第五十八話 「君と、手を繋いで」
――血と肉の焼ける悪臭が立ち込め、絶叫と呻きが響く里の風景が遠ざかっていく。
瞼の裏にさえ焼きついた血飛沫は、多分もう一生忘れることはできない。
心さえ麻痺して、何かを思う機能が死んでいる。
ただ、お婆ちゃんの腕の中で、その暖かさを離さないようにぎゅっと抱き締めた。
森と里の境界線で、お婆ちゃんが私を下ろす。
剣で引き裂かれたローブを使い込まれた黒いローブに着替えさせ、魔法を習い始めた頃に贈られた樫の杖を無理やり持たせた。
何をしているかなんて丸分かりだ。私を逃がそうとしている。
お婆ちゃんも一緒に逃げてくれるのかと微かな希望に縋りつくも、慈しみに満ちた微笑が全てを物語っていた。
そして、その言葉を確かに聴いた。
「マギサ。諦めないで」
何を言うんだ、と頭のどこかで誰かががなり立てる。
諦めるな、なんてこの状況で口にする言葉じゃない。一体どこを見れば諦めないでいられる要素があるというのか。
右を見ても左を見ても死体だらけで、誰も彼もが地べたに這い蹲る有様を目の当たりにして、どうしてそんなことが言えるのか。
騎士は強くて、死神のようで、抗う術など残されてなどいない。
あるとすれば、魔法だけだ。
けれどそれを使えば、死神を追いやれても化け物に成り下がる。
まして、植えつけられた教育という名の記憶が手を止め、それでも無理に引き出せばあの子のように存在ごと弾け飛ぶ。
泣きながら燃え盛る家を吹き飛ばした、あの子のように。
好きで諦める人間なんか誰もいない。
どうしようもなくて、仕方なく諦めるのだ。
それはお婆ちゃんだって同じなはずなのに。
こんな絶望的な状況で、それでもいつもと同じように優しく微笑んでくれていた。
まるで、諦めを遠ざけるように。
「逃げなさい」
頭と肩に触れた皺くちゃの手はいつものように暖かくて、砕けそうにひび割れた心にじわりと染み込み、
一晩で聞き慣れてしまった肉を切り裂く音と共に、顔に血がかかった。
お婆ちゃんの体がぐらりと揺れ、背後に壮年の騎士の姿が見える。
鬼のような形相に顔を固めて、何も感じないようにしているようだった。
悲鳴すら上げられず、魔力が暴走するように体を駆け巡り、ちらつく里の惨状に必死に外に出ないよう押さえ込んだ。
ここで暴走すれば、あの子と同じ結末を迎えてしまう。
何もかもを放り出したいけれど、それだとお婆ちゃんまで吹き飛んでしまう。
諦めるな。
諦めたら、本当に血も涙もない化け物になってしまう。
里で一人だけでも、お婆ちゃんの味方になるのだ。魔法は怖いけれど、悪いものじゃないと証明するのだ。
そうじゃないと、お婆ちゃんの心までも踏みにじってしまう気がした。
吹き飛ぶ炎の柱を思い出して立ち竦む私に、壮年の騎士が気の弱い人なら射殺せそうな視線を向ける。
もうどうしようもなかった。
諦めたくて諦める人はいない。
どうしようもなくて諦めるのだ。
折れた心が勝手に目蓋を下ろし始め、
「ごめんね」
その時聞こえたお婆ちゃんの声は、涙が滲んでいるようだった。
驚いて見開いた目に、どうしようもないくらい優しい微笑が映る。
どうして、そんなことを言うのだろうか。
どうして、こんなに胸が締め付けられるのだろうか。
苦しみも悲しみも、希望も願いも詰め込んだその声に、心臓が痛くなる。
何を謝っているのか、私には一つも分からない。
言葉の意味を考えられるほどの余裕なんて、毛先一本ほどもなかった。
骨ばった手の馴染んだ感触が、意識ごと心を真っ白に染め上げた。
諦めないで。ごめんね。
お婆ちゃんの残した二つの言葉の意味が分からなくて、記憶の引き出しの奥底に突っ込んで放置していた。
覚えているだけで辛かったのだ。
でも、その言葉は呪いのようにまとわりついて、私の心に楔を打ち込んでいた。
諦めないで。ごめんね。
繰り返し頭の中で響くお婆ちゃんの声が、息も出来ないくらいに胸を圧迫する。
一体何を諦めるなというのか。一体何に対して謝ったのか。
考えるだけで苦しいものを、ずっと抱え続けていられる程私は強くなかった。
それでも、ようやく思い出せた。
逃げ出したあの日に、ようやく戻ることが出来た。
胸の内でくすぶる黒い汚泥の元は、あそこにしかない。
魔法を暴れさせている元凶である私は、あの日から一歩だって進んでいないのだ。
お婆ちゃんの魔法が、もう一度あの日に立たせてくれた。
焼け落ちる里を遠くに見ながら、私は逃げた。
魔法使いは特別に悪い、人殺しの化け物だから。
お伽噺も、炎の中で見た光景も、全てがそれを正しいと言っていたから。
あの日からずっとずっと、私は逃げ続けていた。
世界でたった一人だけでも、お婆ちゃんの味方でいたかった。
魔法使いはもう悪者じゃないんだと、信じてあげたかった。
だって、お婆ちゃんは絶対に悪者なんかじゃないから。
私が何から逃げたのか、今になって遅ればせながら分かった。
お婆ちゃんが、命をかけて願ってくれたのに。
私は、とっくに諦めて、逃げてしまっていたのだ。
ようやく、半年以上も経って、気づくことができた――
※ ※ ※
マギサを中心に巻き起こった風と光は、ナイトの所にまで影響を及ぼした。
魔法でしかあり得ない不可思議な力は、ナイトの体を素通りして騎士達を吹き飛ばす。
立ち上がりかけていた騎士達に抗う術はなく、林の向こう側へと消えていった。
突然の事態に目を瞬かせ、ナイトは背後を振り返る。
一体何が起こったのか。マギサは魔法の制御ができなくなっていたはず、いや、それよりもマギサの身に何か。
多少距離はあるとはいえ、魔力が集まる時のあの産毛が逆立つような感覚もなかった。
何一つ飲み込めないまま振り向いた先には、
夕闇の中に輝く、光と風に包まれたマギサがいた。
一瞬その美しさに目を奪われて、状況を理解しようとマギサの元に向かう。
吹き飛んだ騎士達は、暫くは戻ってくるまい。他所を探していた騎士が気づいたとしても、魔法が発動している間は近寄れないだろう。
近づけば、岩肌に叩き付けられているシャレンが見える。
何でここに、と呆けた後で、事態を理解して臍を噛んだ。
何でも何も、マギサを狙っていたに決まっている。洞窟から逃げた後、どこか近くに潜んでいたのだ。
騎士団を誘き寄せたのは、自分達を始末させる為じゃない。マギサから引き離す為だ。
まんまと嵌められた事に気づいて、奥歯を噛み締める。
やはりシャレンの方が一枚も二枚も上手だ。いつまでも付け狙われていたら、命が幾つあっても足りない。
今後の事を考えると頭が痛くなるが、一旦脇に置いてマギサの方を向く。
空を仰ぐような姿勢で、目はどこか虚ろに揺らいでいる。
下手に触れていいものかと逡巡していると、包んでいた光と風が弾けてマギサの体がぐらりと傾いた。
慌てて支えると、袖を握り返された。
どうやら命に別状はないようで安堵の息を吐く。
魔法の効果も切れたようで、周囲には再び暗闇と静寂が戻ってきていた。
これからどうする。
決まっている、騎士隊が戻ってくる前に逃げるのだ。
肩越しに振り向いてみた林の中は、まだ誰かが近づいてくる気配はなかった。
「マギサ、逃げよう」
小さく声をかけて立ち上がろうとすると、強く袖を引っ張られる。
訝しみながら見下ろせば、マギサが顔を押し付けたまま首を小さく横に振っていた。
どういう意味だろうか。早く逃げなければ追いつかれるというのに。
もう一度口を開こうとして、
「大丈夫です」
囁くような声と共に、産毛が逆立つような感覚がした。
ナイトとマギサの足元に、淡い光が不可思議な文様を形作る。
『魔法』。かつて世界を支配した、絶対にして最強無比の力。
服の袖を掴んでいない方の手で、マギサは見慣れた樫の杖を握り締めていた。
どういうことなんだろうか。魔法は確か、制御できなくて使えなかったはずじゃなかったのか。
それに、今までよりもずっと発動が早い。感覚からして『転移』だとは思うが、これではまるで『陣』を創っているようだ。遺跡で見たものに似ている気もする。
戸惑うナイトを余所に、足元から湧き出る光の粒が二人の体を取り巻いて同じく粒へと変えていく。
どういうことかは分からないが、どうやら制御は出来ているようだ。何だか良く分からないが、『転移』できるならその方がいい。走るよりずっと、追っ手を撒ける。
執拗に顔を上げようとしない事だけが気がかりだが、全てはこの場を切り抜けてからだ。
そう判断し、ナイトは大人しく身を委ねる事にした。
足元からゆっくりと体が光の粒へと変わり、転移陣が輝きを増して、
「待って」
冷たく鋭い声が、マギサの体を震わせる。
ナイトが視線を向けると、ふらつきながらも身を起こす黒衣の暗殺者の姿があった。
色も温度もない特徴的な声音は、しかし気づけば次の瞬間には忘れているくらい印象に残らない。
そのはずだった。
微かに混じる何かの色が、その特徴をかき消していた。
それが何なのか、ナイトには知る由もなかった。
「……王都に、」
まるで躊躇するかのように言葉を切り、マギサを一瞥してナイトと視線を交わす。
もう、その時にはいつもの闇に溶け込む恐るべき暗殺者へと戻っていた。
「貴方達を狙う人物。私の雇い主は、王都にいる」
力の入らぬ両足に無理矢理体を支えさせ、左肩を庇うように立つ。
岩肌に叩きつけられた時に負った傷だろうか。それでも油断せず、ナイトはじっとシャレンを見つめた。
マギサと同じ、夜を閉じ込めたような黒い瞳を。
「追われる生活を変えたいのなら、王都に来なさい。雇い主の正体を教えてあげる。路地裏の乞食に私の名前を出せば、連絡が取れるから」
淀みなく話す暗殺者の真意を図るように、ナイトは注意深く様子を窺う。
一体何のつもりだろうか。雇い主の事を教えるだなんて、そんなことが有り得るのか。
裏の界隈に明るくないので判断がつかないが、普通そういうのは隠し通すものではないだろうか。
訝しむナイトに構わず、シャレンは最後の一言を投げた。
「そこで、決着をつけましょう」
息を呑むナイトに、色も温度もない蛇のような目でシャレンは見つめ返す。
決着をつける、ということは。
勝った負けたなんて話ではなく。
どちらかが死ぬまで、戦う事を意味していた。
見据えるシャレンの前で、ナイトとマギサは光の粒へと姿を変えた。
※ ※ ※
――ずっとずっと、胸の奥に突っかかっていた。
何か大切なものを落としてしまったような感覚。
袋小路を延々とぐるぐる回っているような、自分が何をしているのかまったく分からない感触。
何もかもを突き崩したのは、間違いなくあの一言だ。
――どうして死なないの?
本当に、どうして死なないのだろう。
私が死ねば、何もかもが丸く収まるのに。
お婆ちゃんに助けられた命だから、ペロとエウリュを再会させたいから。理由をどれだけあげつらっても、答えになんかならなかった。
人間じゃない、とエウリュに言われた。
魔法使いだからその通りだと、私は認めた。
だったらもう、大人しく捕まるべきだったのだ。
処刑でもなんでもされて、世の為人の為に死ぬべきだった。
魔法使いは、悪者なのだから。
そんなのは嫌だとナイトが言ってくれて、ようやく思い出した。
祖母の膝の上で聞くお伽噺が大好きだったこと。
楽しい事や、皆の為に使えば、魔法はきっと素敵なものだと信じていたこと。
魔法を完璧に操れるようになれば、悪者じゃないと証明できると思っていたこと。
かつての魔法使いは、確かに沢山悪いことをした。
でも、お婆ちゃんも里の皆も、何も悪いことをしていない。
魔法使いだからって悪者扱いされることに、お婆ちゃんはずっと抵抗し続けていた。
そんなお婆ちゃんが大好きで、だから私がそれを証明しようと思ったのだ。
里で一人くらい、お婆ちゃんの味方がいたっていいはずだから。
焼け落ちる里から逃げ出した夜、その全てに蓋をした。
お婆ちゃんの言うことを信じたかったけれど。
心がばらばらになりそうで、先生達の教えを呑み込んだ。
悪者だから仕方ない、って。そう思えば、悲しみも苦しみも少しは我慢できた。
そうして何度も、仕方ないって心の中で繰り返していたのに。
いつだってナイトが、その『仕方ない』を振り払ってきた。
ナイトに引き摺られると、決まって蓋をしたはずのものが溢れ出すのだ。
ナイトと一緒に旅をして、気がついたら引っ張られて、なんとかなるんじゃないかと思ったりして。
あの頃の思いが蘇っている事にも気づかずに、蓋を挟んで上と下で大喧嘩をしていた。
魔法使いは悪者だ。でも、お婆ちゃんも皆も悪者じゃない。
魔法使いはいないほうがいい。でも、本当は皆と一緒にいたい。
魔法使いは人間じゃない。でも、お婆ちゃんも里の皆も人間だ。
遥か昔の魔法使いが残した手紙には、悔恨と苦悩が綴られていた。孤独と罪の重さに耐えかねるのは、人間だからじゃないだろうか。
だけど、彼らがしたことは許されない事で、もう星が何度巡ったか分からない今になっても傷跡を残している。
旅をして新しい何かに出会う度、自分はどうするべきかずっと考えていた。
魔法をどう扱うべきか、何をするべきか。
迷っている間にも現実は迫って、結局いつもナイトに引っ張ってもらっていた。
そうして人助けを繰り返す内に、昔見た夢に近づいているような気さえしたのだ。
魔法使いだって皆と手を繋いで、めでたしめでたしで終わるお伽噺に。
けれど、結局魔法使いは魔法使いでしかなくて。
騎士団に追われシャレンに狙われ、ナイトはいつだって死ぬ目に遭って。
シャレンの一言で、積み重ねた欺瞞が全部崩れ去った。
本当にナイトが大事なら、何をおいても私は死ぬべきなのだ。
それが、エウリュに言った、泣くより先にやるべきことだ。
そう分かっていて、一向に死のうとしない自分が本当に嫌になった。
ナイトに優しくされるほど苦しくなって、早く死ねと心の中にいる私が叫ぶのだ。
それなのに。
ナイトがあんなことを言うから悪いのだ。
折角、ようやっと口に出来たのに。
そんなのは嫌だと、煩いくらいに叫ぶから。
本当に自分が嫌になるくらい、浅ましいと思う。
それでも、何度考えても、あの質問に対する答えはこれしかないのだ。
――どうして死なないの?
――ナイトが生きているから。
クーアが、リエスが、バールが、エカテーが、キラザが、リーナが、モガが、アドが、ペロが、エウリュが、シャレンが生きているから。
まだ見ぬ手を繋ぎたい人達が、今もどこかで毎日を送っているから。
だから、死ねない。死にたくない。
あの頃夢見たお伽噺を作り上げるまでは、生きていたい。
死ぬ理由は百も二百もあるけれど。
死ねない理由だって、百も二百もあるのだ。
生きている限り、現実は押し寄せてくる。
私が魔法使いであることは変わらないし、魔法使いに対する認識も一朝一夕で変わったりしないだろう。
また私のせいで周囲が巻き込まれて、ナイトが傷つくだろう。
考えるだけで心臓が痛くなるけれど、歯を食いしばって何とかしてみせる。
死んだほうが楽だと思う時もあるかもしれないけれど。
また暗闇に引きずりこまれるような恐怖を味わうかもしれないけれど。
それでも、欲しいものがあるから仕方ないのだ。
悪者じゃない魔法使いのお伽噺を。
それは、きっと、お婆ちゃんだって夢見たもののはずだから。
諦めないで。ごめんね。
本当はお婆ちゃんがどんな意味を込めて言ったのか、知る術はもうない。
けれど、きっとそれは、祈りであり呪詛だ。
希望と期待を、苦難と懊悩を押し付けて逝く言葉。
救われず、報われない道に叩き落すことを知りながら、それでも願わずにはいられなかった人の姿だ。
謝る事なんて何もないのに。
だって、私はもう独りじゃないから。
どんなに苦しい道だって、ナイトが傍に居てくれる。
だから、きっと、絶対に大丈夫だ。
その事を伝えられないのが、少しだけ残念だった――
※ ※ ※
ナイトが意識を取り戻してすぐに感じたのは、不可思議な暖かさと背中から地面にぶつかる感触だった。
衝撃と共に激痛に身構えるも、特に痛みを感じない。
首を傾げてみれば、腹の上に何やら重みを感じる。
ナイトに重なるように、黒くて小さな少女がしがみついていた。
そこで遅ればせながら気づく。この妙な暖かさは、マギサの魔法だ。今までにも何度か覚えがある、傷を癒して貰う時の感覚だ。
それはいいが、この体勢ではどうにも動きがとり辛い。どいてもらうなり何なりしようと思って手を伸ばすと、少女の体が震えていることに気がついた。
罪悪感に胸が痛くなる。
自分を助ける為に、恐怖を我慢して魔法を使ってくれたのだ。
聞きたかった事が全部頭からすっぽ抜けて、どんな言葉をかければいいかという難題に脳が占領された。
どうすればいいのか。またしても出口の見えない迷路に飛び込み、体が硬直する。
それでも安心させるために手ぐらい置くべきかと思案していると、
「ごめんなさい」
急に謝られ、どうしようもないほど混乱した。
一体何を謝っているのか。理由が分からず必死に探すも見つからず、混迷を極めた頭脳は何の考えもない言葉を捻り出す。
「マギサが謝ることなんて、何もないよ」
飛び出した考えなしの発言に、少女が小さく首を横に振るのを胸で感じる。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
このままじゃマギサが自分を責めてしまうかもしれない。そうなる前に早くマギサが何で謝っているか理解して、先回りして慰めて、
そんな器用な真似が出来れば苦労はしていないのだ。
首を絞められてもいないのに金魚のように口をぱくぱくさせるナイトに構わず、マギサは呟くように口にした。
「もう、あんなこと言いません」
あんなこととはどんなことか。
混乱した頭は情報を上手く整理できず、視線をあちらこちらに彷徨わせ、
ようやく、騎士と斬りあっていた時の事だと気づいた。
自分のことなんかどうでもいいと、死ねばいいんだと言っていた、あの事だ。
「うん。そうしてくれると、僕も嬉しい」
心からそう言って、ナイトはマギサの頭に軽く手を置いた。
マギサが自分を追い詰める性格なのは知っていた。知っていて、何も出来なかったのは自分の未熟だ。
だけど、出来ればもう二度と、マギサの口からあんな言葉を聞きたくはなかった。
命も、未来も、幸せも、何もかもを諦めるような事を言って欲しくない。
それは、もしかすると、本人にとっては苦しくて仕方がないことかもしれないけれど。
哀しい想いを抱えたまま、何一つ救われず終わるだなんて、納得できなかった。
他の誰が当然だといっても、そんなのは嫌だ。
この世にはどうしようもないことがあると分かっていて、それでも抗う事くらいは許されると思う。
全て、自分の我侭でしかないとしても。
マギサが笑顔で暮らせる毎日を、諦めたくはなかった。
胸の上で小さくこくりと頷く少女に笑いかけ、ナイトは大の字に寝転がる。
マギサもどうやら立ち直ったみたいだし、少しくらい休んでもバチはあたるまい。
魔法のおかげで傷の痛みは和らいでいるが、何せ疲れた。
昼からずっと連戦で、体力はもう殆ど残っていやしない。
最後の騎士三人との戦闘など、途中から気力だけで戦っていたようなものだ。
都市で十分に休んでいなければ、寝入ってしまっていてもおかしくなかった。
それに、傷が治っても血が戻ってくるわけではない。いや、魔法ならば戻るかもしれないが、少なくとも軽い眩暈と疲労は覚えている。
自分でも不思議なくらい、良く戦えたものだ。
マギサの叫びが聞こえてからは、もう殆ど無我夢中だった気がする。
とにかく腹が立つやら情けないやら、もし自分があの若い騎士くらい強ければ、マギサはあんな事を言わなかったかもしれない。
そう思えば、無性に悔しくなってがむしゃらに剣を振り回した。
それに、途中から明らかに騎士達の動きが鈍くなっていた。
理由は良く分からないが、もしかするとマギサの言葉に驚いていたのかもしれない。
魔法使いがまさか自分から殺してくれなんて言うとは、彼らは思ってもみなかったのだろう。昼に一度、殺されかけていることだし。
何にしろ、あんな大立ち回りは命が幾つあっても足りない。早いとこ何か対策を講じないと、今度は三人以上を相手にする羽目になるかもしれない。
そうなる前に、何か策を立てるか、強くなる必要がある。
今回みたいなことが、これから先もあるかもしれない。騎士団やシャレンの相手をするには、まだまだ全然実力が足りない。
剣技のけの字もないようでは、今度こそ命を落とす。実際今回だって、こうして回復してもらえなければ死んでいただろう。
視線を下ろせば、黒髪の少女のつむじが見える。
視線に気づいて上げた顔は、泣き腫らしたのか目が赤くなっていた。
なんとなく見てはいけないものを見た気になって、苦笑して周囲に視線を逃がす。
背の高い木々と、先端がくるりと丸まった植物の群れ。
どこかの森の中なのは分かるが、見た事もない種類の草木が自生していて、少なくとも覚えのある場所ではないと断言できる。
『転移』で飛んだはずだが、果たして出鱈目な場所に出てしまったのか。
念の為尋ねてみようとして、黒衣の少女が腹の上から降りる感触がした。
「傷は、まだ痛みますか?」
「えっ? あ、うん、いや、大丈夫。もう全然平気」
上体を起こし、顔を合わせて頷いてみせる。
じっと顔を見つめてきたかと思うと、少女は軽く傷口を触った。
本当に痛みはなく、暫く好きにさせていると、納得したように手を離す。
丁度いい機会だと、ナイトは気になっていた事を聞いてみた。
「魔法、使えるようになったんだね」
「はい。もう大丈夫です」
小さく頷く少女に笑いかけ、改めてナイトは周囲を見回す。
自分の身長の五倍はあろうかという背高のっぽの樹木を見上げ、やっぱりどう見ても覚えのない場所だと再確認する。
もう空は夕闇というよりも藍色に染まり始め、月も顔を出しつつあった。
見知らぬ森の中で夜を過ごすのは慣れたといえば慣れたが、やはり余り気持ちのいいものではない。
隣に座る少女に振り向き、駄目元で聞いてみる。
「ねぇマギサ、ここがどこだか分かる?」
「はい」
小さく頷かれ、思っても見なかった返答に驚いて顔が固まる。
黒く小柄な少女は、懐かしそうに周囲を見渡して教えてくれた。
「ここは、私の里近くの森です」
驚きの余り目を剥き、慌てて周囲を見回す。
そう言われてみると、見覚えのない草木はどこか異質なもののようにも見える。
異世界にでも迷い込んだような気分になって、ナイトはあんぐりと口を開けた。
確かに、マギサの里に向かってはいたのだが。
願ってもない事態に、半ば呆気に取られたまま座り込む少女に視線を移す。
果たしてこれは、狙ってのものなのかどうか。
少女は素知らぬ顔で、夜更けには着きます、などとのたまった。
※ ※ ※
騎士隊が洞窟を含めた周辺一帯を捜索し、ようやっと諦めて帰路についた深夜。
潜んでいた木の上から、シャレンは草むらへと飛び降りた。
調子を確かめるように軽く腕を動かし、満足したのか興味を失ったのか周囲を見渡す。
虫と鳥の声が微かに聞こえるのみで、林の中はしんと静まり返っていた。
一言も発さないまま、その辺に投げ捨てていたずた袋を持ち上げて背負う。
誰も聞いていやしないのに、音を殺して歩く。
向かう先は街道、そこから王都に戻る。
餌は十分に撒いた。後は、獲物が食いつくのを待つのみだ。
『陣』でもない『転移』で向かった先など、分かるはずもない。後を追いかけようにも、心当たりを総当りなんていう人手がモノをいうやり方になる。
それならば、網を張って獲物がかかるのを待つのが一番いい。
それ以外の意味は、何もない。
自分に言い聞かせるように、シャレンは声に出さず呟く。
決着など、馬鹿馬鹿しい話だ。まるで騎士か貴族の言い分で、反吐が出る。
それでも、そういえばナイトが乗ってくるだろうと思って口にした。
あの様子なら、成功したと思っていいだろう。雇い主の話も、垂涎ものの餌のはずだ。
このまま取り逃がして失敗するよりずっといい。そう言い訳して、暗殺者として際どい線を歩いている事を見ない振りをした。
確認するように夕闇でのやり取りを思い返し、余計な事まで思い出して歯噛みする。
一体あのナイトとかいう馬鹿は何なのか。
騎士と切り結びながら放たれた叫びが頭の中で勝手に響き、苛立ちの余り足を踏み鳴らす。
嫌だなんだと叫んだ所で、一体何が変わるというのか。
力任せに振り回す剣で、一体何を変えられるつもりなのか。
簡単に罠にかかって、護衛すべき少女を置いていく癖に。
現実に押しつぶされた少女に感情論を振りかざして、それで何が為せるのか。
敵を殺さず、あまつさえ助けたりする底抜けに間抜けな様で、何を掴もうというのか。
食いしばった歯が音を立て、耳に届いて自分がどれほど冷静さを欠いていたかを知る。
何を一々気を荒立てているのか。馬鹿馬鹿しい。
命を捨てた死人が、標的の動向に左右されてどうするのか。
この前から少し、調子がおかしい。今回だって、何故背後に立ってすぐ殺さなかったのか。
一々構えなど取る必要などなかったはずだ。
これでは、まるで、
殺す事を躊躇しているような、
そんな事あるはずがない。
念を入れて確実に殺すために行った事だ。躊躇などでは断じてない。
頭の悪い思考を追い出し、今後の対策を練る。
今回もまた、魔法にやられた。魔道具で切り裂けなかったのも問題だが、それよりも深刻なのは一度使うとまともに動けなくなることだ。
もっと訓練しなければ、魔法使いの少女を殺すことなど不可能だろう。
王都へ戻るのは、その為でもある。
遺跡なら、魔法と変わらぬ力が宿っているはずだ。陣でも他の魔道具でもいい。とにかく、魔法を切り裂く事に慣れる必要がある。
遺跡を切り刻んででも、魔道具を完璧に使いこなす。
標的を、確実に殺す為に。
夜に溶け込むように、黒衣の暗殺者は姿を消した。
自身の変調を、見てみぬ振りをして。
完璧な暗殺者として育てられた女は、数ヶ月ぶりの帰路へと着いた――




