第八十・五話「過去・村を出たばかりの二人」
ざっくざっく、と葉で埋もれた土を踏みしめる音だけが響く。
どこまで遠くを見ようとしても、緑以外が目に入ってこない。
気が滅入るような景色を前に、騎士になりたかった青年――ナイトは斜め後ろに視線を向ける。
そこには、ややふらついた足取りで後をついてくる真っ黒尽くめの少女の姿があった。
――どうしたものかなぁ……。
ぼんやりと考えながら、地面から飛び出した木の根を踏み越えて進む。
木々からもれてくる光は、本来なら美しく癒されるものだろうに。今は足元を照らすには頼りない明かりでしかない。
森はやはりたまに入るからいいものだ、とナイトは再確認する。
村を飛び出して三日目。
少しだけ冷静になってきたところで、ようやく問題が見えるようになってきてしまった頃合。
目下最大の問題点は、圧倒的なマギサの体力不足だった。
※ ※ ※
ナイトは見た目どおり、それなりに体力がある。
王都まで旅をしたこともあるし、村の猟師に教えを請うて狩りの訓練をしたことだってある。
何より、田舎村で自分の畑の手入れをしながらあちこち手伝うなんて真似を三年近くやってきたのだ。体力がつかなきゃ嘘である。
そして、マギサもまた見た目どおりに体力がない。
畑仕事の手伝いなんて、初日は半日持たずにダウンしていた。一週間もすれば多少はマシになったが、食も細ければ体も小さい彼女に頑丈さを期待するのは酷というものだ。
森歩きも初日はまだ良かった。
あのキノコは食べられる、あの木の実は加工できる、なんて話をしながら先に進めた。
二日目から雲行きが怪しくなった。
昼前から目に見えてマギサの足取りが重くなり、夕方になる頃には普通に歩くナイトの半分程度の速度しかなかった。
ナイトだって何もせずに見ていたわけではない。それなりに勇気を出して、
「背負おうか?」
と声をかけたのだ。
しかし、牛か亀のように歩く黒尽くめの少女は首を横に振った。
「……いいえ、大丈夫です」
どこも大丈夫そうではない。
少女のやや頑なな態度に少し心が折れかける。無言のオーラは話しかけづらいことこの上なく、かといってこのまま引き下がっては後味が悪い。
「でも、」
気合を入れて更に言い募ろうとする青年の言葉を、マギサが遮った。
「ナイトさんは、少しでも多く体力を残しておいてください」
続く少女の言葉に、ナイトは何を言えばいいのかわからなくなった。
「もし騎士隊が追いついてきたときに、逃げられるように」
かすれ気味の声で言われたことの意味はつまり、
――貴方だけでも、逃げてください。
そういうことなのだと、余り頭の良くない青年にも理解できた。
そんなことを言われたって、ナイトだって困るのだ。
そんなことをするくらいなら、最初から助けたりしないのだ。
しかし、それをどう説明したらいいものか。
実のところ、マギサを助けたこと自体感情的なものであって、それ以上のことなんてナイトにだって分からない。
感情的だが、大事なことだ。
マギサを見捨てるくらいなら、騎士隊に捕まったほうがマシだ。
だが、それをどういえばこの真っ黒で俯きっぱなしの少女に伝えられるのかがコミュ力不足な青年には分からなかった。
そして三日目。
ついに少女の足元がふらつき始めた。
木の根に躓いて咄嗟に地面に杖を突き立てる。慌ててマギサの傍に行けば、
「…………大丈夫です」
と言われてしまった。
昨日の事が頭にちらついて、ナイトは頷くことしかできない。
とにもかくにも、このまま進んでいいことは一つもないだろう。
「ちょっと狩りに行くから、少し待っててくれる?」
一瞬渋い顔をしたものの、マギサは頷いてくれた。
ほっと胸をなでおろし、ここにいてね、と言い含めて森の深いほうへと入っていく。
――どうしたものかなぁ……。
上手いこと枝に止まっていた鳥をしとめ、皮を剥ぎながら考える。
このままでは、森を抜けることもままならないかもしれない。なんとかしないと、と思いながら血抜きをする。
それで何かいい案が思い浮かぶなら、きっと今こんなことにはなっていないのだ。
目下第二の問題点は、圧倒的なナイトの思考力不足だった。
※ ※ ※
そして、四日目。
朝から顔色が悪い少女を気遣ってゆっくり歩くも、本人は老婆のように杖をついて足を引きずるように進むのが精一杯のようだった。
ある意味精神が肉体を超越しているようで凄い、と青年は思う。見習うべきかもしれない。
やせ我慢という意味では、到底彼女に勝てる気はしなかった。
「あー、その、やっぱり手を貸そうか?」
「………………いえ…………平気……です…………」
「……うん、もう少し息を整えてから返事していいよ」
やはり、やせ我慢はやせ我慢に過ぎない。誰が聞いたって今の少女の言葉を真に受けたりはしないだろう。
――どうしたものかなぁ……。
結局昨日一日考えてはみたが、妙案と呼べるものは思い浮かばなかった。
黒髪の少女の意思の固さは村にいた時からなんとなく分かっていたし、それを覆させるような話術が自分にあるとも思えない。
結局のところ我慢比べするしかないか、という結論に達して、ナイトはマギサの数歩先に進んで屈みこんだ。
後ろ向きに手を出して、
「ほら、乗って」
肩越しに振り向けば、マギサが俯いたまま視線だけをこちらに向けていた。
何も言わないのは、息を整えているのだろう。さっき言ったことを律儀に守ろうとしてるあたりになんともいえない笑みが浮かび、
「このままじゃ、森も抜けられないよ。ほら、早く」
「…………いえ、」
拒否しようとした少女に、青年は声を被せた。
「もし、騎士隊に追いつかれたとして」
ここで、何で彼女を助けたかを理路整然と説明できれば、きっと何もかも上手くいくのだろう。
けれど、それができない以上、彼には愚直に話す以外の選択肢はなかった。
「僕は、君と一緒に逃げるよ。それが無理なら戦う。じゃなきゃ、何の為に村を飛び出したのか分からない」
息を吸い込んで、屈み込んだまま前を向く。
今彼女のほうを向くのは、なんだか卑怯な気がした。
「何でって聞かれても、そうじゃなきゃ嫌だから、としか答えられない」
森で迷った初日に、マギサから聞かれた質問への答え。
結局は、あれが全てだ。
嫌だから。
それだけのことで、とんでもないことをしている。そういう自覚はある。
あるが、それが今分かる全部なのでどうしようもないのだ。
「だから、早いところ森を抜けてどこかに行こう。騎士隊が追ってきてるなら、なおさら早く遠くに行かなきゃ。でも、」
一つ息を飲み込んで、
「もし君が嫌なら、このまま無視して進んでくれて構わない」
そこが、ずっと気がかりだったのだ。
もしかしたら、自分は余計なことをしたんじゃないのか。
彼女にとっても、迷惑なことをしているんじゃないか。
魔法を使える彼女は、もしかしたら、自分なんかいないほうが楽でいいんじゃないか。
その疑問が、実のところ少し冷静になってからずっと頭にあったのだ。
目下第三の問題は、自分はお節介をしただけなんじゃないか、という疑問だった。
山ほどある聞きたいことを聞けずにいたのも、その疑問が心のストッパーになっていたからというのもある。
前を向いたまま、ナイトは試験の結果を待つようにじっと手を出して屈み続けた。
暫くして、
杖が葉と土を叩く音がして、
背中に、思ったより軽い体重が乗っかってきた。
一気に肩から力が抜けて、自分が想像以上に緊張していたことをナイトは知った。
「…………すみません」
背中から、ようやくナイトの耳に届く程度の囁きが聞こえた。
「……ほんとうは、とてもつかれました」
「うん。大丈夫、僕に任せて」
後ろに回した手でしっかりとマギサの体を固定して、ひょいっと立ち上がる。
羽のように、とはいかないが、見た目どおりに少女の体は軽かった。
ゆっくり息を吸って吐く。
体中に力が漲ってきて、ナイトは森に迷い込んだ初日よりよほどしっかりした足取りで進む。
背中の重さが、力をくれるようだった。
何一つ問題は解決してないのに、なんとかなるような気がした。




