第六話 「レスタの村・上」
リエスと別れ、ナイトとマギサは森を抜けて村へと辿り着いた。
生まれ育った村とそう変わらない空気に触れ、ナイトが小さく安堵の吐息を漏らす。
ナイト達の村よりやや規模は大きく、発展具合も少し上ぐらいだろう。にも関わらず、村はどこか不穏な雰囲気に包まれていた。
近くの村人に声をかけ、荷車に載っている野盗達を見せる。村人は飛び上がって驚いて、すぐさま村長の所に連れて行かれた。
「おぉ、これは……!」
「とりあえず縄と、あと、どこか閉じ込めておける場所ないですか?」
ナイトは荷車を覗き込んで固まる村長に頼んで、使っていない倉庫に野盗団を縄で縛り付けて放り込む。
鍵をかけて村長の家に戻り、話をする為に中に通してもらった。
村長達の話を聞けば、既に騎士団には連絡済みで数日後には来る予定とのことだ。殆ど予想通りの状況に、やって良かったとナイトは胸を撫で下ろす。
改めて、半年前から旅人や村人を襲っていたのは野盗達であってリエスではないと説明する。実際に野盗を見たからか、村長達も聞く耳を持ってくれた。
「彼女はそんなことをする人じゃありませんよ」
「はぁ、なるほど、そうでしたか……」
ナイトの説得に、村長達は唸るように頷く。
これで一安心と思いきや、村長達は浮かない様子で顔を見合わせていた。不審に思って尋ねてみるもどうにも答えが要領を得ない。
「いや、まぁ、その、騎士団に相談しておりますから……」
歯切れの悪い言い方に、そうですか、とだけナイトは返した。
はぐらかされた気分だが、突っ込んで聞くのも躊躇われる。村にはそれぞれ事情があるというのは、ナイトは良く知っていた。
「この度は、本当にありがとうございました」
話は終わりとばかりに礼を言われ、後ろ髪を引かれながらも村長の家から出る。
すっきりしないままマギサを見下ろせば、いつものように顔色一つ変えずに村長の家を見つめていた。
視線に気づいて顔を上げるマギサに力の抜けた笑いを返し、どうしたものかと頬を掻く。
リエスについての誤解は晴れた、はずだ。だが、何かが頭に引っかかる。なんだかまだ解決していないような、完全に解けてはいないような感覚。
村長達の妙な態度のせいだろうか。なんとなくこちらを見る目も何かを訝しんでいるような気がした。
考え込んでもどうしようもない。鼻から抜けるように溜息を吐いて、一旦この場を離れようと歩き出した時だった。
「お兄さん達、森から来たって?」
声に振り向けば、勝気そうな少年が好奇心を満載した笑顔で二人を見ていた。
年はナイトよりも若く、マギサと同じかやや下くらい。血気盛んな年頃だ。
早足で距離を詰めてくる少年に、ナイトはやや気圧されて瞬きを繰り返す。
「あ、う、うん、そうだよ」
「じゃあ、野盗を捕まえたのってお兄さん達?」
「え、うん。そうだね」
ナイトが頷くと、少年はやっぱりと叫びながらガッツポーズをとった。
少年は困惑するナイトに近づいて、手を取って覗き込んでくる。
「お兄さん達に頼みがあるんだ!」
「え? あ、うん?」
「リエスの為にも、魔物退治をして欲しい!」
「……うん? はい? リエスさんの?」
「そうなんだ! お願い!」
話についていけないまま、少年の真剣な瞳に圧されてナイトはつい頷いてしまった。
やった、と諸手を挙げて喜ぶ少年に、我に返ったナイトが恐る恐る振り向く。
表情一つ変えずに、マギサはナイトの視線を受けて小さく頷いた。安堵の息と共に胸を撫で下ろして、ナイトは喜びを噛み締めている少年に向き直る。
「あの、ごめん、詳しい話を聞かせてもらえないかな?」
「あぁそっか、お兄さん達は知らないか。分かった、ここじゃ何だから場所を変えよう。ついてきて」
軽い足取りで先導する少年の後ろ姿を見ながら、ナイトは歩幅を調整してマギサの隣に並ぶ。
なるべく少年に聞こえないように、小声でマギサに話しかけた。
「えと、ごめんね。リエスさんの為って言われて、なんか断れなくて……」
「構いません。私も、気になります」
「出来る限り、僕一人でなんとかするから。魔物の話聞いたら、色々教えてね。手に余るようだったら、断るから」
「大丈夫です。魔物だったら、何とかなります」
「……ん? そうなの?」
「はい。心配しないで下さい」
はっきりと断言するマギサに、そっか、とナイトは肯く。
マギサは物事を楽観視する方ではない。ここまで言うからには、何かしら確信があるのだろう。
ナイトには良く分からないが、魔物は『魔法』によって生み出されたものだというし、『魔法使い』しか知らない何かがあるのかもしれない。
何はともあれ、詳細は少年の話を聞いてからだ。
基本的に早足な少年の背中を見失わないようにしながら、ナイトとマギサは村の中を歩き通した。
※ ※ ※
案内された場所は、少年の家だった。
少年はレスタと名乗り、居間に通してお茶を配ると、真面目な顔で話し始めた。
事の起こりは半年ほど前。
森に野盗が出始めた時期と殆ど同じ頃に、村近くの岩場で村人が襲われた。
その後も岩場に向かった者は例外なく襲われ、時期が時期だけに森での事件と同じ犯人――つまり、リエスの仕業ではないかという噂がまことしやかに囁かれた。
犯人が分からない不安を紛らわせたかったのもあるのだろうが、乱暴な話だ。
岩場を越えた所には、大きめの川が流れており、魚を獲ったり水を汲んだりしていたのだが、それが全くできなくなった。
ちゃんと水を引いているとはいえ、森での採取ができなくなった事と合わせると、村にとっては死活問題だ。
使いを出し、騎士団に助けを求めるのに悩む暇はなかった。誰もが、早く不安を払拭したかったのだ。
「村の皆はリエスが犯人だと決め付けてて、俺はそれが納得いかなかった」
二人の対面に座って、レスタは机の上で拳を握り締める。
ナイトもマギサも、黙ってレスタの話を聞いていた。
「だから、こっそり岩場に行ったんだ。本当の犯人を確かめる為に」
無茶をするなぁ、とナイトは胸中で呟く。
命の危険があるというのに、よくもまぁやるものだ。
彼にとって、それだけリエスに濡れ衣が着せられたのは許せない事だったのだろうか。
その点に関して言えば、ナイトだって他人のことは言えないのだが。
「そしたらさ、見たんだ」
声をひそめ、レスタはまるで秘密の暗号を伝えるかのように身を乗り出した。
釣られるようにナイトも息を呑んで顔を近づけ、マギサは微動だにしない。
レスタは情感たっぷりに息を漏らし、
「蜘蛛みたいな魔物が、水を飲みにきた猪を喰ってた」
思い出して背筋を震わせるレスタに、ナイトの顔色が少しだけ青くなる。
特徴から考えて、以前マギサに教わったことがあるグラン・スパイダーだろう。
単純に蜘蛛を大きくしたような魔物で、習性も蜘蛛そのままのはずだ。
唾を飲み込んで、ナイトは肝心な事を聞く。
「それ、一匹だけ?」
「あぁ、俺が見たのは一匹だけ」
肯くレスタに、ナイトは少しだけ安堵する。
一匹だけなら、なんとかなるかもしれない。蜘蛛と同じで体はそこまで硬くないから、剣も通る。倒せない相手ではない。
今度こそ、数は増えないで欲しい。
「分かった。僕達で何とかするよ」
「ありがとう! これでリエスの濡れ衣を晴らせる!」
手を掴んで思い切り上下に振るレスタに、ナイトは苦笑を返す。
横目でマギサを盗み見るが、相変わらずの様子で黙ってお茶を飲んでいた。
文句はないってことかな、と解釈してナイトは一人で頷く。
「今日はウチに泊まってくれ! 明日の為に飯をたっぷり食わないとな!」
「あ、あぁ、うん、ありがとう」
レスタが機嫌良く親指を立て、食料の貯蓄を確認する。
勢いに押されっぱなしではあるが、ナイトはそこまで悪い気はしなかった。根が悪い人ではないのは、見ていて分かる。
出されたお茶を飲み干し、借りる部屋に案内された後は、マギサと二人してレスタの話を聞かされる羽目になった。
リエスとは、昔からの馴染みらしい。
レスタの家は時折村にやってくるリエス達と取引する役目だったらしく、幼いリエスとよく森で遊んだりしたそうだ。
岩場やその向こうの川も二人の遊び場で、どちらが先に魚を素手で捕まえられるかなんて競争もしていた。お陰で、リエスは村の誰よりも岩場辺りに詳しい。
大人達もその事は知っていて、だからこそ犯人と思われたようだ。短絡的だとはナイトも思うが、得体の知れない何かがいると思うよりも気持ちは楽だろう。
中々途切れない話に感心しながら聞いていると、気づけば日が暮れてレスタの両親が帰ってきた。
レスタの姿を見るや否や、怒鳴り散らして拳骨を落とす。
呆気にとられる二人にレスタの両親が説明したことには、何でも仕事をほっぽってナイト達のところに来たということだ。
リエスを思えばこその行動ではあるが、仕事を放り出した事には違いない。仕方がないだろと喚くレスタに、ナイトは苦笑した。
まだ父が生きていた頃は、自分もこうだったのだろうか。
きっと、周りには今のレスタみたいに見えていたのだろう。
ほんの数年前のことなのに、何故か遠い昔のように感じる。村を出てから、感傷に浸る事が増えた。何だか少し情けない。
隣のマギサに目を向ければ、眉一つ動かさずレスタと両親のやり取りを見つめていた。
なるべく顔に出さないように感嘆し、見習わなければとナイトは心を引き締める。
そんなことだから気づかないのだ。
マギサの無表情の裏にある、微かな羨望の眼差しに。
彼女とて、まだ年若い少女でしかないということに。
レスタとその家族に歓迎され、ナイトとマギサは久しぶりに大勢で食卓を囲んだ。
村を出て以来の普通の料理は、胸が締め付けられるほど美味しかった。
※ ※ ※
借りた部屋の柔らか過ぎるベッドに寝転がって、ナイトは物思いに耽っていた。
梁の通った天井は実家と良く似ていて、なんとはなしに思い出してしまう。
母は元気だろうか。自分がマギサと逃げた後、騎士団に問い詰められたりしていないだろうか。
それを言うなら、クーアもだ。もう今頃は家の壁だって直ってるだろうが、多分まだ母と一緒に暮らしているだろう。
そういう優しい娘だ。心の中で感謝しておく。本人に言うと、心配かける前にとっととマギサと一緒に帰ってこいとか言うだろうから。
思い出すと、少しだけ元気が出てきた。明日の為にも、落ち込んでいられない。
小さく、ノックの音がした。
「はい、どうぞ」
声をかけると、音を忍ばせるようにしてマギサが入ってきた。
「明日の話をしにきました」
「あ、あぁ、そっか、そうだね」
頭を掻いてベッドから起き上がる。こちらから行こうと思っていたのに、すっかり忘れていた。少しだけ間を置こうと思ったのが間違いだったか。
自分は床に胡坐をかき、マギサはベッドに座るよう薦める。
マギサが躊躇するように一瞬間を置いて座ったのを見てから、ナイトは口を開いた。
「話に出たやつ、やっぱりグラン・スパイダーかな?」
「はい、そう思います」
やっぱりか、と呟く。猪を食べていたというレスタの話からもそうじゃないかと疑っていたが、マギサも同じ意見だった事で確信を持てた。
魔物は、基本的に食事の必要はない。しかし、既存の生物を元とした魔物は、その生物の習性に強く影響される。必要もないのに捕食するのは、その為だ。
以前マギサから教えてもらった話である。外見的特徴からも、『グラン・スパイダー』でほぼ間違いない。
そして、聞いた話の通りなら、自分が勝てるかは五分といったところだ。
眉根を寄せて、ナイトは尋ねる。
「……『魔法』なしで、勝てると思う?」
「その必要はありません」
思わぬ返事に、ナイトが目を丸くする。
マギサはいつもの無表情で、ナイトを見据えてきっぱりと言い切った。
「『魔法』を使えば、魔物を使役できます。だから、勝つ必要はありません」
「……あぁ、そっか」
言われて思い出した。
確か、お伽噺にもあったはずだが、『魔法使い』はかつて魔物を使役していたのだ。
ナイトの好きな物語にも、『魔法使い』が魔物を使役して騎士を苦しめる話があった。
今となってはもう、思い出す事も少なくなった話だ。
マギサが、いつもの調子で魔物の使役について説明する。
「特殊な『魔法』ですから、私が使うには条件も時間もかかります。でも、魔物を安全に対処できます」
「僕は何をすればいい?」
「時間を稼いでください。集中する必要があります」
「分かった。本当に大丈夫?」
ナイトにしてみれば、マギサを心配しての言葉だったのだが、彼女には違う意味に聞こえてしまったようだ。
小さく肯き、どこか寂しげな響きの声で言った。
「魔物は、誰かが使役していると『魔法』をかけても無意味です。でも、もう、今は『魔法使い』は私一人しかいません。だから、大丈夫です」
胸を貫かれたように、ナイトは口を噤んだ。
顔色一つ変えないマギサの表情から、意味や意図を読み取るのは難しい。
けれど、決して簡単に言ったわけじゃない。なんでもないことなんかじゃないんだ。
かける言葉が見つからなくて、そっか、とナイトは肯いた。
「明日の話は、これで問題ありませんか?」
「あぁ、うん、大丈夫」
小首を傾げるマギサに大きく肯いて、ナイトは何を言うべきか頭を悩ませる。
このまま帰してはいけない。何か、何かを言う必要があると思う。
それが何かは、分からなかった。
「それじゃ、お休みなさい」
「あ、うん、お休み」
一礼して立ち上がり、扉に向かうマギサの背中を見やる。間の抜けた返事をしている場合じゃない、早く何か言わなければマギサが行ってしまう。
回らない頭に嫌気が差し、衝動がそのまま口をついて出た。
「あ、あの!」
マギサが振り向く。
次の言葉なんて、考えて出るものじゃなかった。
「僕がいるから! 一人じゃないから!」
何を言っているのだろう、と自分でも思う。
マギサが私一人だと言ったのはそういう意味じゃない。いくら頭が悪くても、ナイトにだってそのくらいは分かる。
それでも、そんな言葉くらいしか今のナイトには言えなかった。
「……ありがとうございます」
蚊の鳴くような声で礼を言って、マギサは部屋から出て行った。
マギサは背中を向けていて、どんな顔をしていたのかナイトには分からない。
呆れられていなければいいな、と思いながら、ナイトは倒れるようにベッドに寝転んだ。
その夜、マギサが中々寝付けなかったことを、ナイトは知らないままでいた。
※ ※ ※
身支度を整え、装備を確認して、ナイトとマギサはレスタの家を出た。
作戦の確認は、朝食の後に済ませてある。要するに野盗団の時と同じ、ナイトが気を引いてマギサが『魔法』を使う。
今回みたいな使い方なら、ナイトもそれほど忌避しない。
大体の出現位置も、レスタの話とマギサの知識から予測がついていた。
ナイトとマギサは頷き合い、一歩踏み出して、
「ちょっと待ったぁ!」
威勢の良い声に立ち止まって振り向けば、レスタが準備万端といった格好で飛び出してきた。
何も言われなくても、見ただけで分かる。ついてくる気だ、確実に。
それでも、一応念の為、ナイトは確認する。
「えっと、何かな?」
「俺も連れて行ってくれ!」
完全に予想通りの答えに、ナイトとマギサは顔を見合わせる。
当たり前の話だが、使役できるからといって危険が全くないわけではない。どんな想定外が起こるかも分からないし、そもそも『魔法』を使うまで戦う必要がある。
マギサも、魔物を使役するのは初めてだ。出来る限り不安要素は排除したい。
小さく首を横に振るマギサに、ナイトも納得したように肯いた。
「ごめん、連れて行けない」
「……やっぱ、ダメか」
「うん。危険だから、僕達に任せておいて」
「……あぁ、分かった」
不承不承レスタが肯くのを見て、ナイトはほっと息を吐く。
もしもの時、レスタを庇って戦える自信はナイトにはなかった。
レスタには悪いが、ここは我慢してもらうしかない。
ごめんね、ともう一度謝って、ナイトはマギサと共に魔物退治へと向かった。
レスタの瞳に燃える不屈の闘志に気付かないまま。
※ ※ ※
ナイトとマギサの背中が見えなくなるまで見送って、レスタは深く呼吸する。
断られるのは半ば分かっていた。それで諦めるつもりは、レスタには毛頭なかったのだ。
部屋に戻って、出来る限り身軽になる。
余計な荷物を持っていたら、音で気付かれかねない上に、もしもの時に邪魔だ。
改めて外に出ると、地元の特権を使って岩場に出る所まで最短ルートを走り抜けた。
近くに身を隠して、息を潜めて二人が来るのをじっと待つ。
しばらくして、ナイトとマギサが現れた。
気付かれないよう、追える限界の距離でついていく。
レスタだって、戦闘に巻き込まれたいわけじゃない。ただ、見届けたいだけなのだ。
森の野盗達を倒したからには、相応以上の実力の持ち主なのだとは思う。マギサという女の子の方は全然強く見えないが、何かしら力があるのだろう。
それは分かっているが、そんな理屈で不安が消えてくれるなら苦労はないのだ。
小柄な女の子であるマギサは言うに及ばず、ナイトという男だって締まりのない顔でどうにも頼り甲斐といったものを感じない。
頼んだ身で口にするのは憚られるが、本当に魔物に勝てるのか心配になる。もしもの時は、身を挺してでも二人を助けなければならない。
勝手に村の問題に巻き込んだのは自分だ。あと数日待てば騎士団が来るのに、リエスへの疑いを先んじて晴らしたくて我侭を言った。
騎士団に任せると、リエスが取調べを受ける可能性がある。彼女の態度次第では、疑われて捕まえられる事もあるかもしれない。
その懸念を払いたくて、後先考えずに頼んでしまった。勿論退治してくれれば嬉しいが、その為に二人の命が失われたんじゃ割に合わない。
足にはちょっと自信がある。気を引いて逃げるくらいなら、できる筈だ。
前だって、気づかれずに逃げられたのだ。一度できたことだ、二度目だってできる。
早まる動悸を抑えるようにゆっくり呼吸しながら、レスタは二人を見失わないように追う。
以前レスタが魔物を見たところまで、もう少し。
覚悟を決めるよう胸元を握り締めながら、どうか心配が杞憂でありますようにと、心の中で祈った。
※ ※ ※
足場が悪いどころではない岩場を歩きながら、ナイトはマギサが転ばぬよう細心の注意を払っていた。
「大丈夫?」
小さく頷くマギサの手を取りながら、神経を集中して気を張り巡らせる。
大体の予想はついているとはいえ、どこから魔物が出てくるかは分からない。周囲を見渡せば、隠れられそうな岩陰があちこちにある。
転んだマギサに気をとられている内に襲い掛かられたら、たまったものではない。
『グラン・スパイダー』は人間より大きいとはいえ、蜘蛛みたいに警戒心が強く、待ち伏せも得意だ。油断していい相手じゃない。
魔物とマギサ、両方に気を払うのは中々精神を磨耗する行為だった。
足元がおろそかになっていたのは、その所為もあったのだと思う。
蜘蛛の習性の一つに、地中に巣を作り、周囲にまばらに放射状の糸を張って獲物が触れるのを察知する、というものがある。
ナイトが足を下ろした時、確かに柔らかい何かを踏んだ気がした。
地面を突き破って、巨大な蜘蛛が飛び掛ってきた。
咄嗟にマギサを突き飛ばし、ナイトは蜘蛛の突進を受けて倒される。噛み付こうと襲い掛かる蜘蛛の頭と顎を掴んで、必死に止めた。
力比べはどう考えても分が悪い。垂れ落ちる消化液に顔を歪ませて、柔らかな腹部を思い切り蹴り上げた。
耳を劈くような悲鳴を上げ、魔物は仰け反るように頭を離す。好機を逃さず、下から持ち上げるように力を込めて蹴り飛ばした。
軽く浮かされ、まるでたたらを踏むように巨大な蜘蛛は下がって距離を取る。その隙に身を起こし剣を抜いて、ナイトは魔物を睨み付けた。
一口に『グラン・スパイダー』といっても色々な種類がいる。マギサからそう聞いていた筈なのに、地中にはいないと決め付けてしまっていた。
巨大な蜘蛛を視界に収めたまま、マギサの様子を確認する。とっくに立ち上がって準備を始めていた。安堵して魔物だけに集中する。
マギサが『魔法』を発動させるまでの間、なんとしても持ち堪えねばならない。
深く息を吸って、ゆっくりと吐く。巨大な蜘蛛は八本の脚を震わせ、槍のような爪を岩場に突き刺しながら間合いを取るように動く。
あの鎌みたいな上顎に噛み付かれれば、まず助からないだろう。脚の爪も、致命傷を与えるには十分な鋭さを持っている。
以前戦ったスライムとは、一撃の重さが違う。頬を伝う冷や汗に、柄を握り締めた。
威嚇の叫びと共に、巨大な蜘蛛が襲い掛かってくる。
マギサから離れるように動いて、魔物の横を駆け抜けざまに脚を斬りつけた。
浅い。
振り払うように浴びせられた爪を受け流し、踏み込もうとしたところに別の脚が振り下ろされた。
後ろに跳んで避けると、巨大な蜘蛛はその八本の脚を駆使して素早くナイトに向き直り、再び突進してくる。
思ったよりも動きが早い。というよりは、こちらが動き難いのだ。
不安定に過ぎる足場は踏ん張りが利かず、体勢を整えるのにも苦労する有様だ。方や、岩すら貫く八本の脚で体勢を安定させ、縦横無尽に迫ってくる。
もう一度倒されて、無事に済む保証はなかった。
突っ込んでくる魔物から目を離さずに、ナイトは腰を落としてタイミングを計る。
巨大な蜘蛛が跳ぶのと同時に、ナイトも足元の岩を蹴って横に跳んだ。
勢いに逆らわず転がって跳ね起き、頭から岩に突っ込んだ魔物に斬りかかる。
確かな手応えを感じ、蜘蛛が先程とは比べ物にならない悲鳴を上げた。
八本の脚を振り回して暴れる魔物から離れ、油断せずに剣を構える。余程痛かったのか、手当たり次第に爪で斬りつけている。
こうなると、もう簡単には近寄れない。だが、時間稼ぎにはもってこいだ。
爪が届かない位置で巨大な蜘蛛を見据えながら、ナイトは時が来るのを待つ。
淡い光が、グラン・スパイダーの体を包むように降り注いだ。
間違いなく、マギサの『魔法』である。
ナイトは肩の力を抜いて、その不可思議な光景を見た。
鱗粉のような光がどこからともなく振り落ちて、グラン・スパイダーに纏わりつく。
一種幻想的な光景に目を奪われ、蜘蛛の魔物は徐々に暴れるのを止め、
その八つの眼が紅く輝き、淡い光は弾け飛ぶように消えた。
耳鳴りがするような叫びに肌が粟立ち、接近する魔物への対応が遅れた。
振り抜かれた脚を辛うじて剣で受けるも、支えきれずに吹き飛ばされる。事態が理解できずに混乱し、焦りが心を支配した。
起き上がる間もなく振り下ろされた爪を紙一重で避け、転がりながら立ち上がれば掬い上げるように別の脚が襲ってくる。
なんとか受け流すも、体勢が立て直せず反撃もできない。呼吸が荒い。焦りが余計に体力を奪っていく。
八本の脚で攻め立てる魔物に、息をつく暇さえない。
一か八かで、受けた爪を全力で弾き返した。
ほんの少しよろめいた隙をついて、脚の根元に斬りかかる。浅くてもいい、傷をつけて脅えさせるのが目的だ。
剣先は蜘蛛の体に届き、目論見通りに怯んでくれた。
思い切り距離を取り、息を整えてマギサの姿を探す。巨大な蜘蛛を視界から外さないようにして。
『魔法』は多分、失敗したのだと思う。何が原因かはわからない。もしかしたら、マギサに何かあったのかもしれない。
マギサは、すぐに見つかった。先程確認した位置から、一歩も動いていない。
胸を撫で下ろそうとして、ナイトは驚きに目を見張る。
今までに見たこともないマギサが、そこに居た。
マギサは、杖を構えたまま、ただ呆然と蜘蛛の魔物を見つめていた。
震える手に力を込めて、無理矢理止める。
何か良くわからないが、マギサの『魔法』が失敗したのは確実で、それに凄くショックを受けているのだと思う。
こうなったら、自分がグラン・スパイダーを倒すしかない。
鋭く長く息を吐いて、覚悟を決める。
向こうは獲物を逃がすつもりなんかないだろう。マギサを守るには、戦うしかない。
舌なめずりでもするように顎を動かす魔物を見ながら、足場を確認して踏みしめる。
「お前の相手は、僕だ」
巨大な蜘蛛の八つの眼が、ナイトの姿を捉えた。
すぐ近くに隠れているレスタの存在に気づく余裕は、誰にもなかった。




