第八十一話 「二人の騎士・序」
日も昇りきらない早朝、訓練場で藁束と向き合うナイトがいた。
朝の気温は少しずつ下がってきて、体を動かすには丁度いい。季節の移り変わりと共に、早朝訓練の時間も早まりだしていた。
相棒のなまくらを手に、藁束を見据える。真っ直ぐに、呼吸を整えて。
足を肩幅に開き、呼吸を維持したまま右足を下げて半身をずらす。
剣を肩に担ぎ、片手で柄を軽く握り、もう片方で柄頭をしっかりと掴む。
息を吐くのと同時に腹の底に力をこめた。
右足を踏み込むと同時に、腰・肩・腕と捻る力を伝播させていく。
切っ先の軌跡が半円を描き、剣に体の全部を乗せて、
藁束が音もなく両断され、暴力的なまでの風が草を散らせた。
切っ先が触れた地面にすっぱりと切り傷がついている。鋭利なまでの切り口は、まさに斬り裂いたというべきものだ。
深く息を吐いて姿勢を戻すナイトに、師匠の声が飛んできた。
「見事だ」
額に汗を浮かべた弟子は振り向き、照れたように笑う。
「ありがとうございます!」
一礼し、剣を収めてナイトは新しい藁束に取り替える。
真っ二つになった藁束を確認し、切断面の美しさにロイエは唸った。
まるで最初からそうだったように、藁は分断されている。威力が十二分に発揮されている証拠だ。全盛期の彼でも、これほど綺麗に決まることはそうそうなかった。
一撃必殺。その言葉に相応しい威力が、ナイトの剣には込められていた。
ナイト達が里にきてから三月。ロイエが師になってから二月半で、本格的な訓練を始めてから二月。
驚異的な速度でナイトはロイエの教えを飲み込み、その技をものにしつつあった。
上手く決まったのはさっきのが初めてだが、あとはコツを掴むだけだ。あれこれと教えることはもう殆どない、というのがロイエの見方だった。
もっと汎用的な剣術や戦い方についてならまだまだ訓練することは山ほどあるが、この一撃技についてはもういいだろう。
予想より早い弟子の成長に、ロイエは頬が緩みそうになるのを我慢した。
新しい藁束と向き合い、ナイトが一撃技を放つ。先ほどよりは上手く決まらなかった。本人も首を傾げ、ぶつぶつと呟きながら新しい藁束と交換する。
藁束相手なら、もう大丈夫だろう。あと半月も鍛錬すれば完全にモノにする。あとは、人間相手にどこまでやれるか。
この一撃技は、呼吸を読むことが大事だ。
自分と相手の呼吸を読み、絶妙の間をもって放つ。それが、この技が最も威力を発揮する形である。
藁束は動かないし、呼吸も何もない。だが人は違う。よっぽど上手く決めるのは難しいと言えるだろう。
ロイエはそれを、隙間にねじ込む、と表現していた。
動きと動きの隙間、呼吸の隙間にねじ込む。動く相手を斬るのではなく、止まった隙間に切り伏せる。防御する相手を上から斬るのではなく、防御の隙間に剣を通す。
それは、彼が修めた他の剣術にも通じる考え方だった。
その究極系が、今ナイトに伝えている一撃技なのだから当然といえば当然だが。
口をすっぱくして弟子にも教えた成果か、どうやら自分の呼吸を読むことはできるようになっているらしい。
ならば、相手の呼吸はどうか。
それを確かめるべく、ロイエは藁束相手に集中する弟子に向かって次の鍛錬を伝えた。
「藁束相手はそれで最後だ。次は実戦形式でやる」
「は、はいっ!」
ナイトの声に緊張が混じる。随分とわかりやすい反応だ。肩にも力がこもっている。
だが、いつまでも人間相手に放てないようでは無用の長物だ。これから先、ナイトが相手にするのは百戦錬磨の騎士達なのだから。
そして何より、真っ先に戦う事になるのは、あの天才騎士だろうから。
甘い戯言を現実にするのに力が必要だと、弟子を志願した青年は言った。
ならば、覚悟も見せてもらわなくてはいけない。
剣は所詮、人殺しの道具だ。獣を殺し鳥を殺し人を殺す為の武器だ。
その剣で誰かを守ると、綺麗事を貫くというのなら。
武器の性質さえ屈服させなくて、何ができるのか。
とはいっても、最初は木剣から始めるのがいいだろう。こちらも真剣は使えないし、着る防具もない。
こういうところが甘いのだろうか、と自問する。しかし、鍛錬で最初から厳しくしすぎてもなんだ。木剣でも十分な威力があるのは、ナイトは身をもって知っているし問題はないだろう。
ふとナイトを見れば、深呼吸を繰り返して肩から力を抜けさせていた。
薄く開いた目で藁束を見つめ、静かに一歩踏み出し、
綺麗に伸びて振り切った剣が、またもや藁束を音もなく切り裂いた。
足捌きに雑さはない。巻き起こされた剣風を感じる。剣を鞘に収める音で、ロイエは我に返った。
「それじゃ、片付けてきますね」
「……あぁ」
頷くと、ナイトはいつものように笑って二つになった藁束を集積所に運んでいく。
本当に、才能ある若者ばかりで嫌になる。
動揺を押さえ込むのも随分と上手くなった。平常心に戻ることが何より肝要だと教えたのは自分だが、あの性格では随分かかると踏んでいたのに。
覚悟、というのなら、自分よりよっぽどナイトの方があるのだろう。
それでも、押さえ込む必要があるほど動揺したのは確かだ。自分を相手に技の稽古をする、というだけであれほど緊張していれば、実戦ではどうなってしまうのか。
弟子の優しさが、いつか仇にならなければいいと思う。
その為にも、厳しく鍛錬する必要があるのだろう。
戻ってきたナイトに木剣を渡し、いつものように向かい合う。
「打ち合いの中で技を放て。打ち込む隙がなかった、などという言い訳は聞く耳をもたん。全力で来い」
「……は、はいっ!」
硬い顔つきで頷くナイトを、容赦なく睨み付けて構える。
中途半端な一撃を放っても説教する気でいたが、それは最早言う必要もないだろう。
あと、どのくらい時間があるだろうか。
ナイトが慣れるまで、後半月、いや一月は欲しい。欲を言えば半年一年使ってみっちりと鍛え上げたいくらいだ。
だが、嫌な予感がする。
もう時間がないような、そんな予感が。
焦る気持ちを胸の奥に押し込んで、ナイトをしっかりと観察する。
少し浮き足だっている。やはり、技を人相手に使うのに抵抗があるのか。
無理もない。あの技の威力は、誰よりもよく知っているだろう。なればこそ、自分で使う際に躊躇があるのも性格を考えれば道理だ。
しかし、それでは何も守れない。
世界を敵に回した今となっては、尚更。
呼吸を整え、殺気にも近い剣気を浴びせる。ナイトが反応するより早く、ロイエは懐へと飛び込んだ。
早朝訓練の間に、ナイトの剣から躊躇が消え去ることはなかった。
※ ※ ※
朝食を摂った後。
ナイトに自主訓練を申し付け、ロイエは丘の墓地へとやってきていた。
『墓守』として以前は毎日訪れていたが、ここ最近は訪れる頻度が減っていた。それもこれも、ナイトの鍛錬に時間も体力も持っていかれているからだ。
怪我はマギサに治してもらえるとはいえ、体力まではそうはいかない。食事の準備に畑の世話、調味料や香辛料の用意に山菜取りとやることは鍛錬以外にも相応にある。
ナイト達がくるまではどれも、適当に済ませていたものだ。
一通り墓地を掃除し、墓を磨く。以前は罪悪感しか芽生えなかった行為が、今となっては心穏やかに行えていることに気づく。
罪が消えるわけでも、記憶がなくなるわけでもない。だが、墓掃除をしている間、生き甲斐のようなものを感じていたのは確かだ。
彼らが眠る場所を守ることは、罪滅ぼしだったはずだ。罪人である自分の、せめてもの贖罪。それが、もしかしたらあの子の言葉で変わったのかもしれない。
墓を守って、たまに話し相手になってほしい。彼女から告げられた、新たな贖罪。
あれから困った青年の師匠になったりして、自分も変わってしまったのだろうか。
死後、里の人達から罰を受けるだろうな、と思う。
こんな有様で手入れをされても、彼らは不快だろう。それでも、できる限り毎日手入れをしに訪れたい。
この墓地は、自分の罪の証であり、彼女から与えられた使命なのだ。
おざなりにすることなど、できるはずもなかった。
最後に磨いた墓の前で膝をつき、今朝使ったばかりの木剣を置く。
「貴女の孫娘のつれて来た青年を、今、この剣で鍛えています」
墓の周囲には、小さな白い花が咲いていた。
毎日捧げていた花。種子が残っていたのだろうか。初めて見たときは驚いたが、なんだか相応しい気がしたので軽く世話をした。
いつか、この墓地も花で満たされるのだろうか。
それは、あの里の人々が眠る場所としてそう悪くないように思えた。
「再び武器を手にするとは思っていませんでした。貴女方からすれば苦々しく思われるでしょう。その罪は、改めて償わせて頂きます」
墓地には今まで木剣を持ってくることはなかった。
それは不必要だったこともあるし、今また再び武器を手にしていることを彼らに知られたくないからでもあった。
武具は全て国へ返した。二度と握ることがないように。
もう一度、木剣とはいえ武器を手にするとは思っていなかった。
どこか、後ろめたさがあったのだ。
反省していないと、彼らに思われるかもしれない。自分も、そう思うときがある。
それでも、彼の為に剣を握ると決めた。
死に行くだけの自分の剣を、彼と彼女の為に役立てられるならと思ったのだ。
未だに騎士だった頃の精神が抜けきらない自分に苦笑して、人生を変えた女性の墓に懺悔する。
「貴女の孫娘と青年は、無謀な夢に挑もうとしています。この剣は、その手伝いをする為のものです。青年が作りました」
本当はもっと早く言うべきだった。ここまで引き伸ばしたのは、恐ろしかったからだ。
まるで悪戯を親に知られまいとする子供だ。自分の未熟さに、ほとほと嫌になる。
心の中の彼女らに糾弾されまいとしていた。どうあっても止めるべきだと、きっとそう言われると思っていたから。
だが、こうして墓で懺悔して、その声を出すのは罪悪感に苦しむ自分だけだとわかった。罪から逃れようと、少しでも軽くしようと足掻く自分だけが、止めろと叫んでいた。
心の中の彼女らは、何も言わない。
当たり前だ。死人に口はない。まして、彼女達と深い繋がりがあったわけでもない。
全ては、ただの思い込みだ。
そして、彼女の孫娘からは逆のことを言われた。彼の師になったことを感謝さえされた。
怯えていたのは、いつだって自分だけだ。
微かに風が吹いて、白い花が揺れた。
それがまるで、彼女が頷いているように見えて、思わず拳をぐっと握り締めた。
世界を変える都合に、自分の都合も乗るだろうか。
世界が変わるくらい、たくさんの人の都合を集めるとナイトは言った。
無謀な試みだ。けれど、もしかしたら、世界が変わるくらいの都合がどこかにあるかもしれない。
もしも、そんなものがあれば。
それを掴めるぐらいの力を、彼にはつけさせてやりたいと思う。
「彼らの無謀な夢に希望を見た自分を、どうぞお笑い下さい。自らの罪を忘れていると思わば、この命をお好きなように。ですがどうか、彼を鍛え終わるまではお許しを」
歴戦の騎士は深く頭を垂れる。
返事はどこからも返ってこない。
当然だ。死人は何も言わない。こんなもの、ただの自己満足だ。
だがそれでも、ロイエにとっては必要な自己満足だった。
ここから先、生半可な訓練ではナイトの力を向上させられない。何より、ナイトのあの躊躇をどうにかする必要がある。
その為には、まず師として自らのケジメをつけることが肝要だと思ったのだ。
後ろ髪を引かれた状態で何を言っても、説得力などないだろう。自分の剣に躊躇があることはわかっている。その分際で、ナイトに何を教えられるのか。
自らの躊躇を消す為に、これは必要な儀式だった。
誰の声も聞こえないまま、ロイエは頭を上げた。
それでいい、と思った。
自分はきっとこれから一生許されない。それでも、やると決めたことをやるのだ。
かつてあればいいと願った、綺麗事の剣。世界を都合よく変えられる力。
在りはしないと諦めていたもの。
それは多分、自分はもう掴めないものだけれど。
彼らが掴む手伝いができるのなら、人生でこれ以上ない幸福だと思う。
罪人が幸せになっていいのか。そう問う声が自分の中にある。その問いに対する答えは出せていない。
だから、彼女の墓に懺悔をしにきた。
答えなんか今更出せないけれど。
彼の師として全力を尽くすのは悪いことでは決してないはずだ。
木剣を掴んで立ち上がる。
やるべきことはやった。最早剣に躊躇はない。全て受け入れるだけだ。
これでようやく、弟子の躊躇に口を挟める。
今なら、真剣だって握れる気がする。とはいっても、わざわざナイトの剣を借りようとは思わないが。
掃除用具をまとめて墓地に背を向けたところで、
微かに蹄が地を蹴る音がした。
聞こえ間違いかと一瞬疑うが、用具を置いて耳を澄ますともう一度聞こえた。
間違いなどではない。蹄をつけた馬が、山中にいる。
野生の馬は蹄などつけない。間違いなく誰か、人が乗っているだろう。
こんな山奥に何の用があるのか。迷い込んだ旅人か、それとも騎士団から逃げ延びてきた悪党か。
それとも。
最悪の想像を頭の片隅に置いて、音に集中する。蹄の音は徐々に近づいてきているようだ。
なら、待ち構えるのが一番いい。
ここから里までは馬ならさほど遠くない。旅人にせよ悪党にせよ、ここで対処するのがいいだろう。
最悪の想像があたっていた場合なら尚更だ。ナイト達の所には行かせない。
蹄の音は時間経過と共に大きくなり、墓地のすぐ手前の草むらが音を立て、
馬に乗った男女が姿を現した。
手綱を操るのは男の方。その男に抱えられるようにして乗る女が驚いたようにこちらを見る。ロイエも同じく驚いて二人を見返した。
男のほうは予想通りだったが、女のほうが予想外だった。
『彼』が来ることはわかっていたが、まさか連れがいたとは。しかも、見覚えのない女性。
ただ一人冷静なままの男が、誰より先に口を開いた。
「お久しぶりです、騎士ロイエ。こんなところで会うとは思っていませんでした」
少しも意外そうでない口ぶりの『彼』を見つめ、ロイエは小さく息を吐いた。
――史上最年少で騎士となった天才、リデル・ユースティティア。
最悪の想像があたった。時間はそうないと思っていたが、まさかこんなにすぐでなくともいいだろう。
木剣を握る手に力を込め、馬上の若き騎士を見返す。
「久しいな、リデル。だが、自分はもう騎士ではない」
「聞き及んでいます。ですが、貴方は私が知る限り最高の騎士の一人です。今もまだ、そう思っています」
馬を止め、リデルが鞍から下りる。
その様子を眺めながら、ロイエは身動き一つできずにいた。
さっきからずっと隙を窺っているというのに、打ち込む機会が一切見つからない。こちらから視線を外しても、気を張り巡らせているのが分かる。
しかも、これはわざとだ。あえて知らせている。こちらが妙な動きをしないように。
息を呑む。最後に会ったのはいつだったか。その時より、格段に強くなっている。
相手を侮っていたわけではないが、ここまでとは思わなかった。果たして、今のナイトの力が通じるかどうか。
数歩分の距離を置いて、天才騎士と元騎士は向き合った。
「自分は騎士を捨てた。君がどう思おうと、それが事実だ」
「……何故、でしょうか」
天才騎士の瞳が揺れる。
張り巡らせていた気にも揺らぎが生じ、ロイエからすれば露骨な隙が見えた。
――やはり、そうか。
確信を得て、元騎士はナイトにも勝ち目が十二分にあると思い直した。
彼は、迷っている。
自らの正義を疑い、騎士としての道を進むことを躊躇している。
かつての自分のように。
揺れる瞳は不安と迷いの証拠。心が乱れれば、気も乱れる。その状態で振るう剣は精彩を欠く。
それでも、素の技量と経験の差はどうしようもないが。
何にしろ、聞かれたことには答えるべきだろう。それが、彼の迷いを更に強めるものであったとしても。
壮年の元騎士は導くように背後に視線を送る。
釣られて青年騎士も視線を送り、居並ぶ墓を前に言葉を失った。
「あれが、その理由だ」
そのロイエの言葉も耳に入らぬように、リデルは墓地に釘付けになっていた。
十や二十ではきかない数の無名の墓標。
それらが誰のものかは、言われずとも彼は察していた。
それでも口から漏れたのは、確認のためか、それとも間違いを期待してか。
「……魔法使いの、墓……」
「そうだ」
短い肯定に、リデルの顔が歪む。
隙だらけの若き天才騎士を見つめ、ロイエは言葉を続ける。
「遺体は全て埋めた。手首から先だけになった人も、煤と変わらぬ姿になった人も、全て一つ一つ埋めたが、流石に肉片では誰か分からなかった。あの一際大きな墓標は、そういった人や何も見つからなかった人達の為のものだ」
口を噤んだリデルの顔は、ロイエには今にも泣きそうに見えた。
小高い丘に敷き詰められた墓標。それをどう見るかは、人によって変わるだろう。
ただの感傷だという人もいるだろうし、何の感慨も湧かない人もいるだろう。魔法使いに墓などいらぬと、怒る人もいるかもしれない。
ロイエにとっては罪の証であり、マギサに頼まれた守るべきものであり、生きる意味でもある。
ならば、墓守となった元騎士の目の前にいる青年騎士には、どのように見えているのか。
少なくとも、何の感慨も湧かないということはなさそうだ。
だから、彼はこう言った。
「理由はそれが全てだ。自分はもう騎士ではない」
言葉もなく立ち尽くすリデルを横目に、ロイエは掃除用具を手にした。
この若き騎士は、里の襲撃には関与していなかった。通達された人員の中に名前を見なかったので間違いない。
あの凄惨さを知らず彼らを追いかけているとすれば、これで考えを改めるかもしれない。
そうであって欲しいと願って、横を通り過ぎざまに口にした。
「帰れ。ここは君がくるべき場所ではない」
騎士でありたいのなら。
秩序と平和を守る存在でありたいなら、こんな場所に来るべきではない。
秩序と平和の犠牲になった人達の眠る場所になど、来るべきではないのだ。
誰にとってもいいことなどない。苦しむことばっかりだ。
例え正しいと分かっていても、個人として心が悲鳴を上げる。
それに耐え切れなくなれば、自分のように騎士を辞めるしかなくなる。
そんなこと、若い身空でやることではない。
黙って様子を見ている馬上の女性を一瞥し、里に戻ろうといつもの獣道に足を踏み入れ、
「……お待ち下さい」
かけられた声に、足を止めた。
振り向いたロイエの目に映ったのは、苦痛を押し殺してなおも前を見る若さを漲らせた姿だった。
騎士を辞めた身には眩しすぎるほどのひたむきさ。
そういうところばかり、弟子とよく似ている。
目を細める墓守に、騎士は決定的な事を尋ねる。
「貴方の所に、魔法使いとその連れが来ていませんか」
分かりきっていたことだ。
それ以外にリデルがこの山を訪れる理由などありはしない。
ロイエは無言で見つめ返し、リデルもそれを受け止める。
「魔法使いの少女の名はマギサ。連れの青年はナイトといいます」
「聞いてどうする」
間髪入れぬ返しに、若き騎士は一瞬口ごもった。
木剣を握る手に再び力を込め、ロイエは油断なく観察する。リデルの迷いは、振り切れてなどいない。それでもなお、己が使命を果たさんとしている。
見事な騎士だ。彼のような騎士ばかりなら、この国も安泰だと思えるほどに。
ナイト達に関わらなければ、きっとそのまま立派な騎士として歴史に名を残していたかもしれない。
口元を引き結んで苦悶を噛み殺し、天才と呼ばれた騎士は墓守を見据えた。
「捕らえます。人々の安寧の為に」
模範的な答えの隙間に滲む戸惑いの色に、ロイエは気づいた上で知らぬ振りをした。
それを指摘したところで、意味はないだろう。その程度、彼とて理解している。理解していて、それでも口にしたのだ。
ならば、気にしても仕方がない。どの道、彼を止めるしかない。実力差は先程分からされたばかりだ。心に惑いを残して勝てる相手ではない。
あと一年。いや、半年もあれば自分のような老兵が出しゃばらずとも、ナイトに全てを任せておけた。
だが、ナイトは未だ成長途上。如何にリデルの心に淀みがあろうと、それを埋めるだけの実力差がある。
それに、ナイトにも躊躇がある。人に向けて技を放つことに対する躊躇いが。
そんな状態で、果たして彼に勝てるだろうか。
ここで止めるしかない。それが一番安全で確実な対処法だ。
ちらりと、無数に並ぶ墓の中で唯一文字を刻んだ碑に視線を送る。
――御前で暴れることをお許し下さい。孫娘達を守る為と、どうぞご理解を。
心の中で呟いて、騎士に視線を移す。
例えそれがやせ我慢でも、静かな気をまとう姿は流石としか言いようがなかった。
「返答を頂けなくとも、自力で探させてもらいます」
それは、リデルからの最後通告だった。
里の場所くらい知っているだろう。そうでなくばここにいない。自分に協力を求めたのは必要性からというよりも、確かめる為だろう。
ナイト達との関係性を。より正確には、彼らの側についていないかどうかを。
その答えを、ロイエは何より明確な形で出した。
「許さん。何人たりとて、彼女達に手は出させん」
掃除用具を投げ捨て、木剣を手に高めた気をぶつける。
馬が反応して少しばかり興奮して嘶く。馬上の女性が慌てて手綱を掴むと、数歩後ろに下がったところで落ち着きを取り戻した。
「木剣で私とやりあうつもりですか」
鋭い目つきで易々と気を受け流す騎士に、
「武具は全て返上した。今はこれが、自分の得物だ」
一つも臆することなく、墓守は言い返す。
リデルは眉を歪ませ、苛立ったような足取りで馬の元へ向かう。
怯える馬を撫でて落ち着かせ、くくりつけた荷物から一本の剣を取り出して放り投げた。
金属音を立ててロイエの目の前に剣が滑り落ちてくる。
説明を求めるように墓守は騎士と剣を交互に見つめ、
「どういうつもりだ」
馬から離れ、一足一刀にはやや届かないくらいの間合いで騎士が足を止めた。
「もしも」
小さく開いた口から漏れた言葉には、隠しきれない煩悶があった。
「もしも、本気で俺を止めようというのでしたら」
ロイエの目に映るリデルは、親から見捨てられた子供のように見えた。
「木剣などでなく、その剣を俺に向けて下さい」
これ以上言うことはないと口を噤み、リデルはロイエを見つめる。
剣を握れなくなった元騎士は、放り投げられた剣に視線を落とす。
これは、彼なりの譲歩なのだろう。自分が剣を握れなくなったことを、おそらく彼は知らない。団長は想像がついているかもしれないが、彼に言うとは思えない。
騎士に剣を向けるというのがどういうことか。元騎士がやれば、その重さは普通の人の比ではない。
引いて欲しいのだ。争うことなく、行かせてくれと。そう言っている。
木剣などではなく、冗談ですまない真剣を持ち出すことで、そう促している。
墓守としては、引くべきだろう。ここで争って彼を殺さない限り、その報告は上へ行く。
例えナイト達を逃がしたところで、反逆者として自分を捕らえに騎士団が相応の数でくるだろう。そうなれば墓も荒らされるかもしれない。
墓守の使命を全うするなら、この剣は握るべきではない。
後の事はナイトに託して引き下がるのが、一線を退いた老兵のあるべき姿だろう。
過ちを何度も繰り返してたまるものか。
自分の人生を変えたあの老婆なら、孫娘を助けてくれと言うはずだ。
死んだ自分達より、生きている若者を守ってくれ、と。
『魔法使いの墓守』として、今自分が取るべき選択は何か。
膝をついて、剣の柄を握る。
冷たい鉄の感触と滑り止めのざらついた革の感覚が懐かしく、紐付いた記憶が呼び起こされる。
騎士として修練した日々、仲間と共に各地を駆け巡った戦歴、
炎の中に飲まれる里と人を斬った感触。
一瞬催した吐き気を、柄を力いっぱい握り締めて堪える。
ナイフとは違う。争いの為の道具。歴然とした武器。あの日以来、二度と戻らぬと誓った場所に、再び立とうとしている。
いや、違う。実際には、立てなかっただけだ。二度と立てないと思ったから、いっそのこと武具も何もかも捨てたのだ。
罪の意識に押しつぶされて、何もできなかったから。
今もさして変わらない。こうして柄を握っているだけで胸の奥に激痛が走って、悪寒と吐き気が体中を這い回っている。
それでも。
それでも、やらねばならないと思ったことがある。
深く息を吐いて全てを片隅へと追いやり、剣を引き抜いて鞘を投げ捨てた。
この剣が鞘に戻るときは、勝敗が決した時だ。
軽く剣を振って手に勘を取り戻させ、振り下ろして眼前に切っ先を向ける。
その先にいるのは、表情を消した天才騎士だった。
「もう一度言う。去れ。ここは君が来るべき場所ではない」
冷たく静かな気を纏い、リデルは超然とその言葉を受け止める。
先程までのあからさまな気とは違う。ロイエにも、ほとんど気配というもの感じない。隙だらけに見えるのに、体が怯えたように打ち込むのを拒否していた。
一歩、リデルが近づく。反応するロイエを見据え、天才騎士は腰の剣に手を添えた。
「残念です。貴方とは違う形で剣を交えたかった」
剣を引き抜く隙を狙って、ロイエが先に仕掛ける。
最初から遠慮のない一撃。振りかぶった剣を、全体重を乗せて伸ばしきる。
一撃技とは少し違う、ロイエの手持ちの中で最もリーチの長い技。先んじて制する奇襲において最大の威力を発揮するものだ。
鞘から滑るように抜かれた剣に、あっさりと弾かれた。
それを見越していたかのように、ロイエの剣は次の軌跡を描く。弾かれた勢いを利用して弧を描き、斜め下から切り上げる。
少し下がったリデルの剣に受け止められる。力押し勝負をしたのは一瞬で、ふっと力を抜きわざと押し負け、勢いあまった騎士の剣を脇に抜ける。
脇を締めて小さく畳んだ剣を振りぬき、切っ先がリデルの体に触れた。
浅い。
そう認識すると同時に飛びのく。
いつの間にか切り返されたリデルの剣が、ロイエの脇腹を切り裂いていた。
距離をとり間合いを計り、墓守は脇腹に手を当てる。傷の深さはたいしたことはない。だが、明らかに自分がリデルにつけたものよりは深かった。
浅く斬りつけられた騎士の胸にも血が滲んでいるが、かすり傷程度のものに過ぎない。
実力差があるとは思っていたが、若造に本気で負けるとも思っていなかった。自らの甘さを叱咤する。
致命の一撃を叩き込むつもりだったのだ。それが、避けられた。薄皮一枚切り裂くだけに止められ、反撃までもらった。
体勢を崩すつもりで力を抜いてすかしたのに、体幹を揺らすことさえできなかった。
先程までとまるで違う、冷たい騎士の声が聞こえる。
「流石です。半年以上も騎士団を離れたとは思えない」
「君とは年季が違う」
軽口にも、騎士に動じた様子は微塵もない。
「仰る通りです。その貴方が、彼らに味方するとは思いませんでした」
「君も分かっているだろう。だから自分は騎士を辞めたのだ」
リデルの眉がピクリと動き、気が乱れた。
好機のはずなのに、足が動かない。あの一瞬の攻防で、分かってしまった。弾かれ、受け止められただけなのに腕が震えている。
技量にも膂力にも差がある。ましてや、ようやく剣を握れた自分に勝ち目はない。
だとしても、ナイトと戦わせるにはまだ早い。ここでなんとか食い止めなくては、彼らの希望も潰えてしまう。
心の隙をついてでも、勝たなければならない。
「自分は過ちを犯した。だがそれは、騎士にとっては過ちではない。君も分かっているはずだ」
リデルの纏う気がより冷たく、しかし荒ぶりだす。
「言いたいことはそれだけですか」
「まだある。だが、君に聞く気がなさそうだ」
若き騎士の口元が、強く引き結ばれる。
それが見えた瞬間、ロイエは全力で地を蹴った。
時間をかけるだけ、体力に劣る自分が不利になる。ならば、すぐに決着をつけるまでだ。
肩に剣を担ぎ、全身を捻って勢いの全てを切っ先に集約させる。
体ごとぶつかるつもりで、全身全霊の一撃を放つ。
ナイトに放ったものより遥かに重い剣を前に、リデルは半身をずらして迎え撃つ構えを取った。
両者の剣がぶつかりあい、遠く遠く空まで響く剣戟が鳴る。
吹き飛ばされた人体が、地面にぶつかる音がした。




