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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第六章

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73、『翡翠』の瞳の軍人②

 ドン ドンドン ドン

「――…」

 聞こえてきた音に、ゆるりと顔をめぐらせて耳を澄ませる。太鼓のような重低音にまぎれて、耳を澄ますと喇叭のような管楽器の音も聞こえてきた。

「どうした」

「いや……何の音かと思っただけだ」

 永遠に続くのではと錯覚するほど長い廊下で、前を歩いていたヴィクターが足を止めた。耳を澄まし、納得したように声を上げる。

「あぁ――…出兵前の催しだ。帝国では、ああして賑やかに華やかに出兵する兵士を称えて鼓舞する。この催しを最後に、兵士は戦から帰ってくるまで家族とは会えない」

「へぇ…」

「王国でも、似たような催しなり儀式なり、何かあるんじゃないのか」

「俺たちの国では、こんなにうるさくしない。神に戦の勝利と無事の帰還をお祈りする儀式があるが、教会で首を垂れて神の加護を乞うしめやかな儀式だ」

「ふぅん。俺は神様とやらはよくわからんが、そんなんで兵の士気が上がるのか?」

「さぁな。人によるんじゃないか」

 十五年前、その儀式のせいでしなくていい仲たがいをしたことを思い出して、そっけなく答える。

 ふと、じゃらっ…と足元で耳障りな音が響き、顔をしかめた。

「……っていうか、これ、重いんだが、何とかならないのか」

「くくっ…お前さんがじゃじゃ馬すぎるのが悪い。ドナートの不興を買ったのは悪手だったな」

 褐色の頬を歪めて笑うヴィクターは、人を食ったような表情のままイリッツァの足元に視線を落とす。

 こちらの意思を無視した婚姻を告げられたその後、ドナートは一時部屋から消えて、戻ってきたときは二つの小さな鉄球がその手に握られていた。そのまま、イリッツァの両手両足を繋いでいる鎖にそれぞれの鉄球を付けて、最後は先ほどのお返し、とばかりに横っ面を張られた。いくら光魔法が制限されているからと言って、張られた頬を治癒するくらいは問題なかったが、真っ赤に腫れたし口の中を切ったのか鉄の味がしたので思い切り睨むと、もう一発お見舞いされ、そのまま憎き王国の人間と同じ空気を吸っていることすら不愉快だと、すぐにどこかに行ってしまった。

 毎日砂袋を使って鍛錬をしているような女だから、今更小さな鉄球がついていたところで、身動きが出来ないというほどでもないが、さすがに両手両足につけられているのは自由が阻害されて不愉快ではあった。

「ああいう陰険な男は好かない。別に、神様を信じていようがいまいがどっちでもいいし、王国や俺のことを好きか嫌いかもどうでもいいんだが――自分が正しいと思うことだけが全世界にとっての正義であり、当然他者もその理を受け入れて従うべきだっていう考え方は嫌いだ。鼻をへし折ってやりたくなる。物理的に」

「ほう?……くくっ、それはなかなか愉快だ。へし折るときはぜひ俺も呼んでくれ。見ておきたい」

「ひどいな、かわいい部下じゃないのか」

「かわいい部下さ。ちょっと思い込みの激しい、な。祖国のため、打倒王国のため、あいつはすべてをかなぐり捨てて生きてきたし――きっと、これからもそうして生きていく。気持ちはわからなくはないが、もういい歳なのに、未だに妻の一人も娶らず、仕事一辺倒だ。やっとのことで三人に絞って結婚した俺からすれば信じられない。もう少し、肩の力を抜いて生きられるならそれがいい」

(――こいつ、本当にカルヴァンみたいなやつだな)

 帝国軍人ゆえに、神を神と思わぬ発言なのは当たり前だが――その人を食ったような笑顔も、女好きなところも、軍人にしては緩すぎる国家に縛られることない自由な思想も。

 第一印象で抱いた感想は、この数刻一緒にいるだけで、深まっていく。捕虜とはいえ腐っても妻にすると言っている以上、部下を殴ったような女を鉄球を加えるだけで自由にさせているのは破格の待遇だ。本来なら、すぐに地下牢にとらえられてひどい暴力やドナートが言っていたような凌辱を加えられても文句は言えなかっただろう。

「ところで、さっきから延々廊下を歩かされているわけだが――俺たちは今、どこに向かってるんだ?」

「お前さんが今興味を示した、催事場だ。『聖女様』のお披露目といく」

「――――――…」

「そう嬉しそうな顔をするな」

「お前、目腐ってんのか」

「くくっ……」

 おかしそうに喉の奥で笑ってから、イリッツァの顔を覗き込む。不愉快をあらわにした表情に、ヴィクターはさらに笑みを深めた。

 ヴィクターと言葉を交わすことが出来て、少しずつ状況が明らかになってきていた。

 イリッツァが攫われてから数日、魔法で眠らされている間に随分と状況は進展していたらしい。帝国は今、進軍準備の真っ盛り。当然、目標はクルサール王国だ。聖女を誘拐し、宣戦布告を叩きつけて、すでにいつ戦いの火ぶたが切って落とされてもおかしくない状態。明日にも軍が出立するだろうとのことだった。

 しかし、実は最初から戦争を仕掛けるつもりだったわけでもないらしい。そもそも聖女を誘拐した当初の目的は、現状結んでいる停戦協定の不平等な条件を解消するためだったようだ。過去、バルドが総大将になって敵を蹂躙したアルク平原の戦いを経て結ばれた不平等な条件を、帝国はこの十数年、ずっと不服に思って来た。聖女を返して欲しかったら、不平等な条件を撤回せよと要求したかったらしい。――当初は。

 だが――どうやら帝国の交渉役は、クルサール王国のことがよくわかっていなかったらしい。

 まだ、不平等を解消することだけを要求していたら、王国も要求をのんだ可能性は大いにあっただろうが――交渉の場で、聖女を盾にとらえて強く出られない素振りの王国関係者を見て、欲をかいた。その場で、さらに要求したのだ。

 不平等の解消だけではなく――帝国に有利な、さらなる条件の締結を。

 そして、もう一つ――

 聖女を生かしてはおくが、返還はしない、と伝えたのだ。

 帝国からすれば、聖女が手元にあるうちは王国は決して強気に出られないのだから、イリッツァは手放すことが惜しい最強カードだ。それは、交渉の場で確信へと変わった。

 結果、頭の悪い交渉役は、王国の足元を見て、それを宣言した。生かしておいてやるだけでも感謝しろと、永遠に属国のように帝国の言いなりになれと、そう要求した。

 結果――――王国民の悪感情が爆発した。

 過去、稀代の聖人と呼ばれた事件により、聖女の神格化は今までにないほど王国内で進んでいた。聖女様を今度こそお助けするのだ、と国民は聖女の不在をむしろ士気の高まりへと変え、一気に態度が硬化。

 交渉決裂の気配を感じ取った交渉役が、慌てて「聖女を殺すぞ」と脅したらしいが、交渉の席についていた王国関係者は口をそろえて、「そんなことをしてみろ。帝国を火の海に変えて、貴様の国に神罰を下す。命乞いも、言い訳も聞かない。王国民が最後の一人になるまで、お前の国を蹂躙することを我らは厭わないだろう」とすごんだという。

 その結果、引くに引けない状態になったので、こうして武力による全面衝突の道へと進んでいるらしい。

「帝国内でも、反王国感情は雪だるま式に膨れ上がっている。今も、見せしめに聖女を殺せという気運が高まっている。だが、正直、交渉でこちらが下手を打ったのは事実だ。お前を殺したが最後、恐らく王国は本当にこちらの言い分も聞かず全力で進軍してくる。最後の一兵になるまで――それこそ、民間人まで戦争に投入してでも、な」

「まぁそりゃそうだろうな…お前らは、あの国の十五年前の事件を知らないのか?あれ以前ならともかく、今聖女聖人を人質に取るなんて、逆鱗に触れる行為以外の何物でもない」

「知ってるさ。十五年前の事件も、俺たちが不平等条約を撤廃するために起こしたわけだしな」

「………へぇ。そりゃ、上手くいかなくて残念だったな」

 薄々感じてはいたが、言質を取ったことで、胸の中に苦い気持ちが一瞬で広がる。

 ここに、カルヴァンがいなくてよかった。――きっと、この場にいたら、何も考えずこの男の首をはねるか火だるまにしてしまっただろう。あの親友は、十五年前に関することに、どうにも過激に反応する。

「聞きたいんだが、お前らは…軍人を、無理矢理魔物と契約させて闇の魔法使いにでもしてるのか?」

 イリッツァは重たい手足を引きずるように歩きながら、目の前を行く藍色のつむじを睨むように仮説をぶつけた。

 軍人は、上の命令に基本的に逆らえない。特に、軍国主義国家のイラグエナム帝国においては、洗脳といっても差し支えないのでは、と思うくらいの徹底ぶりだという。十五で成人した男児は、例外なく全て徴兵され、軍隊で三年働き、その後、軍に残るか市井に戻るかを選択することになるが、徴兵前の公教育と、徴兵時の三年間で、徹底的に国家のために命を捧げる覚悟を叩き込まれるという。

(神のために命を捧げる思想を植え付けられるうちの国も、人のことをとやかく言えないけどな)

 胸中に抱いた皮肉を小さな嘆息で逃がす。永遠に相容れぬ大陸の二大国家は、相反する性質を持ってはいたが、根底はどこか似通っているのかもしれない。

「国家のために、と喜んで魔物と契約する神経は信じがたいが――ある種、効率的だな。命令には絶対服従、そもそもの身体能力も高い。個人の事情で魔物と契約した人間と違って、御しやすいのは確かだろ。魔物も、軍隊が見つけて弱らせた奴を持ってきて、無理矢理契約させれば、軍部の意思で魔物のランクも魔物の性質も好きに付与できる。…あぁ、くそくらえだ」

「そう怖い顔をするな。お偉方の考えだ。不平等条約で、軍事力を大っぴらに拡大できなくなった以上、俺らが戦争で勝つには、敵国の内部分裂を狙うべきだ。宗教なんて精神的なものを支柱にしている王国を崩すなら、闇魔法をうまく活用したらあっさり崩れるんじゃないかと、そうお考えなのさ。事実、十五年前は、不測の事態が起きはしたが、途中までは非常にうまくいっていた。作戦の中止は下されなかったのさ」

 感情を感じさせないように、淡々と話すその素振りに、妙な違和感を感じる。

(こいつ――もしかして、闇魔法を作戦に組み込むこと、賛成していないのか?)

 ドナートなどに比べて、自由な雰囲気を纏っている彼は、国家の指示とは言え、この作戦に懐疑的なのかもしれない。立派な階級章を付けた士官様である以上、表立って反抗するそぶりは見せないだろうが、今までのどこか人を食ったような笑みが鳴りを潜めたのを見て、イリッツァは直感する。

「――じゃあ、ランディアは」

「!」

「あいつは、元の魔法属性が光だろう。――それを、あんな、強力な闇魔法使いにするなんて、どんな高位の魔物と契約させた」

「――――――!」

 バッとヴィクターが振り返る。その表情に、予想が当たった気配を感じながら、イリッツァは言葉を重ねた。

 それは、部屋の中での何気ない一言。彼が、ランディアのことを『ディー』と呼んだ瞬間からあたりを付けていた。

 ランディア本人は、イリッツァに自分を「ランディ、でも、ディア、でも好きに呼んで」と言っていた。

 それを――この男は、どちらでもない愛称で呼んでいた。部屋の中での気安い雰囲気から考えても、二人が、ただの雇用被雇用の関係ではなく、特別に親しい証拠だと踏んでいた。

「基本的に、人間が持てる魔法属性は一つだ。それを、例外的に後付けで持てる属性が闇――だが、他の属性魔法と同じく、闇にだって、相性ってやつはある」

 地水火風の属性でも、例えば火と風は相性が良いが、火と水は相性が悪い。闇と光は、言わずもがな正反対にあると言えた。

「王立教会の司祭をはじめ、かなりの人数を闇魔法でだましてたんだ。とんでもない高位の魔物と契約させたんだろう…それなのに、あいつは、潜入先で光魔法を使っていた。俺を攫ってきたときも、数日間俺を眠らせてたのはあいつの光魔法だろう。――高位の魔物と契約させて正反対の強力な闇魔法使いにさせておきながら、そこそこ光魔法がつかえるってことは、あいつ、そもそも結構な光魔法の使い手じゃないのか?だとしたら――体への負担は、尋常じゃないはずだ」

 そして――ふっと口の端に昏い笑みを浮かべる。

「あぁ、それとも――この国では、光属性の魔法使いなんて、ゴミ以下の存在だから、あいつの身体がどうなろうと、関係な――」

「黙れ!」

 ドンッ

「ぐっ――!」

 言葉の途中で胸倉をつかまれ、壁に叩きつけるようにして迫られる。鉄球の重さなど意に介した様子もなく、イリッツァの小柄な体が軽く宙に浮いた。

「お前に、何が分かる――!ディーの、何が――!」

「わかっ…んねぇ、よっ…!あんなん、進んで寿命を縮めるような行為だ…っ!しかも、任務で潜入した先でっ…必要に迫れられれば、闇魔法と同時に光魔法を使って――そんなの、まともに、最後まで生きられるはずがないっ…!」

「っ――――――!」

「そんな残酷な、ことをっ…若い未来ある青年に、平気で命令するお前らにっ…反吐が、出るっ…!」

 狭くなった器官から絞り出すように吐き出すと、チッ!と大きく舌打ちしたあとヴィクターはイリッツァの身体を解放した。

「げほっ…げほっ…」

 確実に的確に絞められていた器官が、いきなり入って来た酸素を必死で求めたせいで、無様に床に崩れ落ち咳き込む。

「――…あまり、俺の機嫌を損ねない方がいいぞ。お前が生きていられるのは、俺の庇護下にあるからだってことをしっかりと理解しろ。ドナートに喧嘩売るのとはわけが違う」

「っ…は…っ…ロリコン野郎…っ」

 冷徹な声が降ってくるが、憎まれ口をたたいて反抗する。再び、ぐいっと胸倉をつかまれた。

「俺は、ディーにあんなことを命令しちゃいない。あいつが、ある日勝手に、進んで契約をしやがった。――知ってたら、止めた。当たり前だ…っ」

「……っ…帝国軍人にも、慈悲の心があったとは…っ…驚き、だな…!」

「どうにも反抗したくて仕方がないらしいな。――先に、俺の目的を伝えておこうか」

 ぐっと顔を近づけ、底冷えのする声音で告げる。

「お前を俺の妃にするのは、帝国のお偉方の意向だ。放っておけば、打倒王国に燃える過激派組織に暗殺されかねない。それくらいなら、俺の妃にしてしまえば、それだけで表立った小蠅は追い払える。同時に、ディーを護衛につけておけば、どんな優秀な暗殺者もお前を殺すことはできない。かつ、お前を手中にしたと大々的に宣伝し、これがある以上王国は強気に出られないんだと宣言すれば、出兵前の士気も高まるだろう。――だが」

 言葉を切って、眼前に翡翠の瞳が迫る。その奥には、昏い炎が揺らめいているようだった。

「そんなことは正直どうでもいい。どんな敵が相手でも、俺が指揮すれば必ず勝つ。蹴散らす。闇魔法だのなんだの、そんな小細工はくそくらえだ。戦に、そんなチートを混ぜるのは俺の美学に反する。――それでも、俺が憎たらしいお偉方の意向を受け入れたのは、お前の無尽蔵の『光魔法』に個人的に用があったからだ」

「――――…」

「戦争が終わったら、ディーが契約した魔物との契約をお前が引き継げ。そして、お前が死ね。――魔物は、高位になればなるほど、見返りを求める。一度契約した相手を変えるとなれば、現状の契約以上に魅力的な見返りを提示する必要がある。聖女様が契約者になるとなれば、魔物も大満足でディーから離れてくれるだろうよ」

「ハッ…そんな、企みに…俺が、乗るとでも…?」

「乗るさ。乗らせる。――無理矢理契約を結ばせる方法がないと思ったら大間違いだ」

「――――――…」

 相手の瞳に浮かぶ静かな怒りの炎に、本気を感じて思わず口を閉ざす。口から出まかせを言っているわけではないのだろう。

「戦が終わるまでは、王国を不用意に刺激しないよう、普通に生かしておいてやるさ。感謝しろ。丁重に扱ってやる」

「は……慈悲深い、ことで…っ」

 ドサッと無造作に手を離されて、再び床に崩れる。

(くっそ、馬鹿力野郎が…)

 憎々し気に胸中で呻き、意地だけで立ち上がる。鉄輪で擦れた両手足が赤くなりところどころから血が出ていたが、痛みなど感じていない風を装った。

「王国が勝ったら、お前は自国に帰れるかもな。万が一にもありえないが、希望を持つのは自由だ。せいぜい、残り数日の命を謳歌すればいい」

「へぇ…?ずいぶん、余裕だな。十六年前、コテンパンにやられたくせに」

 皮肉をお見舞いしてやると、ヴィクターはふっと鼻で嗤った。

「同じ轍を踏まないよう、十五年前の事件を起こしたんだ。もう、王国に勝ち目はない」

「何…?」

「王国屈指の指揮官を奪った。頭脳を奪った。剣を奪った。心の支えたる聖女を、聖人を、奪った。――もう、王国に、俺たちを凌駕する人材は何一つ残っていない」

「――――…バルド・ガエルを殺ったのは、お前たちか…?」

 ひやり、と。

 ――さすがに、声音にいつもと違う色が混じった。

 脳裏によみがえるのは、物言わぬ躯となって帰って来た父親の姿。予期せぬところで魔物の襲撃に遭い、隊が壊滅。這う這うの体で逃げかえってきたのは最近騎士になったばかりという新兵だけだったという。その新兵に襲撃場所を聞き、慌てて現地へ赴いて――死屍累々と横たわっている騎士団の躯を王都に運んだ。英雄の死を、国を挙げて弔った。

 躯と対面したときに、取り乱して全力で光魔法を練り、そのまま一週間以上寝込んでしまった母は――きっと、ナイードでカルヴァンの躯と対面した時の自分と同じだったのだろう。彼女が起きた時には父の葬儀は全て済んでおり――そうして、美しい聖女は、そのまま、心を、壊した。

「あの指揮官は厄介だった。どんなに劣勢でも、軍隊が士気を失わない。本人も、鬼のように強い。アルク以外でも何度か小競り合いをやり合った相手だったと聞くが、相対した帝国兵は皆、相手がバルド・ガエルだと聞いただけでしり込みしたものだ。王国と事を構えるなら、まずはあれをつぶさなくちゃならなかった」

「――――…」

「バルド・ガエルを襲撃したとき、一緒にアルクのときの軍師もいたのは完全にラッキーだった。指揮官と頭脳を一緒に始末し――あとは、王国最強の、剣だ」

 ふっと褐色の頬が歪んだ笑みを刻む。

「策略に陥れて、国家最大の悪人として処刑台に送り、王国の最後の希望を摘んだ――はずだった。まさか、こっちが送り込んだ闇の魔法使いを無力化されるだけじゃなく、再び侵略が叶わないように強力な結界を張られるとは思わなかったが。おかげで、結界の効果が晴れるまで十年、こっちは侵略の手立てが失われた。――まぁでも、リツィード・ガエルを殺せたのは良かった。あいつが生きてたら、さすがに勝ち目がない。敵の中にあいつがいると一言聞けば最後――兵士が全員、士気を下げるどころか、後ろ向いて逃げ出しやがる」

「――――…へぇ」

「お前さんは生まれる前だから知らないだろうが――あの剣士の伝説は、帝国内では恐怖の怪談として語りつがれているんだぞ。幼い子供が言うことを聞かないと、親は『リツィード・ガエルがやってくるぞ』と脅すもんだ」

「おいおい…慈悲の塊の神の化身捕まえて、酷い言い草だな」

「どこが慈悲の塊だ。投降して撤退してく敵兵に単騎で追いすがって次々首をはねてく化け物だぞ。しかも、敵兵だけじゃなく、戦場で裏切った自国の将校すら、眉ひとつ動かさずに首を撥ねたって聞く。バルド・ガエルなんか可愛いもんだと思えるくらいの鬼神っぷりだった」

「そりゃどーも」

 ポツリ、と相手に聞こえないようにつぶやく。予期せぬ形で、剣士としての自分の記憶は、隣国で受け継がれているらしい。あまり嬉しい覚えられ方ではないようだが。

 じゃらっと鎖の音をたてながら、イリッツァは足を前に進める。

「勝てるといいな。戦争」

「ほう?ずいぶん余裕だな」

「あぁ。お前たち、一つ、大きな勘違いしてるみたいだしな」

 一瞬、薄青の瞳を伏せた後――にやり、と笑って真正面から相手の翡翠の瞳を見据えた。

「お前たちはあの国から、最強の指揮官と剣と心の支えを奪ったかもしれないが――――頭脳はまだ、奪えていない」

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