第五十三話 「四つ巴・12」
――屋敷で迎える二度目の夕方。
ティータイムを終えたマギサとシャレンは、またも遊戯室に篭っていた。
一日二日で上達するはずもなく、マギサは相変わらずろくに玉も撞けない。対戦など以ての外で、暇潰し以外に意味もない行為を繰り返す。
シャレンはダーツが自重で落ちるまで一本に繋げながら、現状を整理していた。
二日かけた甲斐あって、衛兵の配置は大体覚えた。朝昼夜と大きく配置は変わらず、部屋前と階段のみ。数を置かないところは慎重派らしい。
周囲に異常と思われるのを防ぐ為、内通者を紛れ込ませない為。限られた人員でやろうという発想は悪くない。
ただ、数が少ないというのは弱点だ。無力化する公算は既に立っていた。
あとは、ここの組織の出方次第。ナイトが来た事を伝えにきたということは、おそらく組んでいるのだろう。面倒なことにならなければいいが。
十本程繋がったところでダーツが落ち、拾ってケースに戻す。
今日はまだ組織関係の連絡はない。夜までに何もなければ、自力脱出も検討した方がいいだろう。何かに頼るのは危険性が高い。
さっきから聞こえるやる気のない玉がぶつかる音に目を向ければ、マギサが虚ろな表情で構えも何もなくキューで撞いていた。
コン、と音を立てて手玉が転がり、クッションに跳ね返って止まる。コン、とまた打って、カラーボールにぶつかって、カン、と鳴る。
心ここにあらずといった様子でただ棒を突くマギサから目を逸らし、カードを取って手先の訓練を始めた。
身体を思い通りに動かすのは、基本中の基本だ。鈍らないよう訓練することが重要と、養父が体に叩き込んでくれた。
ワンハンドシャッフルをしながら、マギサを盗み見る。
昨日からずっとあの調子だ。やはり、屋敷に来た日の夜の質問が効いているのだろう。
何を思い悩んでいるかは知らないし、興味もない。思い煩った果てに死んでくれるのなら、その方がこちらとしては有り難い。
ただ、それをやるならこの都市から逃げた後にして欲しい。取引は守らねばならない。自殺から守るなんて真似は御免だった。
今の所、自分から死ぬ度胸もなさそうだが。
反対の手でもワンハンドシャッフルをし、指先にまで意識を行き届かせる。
遊戯室に来たのはマギサの気を紛らわせて面倒を少なくする為でもあったのだが、効果は薄いと言わざるを得ない。ついでみたいなものだからどうでもいいが。
視線に気づいたのが、マギサがシャレンを見た。
どうしたものか迷って、片手に握ったデックを思い切りしならせて弾き、弧を描きながら反対の手に渡すというフラリッシュをやってみせる。
殆ど表情も変わらないが、少しだけ驚いたように小さく口を開けた。
それだけ。
それ以上は、何もない。
視線を落とし、また玉を撞く作業に戻る。
何を期待していたわけでもなく、カードをケースに戻す。暇潰しも、二日連続となると難しくなってきた。
ルーレットを思い通りに止めるのも、所詮力加減と玉を投げる角度の問題だ。お遊びに過ぎず、何の訓練にもならない。
壁に寄って何もせずにいると、マギサが撞く玉の音だけが響く。
遊戯室にそぐわぬ陰鬱とした空気が流れ、時間がゆっくりと飲まれていく。
ノックの音が聞こえるまで、遊戯室の中は外界と切り離されていた。
マギサはキューで撞くのを止め、ドアを見やる。
既にシャレンが出向いていて、いつもの童顔執事と話していた。
相変わらず何を話しているのかは聞こえない。以前よりも随分と長く話し込み、執事は一礼して出て行く。
戻ってきたシャレンは、いつもと変わりない抑揚のない声で言った。
「パスタソースはトマトとクリーム、どっちがいい?」
「……どちらでも」
「そう」
話しこんだ内容とは夕食の献立に関してだったのか。
些か拍子抜けしていると、
「明日の夜、助けがくるそうよ。彼と一緒に」
思わずキューを握り締めた。
ナイトが来る。会うのは何日振りだろうか。どんな顔をすればいいのだろう。
どの面を下げて、彼の前に立てばいい?
きっと彼は、いつもの笑顔を向けてくれる。良かったと、心から言ってくれる。
良かったと、自分自身が思えていないのに。
震えるマギサの肩を見下ろし、シャレンはさっきの話を思い返す。
トゥレの話は別にしなくてもいいだろう。重要ではない。
それにしても、この都市にいてヘクドの衛兵をやっているとは思わなかった。お誂え向きだ。トライゾンでの情報は全て渡したから、問題なく引き込めるだろう。
養父の弟子が上手くやってくれれば、明日までこの子を死なせなければそれで終わり。また元の追う者追われる者に戻る。
心のどこかでほっとしている自分がいることに気づき、捻って捨てた。
最近、どうにも理解のできない精神活動が多い。養父の教えにそんなものはない。暗殺者である以上、自分は死人だ。
命などとうに捨てているのに。
どうして、心臓が動いているのだろう。
マギサから視線を切り、キューを取って手玉を置く。
角度を計算し、力を込めて玉を撞いた。
狙い通りにカラーボールを弾き、クッションにあたって⑨のボールをポケットに、
⑨ごと手玉が落ちた。
一体自分は何をしているのか。
キューを戻し、ボールをそのままにしてマギサに声をかけた。
「部屋に戻りましょう。もうすぐ夕食だそうよ」
「……はい」
同じくキューを置き、マギサがシャレンの後ろをついて歩く。
その姿は傍から見たら本当に姉妹のようで、纏う空気までそっくりだった。
真っ黒な髪に良く似合う、闇に溶け込むような気配をしていた。
※ ※ ※
夜のコンフザオを、ナイトは一人歩いていた。
何も好き好んで出歩いているわけではない。ヴォラールから直々に、迎えにいくように言われたのだ。
その相手が本当に待ち合わせ場所に来ているかどうか、ナイトは直前まで疑っていた。
ナイトの知るその人物は、他人に言われたからとほいほい出向くような性格をしていないからである。
また何か騙されているんじゃないかと憂鬱になりながら中央広場に出ると、人影も疎らな中に件の人物がいた。
噴水の縁に腰を下ろし、月に照らされて不機嫌そうな顔で周囲を眺めている。
本当にいた。呆気にとられながら、心の中でヴォラール達に謝罪する。すみません、嘘かもしれないって思ってました。
気を取り直して近づけば、向こうもナイトに気づいたようで顔を上げて睨み付けてくる。この人相の悪さは本人だ、間違いない。
とりあえず笑って片手を上げ、話すのに不便のない距離まで近づいた。
「こんばんは。あの、迎えにきました」
「お前が来るとはな。昼間のガキはどうした?」
「いや、その、僕が迎えに行ったほうが都合がいいらしくて。今から彼らがいる場所に案内しますから」
「あぁ……成る程ね。念の入ったこった。やっぱあのクソガキ組織の人間かよクソッタレ」
「? 知り合いだったんですか?」
「ちげーよバカ。組織だよ組織。あの女と同じクソ共だ」
「あー……やっぱり、彼女の仲間だったんですね」
吐き捨てるように言うトゥレに、ナイトは困ったように笑う。
分かっていた事だが、知っている人の口から聞くと重みが違う。彼はトライゾンでシャレンと組んでいたし、疑う余地はないだろう。
篭手の事を知っていたことから間違いないと思っていたが、裏づけまで取れてしまった。どうしたものかと思うが、今は考えないことにする。
彼らが何者であれ、二人を助けるのにはその力が必要なのだ。
「とりあえず、行きましょうか」
「ったく、面倒くせぇな」
ナイトに促され、トゥレは重い腰を上げた。
隣に並ぶナイトの顔を見ながら、彼はさっきの会話を頭の中で反芻させる。
どうやら、この察しの悪い男は『組織』について何も知らないようだ。ということは、殆ど都合よく使われていると言っていい。
こいつと話しても何にもならない。連れて行かれた先にいるクソガキ側の人間に聞いた方が早いだろう。
それにしても、何でこいつは体よく使われているのだろうか。あの女が絡んでいることは間違いないが、命を狙ってきた相手の為にやってるんだとすれば馬鹿を通り越して愚かだ。
そう考えた所で、トゥレはあの真っ黒な少女を一度も見かけていないことに気づく。
あれほど目の前の青年剣士に懐いていたというのに。
気になって、ナイトに尋ねてみた。
「そういや、あのマギサとかってガキはどした?」
「あ……それは、その……」
言いよどみ、歩く速度も少し落ちる。
余りにわかりやすい反応に、トゥレは嘆息して顔を逸らした。
何か事情があって、一緒にいないというところか。今回の件に絡んでいるとすれば、こいつが大人しく連中に従っている理由にもなる。
興味は満たされた。話を切り上げようとして、
ナイトが深く息を吸い込んだ。
「それは、これから案内する先で説明します。トゥレさんを呼んだのは、その為です」
大きくはないがはっきりした声で言って、ナイトがトゥレの顔を見つめる。
なるべく目を合わせないようにしながら、彼は横目で見返した。
あの時と同じ目だ。倒れたシャレンを助けてくれと言ってきた、あの時と。
自分の思いを信じて疑っていない目。我が儘の極地みたいな目をして、真っ直ぐに見据えてくる。心まで覗き込むように。
反吐が出るほど嫌いな目だ。あのマギサとかいうガキがしていた、自分の事を放り投げて考えてそうな目の次くらいに嫌な気分になる。
そういう目をする奴ほど、人を脅しつけてくるのだ。
例えば、こんなふうに。
「二人を助ける為に、どうしてもトゥレさんの力が必要なんです。今はそうとしか言えませんが、それだけは信じて下さい」
トゥレの前に回り、ナイトは深々と頭を下げた。
そんなことをされても、トゥレだって困るのだ。
深々と嘆息し、ナイトの脇を通り過ぎる。数歩歩いたところで立ち止まり、肩越しに振り返った。
「おい案内役。いつまでやってんだ、早く先行け」
「あ、はい、すみませんっ」
小走りに駆け寄って、ナイトが少し先を歩き出す。
斜め前に見える背中を一瞥し、トゥレはズボンに手を突っ込んだ。
「お前らの事情なんて知らねぇよ。俺は脅されたから来ただけだ」
「……はい」
神妙なナイトの声に、トゥレの顔が歪む。
そんな声出すくらいなら、端っから人を脅してんじゃねぇ。
文句を押し殺し、溜め息に変えて吐き出した。
「平穏無事に済むなら誰がてめぇらなんかに手ぇ貸すか。けど、お前はともかく連中はそんな甘ちゃんじゃねぇ。だから手ぇ貸す羽目にゃなるだろ」
「あ……! ありがとうございます!」
嬉しそうに振り向いて頭を下げるナイトに、トゥレの顔が益々歪む。
こいつは人の話を聞いていたのだろうか。脅されたからやるだけっつってんのに。
苛立ち混じりに蹴りをいれ、唾を吐き捨てた。
「前向け前。勘違いすんな、これは取引だ。相応の利益がこっちにもなきゃやらねぇぞ」
「は、はい! 何とかします!」
「お前にゃ何も期待してねぇよ。クソガキ連中とナシつけてぇからさっさと歩け」
「分かりました……」
分かりやすく凹むナイトにもう一発蹴りを入れて、髪を撫で付ける。
一体何をやっているんだか。自分のお人好しっぷりに嫌気が差す。
何もかも捨てて逃げるという選択肢もないわけではない。ただ、それはどうにも気に食わなかった。
何かしら面倒なことが起こってるんだろうし、それに興味もない。ナイトの言う二人とはマギサとシャレンのことだろう。揃って何かに巻き込まれ、手が必要ということか。
丁度むしゃくしゃしてたんだ。一暴れして街を去るのも悪くない。
鎖自慢の犬っころに頭を下げるのもいい加減我慢の限界だ。どうしても力が必要、ということは、多分今の立場を利用したいということだろう。
昼前に屋敷に来たことといい、多分間違いない。人を顎でこき使いやがったクソ貴族に一泡吹かせるというのは、中々気分が良さそうだ。
疫病神の黒尽くめ女も、たまには役に立つ。組織の連中から報酬をふんだくれば、結果的に自分に不利益は何もなくなる。
考えてみれば、随分いい条件だ。目の前の馬鹿も腕は立つから、恩を売っておいて損はあるまい。
計算を終えたトゥレがニヤけた笑みを浮かべたところで、ナイトが立ち止まった。
「ここです……トゥレさん?」
「ん? あぁいや何でもない。力を貸してやるんだ、感謝しろよ?」
「はい、勿論。あの、中にどうぞ」
「おぅ」
怪訝な顔をするナイトに恩着せがましく言って、示された家の中に入っていく。
先導されるのに従って奥へ進み階段を上がり、一つの部屋の前で止まる。
トゥレがついてきているのを確認して、ナイトがノックをした。
「ナイトです。トゥレさんをお連れしました」
「入ってくれ」
低く響く声に、トゥレは思わず身構える。
その様子に苦笑し、ナイトが扉を開けて中に入った。
後に続けば、中には広いテーブルと四方を囲うソファ。申し訳程度の棚やクローゼットがあるが、何にも使われていないのが丸分かりである。
そして、奥側のソファの後ろに昼前に見たクソガキと、泰然として座る明らかにヤバイ空気を纏う無骨な男。
男はソファから立ち上がると、トゥレに向かって一礼した。
「この度はお呼び立てに応じて頂き、ありがとうございます」
「そりゃくるでしょ。こんなん渡されたらね」
手前側のソファに近づき、テーブルに向かって手紙を放り投げる。
今日の夕方、トゥレに届けられたものだ。内容は至ってシンプル。彼女についてと、待ち合わせの大体の時刻を伝えるものだけ。
他の誰が見たって、恋文か逢引の誘いかとしか思わない。意味が通じるのは、共通の認識を持つ者同士の間だけだ。
シャレンについてとトライゾンでの一件。この二つを知る者には、全く違う内容に読める。
そして、この部屋の中にいる全員がその二つを知る者だった。
「不躾なやり方で申し訳なく思っています。ですが、誰にも気づかれぬよう連絡を取るにはそれしかありませんでした」
「御託はいい。さっさと本題に入ろうぜ」
不遜な態度でソファに座るトゥレに、ライが軽く殺気を漏らす。
目線だけで弟子をたしなめ、男――ヴォラールが静かに座り直した。
「申し遅れました、私ヴォラールと申します。では、取引の説明をさせて頂きます」
「俺の自己紹介はいらねぇかい?」
「不要です。必要な事は存じ上げておりますので」
見下すトゥレと上目遣いのヴォラールの視線がぶつかり合う。
背筋を這う寒気を無視しながら、トゥレは視線をはずさないように目に力を込めた。
別に本当に余裕があってこんな行動をとっているのではない。むしろ、怖気づかない為にやっているというのが本音だ。
目の前の鷹みたいな目をした男は、シャレンとは似て非なる恐怖を纏っていた。冷たく無慈悲な、獣を前にした時のようなシャレンに感じるものとは少し違う。トゥレにとってはよく見知った、人間らしい損得が生み出す悪意だ。
敵ならば害し、味方ならば遇する。強ければ警戒し、弱ければ虐げる。単純かつどうしようもない基準。
トゥレとてその基準で生きてきた以上、相手のやり口も分からないわけではない。ここで下だと見做されれば、自分の価値は買い叩かれて報酬が目減りする。そもそもが、初めて会った奴に舐められるのは好きじゃない。
しかし、目の前の男と自分では実力差がありすぎる。軽く威圧されただけで冷や汗が止まらない。シャレンと同じで、こいつは簡単に人を殺す。
だとしても、好きに生きてやるのだ。
「俺の力が必要だってな。で、そっちは何を出してくれる?」
「報酬に関しては、計画についてお話してからにしましょう。そちらのほうが、対価として適当かどうか判断しやすいと思いますので」
「上等だ。聞かせてくれよ、計画とやらを」
「承知しました」
頷き、ヴォラールが説明を始める。
後ろで見ながら冷や冷やしていたナイトは、ほっと胸を撫で下ろした。
ライはずっと不愉快そうだし、トゥレは喧嘩腰だし、一体いつ乱闘が始まるのかと内心ビクついていたのだ。
もしもの時は止めに入らなきゃいけない。できれば仲間割れなんてしたくなかったから、何も起きずに済んでナイトは心底安心した。
話は順調に進み、一部紛糾するところがあったもののトゥレは計画に参加することになった。
紛糾したのは、計画が実行された後の話である。力のある貴族の屋敷に盗みに入り痕跡を残すのだ、指名手配される可能性は高い。
冗談じゃない、とトゥレは喚いたが、提示された報酬を前に考え込んだ末に納得した。
指名手配されれば、当然余所の都市や町でも仕事につけるとは限らない。例え捕まらなくとも、いつ見つかるかという恐怖に怯える羽目になる。
それを払拭する為の報酬を、ヴォラールが提示したのだ。
これで、最後のピースであったもう一人の犯人が埋まった。ヴォラール達の計画は、万端の準備を整えて当日を迎えることになる。
当日は、それぞれ夜まで最後の調整をすることになった。ヴォラールは普段の仕事と計画の最終調整、トゥレは計画に従った下準備に、ライも最後の詰めとして街中の情報を漁る。
やることがないのはナイトだけで、ライに教えてもらった空き地で鍛錬でもしていることにした。再戦したがるライに、計画に支障がない範囲にしろとヴォラールが忠告する。
実行は明日。
ようやくマギサに会える。数日も離れるなんて旅に出てから一度もなく、懐かしさにも近い感覚がナイトの胸に去来した。
会ったら何を言うべきか、今からあれこれと考えてしまう。そんな余裕あるわけもないから、都市から逃げ切った後に色々話すことになるだろうけれど。
騎士団に追っ手をかけられる可能性もなくはないが、その可能性は低いだろうとヴォラールは言った。
面倒な立場の、しかも大したこともしてない犯罪者だ。そこまで人員に余裕もないだろう、というのが彼らの予想だった。
確かに、とナイトも納得する。魔法使いであることが知られていれば話は別だが、どうもそんな様子もないようだし、心配するだけ損だろう。
とにかく、今はコンフザオから逃げ出すことに集中するべきだ。
しっかり体を休めて準備して、本番でドジを踏むことがないようにしなくては。
計画も詰め終わり、その場は解散する。ナイトは今日も部屋を借りて泊まることにした。
こんな奇妙な縁の掛け合わせで助けられたと知ったら、マギサはどんな顔をするだろう。呆れるだろうか、それともいつものように、そうですか、とだけ言うのだろうか。
驚いてくれるといいな、なんて思いながらナイトは眠りについた。
トゥレに提示された報酬は、トライゾンでの件を口外しないこと。ナイトから供出された分も含めた、半年は楽に暮らせるだけの現金。
そして、王都に居るナルという『まとめ役』への紹介状だった。
※ ※ ※
ナイト達による計画当日の朝。
ヘクドは領主に呼びつけられ、館の執務室に居た。
「のぅ、ヘクド。そろそろお前の屋敷に行きたいのだが……」
「なりません。今ひと時の辛抱でございます、閣下」
何度繰り返したかもしれないやり取りを、今日もまた口にする。
二人を屋敷に引き取ってから、パラヴォイはことあるごとにヘクドの屋敷出向こうとしていた。
この色ボケ領主は、今が一番大事な時だということを理解していない。パラヴォイの口添えでヘクドが二人を引き取ったことは周知の事実だ。トロイの了承まで得た以上、誰に文句を言われる筋合いもない。
だが、それはあくまで留置させる場所が変わっただけのこと。正式な沙汰が下るまでは、彼女たちは容疑者のままである。
そんな状況で領主が直接会いに行ったらどうなるか。彼が好色であることはコンフザオ住民全てが知り及ぶところであり、シャレンと名乗る娘が美女であることは報告を受けた議会の面々の知る所である。
色艶に目が眩んで不当な判断をした、といわれたら元の木阿弥なのだ。
娘達は騎士団に戻され、折角あれやこれやと工作をして傾いた事実上無罪の方向性が見直されてしまう。
そうなったが最後、ヘクドとパラヴォイの立場は苦しい状況に立たされ、二人の内どちらかが鷲鼻の親類でないと言おうものなら更に追い詰められる。
言い訳を駆使して逃げられなくもないが、甘言を弄したとしてトロイが責め立ててくることは間違いない。
第一、この色ボケに渡すつもりなどヘクドには最初からないのだ。出来ればさっさと始末して何事もなかったことにしたい。
上手いことそうすることができないから、現状があるのだが。
返す返すも、あのシャレンという娘が組織の人間でさえなければ。今頃二人分の死体を片付けさせて、こんな馬鹿なやり取りをせずに済んだのに。
内心を押し殺し真顔を貫くヘクドに、パラヴォイは仏頂面で返した。
「昨日からずっとそれではないか。一目見るだけでも叶わんか?」
「屋敷においでになること自体、総隊長殿に付け入る隙を与えることになります」
「全く、これでは何の為にお前に引き取らせたか分からんではないか」
一切返答を変えない鷲鼻の側近に焦れて、好色領主が不愉快そうに嘆息する。
言われることは分からないでもない。しかし、そこをどうにかするのがお前ではなかったのか。パラヴォイの胸中は、そんな言葉で占められていた。
そもそもが、トロイにまで反抗してヘクドに肩入れしたのはあのシャレンという娘の為だ。一目見て気に入った。
美しい立ち姿に、綺麗な曲線を描くくびれた腰。一本に編まれた髪は闇を塗り固めたようで、神秘的なものを感じる。
黒い瞳は黒曜石と見紛うほどで、バルコニーからは距離があったにも関わらず目が吸い寄せられてしまった。
全体的に細い印象を受けるのに服の裾から覗く脚は肉つきもよく、胸などは囲っている女達と比べても遜色ない。
間違いなく、一等級の抱き心地を誇る女だ。冷静で動じぬ面構えも実にいい、あの娘が乱れる様を是が非でも見てみたい。
頬を赤らめたりもするのだろうか。快楽に涙を流すだろうか。想像するだけで、悦楽に浸ることができる。
獄舎で見て以来、パラヴォイは暇があればシャレンの事を思い出しては想像を膨らませていた。
最初に見た印象は妄想により肥大化し、まさに恋焦がれるようにさえなっていく。そんなことは決してないのだが、漆黒の乙女が自分を見つめる目は情熱的であった、なんて書き換えさえ行われていた。
漆黒の乙女。妄想と執着を繰り返した果てに好色領主がシャレンに贈った敬称である。
闇に見初められた娘は、きっとこれまで散々苦労してきたに違いない。数知れぬ男に言い寄られ、断ったら乱暴され。自分は我慢しても妹にまで毒牙が及びそうになって逃げて、食い扶持を稼ぐ為に遺跡に入ったのを見つかったのだ。嗚呼、漆黒の祝福を受けて生まれたばかりに天運までも見放した。
適当なストーリーを頭の中ででっちあげ、我が救わねばならぬ、と気炎を吐いて鼻息を荒くする。何不自由ない暮らしを保証しよう。勿論妹も一緒にだ。
きっとそう言えば、自ら身を寄せてくるに違いない。懐広い領主たる自分に感銘を受け、閉ざした心を開いて愛を育むのだ。
会えない時間が想いを募らせるというが、ここまでくればいっそ見事でさえある。
勿論こんなこと、他の誰にも言えはしない。イイ男は軽々しく人の事情を話さないものだ。
なればこそ、早く漆黒の乙女を安心させてやる必要があった。
「ヘクドよ。どうにかならんか?」
「……手が全くない、というわけでもございません」
「ほう?」
興味深げに身を乗り出すパラヴォイに、ヘクドは眉を顰める。
本来なら、もう少し時間をかけたいところなのだ。
トロイは頑強に抵抗してくるし、実際どうにもできない現状で沙汰が決まるのが早かろうが遅かろうが大して違いはない。
実質無罪を勝ち取る必要はあるが、多少時間はかけてもいい。そう思っていたのだが、色ボケ領主に下手なことをされても困る。
いきなり屋敷に押しかける、なんて真似をされでもしたら全てが台無しだ。この様子だと、これ以上焦らすと本当にそういうことをしかねない。
待たせるにしたって、進展を見込ませてやる必要があるだろう。
考えていた案を、止むを得ず口にした。
「賛同してくれている皆様と、未だどちらにも決めかねている方々を招いて晩餐会を開くのです。閣下直々のお声かけとあれば、皆喜んで参じることでしょう。より交流を深め、益々のコンフザオ発展の為に労を労うことも領主の大事な役目かと」
要は癒着であり、抱き込み工作である。
晩餐会に参加するだけで、それはもう意思表示をしたと同じことだ。領主直々の招きを断る人間など騎士団を除けばいるはずもなく、むしろゴマを擦る機会を得たと喜んで飛びつくだろう。
正直、これもトロイに付け入る隙を多少は与えてしまうのだが、まだ誤魔化しが利く。呼んだ理由など明言さえしなければ、どうとでもなるものだ。
表向きに通る言い訳など、いつものように準備してやればいい。
いい加減この色ボケ領主にも仕事をしてもらおうではないか。
「勿論、今日の議会で決まってしまえばそれはそれで。賛同してくれた皆様への慰労として行われれば宜しい。今後とも、閣下と民の為に良く働いてくれることでしょう」
「ほほぅ……うむ、それはいいな! 早速準備させよう!」
「では、本日の議会が始まる前にお呼びする方々への招待状を書いてしまいましょう。私もお手伝いします」
「頼むぞ。今日は忙しくなるな」
喜び勇むパラヴォイに、ヘクドは内心で溜め息を吐いた。
今日は屋敷に帰れそうにもない。晩餐会の後は残って酒を飲む連中に付き合わなければならないし、館に泊まることになりそうだ。
なるべく屋敷を留守にはしたくなかったのだが、こうなっては仕方がないだろう。
それに、晩餐会は自分にも利がある。今回だけではない、今後とも勢力を増すために取り込める奴らは取り込んだほうがいい。
トロイとの戦いが激化することも見越して、準備はしておくべきだ。
羽ペンを走らせる領主を横目に、鷲鼻は招待する人間に目星をつける。
それにしても、あのシャレンという娘への執着が凄い。何がそこまで惹きつけるのか分からないが、もしもの時の言い訳は考えておくべきだろう。
上手いこと始末をつけたところで、臍を曲げられても困る。
このままでは、こちらを糾弾しにかかるかもしれない。トロイと組まれたりしたら厄介だ。
何とかして、責任を逃れる術を用意しなくては、
あれやこれやと考えながら、鷲鼻貴族は好色領主に招待する議員の名前を書かせていく。
別に本文は使用人に書かせてもいいのだが、やはり署名の筆跡と同じだと強制力が違う。
確実に成功させる為、他に特に役に立たない上司をこき使うことにした。
ヴォラール達のことなど、何も知らぬまま。
その日、主人が帰ってこない事を知った屋敷には、弛緩した空気が流れていた――




