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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第五章

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65、『玉座』の間②

「――以上、此度の遠征の報告といたします」

「うむ。聖女を見つけたこと、闇の魔法使いによる悪事を未然に防いだこと、褒美を遣わす」

(来た――!)

 長かった報告の儀が終わり、そわつく心を抑え込む。ごくり、と細い喉が唾を嚥下しかすかに上下した。

 誰にも気づかれぬようにぐっと指先を握りこみ――

「それでは、こちらにて退席させていただきます」

「うむ」

(――――――――え――?)

 ぱちり、と一つ目を瞬く。カルヴァンはそのまま立ち上がり――一瞬、イリッツァを見た。

 ドキリ、と緊張に拍動を刻む。薄青と灰褐色が、一瞬、確かに絡み合い――

 ――ふいっ…と、絡んだ時と同じくらいあっさりと、その視線は一方的に解かれた。

「――ぇ…ちょ…」

 今度はさすがに、声が出た。

 意味が分からない。何故――何故、今、自分は彼の藍色の後頭部を見送っているのか。

 騎士団長のみが身に着けることを許された、聖印が大きく描かれた赤いマントを翻し、カルヴァン・タイターはそのまま玉座に背を向けて出口へと向かう。その背を追うようにリアムも立ち上がり、何か小声で窺うように話しかけているが、その言葉は聞き取れない。

(いや――いやいやいや、ちょ、おいっ!!!)

 話が違う。

 王やアランなどがそれぞれ退室していく中、思わず腰を浮かせようとしたところで――視界に、見覚えのある顔が割り入って来た。

 真夏の空を瞳に宿す、聖職者の鑑と言わざるを得ない完璧な笑顔を浮かべたウィリアムは、そっと聖女の手を取った。

「今日は、このまま――エルムの神の下で、昨日の返事をお聞かせいただいても?」

「いや、ちょ――」

 どいつもこいつも、愛が重い。

 ウィリアムは、ことあるごとにエルムを持ち出し永遠を誓いたがるし――今背を向けて去ろうとしている男は、友のためならばどんな罪もいとわぬ鬼になる。

 だがそれでも――その重たい愛を、受け止めるとするならば――

「っ…カルヴァン!」

 自分が、誰かに握られた手を握り返すのは、生涯この男だけだと、決めている。

 イリッツァは、ウィリアムを視界に入れることすら忘れて立ち上がり、焦りのにじんだ声で王国騎士団長の背中に声を張り上げた。

 ぴたり、と赤いマントが声に反応して立ち止まる。ゆっくりと、藍色の頭が廻るようにして、顔だけで緋色の騎士が振り返る。

「――何か」

「――――――何か…って…」

 感情を映さない雪国の空を前に、一瞬言葉がうまく出てこない。

 一瞬、二人の間に沈黙が下り――

「用がないならば、これで」

「え、待っ――か、カルヴァンっ!」

 あっさりと再び身を翻されて、慌ててその背に追いすがる。恭しくその手を取っていたはずの王太子を躊躇なく振り払い、玉座を駆け下りて、友の下へ。

 ざわっと周囲が大きくざわめいた。

「イリッツァ様!なりません!」

 駆け出すように玉座を降りたイリッツァを追いかけ、慌ててウィリアムがその手をつかむ。

「ちょ――は、離して下さいっ…」

「いけません、イリッツァ様。聖女様ともあろうお方が、玉座を降りるなど」

「いやそんなことどうでもいいからっ……か、カルヴァンと、話をさせてくださいっ…!」

「貴女はまだ、聖女としての自覚が――いえ、振る舞いが、わかっていらっしゃらない。それを責めはしません。これから、時間をかけて丁寧に教えて差し上げますから、今は」

「で、ですが――」

「民の前です。こちらへ」

 ぐっと手を引かれて再び玉座へと連れ戻されそうになる。後ろ髪を引かれるように振り返ると、カルヴァンは視線だけでその様子を見てから、ふいっと再び視線を逸らせた。

「っ――――!」

(ちょ、待てこらぁ!!!!)

 男の口調で怒鳴らなかったのは奇跡だ。喉のギリギリまで出かかった怒声を飲み込み、手を引こうとするウィリアムに抵抗する。

「わ、私は、カルヴァンと話をしなければならないのですっ…」

「いくら騎士団長という地位があるとはいえ、彼は市井の民です。貴女がここに来るまでの旅路で、騎士団の人間と交流を深めたのは聞いています。ですが、一度王城に入れば、貴女は――」

「っ、ヴィー!!!!」

 ウィリアムの正論を遮るようにして、叫ぶ。もう、何も聞きたくなどなかった。

 ざわっと再び周囲がざわめき――ぴたり、と騎士団長が足を止めた。

 しかし――振り返って、くれない。

 その隣にいたリアムが、おろおろした様子で何事か上官にささやくが、カルヴァンは左耳を軽く掻いた後、微かに額に手を当てて頭を振り、決して振り返ることはなかった。

「ヴィー!!!!」

 もう一度、力を込めて、呼ぶ。

(ふざけんなっ…!なんで――)

 ――――――助けてくれる、って、言ったくせに。

 独りにしないと、誓ったくせに。

 覚悟を決めて、聖職者の矜持をなげうって、こうして手を握り返そうとした途端、急にするりと手を抜けていこうとするとは何事か。

(本っっ当性格悪い…!)

 付き合いは、途中空白の十五年があったとはいえ、知り合ってからの年月を数えれば、すでに二十五年。呼吸一つ、声ひとつ、眉の動き一つで、お互いの感情や言いたいことはなんとなくわかるくらいの付き合いだ。今の自分の声に、「振り向けこの野郎」という怒りが滲んでいることに気づけぬほど、互いに浅い仲ではないとわかっている。

 それでも振り向かないのは――意志を持って、こちらを無視する理由があるのだろう。

「ヴィー、というのは――カルヴァンのことですか?」

 ぐっと握られた手首に力が入った。視線をやると、真夏の空を宿した瞳が、切なげに細められている。

 この、人形のような男でも、こんな顔をするのか――と思ったのは、一瞬。薄青の瞳に力を入れて、しっかりと相手を見返す。

「あのですね、ウィリアム王子。今私は、貴方とお話をしている場合では――」

「貴女と、カルヴァンの関係は何ですか?」

 さほど大きくもない声音にもかかわらず、その一言が周囲の音を打ち消す。

 核心に迫る質問に、一瞬何と答えるべきか躊躇していると、ウィリアムはぐっと腕を引き寄せ、イリッツァを抱き寄せた。

「っ――――――!」

 男に密着される感触に、気色悪さが先に立って、思わず掴まれていない手で抵抗を示すも、ウィリアムは気にした様子もなかった。

(ふ、ふざけんな、いい加減にしないとぶっ飛ばすぞ…!?)

 いくら女の身になったとはいえ、昔取った杵柄はなくならない。しっかりと急所を狙って打ち抜けば、女の拳でも男を一人昏倒させるくらいできる。一応、相手は直系王族であることと、自分は聖女という肩書を背負っているために理性で何とか思いとどまったが、ぐっとこぶしを握りこむことだけはやめられなかった。

 気色悪い。

 気色悪い。

 カルヴァンに抱き寄せられたときは、何もかもが違っている。

(当たり前だ――こいつ、"俺"のこと、何も見てない――!)

 ナイードにいたころから、男に言い寄られることなど何度もあった。フランドルだってリアムだって、ウィリアムと同じように、好きだ、惚れた、愛していると真剣に囁いてきた。

 だが、それらに心が動かされたことは一度もない。――嫌悪の方向に動かされたことは何度となくあるが、そうでない方向に揺らされたことなど、一度もなかった。

 当たり前だ。――彼らは、"イリッツァ"しかしらない。

 人形のように美しく、聖女のように慈悲深く、慎ましやかな言葉づかいで柔らかく微笑む、彼らにとっての"理想"の女。

 だが、実態は違う。

 丁寧な言葉遣いの裏で、心の中では『手の付けられない悪童』と当時呼ばれていたカルヴァンと変わらない乱暴な男言葉を使い、趣味は鍛錬で言い寄ってくる男どもは全員片手で捻れるくらいの剣豪だ。記憶は三十年分もあるから、普通の同世代の人間とは話がいまいち合わないし、前世は男臭い社会に塗れて生きていたせいか、男性が発する下品な下ネタすら呆れたため息一つで受け流せる。正義のために剣を振るって命を奪うことに何のためらいもなく、目の前で噴き出す血潮を見ても顔色一つ変えない、そんな人間だ。

 イリッツァにそんな一面があるなど、夢にも思わない男たちからどれだけ愛を囁かれても、心は動かない。『見た目に騙されて、可哀想な奴ら』と哀れみの表情さえ見せる余裕がある。それは、彼らが自分の本性を知ったら幻滅するであろうことが容易に想像がつくからだ。

 でも――カルヴァンだけは、そんなイリッツァを、最初から知っている。

 だから、誰よりも一緒にいて気安く――それなのに愛を囁かれると、何故そんなことを、と混乱して羞恥に顔が染まるのだ。

 本性を知っているくせに、それでも好きだ惚れた愛していると言われると、うまく茶化すことすらできなくなる。裏があるのではと疑うし、裏がないと思えば真剣に答えなければいけない気になって、そうすると途端にどうしていいかがわからない。

 今、こうして抱き寄せられて、その違いを実感し、改めて吐き気に似た嫌悪感を覚える。

「放してください…」

 押し殺した声は、嫌悪のあまり少し震えていた。

 しかし、ウィリアムはその手を離さないまま、紺碧にかすかな悲哀をのぞかせて、口を開く。

「放しません。――彼とは、愛称で呼び合う仲なのですか?」

「――…貴方に、関係ないでしょう」

「関係あります。聖女様ともあろうものが、『特別』を作るなどと――」

「貴方も、私の『特別』になりたかったのでは?」

 強烈な二重規範を呈した言葉に、冷ややかな瞳を返すと、ぐっとウィリアムが言葉に詰まった。痛いところを突かれた、とでもいうような表情に、やっと少し胸がすく思いがした。

「今は、王子様の恋愛ごっこに付き合っている場合ではないのです。放してください」

「っ――貴女には、これが、そんなに軽いものに見えると――」

「見えます。貴方は、私の本質を、何一つ見ていない」

 純粋培養の王子様には申し訳ないが、これ以上変に期待を持たせるのも限界だ。嫌悪感に、吐き気が抑えられなくなる。抱き寄せられた姿勢のまま、絶対零度の視線で至近距離から見下ろすように告げると、ウィリアムはその瞳に悲哀の色を濃くした。

 それでも、なかなか放してもらえないことに辟易しながら、ちらり、と周囲に視線を巡らせる。少し遠巻きに控えている蒼服たちは、好奇心たっぷりの下世話な視線を控えめに寄越していた。貴族の嫡子になれなかった者たちで構成された近衛兵は、御大層な矜持など持ち合わせていないものがほとんどだ。おそらく今日中にこの面白おかしい出来事は王城中をめぐるだろう。年齢の割にお子様な王子の無様な失恋劇として――あるいは、尾ひれがついていつの間にかお涙頂戴の悲恋として語り継がれるのか。いつの世も、噂話というのは予期せぬ方に転がるものだ。

 すぃっと視線を逆方向に向ければ、そこには真紅の装束に身を包んだ二人。今時珍しい敬虔な若い信徒たるリアムは、神の化身たる聖女が王族とはいえ男性に抱き寄せられていることに慌てているのか、おろおろと上官とこちらをせわしなく交互に見ながら、隣のカルヴァンの出方をうかがっているようだ。しかし、当の上官は、補佐官の視線に気づいていないわけでもないだろうに、眉間に深刻なしわを寄せて目を閉じてしまい、何やら額に手をやったまま動かない。

(お前…嘘でも求婚した女が他の男に抱かれてるんだから、もう少しなんかあるだろうが…!)

 どうやら、立ち去ることは諦めてくれたようだが、この状態から救い出してくれるつもりはなさそうな親友を見て、あまりの薄情さに怒りがこみ上げる。いくら女好きとはいえ、仮にも一度は聖女に求婚しておいて、その無責任さは何なんだと小一時間ほど問い詰めたい。

「あの――いい加減に――」

 さすがに、こちらの意向も無視して口づけるような、カルヴァン程の無体なことはしないだろうことはわかるが、吐息がかかるほどのこの距離は落ち着かない。纏わりつくような周囲の下世話な蒼服の視線からは、それくらいの色めいたハプニングを期待している気配を感じるが、冗談ではない。もしそんなことをされそうになったら、元・男としてその痛みが想像できるが故に非常に心苦しいが、躊躇いなく男の一番の急所を全力で蹴り上げる。

 単純に、男にこうも密着されているのは気色が悪いからさっさと放してほしい――と思っていると。

「貴女が、誰を『特別』に思うかは自由です」

「は――?」

「それが、カルヴァンでも、他の誰でも――もちろん、それが私であるならば、これ以上ない幸せです」

「…は、はぁ…」

「しかし――私にとっての『特別』は、まぎれもなく、貴女だ。聖職者と同じようにして生きてきた私にとって、貴女をそのように特別視していると自覚した日は人生がひっくり返るほどの衝撃でした」

「――…はぁ」

 まぁ、同じ聖職者だし、彼が言いたいことはわかる。さぞや衝撃だっただろう。そのこと自体を否定するつもりはない。ただ――成就しない恋なんだから、さっさと諦めてくれ、と思うだけで。

(カルヴァンが、王女様に似たようなこと思ってたのも、わかるな。さすが兄妹)

 この一族は、一度恋愛にのめり込んだら、ただひたすらに諦めが悪いのか。まずは外堀から埋めようとしてくるあたりまで、非常によく似ている。

「だから――貴女を、私の『特別』として扱ってよろしいでしょうか」

「…は…?」

「王族は、家臣を含めて、家族以外に親しいものを持ちません。親しいという素振りを見せることもありません。政において、常に公平性を保つために」

「は、はぁ…」

(どうでもいいから早く手を離せ)

 急に始まった話題に、何の意図があるか読めないまま微かに眉根を寄せて相手を見る。しかし、切なげに寄せられた金色の眉は、この話題の真剣さを物語っていた。

「ですが、家族だけは別です。親しいものを持たない一族たる我らは、孤独から身を護るように、互いの絆を強固にします。家族だけに許した愛称を呼び、家族の間だけでは口調を変え、親子でも愛を語り合う。――私は、貴女を、家族としたい」

「いやだから――」

「昨日、聞きました。貴女にも、愛称があるそうですね」

「へ?」

 急に飛んだ話題に、一瞬素に戻って目を瞬く。

 目の前の紺碧が、吐息が混ざるほどの近さで、金糸の睫を上下させて熱っぽい風を送った。

「貴女を私の『特別』とする証に――私にも、呼ばせてください」

「え、いや、ちょ、何の話――」

 何やら思い詰めたような熱っぽい視線に、強烈に嫌な予感がして腕から逃れようと身をよじると、長い銀髪が顔にかかった。ウィリアムは、さらりとその銀髪をかき上げて、薄青の瞳を覗き込むようにして囁く。


「いいでしょう?――『ツィー』」


 ――ぞわりっ――


 形容できないほどの、人生で今まで感じたことがないほど強烈な生理的嫌悪感が、足のつま先から脳天まで一瞬んで這い上がって抜けていく。

「っ――――――!」

 初めてそう呼ばれてから、二十五年。

 聞きなれたはずの愛称が、聞きなれたはずの声音と違う声によって呼ばれることの、例えようのないほどの強烈な嫌悪感。

 処刑台に上げられてから十五年、ずっと、毎日焦がれ続けたはずの響きだったはずの呼び名だったが――あの、耳になじんだ低く響く落ち着いた声以外が鼓膜をその音で揺らした瞬間、体が全力で拒絶反応を示す。

「離せっ――!」

 一瞬、素の口調に戻って、ぐいっと全力で相手の腕を力任せにふり払うのと。


 べしっ…


「―――――――――――へ――…?」



 目の前の、美しい金髪人形のような顔に、白い何かが飛んできたのは、ほぼ同時だった。

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