蚊
朝、五時五十五分。
六時ちょうどに家を出ることになっているので、玄関に座り込んで、ツイッターをチェックする。
この五分間が、わりと重要なのだ。
タイムラインをつるつると確認し、大まかではあるが今日一日の流れを決める、貴重な五分。
…ふうむ、カフェで限定メニュー、今日から発売か。
よし、今日の昼はサンドイッチとパイナップルスムージーに決定だな。
脳内予定表に書き込んだところで、靴を履こうと…うん?
ショートソックスを履いて、ひざ下丈のスパッツを着込んでいる私の生足部分に…蚊が一匹。
ムム、老いて貧血気味になってきた私の貴重な血液を吸おうとするとは、何たる無礼な。
……しかし、ぶちゅっと潰すのも気が引けるな。
ふっと息を吹き付け、立ち上がる。
……よし、どこか飛んでった。
♪ぺロロンぺろろんぺろっペロッ♪
あ、六時のアラームだ。
「おーい、行く時間だけど!」
「はーい!今行く!!」
娘と一緒に車に乗り込む。
就職した娘を毎朝会社まで送り届けるのが日課となって、はや半年。
来月娘の車が納車されることになっているので、間もなく私はお役御免となる。
あさイチドライブは結構楽しいし、私の運転技術の向上にも一役買ってくれて…うん?
信号待ちで止まった私の目に…、蚊が一匹。
今、ハンドルを握る私の右手の甲にとまらんとしているのは…黒い体に白い点のある、ひげの長い、蚊。
なんだ、ずいぶん……見覚えのあるフォルムだぞ。
こいつまさか……玄関から、私にくっついてきていたのか?
……そう言えば、右ふくらはぎのあたりがやけにかゆい。
窓を開け、右手を外に出したところで、信号が変わった。
「なに、いきなり窓開けて!!」
「なんか蚊がくっついてたんだよ。」
ちょっと冷房効き過ぎてたなって思ってたんだよね。
窓を開けっぱなしにして、娘を会社へと送り届ける。
「行ってらっしゃい。」
「へいへい。」
娘を送り届けた後、私はコンビニに寄って、朝食の調達など。
よーし、今日は贅沢焼き鮭おにぎりにしよ……。
車に戻って、おにぎりのフィルムを剥がし、一口齧った、その時。
おにぎりの向こう側に…、蚊が一匹。
今、ハンドルにとまらんとしているのは…黒い体に白い点のある、ひげの長い、蚊。
なんだ、ずいぶん……見覚えのあるフォルムだぞ。
こいつまさか……窓を開けたのに、出て行かなかったのか?
……そう言えば、右腕の外側のあたりがやけにかゆい。
しぶとい蚊だな。
仏の顔も三度までってね。
まあ、私に見つかってしまったのが運の尽き。
……潰すか。
手を伸ばし、ハンドルを勢い良くたたく。
ムム、逃げられた。
おにぎりをモグモグしながら、蚊を追い回す。
くそう、たらふく私の生き血を吸ったくせに、やけにすばしっこいな。
ばん!
だん!
プー!
おうふ。
うっかりクラクションが鳴ってしまった。
周りを見回し…うん、辺りに車も歩行者もいないな、良し。
……忌々しい蚊だな。
どうにかして成敗したいところだが……、もう時間がない。
食べ終わったおにぎりのゴミをコンビニまで捨てに行き、そのまま仕事場へと向かった。
職場は衛生管理の行き届いている工場なので、蚊の攻撃を受けることはない。
快適に働いたのち、帰宅しようと車に乗り込もうとすると。
ドアを開けた瞬間、車の中から蚊が飛び出した。
潰してやろうと手を伸ばしかけ…、まあいいかと見送った。
私の生き血を糧にして、せいぜいたくさんの子孫を残すがいい。
……さらば、蚊。達者で、暮らせよ!
略奪の限りを尽くした無礼者を見逃し、エールを送ったその日以来、蚊による襲撃を受けていない。
蚊もまた、恩義というものを感じているに、違いない……。
なんだ、虫とはいえ、案外律義な奴だな。
少々、感心していたのだが。
「ずいぶん涼しくなったねえ!上着出して―!」
「へいへい。」
「エアコン、消していい?」
「いいよ。」
「ねえねえ、あたし今日鍋食べたいな!!」
「りょーかい。」
……季節が、移り変わっただけだったらしい。
……今年も、蚊取り線香、使いきれなかったなあ。
私は、あちこちに散らばっている蚊取りグッズを片付けながら、秋の到来を感じたのであった。