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優しい騎士と小さな魔法使い  作者: 満月すずめ
第二部・追う二人
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第七十四話 「追加任務」

 清々しい空気が満ちる訓練場で、藁束を前にナイトは剣を構えていた。

 木剣ではない。村に居た頃からずっと使っている、相棒のなまくらだ。


 足を肩幅に開き、深く呼吸し右足を下げて半身をずらす。

 剣を肩に担ぎ、片手で柄を軽く握り、もう片手で柄頭をしっかりと掴む。

 もう一度息を吸って吐き、腹の底に力を込めた。


 右足を踏み込むと同時に、全身を捻って体重を剣先に乗せる。

 腰のひねりを伝えるように肩、肘、手首の順で伸ばし、


 剣が伸びきる前に足が地面についた。


 藁束は見事に袈裟懸けに両断され、地面に落ちる。

 滴る汗に構わず荒い息を整え、姿勢を戻す。

 隣で見ていた師匠から檄が飛んだ。


「何度言ったらわかる。腰の回転を何より意識しろ。腕も剣の一部と思え。剣を間合いの限界まで届かせるように振るうんだ。その間に存在する全てを切り払う為に」

「はいっ!」


 ナイトは力強く返事をし、剣を収めて新しい藁束に取り替える。

 真っ二つになった藁束をロイエは観察し、切断面に粗さが残っていることを確認した。

 やはり、威力が十分に発揮されていない。力が分散しているのだ。


 ロイエが編み上げた技は、圧倒的な威力で切り伏せるものである。後のことを考えない、騎士の剣術としては異例の一撃必殺。

 なればこそ、その一撃に全てを込める必要があった。

 外れれば死。そう覚悟して初めて使える技だ。


 心構えは問題ない。ナイトの剣には、その重さがある。が、技術がついてこなければ、如何に心があろうとも力は十二分に発揮されない。

 ここ一月半で、ナイトはかなり成長した。

 腰から動かす剣術の基礎も身についてきたし、学習意欲も鍛錬量も並みのものではない。

 しかし、やはりこの技は一月足らずで身につくものではなかった。


 基礎の集大成にして、全てをたった一撃に集約する技。ナイトが使いこなせば、その威力は全盛期の自分よりも上だろう。

 剣の重みが違う。それは、二つの意味で。

 期待は止まないが、それを成すには大きな問題がナイトにはあった。

 正式な訓練を受けてこなかった所為か、剣を自然に扱うことができていないのだ。


 剣は道具ではなく、腕の延長である。剣で斬るのと拳で殴るのは要領そのものは同じで、脇を締めてしっかり伸ばす。これが最大威力を出すコツだ。

 肘を伸ばしきらない拳と、伸ばしきった拳の威力を考えればわかり易い。

 剣も同じで、しっかり伸び切らせないと威力が乗り切らない。だから、腰から回転させ、少しでも速く遠く伸ばすのだ。

 癖などは殆ど直ったが、この長年やっていないとどうしようもない感覚の問題ばかりはどうにもならなかった。


 腕の延長だと思え、と言われて思えるなら、誰も苦労しないしそこら中に天才が転がっているはずである。

 膨大なまでの反復練習と、意識改革。今やれることといえば、そのくらいしかなかった。

 それでも、追々でいい、などと言っていられない。

 あの天才騎士がナイト達を狙っているのだ。

 一刻も早く、技をモノにしてもらわなければ困るのだ。


 新しい藁束を前に、不器用な弟子が深呼吸して再び構える。

 師として、できる限りの助言はしてやりたかった。


「伸ばすことを意識するな。きちっと腰から回せていれば勝手に伸びる。腕で藁を斬るつもりで、全力を込めて振り下ろせ」

「はいっ!」


 素直に頷いて、成長著しい弟子が剣を肩に担ぎ上げる。

 その助言にどれほどの意味があるかは、ロイエ自身にも疑わしいところだった。

 物心ついたときから訓練していた自分達の感覚をどう伝えるかは、実に悩ましい。同じ騎士に教えた時はそこまで難しくなかったのに。


 生まれが違えば感覚も何もかもが違う。その差を意識して教えるのは、如何に元騎士といえど初めての機会だった。

 それなのに、この真っ直ぐな弟子は文句も言わずについてくる。なんとかしてやりたいと思うが、上手い手段が思いつかない。

 気持ちに実力が追いついてこないのは、師弟揃って同じだった。


 振り下ろされた剣が藁束を切り裂く。今度は力を入れすぎて足の踏ん張りが利いていない。どこかを気にするとどこかがダメになるのは、よくある話だ。

 本来なら、自分が相手をしてやりたいところだ。が、そもそも木剣しか使えない上に、ナイト自身に人を相手にすると少し遠慮をする癖がある。

 未完成の技を人に向けて放つとなると、よっぽど追い込まれない限り無理だろう。ひとまずは、藁束相手にまともに決まるようになってからだ。


 しかし、余り藁束ばかりを相手にしていても仕方がない。技の習得は勿論だが、実戦で使えなくては意味がない。

 実戦形式の訓練は、リデルが追っているとわかった日から一日も欠かさず行っていた。


「ナイト、次の藁で最後だ。打ち合いの稽古をするぞ」

「あっ、はい!」

「この技は間が重要だ。少しでもズレると威力が落ちる。体で感じろ、それが一番早い」

「はいっ! ありがとうございます!」


 礼を言われるようなことは言えてないのは、ロイエが一番分かっていた。

 生真面目な顔で頷き、ナイトはもう一度所定の位置で構える。

 なんとか次の助言をする為に見守る師匠の前で、弟子が最後の一撃を放つ。

 それもまた、完璧からは程遠い一撃であった。

 それでも、最初教えた頃よりは徐々に良くなってきている。あとどのくらいの猶予があるかは分からないが、二月もあれば完成するだろう。


 二月。そこまでの猶予がもらえるかは、疑わしい。

 あの天才騎士は、一体どこまで近づいているのだろうか。もしかしたら、もうすぐそこにいるかもしれない。

 この技さえ完成すれば、僅かながら勝機が見出せると思う。それもまた希望的観測かもしれないが、ナイトの一撃は今までにない重さを持つはずだ。

 それまでの時間稼ぎを、いざとなったら自分がする必要がある。


 出来るだろうか。未だに真剣を握れぬ体で、あのリデル相手の時間稼ぎが。

 いや、出来るかどうかではない。やらなければならないのだ。


 斬られた藁束を片付けて、木剣を取り出す。師匠と弟子は、さながら決闘のように向かい合う。

 一撃技は使わないが、それ以外は何の制限もない打ち合い。

 怪我を一切気にしない、容赦のない訓練。それはもはや、ほぼ実戦であった。


 骨が折れようが傷が出来ようが、あっさりと治してくれるマギサがいればこそ出来る鍛錬である。

 最初こそ一方的にナイトがやられていたが、最近はロイエが治療される事も増えてきた。互いに骨を折って悶絶しているところを様子を見に来たマギサに助けられた事もある。

 我が身を省みない稽古で、ナイトの実力は日増しに伸びていった。


 互いに木剣を構える。ナイトは体の正面に置くように、ロイエは腕を下ろす。それぞれのスタイルに合わせた、可能な限り早く次の行動に移れる姿勢。

 ふと、思い出したようにナイトが口を開いた。


「あ、そういえば。今日はマギサが水浴びするらしいので、治療は夕方になります」

「あぁ……そうか、もうそれだけ日が経ったか」


 唸るようにロイエが返す。

 里にきて半月が過ぎた頃から、マギサは水浴びをするようになった。むしろ、それまでしていなかったのかという話だが、蔵書を読むのに夢中で忘れていたらしい。

 ナイトもロイエも、鍛錬後に適当に水道の水をかぶって体を拭いておしまいである。特に不便は感じなかったが、マギサはそれでは我慢ならなかったようだ。

 以前の里には浴場があったらしいが、それらは騎士団により全て破壊されている。今は、近場の適当な湖がその代わりだ。


 数日に一度、昼にマギサは水浴びをする。その間は湖に近づくことは許されない。夕方になって、小屋に戻ってくるまで男共はただ待つことしかできない。

 ずいぶんと長い水浴びだと思うが、どうやらついでに魔法の鍛錬もしているらしい。ナイトもロイエも門外漢なのでさっぱりだが、水を使う魔法でもあるのだろう。


 イメージを形作るには実際に触れた方がいい、などという魔法のいろはなど不器用な男二人が知るわけもなく、とにかくマギサが水浴びする日は治療が遅れる日ということだけ理解していた。

 命に関わる傷ならともかく、骨が折れた程度では湖に近づいてはいけない。夕方まで痛みに耐える必要がある。

 年若くある程度慣れてしまっているナイトはともかく、ロイエにはきつい状況であった。


「なら、最初から本気で行くぞ」

「はい! 僕も全力で行きます!」


 嬉しそうに笑う弟子を前に、師匠は苦笑する。

 最初から本気で行くのは、出来る限り怪我をしたくないからだ。だから、先に大怪我を負わせて楽をしようという魂胆なのだが、おそらくこの弟子はその所を全く理解していない。

 ただ、自分と全力でぶつかるのが嬉しいだけだ。


 全く以って、打算的な自分の考えが嫌になるほど素直だ。こうも喜ばれると、最初の思惑とは違う意味で気合が入る。

 期待には応えなければならない。それが、師匠の責務というものだ。


 左足を動かしてじりじりと間合いと詰めながら、肩の力を抜く。無用な力は、いざというときの動きを鈍らせるだけだ。

 体力も膂力もナイトには敵わない。しっかりと調整しなければ押し切られてしまう。

 配分が大事だ。それさえ間違わなければ、体力が劣っていても互角以上に渡り合える。

 必要な時に、必要な分だけ。それが、技術が生み出す最大の利点だ。


 ナイトも間合いを詰めてくる。詰め方が少し雑だ。足運びはマシになったが、気が逸るとすぐ動きに出るのは若さ故か。

 弟子への助言を考えていると、互いの剣の間合いに入った。

 ぴくりと腕が反応し、ほぼ同時に木剣が相手を狙って打ち込まれる。


 澄んだ空に、剣戟の音が響き渡った。



 案の定二人とも大怪我を負い、マギサが戻ってくるまでどうしようもない我慢大会を繰り広げていた。



  ※             ※               ※


 『魔法使いの里』は、山深くにある。

 地図上にも記載されていない里。騎士団の情報では、三方を山に囲まれ、残る一方を深い森が塞いでいる。まさに隔離された隠れ里だ。

 かつての騎士団と同じ進行ルートを通るのが無難ではあるが、リデルは山の方から回っていくルートを選んだ。


 理由は二つ。里を滅ぼした時と同じ道を辿る事に躊躇があったことと、森からの侵入経路は警戒されている可能性が高いこと。

 もしもナイトやマギサが里にいるとすれば、森側の道は何らかの仕掛けを施している可能性がある。あの二人の事だから何もしてないかもしれないが、楽観視は危険だ。

 山側の道を通るのは困難だが、その分警戒もされていないだろう。それに、かつてのように大所帯ではないのだ。馬の一頭が通るくらいなら、なんとかなる。


 理由は、それだけのはずだった。

 それが、この前のジェローアの町でもう一つ追加されてしまった。

 その追加された理由の所為で、リデルは里への道を真っ直ぐ進むことができなくなっていた。


 元々山道は迂回して通るのが常道ではあるが、それにしても遠回りが過ぎる道を辿っている。

 その事は、クーアには話してある。悩みはしたが、同行する以上話しておくべきだろう。

 彼女は何も言わず、いつものように一言呟いて頷くだけだった。

 そんな風に静かなのは、湖を見つけるまでではあったが。


 ジェローアの町はかつての宿場町であり、なおかつ貴族が別荘を建てようとしていた名残からか、公衆浴場が存在していた。

 物珍しさも相俟って、騎士団が来るまでの半月の間、クーアは浴場に入り浸っていた。

 ジェローアから旅に出て、そろそろ半月。水浴びに適した場所を見つけたクーアの我慢が利かなくなるのは、自明の理であったと思う。


「覗かないでよ!」

「覗きません」


 湖近くの巨木に寄りかかるリデルに、服を脱ぎながらクーアが噛み付く。

 休ませている馬の様子を見ながら、リデルは喚くクーアの言い分に返答していた。


「あんたも騎士で貴族でしょ!? もう少し配慮して、せめて遠くに離れるとかないの!?」

「山道は何があるか分かりませんから、余り離れるのは危険です」

「そりゃ、そうかもしれないけど……!」


 リデルの姿が巨木に隠れて見えないのを確認して、クーアは溜息を吐く。

 つい半月前に野盗に攫われたばかりだから、リデルの言い分に強く言い返せない。まさかまた野盗の類が出てくるとは思わないが、山は危険な動物も多い。下手をすると、魔物だって出る可能性がある。

 また足手まといになるのは御免だ。少しくらいは我慢しなくては。


 そう思うが、胸の中のもやもやは晴れてくれない。そもそもが、真後ろで妙齢の女が衣服を脱いでいるというのに、リデルのこの冷静さは何なのか。本気で欠片も興味がないということか。

 別に興味をもたれたいわけではないが、女のプライドというものが傷つく気がする。いや、そういうことを気にしたら負けだ。とにかく、早く水浴びをしてしまおう。


 ジェローアはやはり田舎村とは違った。公衆浴場なんて、話伝手にしか聞いたことがないものがあるのだから。

 少しだけ恋しくなるが、贅沢に慣れるとろくなことにはならない。旅の風情の一つと割り切ってしまうべきだろう。


 脱いだ衣服と大きめの布を木の枝に引っ掛けて、湖に足をつける。最後にもう一度だけ巨木の方を振り向いて、リデルの姿が見えないのを確認する。

 こちらから見えない、ということは向こうからも見えないということだ。気持ちを落ち着かせ、ゆっくりと全身を湖に沈めていく。

 久しぶりに体の汚れが落ちていく感覚がする。汗や土ほこりが流れていって気持ちが良い。旅の間は気にしていられないが、やはり清潔であることに損はない。


 マギサやナイトは、きちんと水浴びをしているだろうか。

 逃亡の旅、そうそう余裕もないだろうが、汚れっぱなしは良くない。清潔であれば問題ない軽い傷が、思わぬ事態を引き起こしたりもするものだ。

 今こうして気に病んでも、どうしようもないことではあるが。


 湖に浮かびながら空を眺める。湖がそのまま浮かんでいるように青く澄んでいて、じっと見ていると空に浮かんでいるような気がしてくる。

 周囲を木々に囲まれているせいで、湖と同じ形に切り取られているのも原因かもしれない。深く息を吸えば、体の重さが水に溶けていくようだ。


 ジェローアのあの夜からそろそろ一月。リデルの肩の傷は、驚異的な回復を見せていた。

 もう包帯も必要ない。痕は残るだろうが、剣を振るう分にも問題ないだろう。騎士というのは体の作りから違うのかと疑いたくなるほどだ。

 でも、そういえば、ナイトも同じくらい頑丈だった。傷が出来てもすぐに治るのは、普段から鍛えているせいなのか。


 それでも、痕は残る。たかだか野盗如きにつけられた傷は、一生リデルについて回る。

 本人は勲章だといつもの真顔で言っていたが、果たして本気か慰めか。多分、本気なのだろうとは思うが。

 だとしても、あの肩の傷を武勇伝として語ることはできないだろう。騎士や貴族がどういうものかは伝聞でしか知らないが、他人に胸を張れるものではないはずだ。

 汚点、だと思う。その責任の半分は、自分にある。


 顔の半分を湖に沈め、息を吐いて泡を立てる。ぶくぶくと浮かんでは消えていく泡は、やりきれない気持ちの代替品だ。

 こんなふうに泡になって消えてくれればいいのに。どうしてこう、心というものは面倒臭いのだろうか。


 息が辛くなって、顔を上げる。そういえば、リデルは水浴びをしないのだろうか。

 肩の傷も問題ないし、清潔にしておくのに損はないのは彼も同じだ。聞いてみようと足をついて立ち上がり、


 巨木と反対側の森の中に、巨大な何かの影を見た。


 一瞬見間違いかと思って目を凝らす。

 影はこちらに近づいてきて、遠目にも分かるほどの巨体がより鮮明になっていく。

 羽音を唸らせ、近づいてくるその『何か』は、



 余りに巨大な、蜂の化け物だった。



  ※              ※             ※


 巨木に背中を預け、リデルは肩の傷に触れる。

 もう痛みは殆どない。全快かと言うと厳しいところがあるが、少々の違和感を我慢すれば今まで通りに剣も振るえる。

 痕は残る、とクーアに言われたが、それでいいとリデルは思っていた。


 この傷は、自らの未熟の証だ。忘れてはいけない、戒めの傷。痕を見る度に思い出し、身を引き締めることが出来る。

 強くなって一番怖いのは、慢心することだ。初心を忘れ、かつてを忘れ、最初から強者であるかのように振舞うこと。

 自分の弱さを知らぬ者は、いずれ必ず足元を救われる。強さとは、弱さを捨てることではなく、弱さを飲み込むことだと思う。

 痕が残れば、例え忘れても見れば思い出せるだろう。そういう意味では、何よりの勲章だと言えた。


 クーアはやたらと気にしているようだったが、どう説明したものか。いまいち上手く伝えられていない気がする。

 説明といえば、ジェローアで隊長から伝えられた例の件もどうするか。

 一応内容を伝えはしたが、あの様子ではきちんと理解しているかどうか。


 この山で、魔物が出現したという事実を。


 騎士隊長から伝えられた、新たな任務。この山の近辺を調査し、魔物が出現したのが偶然なのか、それとも何らかの因果関係があるのかを確かめる。

 魔物相手の任務は、死と隣り合わせだ。一歩間違えば大怪我ではすまない。

 だが、あくまで命じられたのは調査まで。おそらくは、念の為といったところだろう。


 言わば自分の任務は、念の為の見回りだ。どうも好戦的な魔物だったらしく、騎士隊長も気がかりだったらしい。

 居なければ、それでいい。もし居れば、一旦下山して騎士団に報告する。

 無茶はしない。今度は話の通じない魔物だ。もしもジェローアみたいなことがあれば、それこそただではすまないだろう。


 掌を開いて、握りこむ。深く呼吸すれば、草木の匂いが胸に満ちる。

 頭上を覆う葉の隙間から空を眺めようとして、



 羽音が聞こえた。



  ※              ※               ※


 山林の中を、少年が必死の形相で走っていた。


 鬱蒼と茂る木々を背後に追いやり、木の根や背の高い草に躓きそうになりながら懸命に足を動かす。

 酸素を求める口は開きっぱなしで、荒い呼吸を整えることなんて忘れていた。


 山林は少年にとって、庭も同然のはずだった。特に、村の近くなんて飽きるほど探検した覚えがある。

 それなのに、今は自分がどこを走っているかさえわからない。周囲を見て確認する余裕はなく、消し飛びそうな意識をつなぎ止めるので精一杯だ。


 背中から聞こえる騒音じみた羽音が、頭の中から何もかもを奪い去っていく。


 後ろは振り返らない。振り返る暇があったら一歩でも先へ進む。そうじゃないと、今にも追いつかれてとって喰われるかもしれない。

 かもしれない、じゃない。間違いなく殺される。



 少年の背を追うのは、巨大な蜂の怪物だった。



 ゆうに人の二倍はある大きさは、自然のものでは決してありえない。羽ばたく度に風を巻き起こして木々を揺らし、少年の足元がふらついてはすんでのところで立て直す。

 昆虫特有の薄い皮膜の翅は、不快な音を撒き散らして存在を高らかに知らせてくる。

 少年はきっと、一生その音を忘れることはないだろう。恐怖の名札をつけて、記憶の中にこびりつくに違いない。


 足を止めたら追いつかれる。追いつかれたら殺される。

 死にたくない。負けたくない。こんなところで、やられてなるものか。

 あの魔女(・・)の手下なんかに、殺されてなるものか。

 両親を殺したあいつに復讐するまでは、絶対に生き延びてやる。


 歯を食いしばり、地面を蹴って、少年はどこに向かっているかも分からず走る。

 下山、しているはずだ。最初はその方向に向かっていた。あの巨大蜂に追いかけられてからは出鱈目に逃げているから、もう方向は狂っているかもしれないが。

 一刻も早く下山して、騎士団に知らせるのだ。いくら魔女だって、騎士団相手にはひとたまりもないだろう。

 魔女と騎士団がやりあうどさくさに紛れて、復讐を果たすのだ。


 その為にも、早く下山しなければならない。魔女が自分が居ないことを知ったら、間違いなく村の誰か、多分村長が酷い目に遭う。

 少しでも早く騎士団を連れて戻って、あいつから村の皆を救うのだ。

 それなのに、今はどこを走っているかも分からない。分からないが、走るのを止めたら殺される。


 ぶんぶんと煩い羽音はちっとも離れてくれないし、背中に風を感じるたびに心臓が冷たくなって汗だらけなのに凍えそうになる。

 後ろを振り返らないのは、きっともう一度見てしまえばなけなしの勇気が挫けそうだからだ。


 走る。走る。走る。


 どことも知れない中を走っていたら、正面に開けた場所が見えた。

 湖。村からは少し離れていて、あの魔女がくるまではたまに皆で水浴びに来ていた場所。

 知っている景色に少しだけ安堵して、すぐにまた心臓が飛び跳ねた。


 誰か居る。

 水浴びをしていたのだろうか。湖の中で、誰かがこちらを見ていた。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


 だいぶ距離があったが、その悲鳴ははっきりと聞こえた。

 多分、声からして女の人だ。岸に向かって走り出すのと同時に、湖のそばの巨木の陰から誰かが飛び出してきた。

 多分、女の人の連れだろう。


 しまった、と思う。

 走っている方向は、思いっきり彼らに近づく道だ。


 今更方向転換しようにも、足はそう簡単に言うことを聞いてはくれない。それに、追ってきている魔物の羽音が一瞬ブレた。多分、悲鳴に反応したのだと思う。

 このまま方向を変えれば、もしかしたら彼らの方に行くかもしれない。そうすれば自分は助かって、無事下山できるかもしれない。

 彼らは、何が何かも分からぬままこの巨大蜂に襲われるだろうが。



 拳を握りこみ、とにかく足を前に動かした。



 器用に方向転換する余裕は最早ない。うっかり転びでもしたら、それこそいい餌食だ。今はとにかく、一番速度が出せる走り方をするしかない。

 女の人は巨木の裏に逃げ込み、さっき出てきた連れと思しき人はなにやら剣を構えているように見える。


 魔物相手に剣一本で何をするつもりなのか。

 たかだか一人で勝てるほど、魔物は甘くない。以前、村に来た騎士団の人達だって、魔物を倒すには四人がかりでないといけないと言っていた。

 返す返すも惜しまれる。あの時、魔女のことを話せばよかった。

 だが、もし騎士団に話していたら、多分村の人は全員無事ではすまなかっただろう。あのときの魔女は、酷く気が立っていたから。


 事態を理解していないのか、剣を構えた連れの人はじっと動かない。

 覚悟を決めて、腹の底に力を込めた。


「あんたら!! 早く逃げろ!!」


 残りかすみたいな体力を振り絞って叫ぶ。

 これで逃げるはずだ。少なくとも、ヤバイ状況なのは伝わったと思う。連れの人との距離は離れているが、だからこそ後ろの巨大蜂のヤバさだって見れば分かるだろう。

 そう、少年は思っていた。



 連れの男は、剣を構えたままこちらに向かって駆け出してきた。



 頭がおかしいのか。本気で少年はそう思った。

 見て分からないのか。ただの昆虫じゃない、魔物なんだ。それとも、分かっていて突っ込んできているのか。だとしたら、馬鹿を通り越して愚かだ。

 父母が生きていた頃は自分だって散々馬鹿だといわれたが、流石にこちらに突っ込んでくる男ほど馬鹿ではないと思う。


 何をわざわざ死ににきているのか。

 折角人が助けようとしているのに。


 腹立ちが力となって湧き出て、全身に行き渡っていく。どこに残っていたのやら、少年自身さえ不思議になる。爆発的な感情は、確かに力を生むらしい。

 剣を持った男は何やら連れの女の人に叫んでいたが、少年には聞こえてはいなかった。


「おい! 聞いてんのか!! 逃げろって!!」

「いいから走って! 追いつかれないように!」


 叫び返され、思わず面食らう。

 どうやらあの男は狂っているのでもなんでもなく、正気でこちらに向かってきているらしい。

 近づくと分かる。剣を構えているのは、精悍でお人好しそうな顔つきをした青年だ。青年、でいいと思う。少なくとも、村の大人達よりは若いし、兄ちゃんといって良さそうな感じだ。


 もうだめだ。距離が近すぎる。今更反転しても、逃げ切れないだろう。

 だから言ったのに。少年は内心の不満を顔に出しながら、もう知るかといわんばかりに口を閉ざした。無駄な体力は使いたくない。

 優男のなりをして、一体何をするつもりで近づいてきたのか。


 青年が剣を下げて走ってくる。ふと、その柄が目に入った。

 どこかで見たような紋章がある。確か、騎士団の人の鎧に刻まれていたやつ。



 ――もしかして、騎士!?



 驚きの余り、一種足元が留守になってしまった。

 疲労と油断が足をすくい、明らかに姿勢を崩してたたらを踏む。

 まずい。背中の魔物が、こちらを狙っている気がする。

 足を動かそうとするも上手く走れず、変化した羽音が襲ってくる予兆のようで心臓が掴まれ、


 巨大蜂が甲高く耳障りな悲鳴を上げた。


 何が起こったのかわからず、思わず振り返ってしまう。

 怪物が、ナイフに翅を刺し貫かれてもんどりうっていた。

 慌てて視線を前に戻す。

 騎士と思しき青年が、下げ持った剣を握りこんで走ってくる。

 彼の仕業だ。あの青年が、ナイフを投げてくれたのだ。


 足をもたつかせながら青年とすれ違う。横目でちらりとこちらを一瞥し、すぐに魔物に視線を戻し突進した。

 彼の接近に気づいた巨大蜂が、威嚇の唸りをあげる。

 体を捻り切っ先を地面にこすり付けるように滑らせ、青年の剣が力を蓄える。

 ようやっと体勢を立て直した魔物が迎撃しようと針を尖らせ、



「遅い」



 それより先に、青年が一歩を踏み込んだ。

 腰の回転とともに遠心力をつけた剣が振り上げられ、綺麗に伸びた剣先が巨大蜂の腹に吸いこまれていく。

 蓄えられた力が速度と共に解放され、魔物は一刀の下に両断された。

 二つに分かたれた巨大蜂は、力を失い地面へと落下する。

 少年は、ただひたすら呆気に取られて青年と魔物を見比べていた。


 魔物を倒すには四人は要る、と騎士団の人は言っていた。それなのに、目の前の彼はたった一人、どころか一閃で魔物を切り伏せた。

 優男みたいななりと、お人好しそうな顔をしているくせに。

 一体その身体のどこに、そんな力が隠れているのか。


 ふと見れば、魔物の身体の切断面が腐り落ちるように小さな粒へと変化していく。血は一滴も流れていない。自然に存在しない生物の証。

 侵食されるように巨大蜂の死骸は全てが粒となり、黒ずんだ灰のような物体と成り下がる。そして、風に紛れて消えていった。


 生まれてはじめてみる魔物の死に様に、目の前の騎士らしき青年にと、最早何に驚いていいかも分からない。

 思考のまとまらない少年の口をついてでたのは、一番の疑問だった。


「す、すげぇ……! なぁ、あんた……いや、貴方は騎士様ですか!?」


 体が勝手に動いて、騎士らしき青年に迫る。

 青年はやや困惑した顔をして、こちらを頭からつま先まで見回したあとに頷いた。


「えぇ、そうです。王国騎士団所属、リデル・ユースティティアと申します」

「やっぱり! あ、あの、俺、騎士様にお願いがあって、」

「落ち着いて、大丈夫。ちゃんと話は聞きます」


 慌てていたせいで、口が回っていなかった。

 こんなところで騎士に会えるなんて。しかも、魔物を一撃で倒すような凄い人。

 騎士団を連れて戻るまで時間がかかると思っていたが、この人なら何とかしてくれるかもしれない。

 下山するよりずっと早い。この人なら、魔女だって苦戦するはずだ。

 復讐するには、騎士団よりもずっと都合がいい。どさくさに紛れようも、いくらでもあるだろう。


 青年騎士に頷き返し、深呼吸をする。

 何でこんなところにいるかは分からないが、万が一断られでもしたら困る。

 誠心誠意、礼儀正しく接さなければ。


 何とか気持ちを落ち着けると、青年騎士は自分の背後を見ていた。おそらく、あの巨木のところにいる連れの女の人の様子でも見ているのだろう。

 急かしてはいけない。出来る限り機嫌を損ねないようにしないと。


 少年は表情を引き締め、若い騎士を見上げる。

 視線を戻した騎士と目が合い、逃がさないとばかりに真っ直ぐに見つめた。


「あの、俺、ジャンって言います。ここから少し離れた所にある村の生まれです」


 青年騎士は頷いて続きを促してくる。

 次が本題だ。出来るだけわかりやすく、嘘は言わず。

 少年――ジャンは言葉を選んで、口を開いた。



「俺の村は、魔女に支配されています。どうか、魔女をやっつけてください!」



 青年騎士が、ぴたりと動きを止めた。

 無理もない、と思う。魔女なんて、お伽噺の中だけの存在のはずだから。

 でも確かに、村を支配するあいつ(・・・)は魔女だ。

 お伽噺と同じように魔物を使役し、村を監視している。

 誰もあいつに逆らえない。食料も何もかも、あいつが欲しいといったら差し出さなくてはならない。

 村の外に助けを呼びに行くことも出来ない。



 そうしようとして、両親は魔物に殺されたのだ。



 青年騎士は黙り込んで、難しい顔をしている。

 もしかしたら、断られるだろうか。流石に魔女の相手なんてできないと、下山して騎士団に報告することを薦められるだろうか。

 もし、そうだとしたら。


 仕方がない、下山して最初の予定通り騎士団に助けを求めよう。

 どの道、村から出た以上戻る道なんてありはしないのだ。

 この復讐を遂げるまで、後戻りはしないと決めた。


 じっと見つめていると、騎士がこちらを見つめ返してきた。

 少しだけ、奇妙な感覚を受ける。

 その目は、思ったよりずっと弱々しかった。

 魔物を一閃した剣の使い手とは思えないくらい、揺れ動いている。

 まるで、何かに迷うように。


 失敗したかもしれない。案外、臆病な人なのかも。だとしたら、魔女の相手は務まらないだろう。

 如何に剣の腕が良くったって、相手は魔物の一匹や二匹ではないのだ。

 そうジャンが疑いを抱くのに気づいているのか。青年騎士は、山の匂いを味わうように深く呼吸した。


 次に目を合わせた時、ジャンは自分が勘違いをしていたことを知った。

 青年騎士の瞳は、どこも揺れてなどいない。はっきりした意思を宿し、力強さに満ちていた。


「分かりました。もう少し詳しい話を聞かせてもらえますか?」


 優しげな微笑と自信に満ちた声は、ジャンの中の不安を取り除いてくれた。

 大丈夫。あれだけの剣の腕を持っているのだ。間違いなく、なんとかなる。

 そう信じるに足るだけの力強さが、目の前の青年からは感じられた。


「ありがとうございます! 何でも聞いて下さい!」

「えぇ、お願いします。とりあえず、連れと合流しますからついてきてもらっていいですか?」

「はい!」


 ジャンはしっかりと頷いて、青年騎士の斜め後ろにつく。

 良かった。これで、魔女に一矢報いることができる。もう、自分達の村で好き勝手はさせない。

 案外広い騎士の背中を眺めながら、ジャンはこっそりと拳を握りこむ。


 この若い騎士がいれば、魔女だって慌てざるをえないだろう。魔物の一匹や二匹で止められる人間じゃない。そして、そんな人間がいるだなんて思いやしない。

 そこに必ず隙が生まれる。その絶好の機会を、逃してはならない。

 正面からでは勝てない自分が、魔女相手に泡を吹かせる唯一の手段なのだから。


 ふと見ると、騎士は何やら腰の剣を触っていた。

 何かを確かめるように、柄をなぞる。少しだけ厚みのあるその柄は、湖側から差し込む光を反射して、きらりと輝いていた。



 少年が騎士の行為の意味を知るのは、ずっと後の事であった。



  ※                ※               ※


――ここに隠れてなさい、とお母さんは言った。

 お前が持っておきなさい、とお父さんが渡してくれた鍵を握り締めて、息を殺していた。

 身を縮こまらせ、見つからないようにして。


 狭い狭い、自分一人で精一杯の小部屋の中で、外の剣戟の音を聞いていた。

 剣が肉を引き裂く音。聞き覚えのある悲鳴。殺されているのが誰かなんて、分からない方がよかった。


 甲冑が擦れる音。騎士団の音。死神の音。

 口を押さえつけて、声が漏れないように我慢した。

 涙が手の甲を伝って地面に落ちる。その音だけで気づかれそうで、泣き止もうとしたのに無理で、目をぎゅっと瞑った。


 誰か助けて、誰か。

 そう願っても、助けてくれる誰かなんて来るわけもなかった。


 どうか、見つかりませんように。

 仲間が死んでいく中、たったそれだけを祈り続けた。


 多分このとき、一番選択を間違えたのだと思う。

 あの時皆と一緒に死んでいれば、もう少しはマシだったかもしれない。

 一人だけ生き延びるのは、一人だけ死ぬのと大差ないのだと気づいたのは、騎士団が去って遺跡から這いずり出たときだった。


 帰る場所も行く当てもなく、何かをするだけの力もない。

 余りに悲惨な自分の状態に気づいた時には、もう取り返しがつかなくなっていた。

 何も考えられないのに、足は動く。

 何もかもを失ったまま、ただ体が勝手に生き延びようとして。



 遺跡で見つけた鍵が、お父さんとお母さんの形見になってしまった――

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