【断章】王子様の『初恋』
神々しい、とはこういうことか――
その言葉の意味を、実感を伴って知ったのは、記憶の中でもかなり昔。
父と、まだ生きていたころの母親に連れられて、ある年の始まりに、王城の奥にある神殿を訪れた。
中にいたのは――女神。
「フィリア様。どうか、我らに、今年一年の祝福をお与えください」
父が、誰かに首を垂れる姿を、その日、初めて見た。
艶やかでまっすぐな長い銀髪は、ほんのりと青みがかっていて、不思議な色をしていた。真冬の湖面を抜き出してきたようなアイスブルーの瞳は、感情を何一つ映しておらず、冷ややかな光をたたえて王族を上から見下ろしていた。
生気のない真っ白な抜けるように美しい肌と、その白さに負けないほどの、純白の装束は聖女のみが身に着けることを許される特別な装い。
(聖女――じゃない)
幼心に、そう思った。
(これは――――神、だ)
あまりの神々しさに、それを『人』の枠組みに入れてしまうことを脳が拒否していた。目の前の生気のない美女は、人ではなく、天上におわす神が遣わした人を模った女神なのだと言われた方が、すんなりと納得できる。
ふわり、と長い銀色の睫が風を送る。瞳から冷気を吹き付けているのではと思うくらい冷ややかな表情を変えずに、フィリアはちらり、と幼い少年に目をやった。
ドキリ、と胸が鳴る。我知らず、頬がほんのりと熱を持っていくのがわかった。
強烈に――憧れた。
それは、幼い少年の初恋だったのか――今となってはわからないが。
ただ、その『人』の枠組みすら簡単に超越してしまう、恐ろしいほど美しい女神に――神に仕える、とはかくあるべきという模範を、確かに、見たのだ――
ドシャッ…
「っ――はぁっ!はぁっ!はぁっ!」
体ごと吹き飛ばされ、地面に転がって――初めて、『呼吸』を思い出した体が、急激に周囲の酸素を求めて暴れ出す。
「まだまだ甘いな。ウィリアム」
「はぁっ!はぁっ……は、はいっ…師匠っ…!」
荒れ狂う吐息の最中で、必死に声を絞り出す。ぐっと意地で顔を上げると、赤銅色の髪をした歴戦の猛者たる英雄が、鞘に剣を収めるところだった。
女神と対面して、数年――
『護衛の仕事を奪わないでください!』と嘆く近衛兵長をなだめて、無理を言って英雄に剣を師事した。護身術を習うには贅沢すぎる師を指名したのは――あの日、女神の後ろに控える、この英雄と同じ髪色の少年を見たからかもしれない。
誰よりも近くで、誰よりも信頼を得て、神の一番近いところで、神をお守りする少年は、自分とさほど年齢も変わらないように見えた。しかし、神の後ろに控えながらも常に張りつめられたその空気は、不用意に近づけば、斬られたことすら気づかぬほどの神速の剣で断ち切られそうな、そんな凄みを纏っていた。
自分が同じ年齢になった時――あんな空気を、出せるのか。
神を護る栄誉ある仕事に就いてなお、一切の心を乱さぬ表情。責務の重責に気負うこともなく、目の前の女神に気圧されることもなく。
女神にそっくりなその顔の造詣は、最初、少女が男装して剣を持っているのかと疑ったくらいだったが――神殿に不意に物音が響いた瞬間、ピリッと張りつめた空気に、彼が確かに何度も前線に立って戦いに身を置いてきたであろう戦士であることを痛感した。
「そんなことでは、リツィードにはいつまでたっても追いつけん」
「は…はいっ…!」
師事するときに、なぜわざわざ騎士団長たるバルドを指名したのかを本人に問われ、正直に答えた。
『貴方の息子のような強い男になりたい』と。
てっきりすげなく断られると思っていたが――それを聞いたバルドは、にやり、と笑って、王子の気まぐれを了承したのだった。
「あいつは、正真正銘の天才だ。それも――己の才能に慢心せず、誰より努力し続ける化け物だ。間違いなく王国最強――いや、そろそろ、大陸最強と言っても過言ではないかもしれない」
バルドは、にやりと笑いながら、自分が吹き飛ばした弟子に向かって近づいてくる。
いつも、眉間にしわを寄せて厳しい表情を一切崩さないこの英雄が、こうして笑みの形をとるのは、息子の話をしているときだけだと言うことを、短い付き合いの中で、ウィリアムはすでに気づいていた。
きっと、息子が誇らしいのだろう。
王国最強と言うことはつまり――すでに、バルドを超えているということだ。
それを――こんな風に、笑いながら誇らしげに語れるのは、彼が、こう見えて意外と家族に甘い一面があることを示していた。大陸にその名をとどろかせる鬼神は、一見するとわからないが――妻も息子も溺愛する、意外な一面を持っているのかもしれない。
体力の限界で、立ち上がることもままならないウィリアムの前まで来たバルドは、その手を取って小柄な体を引き上げてやる。
「最近は、どうにも周辺諸国がきな臭い。油断をしていると、この国も戦火に巻き込まれる」
「は…はい…」
「その時、お前が護りたいと思う人間を護れるかどうかは――その腕にかかっている。精進することだ」
「――!」
その言葉に、真っ先に脳裏に浮かんだのは――女神の姿だった。その美しさを思い描き――彼女をこの手でお守りするという未来に、興奮で頬が紅潮する。
「わ、私にも、守れるでしょうか」
「ん…?」
「フィリア様を――リツィードさんの、ように」
「――――――それはどういう意味で言っている?」
一瞬で鬼神の顔になったかと思うと、ごぉっとその場に殺気が吹き荒れ、恐ろしさに先ほどかいた汗が一気に冷えていく。
忘れていた。
この男は、この宗教国家クルサールに生まれながら――聖女を妻に、と望むような男だった。
そして――顔に似合わず、驚くほどの、愛妻家。
「いっ…いいいいいいいえ!!!ふ、深い意味はありません!王国の宝ともいうべき聖女様を、王族の一人としてお守りしたいと――!」
「――――…ふん…」
とりあえず納得してくれたのか、吹きすさぶ殺気は一度鳴りを潜めた。ほっと心から安堵の吐息をつく。――目が笑っていなかった。あれは絶対本気だった。
今年やっと、十になろうか、という齢の子供相手にとんでもなく大人げない対応をした英雄は、小さく息を吐く。
「フィリアが美しいのは誰が見ても明らかだ。まさに、傾国の美女。王族であろうと幼いお前が心惹かれる気持ちもわからなくはない。――だが、許さん。あれは、俺の女だ」
「い、いや――…ほ、本当に、そういう意味では――…」
ダラダラと冷や汗がひっきりなしに流れていく。大人げないにもほどがあるが、初めて受けた鬼神の本気の殺気に、体が硬直してうまく動かない。
「お前も男の端くれなら、愛した女の一人くらい、その手で守れるようになれ。――フィリアは渡さんが」
「は…はい……」
聖女相手に、そのようなことを考えることすら罪深いと思っているのに、謂れのない疑いをかけられて震えながら答える。
しかしそれでも――幼いウィリアムには、この日のバルドの言葉は、深く心に染みついた。
それは――これが、彼と交わした、最後の会話だったからかもしれない――
――――――女神だ、と、思った。
その昔、初めて相対した、人の世に遣わされた、人の形をした女神。それと同じ造形をした者が、そこにはいた。
記憶の中にある女神より、やや少女らしさの残るその面差しは、もしかすると、記憶の女神よりも憧れた赤銅色の剣士の方に似ているかもしれない。美しい、などという言葉を超越して記憶の中の神々しさと変わらぬオーラを放ちながら、女神は馬車から降りてきた。
もしかして、神は、皆、人の世に降りるときには必ずこの顔を模るのか――そんな、馬鹿げた考えすら脳裏によぎる。それほどの既視感に、ドクン、と心臓が大きく高鳴った。ザッと最高位の礼を取ったあと、ぎゅっと瞳を閉じる。
瞼の裏に浮かんだのは――なぜか、かつて焦がれた女神ではなく、赤銅色の髪をした剣士の方だった。
のちに稀代の聖人と呼ばれる彼もまた――女神と同じく、人に非ざる空気を常に纏っていた。フィリアに謁見しに行くときも、バルドに剣を習いに行くときも、ふとした瞬間に顔を合わせることが何度もあった。「リツィードさん」と話しかければ、その顔に笑顔を浮かべて応対してくれた。――母親と寸分たがわぬ、完璧な微笑みで。
憧れた。強烈に憧れていた。
男として生まれた聖職者は、かくあるべし――というお手本のような少年だった。誰にでも平等に手を差し伸べ、己を顧みず、愛を振りまく。そして――神の化身たる聖女を護る、絶対の守護神でもあった。
のちに、彼が稀代の聖人と呼ばれるようになる事件を経て――あぁ、なるほどと、どこか納得した。
神々しさに、直視することすら憚られるほどの女神のすぐ後ろに控えていて、あのように冷静でいられたその理由。鬼神と呼ばれる英雄にあれほど認められ誇らしげに語られながら、驕ることもなく精進し続けられる禁欲的なまでのひたむきさ。王族たる自分にも、市井の民にも、態度を変えない、完璧な笑顔。
『人』らしさを排除したその男は――確かに、『稀代の聖人』と呼ばれるにふさわしい男だっただろう。
だから――頼み込んだのだ。
あの『聖人』を『友』と呼んだ、騎士団長に――再び、剣の師となることを。
知りたかった。あの赤銅色の剣士のすべてを、知りたかった。
そのためには――彼を神聖視しない、ありのままを見つめた男が適任だった。そして――王族だからといって、遠慮をしない、そんな奇特な存在。あの事件ののちに『正義の諫言』と呼ばれる事件を巻き起こした張本人であったカルヴァンにこそ、白羽の矢を立てるべきだろう。
そうして知っていく、数々の真実。
"親友"の目を通して語られる聖人像は――決して、特別などではなくて。
生まれて初めて、知ったのだ。
――――――――聖女も、聖人も――――責務の前に、『人』であったのだと。
「皆、顔を上げてください」
「はっ!」
凛とした声が響く。その声は――記憶の中にある女神にそっくりだった。
冷ややかで、平等で――温度を感じさせない、凍った声音。
聖女とは皆、こうなのだろうか。
誰の手を取ることもなく――王国の奴隷となって、己を賭して、生きていくのか。
孤独と向き合い――王城に縛られ、檻に繋がれるようにして――
にこり、と笑った十五歳の聖女は――記憶の中にある母子と、全く同じ微笑みをその顔に刻んでいた。
その笑みを前に――お守りするのだ、と心に誓った。
バルドと会話した最後の日を思い出す。
あの日、守りたかったはずの女神も、近づきたかったはずの剣士も、どちらも、何も出来ぬままに失ってしまった。
今度こそ――この方を、お守りするのだ。
二人の英雄に師事して剣の腕を磨いた。剣の腕だけではなく、心の強さを、何よりも磨いてもらった。
すべての脅威から、この方を護る――
それが、『人』として生きることすら許されなかった、二人の母子への贖罪のような気がして――
「ふ…ははっ…大丈夫ですよ、ウィリアム王子。美しい、と言われて喜ばない女はいませんから」
――――――――――聖女が笑った。
――――『人』の顔で、笑った。
ぎゅうっと心臓が鷲づかみにされる感覚。
生まれて初めての衝撃。
昔、幼いころに女神と対面した時のような、淡い憧れとは全く異なる、強烈な衝動。
――――守りたい。
この笑顔を、守りたい。
聖女としてではなく――『人』としての彼女を――他でもない、この手で、守り通したい。
耳の奥で、バルドの声が蘇った。
『お前も男の端くれなら、愛した女の一人くらい、その手で守れるようになれ』
あぁ――師匠。
こういうことだったのですね。
ウィリアムは、齢二十五にして初めて――文字通り、"初恋"が何たるかを、知ったのだった――
リツィード側からは見えていなかった事実が垣間見えましたね。
バルドとフィリアにも、それぞれの物語があり、事情があります。
作者の頭の中には二人を取り巻くストーリがあるのですが、【断章】で語るには重いし本筋から離れすぎるので、このお話が一段落したら、番外編的な感じで二人の物語を書く――かも?(そんな本筋外れたお話に需要があればですが…)