31、『始まり』の記憶①
麗らかな春の陽光きらめく昼下がり――
毎日毎日飽きずにやってくる、天使の顔をした少年は、カルヴァンにとってはもはや悪夢に近かった。
「こんにちは、カルヴァン。今日は何をお話ししますか?」
にこり、と完璧な笑顔を浮かべた少年を前に、全力で嫌な顔を向けるが、そんな顔ぐらいで引き下がるやつなら苦労はない。
あれだ。初めて会ってすぐのころに、あまりに馴れ馴れしく寄ってくるから、『お前は俺と友達になれるとでも思っているのか』と吐き捨てたのがいけなかった。あの日から、リツィードのしつこさはエスカレートしたように思う。
曰く――『それは考えたことがありませんでしたが、素敵ですね。私を"友達"にしてくれますか?』――とのことだ。
「今日こそは、カルヴァンに"友達"にしてもらえるかな、と思いまして」
「お前は頭のねじが一本どこかに行っているだろう…」
呻くようにつぶやいて、ふいっと顔をそむける。
笑顔なのに感情を感じさせないというのは、どういうカラクリなのか全く分からないが――形だけ笑みを作っているのに笑っているように見えない顔で、リツィードは何度も何度もカルヴァンを訪ねてくる。
当然、『手の付けられない悪童』という不名誉な二つ名を持つカルヴァンとて、何もしなかったわけではない。早い段階で、暴力という名の実力行使に出た。
お美しく苦労を知らない天使様だ。一発二発殴ってやって、痛い目を見れば構わなくなるだろう――そう思って、いた、のに。
殴りかかった次の瞬間、空を仰いで地面に叩き伏せられていたのは、自分だった。
何が起きたのかわからず、すぐに立ち上がってすぐにもう一度殴り掛かり――次の瞬間、同じように天を仰いでいた。
リツィードは、いつも完璧な笑顔のまま、言ったのだ。
「これが、"友達"と遊ぶということですか?」
――幼いカルヴァンの、小さなプライドがずたずたにされたのは、説明するまでもない。
これでも、王都の貧民街で、生きるか死ぬかの死線をさまよいながら生き延びてきたのだ。ぬくぬくとしたお坊ちゃんにしか見えないリツィードに、殴り合いで手も足も出ないなど、彼のプライドが決して許さなかった。
ゆえに、リツィードが訪ねてくるたびに、毎度毎度殴りかかっていっては、あっさりと返り討ちにされる――そんな日々が、最初は続いた。何をやっても勝てない――と、カルヴァンが思い知るその日まで。
「そういえば最近、カルヴァンは手合せをしてくれませんね。同世代の人と手を合わせることは普段ないので、楽しみにしていたんですけど」
「拳も脚も一瞬たりとも掠らせもしないくせに、どの口がそんなことを言うんだ」
「んん…そういわれましても。では、手加減したほうが良いですか?」
「絶対やめろ。ボロカスにされるほうが何倍もマシだ」
言うと、リツィードの瞳が、ふ、と少し緩んだ。
(――――――珍しい)
視界の端で確認して、カルヴァンは心の中で独り言ちる。
まったく感情を読み取れない、人形のような彼の瞳に――一瞬、感情のようなものが宿ったような気がしたからだ。
(そういえば――あの時も)
『"友達"にしてくれますか』とふざけたことを問いかけてきた、あのとき。あの時も確か、彼はこんな風に瞳を緩めていたように思う。
「"友達"の間に手加減は無用――昔読んだ本に、そんなことが書いてありました」
「――俺とお前は"友達"なんかじゃないけどな」
憮然とした表情で言い放つ。本当にいけ好かない奴だった。
リツィードは慈愛すら感じさせる感情の読めない笑顔で、カルヴァンを覗き込む。
「では、どうしたら"友達"なんでしょうか」
「知るか。――――ガキの癖にそんな喋り方してるやつなんか、気持ち悪くて近寄りたくない。俺の訛りの強い喋り方を馬鹿にしてるのかとムカついてくる」
「――――――――喋り方?」
きょとん、と。本当に、そんなことを言われるとは思わなかった、という顔でリツィードは目を瞬いた。
それを見て、カルヴァンの方が眉根を寄せる。
(もしかして、こいつ――)
「自覚してないのか?」
「――――えっと…はい。私の喋り方は、何かおかしいのでしょうか」
「おかしいっていうか――」
カルヴァンはこれ以上ないほど顔をしかめた。
いくら大貴族のお坊ちゃんだったとしても、この年齢でここまで馬鹿丁寧な言葉遣いをする奴はいない。自分のことを『私』と呼び、誰に対しても――大人にも子供にも、おそらくこの調子だと赤子にすら、この口調で話すのだろう。それも、妙な抑揚のない、お手本のような王国標準言語だ。
「喋り方については…昔から、フィリア様や周りの神官に、厳しく言われていましたから…おかしいだなんて、思ったことはありませんでした」
「いや…おかしいだろ。どう考えても。っていうか、親父は何してんだ」
「親父…?…あぁ、師匠ですか?師匠は、基本的に剣の稽古をつけるときくらいしか、私と会話しませんし…そもそも、遠征も多くて、家にいることの方が少ないです。何かの用事があって、一時的に帰って来ても、用事以外で時間が空くことがあればフィリア様の部屋に行かれて――そのまますぐに、出立してしまいますし」
「――――――…」
カルヴァンは、さっきまで顔も見たくないと思っていたことすら忘れて、形だけの笑顔を浮かべている少年を凝視する。
「?…カルヴァン?どうしましたか?」
「――――――お前、まさかとは思うが…家でも、その話し方なのか?」
「家で?…はい」
「お前の母親と父親の前でもか?」
「はい。…フィリア様も師匠も、神学の勉強や剣術の稽古以外で言葉を交わしたり顔を合わせること自体ほとんどないですから、あまりお話しする機会はないですが」
「――――――――――」
(なんだ、こいつ)
――――気持ち悪い――――――
最初に抱いた感想は、それだけだった。
どう考えても狂っているとしか思えない。
この様子では、たとえ聞かなくても察することができる。
彼は、家の中でも、今、カルヴァンにしているように話すのだろう。
母親には、『フィリア様』と話しかけ、父親には『師匠』と話しかける。――おおよそ、血を分けた両親に対する呼称とは思えない。
そんな狂った日常を、張り付けたような笑顔のまま、『当たり前の日常』として口にするリツィードは、幼いカルヴァンの目には、確かに狂っているとしか映らなかった。
「…あの」
顔を青ざめて体を引いたまま言葉を失ったカルヴァンに、リツィードが控えめに言葉をかける。少し迷った後、薄青の瞳が困ったように伏せられた。
「どこがおかしいか、教えてくれませんか」
「――――――」
関わり合いたくない。
こんな、狂ったやつと、関わり合いになどなりたくない。
『理解が出来ない』ということは、当時のカルヴァンにとって、これ以上ないほどの恐怖だった。理屈ではない、本能的な恐怖。
しかし、そんな様子のカルヴァンに気づいて気づかずか、リツィードは瞳を伏せたまま言葉を続ける。
「私は、自分ではわかりません。"普通"の人が、何を考えているのか。何を楽しいと思って、何を哀しいと思うのか。何に絶望し、何に救いを見出すのか」
「な――に、を――」
「私は、知らなければいけないのです。"普通"の人の感覚を。――将来の、ために」
そうして、すぅっとゆっくりと瞼を開く。女と見紛うばかりの美しい顔が、じっとカルヴァンを見据えた。
「貴方が、何をしたら幸せになるのか――どうしたら、心から笑えるのか、私は知りたい。――"友達"になれれば、わかりますか?"友達"って、何ですか?…ごめんなさい…からかっているわけでも、馬鹿にしているわけでもないのです…ずっと、独りで生きて来たので、本当にわからないのです。だから、出来ればあなたに教えてほしい」
「――――――――」
「楽しい、って何ですか?哀しい、ってどういう気持ちですか?寂しい、悔しい、辛いって、どういうときですか?私が知っているのは――――『嬉しい』だけです」
「嬉しい…?」
なぜそれだけわかるのか、と思い表情で問いかけると、リツィードはいつもの笑顔でほほ笑んだ。
「はい。――人が、幸せになるのを見ると、『嬉しい』です。だから、貴方にも、幸せになってほしい」
「――――――――」
もはや、カルヴァンの理解できる範疇をはるかに超えていた。
商人をしていた両親について、色々な人間を見た。貧民街で、色々な人間を見た。悪人も、善人も、たくさん見てきた。
だが――こんな"狂人"は、見たことがなかった。
「まず、喋り方が、おかしいのですね。気が付けてよかったです。どういうのが『普通』なのでしょうか」
「――――…」
「貴方の言葉を真似れば――私も"普通"に、なれますか?」
にこり、と笑って、そんなことを言われて――
「っ……!」
「あっ!待ってください、カルヴァン!」
カルヴァンは、恐怖に耐え切れず、その場から逃げ出したのだった。




