「散華」
お題「散華」
町を見下ろせる小高い丘の上に、一本の桜が根付いていた。
地元の者なら知らない者は居ないと言われるほど、有名な一本桜。町の者たちはみんな、口をそろえてその桜をこう呼ぶ。
──別れ桜、と。
如月は別れ桜の根元に立ち、町を見下ろしていた。
変わらない風景。変わっていく景色。
毎日この場所に立ち、毎日町を見下ろす。それが彼女の日課になっている。
何時から、という時間も、どのぐらい、という期間も分からない。物心が着いた頃にはこの桜の根元に立って町を見ていた。
町人がこの一本桜を「別れ桜」と呼ぶ理由も、その名前の意味も如月は知っていたが、そこに立つことを止めることはなかった。どんなに言い聞かせられてもそこへと向かう如月を、やがて町人を始め家族さえ気が付くと何も言わなくなっていた。
「如月、また此処に居たのか」
背後からかけられた声に、如月はゆっくりと振り向いた。そして視線の先に見つけた青年に微笑んでみせる。
風が吹いて長い如月の髪が舞う。その様子を、青年は目を細めて眺めた。
「帰ろう。ご両親が心配しているよ」
緩慢な動きでそれに頷くと、如月はゆっくりと桜から離れた。生気がないような真っ白な指先が、青年の腕に触れる。
その手に自分の手を重ねると、青年は優しく微笑んだ。
如月の、吸い込まれるような錯覚を覚える漆黒の瞳が、青年の翡翠の隻眼を覗き込む。何を考えているのかその内を読ませない翡翠の左目は、如月と視線が合うと優しい光をともす。
「大丈夫。私が、貴女をちゃんと守るから……約束、だろう?」
「……やく、そく」
「そう、約束……」
青年はそう言って微笑むと、如月の手を引いてゆっくりと丘を降りる。
如月の着ている濃紺のワンピースの裾が、風に翻る。しかしそれを気にした素振りもなく、彼女はただ青年の後ろを大人しく手を引かれながら歩いた。
如月の家は別れ桜のある丘の麓に建っている、大きな屋敷だ。その家は町でも有名な貴族の屋敷で、如月はそこの娘だった。
勝手に門扉を開き敷地を歩いていると、母屋の方から誰かが走ってくるのが見える。青年は如月の手を握ったまま、走ってくる人影が辿り着くのを待った。
「お、お嬢様っ! 如月お嬢様、あぁご無事でしたか!」
「麻衣さん、心配させてすみません」
「ま、まぁっ! 神威様! 申し訳ありません、お手を煩わせてしまい……!」
麻衣と呼んだその女性が頭を下げると、神威は苦笑して頭を横に振った。
彼の如月に対する態度は、全て神威自身がそうしたいからそうしているだけだと屋敷の人間たちは知っていた。だがそれでも外部の人間の世話になっているという申し訳の無さから、屋敷の召使たちは神威にいつも頭を下げる。
如月が顔を上げ、自分よりも遥かに背の高い神威を見上げる。
「……おや……すみ、なさい」
「あぁ。お休み、如月」
「お嬢様、お部屋に戻りましょう……」
麻衣が再び神威に頭を下げ、如月の手を取って母屋へと歩いていくのを見届け、神威はくすり、と笑う。
如月はもうすぐ15歳になるはずだったが、その精神年齢はとても低い。過去に起きた事件の所為だと分かっていながら、如月の両親はそれを恥じた。
長女であり長子である如月。あの状態になる前までは子供ながらにも聡明で、大人がたじろぐほどの威圧感を持ち次期当主にと望まれていた子供。
如月には2人の弟と1人の妹が居たが、誰も如月ほどの聡明さは見せない。だからこそ如月の変わりようは、一族全員を奈落の底まで突き落とすような衝撃をもたらした。
それもあるのか、以前可愛がっていたにも関わらず如月が敷地の外に出るだけで、両親は彼女に冷たく接してしまうこともあるのだと、神威は麻衣から話を聞いたことがあった。
次期当主には長男が、または次男をという声が一族で上がる中、本当は如月はその漆黒の瞳で全てを見ているのだという事実を知っているのは、何人居るだろうか。
神威は目を細めると、屋敷の敷地を後にした。
夢を、見た。
日が昇る。朝が来る。
けれど、あぁ。貴方は此処には居ないの。
求めて伸ばした手は、何も掴むことはなくて。
どうして、貴方は行ってしまったの。
私を置いて、此処に置いて。
貴方は何故、私を独りにしてしまうの──。
別れ桜に、そう女性の声がする。
分かってくれるでしょう、と愁いを帯びた声。
それに、頷いて──。
「如月」
真夜中に来るなんて珍しい、と神威は思いながら少女を迎える。
その、如月の様子がおかしいことに気付いたのは、彼女が自分から数歩離れたところで立ち止まってからだった。
いつもの濃紺のワンピース。濃い茶色の編み上げのブーツ。けれど何かが普段の彼女と違う。
その違和感を振り払って、神威は軽く首を傾げて微笑んでみせる。
如月の漆黒の瞳が神威を穿つ。その瞬間、彼はまるで氷に包まれたような錯覚を覚えた。
「……神威」
「どうした。如月?」
「……どうして、貴方は、此処に居るの?」
「──っ」
神威が息を呑む。漆黒の視線は矢のように彼の心臓を射抜く。
手が震えるのを感じ、神威はぐっと拳を握った。何かがおかしい、と頭の中で警鐘が鳴り響く。
如月が指を指す。彼の頭上を、別れ桜の広がった枝を。
「別れ桜。毎日、毎日見に来て……ようやく、分かったの。……私は、傷の舐め合いなんてしたくない」
「……如月」
「──別れ桜。昔、貴族の娘が、恋人を失ったショックから自害をしたその死体から芽吹いた樹。けれど貴方は帰ってきた」
「……」
「私は娘の代わりにはなれない。貴方が守るべきなのは、その桜なんだわ」
神威は目を見開いた。何か言おうとして開いた口は、何も発することなく閉じられる。
どこから気付いていたのか。如月のことだから全て分かっていたのかもしれないと神威は漠然と理解する。
その腕に触れようと伸ばした手は、けれど払われて行き場をなくした。
拒まれることを予想していなかった翡翠の瞳が見開かれる。ゆっくりと如月が近づいてくるのを、ただ見ているしかなかった。
如月の白い手が伸ばされる。背伸びをして神威の頭を抱え込むような体勢になり、そして離れた。ぱさりと何かが落ちる音がする。
「……貴方も、思い出したほうが良いのよ。大叔父様」
「知って……?」
「自分の妹を愛し愛された結果、それを知った妹の許婚に殺された人。──別れ桜は、全て教えてくれたから」
解け落ちた眼帯の下から見えたのは、赤黒い空洞。そこからまるで涙のように、赤い血が一滴流れ落ちた。
如月が笑う。それは神威が知ってる中でも一番美しく、無垢な笑み。
「桜は、貴方を待っていた」
視界を横切ったものを見て、神威は言葉を失った。
見上げると、先ほどまでつぼみしか無かったはずの枝に満開の桜の花。
風も無いのに花びらが舞い落ちて、神威の周囲をひらひらと踊る。
気が付くと如月は数歩下がって、桜からも離れていた。その表情は「やり遂げた」という達成感で満ちていて、とても美しかった。
「今までありがとう。私も、これを期にあの人を忘れるから」
「……できる、のか?」
「しなくちゃいけないのよ。多分、思い出にするしかないの。そうやって前に進まないと、何もできなくなってしまうから」
如月が背を向ける。その後姿にかける言葉を見つけられず、神威は脱力したように肩を落とした。
桜の花びらの、舞う量が増えていく。それは妹が喜んでいるからなのだろうか。
如月の姿が丘の下へと消えていく。それを見届けた神威は、ふぅと息を吐いた。
「……初めは、そうだったのかもしれない。けれど、本当に……ずっと傍に居たかったのは、貴女だった。同じ名前だからなどではなくて──如月……」
神威の最後の言葉は音にならないまま、舞い落ちる花びらにかき消されて。
全ての花びらが落ちる頃には、そこには何も残ってはいなかった。