隠れつつ、しくしくと泣く振りをする柑乃。
ふは、とその様子を呆れた顔で笑う晴紀。
「それでさあ、芸人見習いさん」
「え、女優どこいった?」
「とても悲しいことに…」
ふと言葉を止める晴紀を見つめる柑乃。
晴紀は俯き、腕で顔を隠している。
じっと次の言葉を待つ柑乃。
「…何も食べるもの無いんです」
大げさに泣く演技をする晴紀。
「え、そうだっけ」
流れを無視して素っ頓狂な声が出る。
崩れ落ちる演技までした晴紀が、口を尖らせながら立ち上がる。
「…そう。だから出てくるって言いに来たんだよ」
今更照れたのか、頭をかきながらいつもの声音に戻っている。
「あー、忘れてたー」
毛布をめくり、上半身を起こす柑乃。
「私も行く」
「いいよ。俺行ってくるから。寝とけば?」
じっと晴紀を見つめる柑乃。
「…行く」
「そう?」
「そう」
ふう、と軽く息をつく晴紀。
口元が少し緩んでいる。
「腹減ったから早めにお願いしまーす」
それだけ言い残し、晴紀はリビングへ戻っていく。
「はーい」
んー、と小さく伸びをする柑乃。
目をこすりながら起き上がり、洗面所へと向かっていった。
「朝8時のニュースです」
柑乃が、晴紀の眺めていたニュースを消す。
玄関から柑乃を呼ぶ晴紀の声。
「柑乃ー。まだー?先行くぞー」
「え、ちょっと待ってよ」
早足になる柑乃。
ぱたぱたと騒ぐスリッパの音が突然消える。
「やばいやばい忘れてた」
思わず呟く声とともに、またスリッパが騒ぎ出す。
クローゼットへ向かった柑乃が、すぐに玄関への扉を開く。
「ごめん、お待たせ」
「遅いって…あ」
目の前の柑乃が真っ白で柔らかそうなマフラーで首元をぐるぐるにしている。
「いいじゃん。可愛い」
靴に足を入れていた柑乃がきょとんと晴紀を見る。
「え、なんて?」
期待を込めた眼差しで晴紀を窺う柑乃。
「…雪だるまみたいで可愛いって言った」
柑乃の視線を避けるようにそっぽを向きながら答える晴紀。
「そんな丸くありません」
心なしか嬉しそうな声音の柑乃。
晴紀がちらりと視線を動かすと、顔を半分マフラーに埋めながら目を細めているのが見えた。
「暖かそう」
思わず手を伸ばして、柑乃のマフラーを触る。
「え、肌触り良すぎじゃない?」
ふふん、と得意げな柑乃。
「貸さないよ?」
晴紀が、えーと不満げに笑う。
「まあ勝手に暖はとる」
「何企んでるの」
呆れた声の柑乃が玄関の扉を開ける。
二人並んで扉を出ると、ドアが音を立てて閉まった。
並んで住宅街を並んで歩く柑乃と晴紀。
柑乃の肩と晴紀の腕が時折ぶつかる。
道端の草や家の芝には霜がおりている。
日光を浴びる度キラキラと光るそれらは、まるで冬空の星が地上に降りてきたみたいだ。
休日の朝なだけあって、平日朝のような街の忙しなさはあまり感じない。
「寒うう…」
柑乃が両手を重ね、さすっている。
冷えて赤くなった手に息を吹きかける。
「あ!晴紀みてみて!」
赤い指先で晴紀の服を引っ張る。
「ん?」
柑乃は晴紀が自分を向いたことを確認すると、空に向かってはあ、と息を吐く。
「ね!白い!」
「ほんとだ」
晴紀は笑って自分も空へ息を吐く。
白い靄をぼんやりと見つめ
「寒いわけだ」
小さく呟く晴紀。
「今朝の最低気温、マイナスだったらしいよ」
柑乃が喋る度、白い靄が空へと溶ける。
「そのマフラーは大正解なわけだ」
晴紀の言葉に得意気な柑乃。
「ちゃんとニュース確認したもんね」
「偉い偉い」
「褒めるならもっと心込めて⁉」
曲がり角が近づく。
しばらく無言だった晴紀が不意に口を開く。
「ねえ、一個聞いていい?」
「いいよ。あと私も聞きたいことある」
歩きを止めず、顔を見合わせる二人。
「…同じことだと思う?」
「どうだろ」
足を止める晴紀。
つられて止まる柑乃。
際に口を開いたのは晴紀だった。
「…どこ向かってる?」
一瞬間をあけて、柑乃が答える。
「ブーランジェリー・クラルテ」
ぱあっと晴紀の表情が明るくなる。
「一緒…?」
恐る恐る確認する柑乃。
こくりと大きく頷く晴紀。
「よかったー」
ほっとした顔で、再び歩き出す。
「何でここまで来て行先確認してんだろう」
一周回って面白くなってきた。
「絶対、家出るときに相談しとくやつだよ」
くすくすと笑う柑乃。
晴紀も同じ気持ちのようで、一緒になって笑っている。
「柑乃がこの時間に付いてきたから。クラルテ行きたいんだと思って聞かなかった」
「でも不安になっちゃった?」
晴紀を覗き込んだ柑乃は悪戯っぽい目をしている。
「んー、まあ」
視線を柑乃から逸らす晴紀。
「晴紀だけ急に、途中のコンビニ入っていったら面白かったのに」
じと、とした目で笑う柑乃を見る晴紀。
「それはそれで有りだったかもな」
晴紀がずぼっと柑乃の首とマフラーの間に冷えた自分の手を差し込む。
突然の冷たさに驚き、身震いする柑乃。
「ちょっと!冷たいって!」
「朝、ものすごーく冷たい足を入れてきたのはどちら様でしょう?」
一瞬視線を揺らす柑乃。
すぐに晴紀の目を見て言い返す。
「仕方無いじゃん!晴紀が毛布全部持ってったんだから!」
口を尖らせる柑乃の顔をまじまじと晴紀が見つめる。
「え」
「え?」
きょとんとする晴紀に困惑する柑乃。
柑乃はだんだん笑いが込み上げてきた。
「あはは!覚えてないの?朝も同じ顔してたのに…!」
立ち止まり、腹を抱えて笑う柑乃。
マフラーから手を抜いた晴紀、考えるように口元に手を持っていく。
少し考えている様子の晴紀が、勢いよく顔をあげ柑乃を見る。
「…まじで記憶に無い」
「嘘でしょ」
笑いが止まらない柑乃。ついに涙がこぼれ始めた。
「ふ、はは。おなか痛い」
涙を拭いながら笑う柑乃に口をへの字に曲げる晴紀。
拗ねたように柑乃へ背を向ける。
ひとり先へ進む晴紀の背を涙越しに見る柑乃。
「あはは。もう、待ってってば」
小走りに晴紀の後を追う柑乃。
走る息はキラキラと光って消えていく。
住宅街を抜け、大通りに面した通りの裏のほうにブーランジェリー・クラルテはある。
小さな店舗のため2組程度しか同時に入店はできないのだが、人気店のためよく入り口前に並んでいる。
今日は運よく店内に1組しかいなかったようで、柑乃達はすぐに中に入ることができた。
「何にしよっかなー」
機嫌のよい柑乃がカチカチとトングを鳴らす。
「音鳴らすのやめなさい」
「はーい」
晴紀にたしなめられるも、鼻歌まじりにパンをトレーへ運ぶ柑乃。
晴紀はチラリと柑乃の様子を見て口元を緩める。
「クロワッサンと明太フランスと…食パンはマストでしょ」
ぶつぶつと一人で呪文を唱えていた柑乃が、ぐるんと振り返り晴紀を呼ぶ。
「見て!クロックマダム焼き立てだって!」
熱で溶けるチーズがあまりにも食欲をそそる。
よほど嬉しいのか、柑乃の目がキラキラと輝いている。
「ふ、本当だ。それ食べたいから入れといて」
「了解!えー、どうしよ、私も食べたいけど…うーん」
真剣に悩む柑乃にこらえきれず笑ってしまう。
「ちょっと何?」
「いやあ、本当真剣に悩んでるから」
「うう、だって全部美味しそうなんだもん」
きゅっと顔を中心に寄せ、眉をへの字に寄せる柑乃。
決められないー、と困り顔である。
すぐ横を会計の終わった女性が微笑みながら通り過ぎる。
柑乃と目が合って、ふふふと口元を押さえる。
小声のつもりでいたが筒抜けだったらしい。
恥ずかしくなって口を閉じる柑乃。
喋らない晴紀の様子から察するに、彼も同じ気持ちのようだ。
「焼き立てでーす」
店の奥から店員のお姉さんが湯気の立つパンを運んでくる。
様子を窺っていると、トレーに綺麗に並べられたパンの立て札には”りんごとチーズ”の文字。
そっと晴紀の顔を覗き込む柑乃。
気づいた晴紀がゆっくりと頷く。
そのやりとりがなんだか可笑しくて、結局くすくすと笑ってしまう。
ルンルンで焼き立てのパンをトレーに乗せる柑乃。
2人分にしてはけっこうな量である。
「あとは?大丈夫そう?」
晴紀が頷くのを確認して、レジへとトレーを運ぶ。
「お持ち帰りですか?」
先ほど焼き立てパンを運んでいたお姉さん。
「はい」
柑乃と晴紀は満足そうに頷いた。
袋いっぱいに詰められたパンの山。
腕に抱えると甘い香りが鼻孔をくすぐる。
しばらく香りにうっとりとしていた柑乃、急に真剣な面落ちで晴紀へ問う。
「なんでパンってこんなに幸せになれるんだろう」
「さあ」
「また買いすぎたのに、心の底から満足してる」
「よかったじゃん」
適当に笑いながら返す晴紀。
実は柑乃もあまり聞いていない。
「焼き立て、早く食べたいー…」
抱えたパンの山をじっと見つめる柑乃に苦笑する晴紀。
「食べながら帰る?」
「それはマナー的に、うーん…」
きゅっと眉を寄せ迷う柑乃。
マナーと食欲で迷うのなんて、この世に柑乃だけだろうな。
視線の先の柑乃に向かって晴紀が考えたことなど、まったく知らない柑乃。
迷いに比例して、とぼとぼと歩くスピードが落ちる。
視線を宙にさまよわせ、ふと晴紀が思いつく。
「ちょっと遠回りだけど公園寄ってく?」
はっとした表情で晴紀を見つめる柑乃。
「天才。行こ!」
右手にパン袋、左手に晴紀の手を取り引っ張っていく柑乃。
さっき遅れた分を取り戻すかのように走り出す。
「急ぐとこけるよ」
引っ張られる晴紀が呆れたように笑っている。
「まだ早いから人少ないね」
公園の中央に立つ時計が9時過ぎを指している。
日が差し始めたからだろう。吐く息は透明になっている。
そこそこ広い公園ではあるが、ジョギングをする人、犬の散歩をする人など数人しか見当たらない。
「いつも結構多いもんな」
どこで食べようかときょろきょろ辺りを見回す。
「あ、ブランコあるよ」
「乗りません」
ちえ、と口を尖らせる晴紀。
柑乃は”後でね”の気持ちを込めて、落ち込んだ晴紀の肩に手を置く。
「とりあえずあそこかな」
背筋を伸ばした晴紀の視線の先はブランコの方角。
少し奥にベンチがあった。
ベンチに腰掛ける柑乃。
「ここ自販機あったよな。飲むもの買ってくる。ミルクティー?」
座る前に自販機を探す晴紀。
「うん。ありがと」
歩く晴紀の背中が見えなくなる。
柑乃はパンを膝の上にのせ、小さく伸びと深呼吸をする。
「んー…」
ふと、目の端に人影が写る。
何気なく視線を向けると老夫婦が寄り添うように歩いていた。
散歩だろうか。
杖をつく男性と寄り添うように支えて歩く女性が、時折笑いながらゆっくりと一歩ずつ進む。
いつもそうしているかのように自然に並ぶその姿に、何故だか胸の奥がギュッとなる。
「どうしたの」
両手に、オレンジ色のキャップをしたペットボトルを持った晴紀が立っている。
「あ、おかえり。ありがとう」
柑乃は晴紀からミルクティーを受け取る。
両手で包むように握ると、暖かさがじんわりと広がる。
「お散歩かなって」
視線を先ほどの老夫婦へ向ける。
「ああ…なんか、いいな」
「ね」
しばらくじっと老夫婦を見つめる二人。
視線を逸らした晴紀が柑乃の隣へ腰掛ける。
「どれから食べる?」
「ん?ああ、やっぱり焼き立てかな!りんごとチーズ!」
「だよなー。俺も焼き立てからにしよ」
ガサゴソと目当てのパンを探す。
手にしたパンは、まだほんのりと暖かい。
二人一緒に手を合わせ、いただきますと呟く。
早速口いっぱいに頬張る柑乃を、コーヒーを口に含んだ晴紀が見る。
「どう?」
「はいほう…」
頬張りすぎて”最高”が言えないらしい。
口元を緩めた晴紀が、一生懸命に口を動かす柑乃をじっと見つめる。
「…なに」
やっと一口目を飲み込んだ柑乃が少し恥ずかしそうに尋ねる。
「いやあ、毎回だけど美味しそうに食うからさあ」
ミルクティーを口に含む柑乃。
飲み込んでほっと一息をつく。
「味は間違いないしね。公園で食べるの、いいね」
満足、といった様子の柑乃を優しく見つめる晴紀。
「はい」
晴紀が自分の手の中のパンを柑乃の目の前に差し出す。
「食べるんだろ?」
「え、いいの?」
「一口だからな」
「やったー!」
晴紀の手の中のパンを遠慮なく頬張る柑乃。
「うまー!幸せー」
「一口がでかいって」
「うるさいよー」
やんやと賑やかに食べる二人。
少し離れたところから、老夫婦が微笑みながら通り過ぎて行った。
「あらあ、あの子たち楽しそうね」
「はっはっは。賑やかでいいのう」
「私達も昔はあんなだったかしら」
「今が幸せで儂は満足してるがなあ」
「あら」
立ち止まり、顔を見合わせる二人。
朝の公園に笑い声が重なっている。




