第五十二話 「四つ巴・11」
――ナイトがコンフザオに到着した夜。
騎士団宿舎の総隊長室にて、トロイ・エーアリヒが書類を前に目元を押さえて深く息を吐いていた。
議会での戦いは、分かっていた事だが不利に傾いている。遺跡への侵入者とはいえ、相手が女ということ、特に不審な点も見られないことから、なし崩しの流れが生まれていた。
勿論、領主とヘクドが組んでいることも大きな要因だ。
これ以上の捜査も刑罰も必要ないと主張する鷲鼻に、好色一代男が賛同すれば文句を言う議員など彼くらいしかいない。
誰も面倒など御免なのだ。平和を謳歌し、楽に生きたいのである。飯が不味くなるような話は、さっさと片付けるに限る。
ヘクドだけならトロイの顔色だって窺わねばならないが、パラヴォイまで肩入れするのならもうその必要もない。
軽々に判断できない高度に政治的かつ繊細な問題は、領主の沙汰に任せるのが筋というもの。社会的な言い訳ならお手の物だ。
反論したくとも、総隊長殿の手持ちにはそれを破壊できるだけの武器がない。印象論と事実を用いて結論を引き伸ばすのが精一杯だった。
こんな撤退戦をどれだけ続けても意味なんてない。そんなことくらい、彼にだって良く分かっていた。だからといって、一体何をどうしろと言うのか。
不審な点がないなど、貴族連中の目は節穴かと思う。あの女は全身不審だらけの上、少女に至ってはあからさまに隠し事をしている。
上げられた書類しか見ないからそんな考えになるのだ。現場を見ろと言いたいが、あの調子では見たって同じことだろう。
問題はそこではない。ヘクドとパラヴォイのコンビの方だ。
魂胆など見え見えだが、それを糾弾したところで流す術くらい持っているだろう。逆に、揚げ足を取られてこっちが追い込まれかねない。
手回しも素早いようで、議員達を説得しようとしてもなんのかんのと避けられた。まだ完全に押し切られていないのは、騎士団と古い付き合いのある貴族達が踏ん張ってくれているおかげだ。
心の中で感謝しながら、トロイは目元から離した手を書類に伸ばす。
議会の全てがあの鷲鼻に掌握されているわけではない。ヘクドを嫌う議員も当然いるし、彼を快く思ってくれる議員もいる。
それでも、騎士団総隊長と同じような危機感を持っている人間はいなかった。
長く続いた平穏は、心にまで贅肉をつける。
そうでないのは、贅肉がつくことを許されなかった人々だけだ。
書類の殆どは各騎士からの報告書で、今日も都市は平和であることが綴られていた。
休暇申請書に目が留まり、任務予定表を取り出して日程調整をかける。
治安を守る重要な役割を担う性格上、騎士団は滅多な人間を入れられない。選抜試験に合格し、かつ身元が保証された人物しか入隊できないことになっている。
その分給金はいいが、慢性的な人手不足だけはどうにもならない。騎士達に休みを取らせるのも一苦労なら、隊長格から上は半日休みもあれば奇跡といった具合だ。
自由を保障する存在が最も自由でないというのは、実に皮肉の効いた話である。
とはいえ、特にトロイに不満はなかった。仕事のない日など何をしたらいいのか分からない。逆に体が鈍りそうで困る。
そう話すと、部下達はともかく貴族議員達はこぞって苦笑いを浮かべるものだが。
彼にとってその反応は実に隔意を感じて不満であったのだが、そういえば一人だけはっきりと同意してくれた騎士がいたのを思い出す。
リデル。リデル・ユースティティア。
騎士団の秘蔵っ子。心技体揃った天才。史上最年少にして最適格の騎士。
王都にある本部所属だが、今は確か特殊な任務について出払っているらしい。
なんだったか。そう、『魔法使い』の捜索と拿捕だ。
お伽噺の中の存在だったはずの魔法使いが実在したというのも驚きだが、本人が希望してその任務についたというのも信じ難かった。
次期団長と目されていたはずなのに、そんな左遷のような任務を望むとは。これで本部からは一歩引いた存在となってしまい、彼を推す声も弱くなってしまう。もっと手柄になる任務を請け負うとばかり思っていたのだが。
聞く所によると、その魔法使いは少女だという。たかが少女一人に割いていい戦力ではないと思うが、確か何とかいう貴族が煩いのだと聞いたこともある。王都は王都で、面倒なことがあるのだろう。
コンフザオだってこれだけ厄介なのだ。王都はその比ではないというのは、突飛な想像というわけではあるまい。
思い出しついでに、鍵つきの引き出しから各地の総隊長にだけ送られた資料を取り出す。
魔法使いの特徴を書いたものだ。送られた初日に読んで、それっきりだった覚えがある。
改めて読むと、どうやら魔法使いは連れが一人いるらしい。ふと頭を件の女二人が過ぎったが、書いてあったのは青年の男剣士。どう間違っても、あのシャレンというのは男でも剣士でもない。
変な勘違いをしたと切り捨てて、続きを読む。
背は低く、長い黒髪をしていて、黒いローブを――
――ドアがノックされ、資料を引き出しに突っ込んで鍵をかけた。
魔法使いに関する情報は、統制がかけられている。
その存在を明らかにすることは情勢不安を誘うことになるからだ。
騎士団内部にしても同じことで、半年ほど前に行われた掃討作戦で魔法使いは全て死んだことになっている。
真実を知るのは一部の団員のみ。逃げた魔法使いが実在することが明らかになってからは、更に厳しく絞られていた。
情報管理は徹底しなければ、どこから漏れるか分からない。ただでさえ毎日忙しい団員達に心労をかけたくないというのも、トロイの本音ではあった。
鍵を懐にいれて、何食わぬ顔で机の上の予定表を手に取る。
「入れ」
「失礼します」
入ってきたのは、獄舎を担当させていた部下の騎士だった。
手には今日分の報告書。門番や巡回と違い、獄舎は報告内容が多い。何せ犯罪者達を閉じ込めているのだから当然だが、だから報告書が出来るのも一番遅くなる。
各所の話をまとめた獄舎の書類は、毎日三枚は堅い。今日もいつもどおり三枚束ねた報告書を机の上に置かれた。
「今日分、お願いします」
「ご苦労。あぁそうだ、お前次の休みいつがいい?」
手の中の予定表を見せると、まだ若い部類の部下は神妙な顔で悩みだす。
彼女の一人でも作りたい年頃だろうに、忙殺してしまって悪いとは思っているのだ。
「適当にお願いします。特に希望はないです」
「そうか? 彼女とか、そういう都合もあるだろうに」
「いませんよ、彼女なんて。そんな余裕ないです」
苦笑する部下に、トロイが申し訳なさそうに笑い返す。
「すまんな。もう少し時間を作ってやりたいんだが」
「気にしないでください。流石に総隊長ほどは働けませんが、まだ若いんで」
「人を何だと思ってるんだ」
「総隊長くらいですよ、休みなく働いて元気なのは」
からかうように笑う部下に、口元を歪めて鼻を鳴らした。
「そうでもないぞ。リデルという奴がいてな、若いのに休むということを知らん」
「あぁ、聞いたことあります。本部の天才騎士ですよね。そんな人と比べないで下さいよ」
「なら、身の程を弁えてしっかり休むことだな」
「ご命令とあれば」
冗談交じりに一礼する部下に笑いかけ、予定表に目を落とす。
退室しようと扉の取っ手に手をかけたところで、
「あ、そういえば。報告書にも一応書いてるんですけど」
「何だ?」
振り向いた部下に気づいて顔を上げ、先を促す。
部下は眉根を寄せて言うべきか悩む素振りをして、
「昼前くらいですかね。例の二人の友人を名乗る青年が来ました」
「……ほぅ」
目を細め、トロイは部下の話に耳を傾ける。
が、部下の方は困ったように嘆息し、
「ところがですね。何も知らなかったんです。先輩が色々聞いたんですが、これが全く。嘘をついている様子もなくて、多分冷やかしか何かだと思います」
「なんだそれは」
「俺にも良く分かりません。美人だとか噂になってますし、一度見てみたかったんじゃないですか? 帯剣はしてましたが田舎者っぽかったですし、野次馬の類ですよ」
「成る程な。分かった、ご苦労」
「いえ。一応あの二人に関することだったので、念の為」
「助かる。今後も何かあれば報告してくれ」
「分かりました」
今度こそ一礼し、部下は部屋から出ていった。
一人になった部屋で、予定表を置いて報告書を手に取る。
帯剣した青年。背の低い黒髪の少女、検めた荷物にあった黒いローブ。
考えすぎだ、と首を振った。
少し神経質になりすぎている。何でもかんでも繋げて考えるのは、それはそれで真理を見失う。疑いすぎは足元をおろそかにするものだ。
青年は何も知らなかった。資料にあったのは長髪だが、こちらの少女は編み込まれていた。荷物にローブはあったが、少女のものとは限らない。
断定するには及ばない。もう少し情報があれば考える余地もあるが、何よりもあのシャレンという女の存在。資料には、あんな女のことは書いていなかった。
もう一度確認しようかとも思うが、先に報告書を読んで予定表を作り直して、議会での対策を練る必要がある。普段の仕事をおろそかにするわけにもいかない。
考えることもやることも多くて、体が二つくらい欲しくなる。
嘆息して、総隊長はとにかく目の前の仕事を片付けることに専念した。
そうして忙殺されている内に、鍵付の引き出しを開けようとしたことなど忘れてしまっていた。
九死に一生を得たことを、ナイトもマギサも知らずにいた。
※ ※ ※
翌日。
窓から差し込む陽光に半強制的に覚醒させられたナイトは、ブランケットを押し退けて大きな欠伸をかます。
眠たげな目を擦りながら、まだぼんやりした頭で場所を確認するように辺りを見回した。
家具も何もない、生活感の欠片もない部屋。隣に置いた荷物と、枕代わりのクッション。
そうだ。昨日、あのまま泊めてもらったんだった。
ゆっくりと記憶が整理されて、思い出していく。
テロル……ではなく、ライという名の青年と一緒に、ヴォラールと名乗る男から『計画』について話された。
計画の内容は、言ってしまえば単純だ。組織と屋敷の主だけが知っている隠し通路を使って潜入し、二人を助けて都市から脱出する。
問題なのは、それがヴォラール達の仕業だとバレては困るというところだ。
屋敷の主はヴォラール達の客で、出来れば関係悪化は避けたいらしい。今後の仕事に支障が出ると説明されれば、ナイトに何を言うことも出来なかった。
痕跡を全く残さなければ、まず間違いなく彼らが疑われるという。それを避ける為には、多少なりとヴォラール達ではないという痕跡を残す必要があった。
勿論、それならばとナイトが立候補したが、それにも問題がある。屋敷の内部構造を知らぬものがそんなに手際よく逃げ出せるはずがない、という当然の疑問だ。
完全に誤魔化すには、屋敷の内部を知る人間を犯人にするしかない。ナイトにそんな心当たりはなく、ヴォラールはいざとなれば何とかすると言って話を流した。
この計画において、ナイトの役割は主にシャレンの振りである。
これは冗談でもなんでもなく、ちゃんとした計画の一部だ。
逃げる際にまず、シャレンとマギサで二手に別れる。それも当然で、ヴォラール達にしてみればマギサを助ける義理などない。それでもマギサを助けるのは、囮になってもらう為だ。
痕跡を残す側にマギサとナイトを置き、痕跡を残さず去る側にシャレンを置く。それぞれの引率は残す側はヴォラール、残さない側はライが行う。
マギサとナイトに顔ごとすっぽり覆うフード付きのローブを被せ、二人が逃げ出したと錯覚させる。その後で、悠々とシャレンは街の外に出る、という算段だった。
屋敷の抜け道を知っていたり、痕跡を残さないのが当たり前みたいに話していたり、一体何者なんだと思う気持ちがナイトに芽生えなかったわけではない。
果てには真っ先に疑われると予想していたり、犯罪行為をしようとしているにも拘らず顔色一つ変えなかったり、実は本当に盗賊ではないかと疑ったりもした。
それだと、貴族である屋敷の主がお客って、だいぶ色々危ない臭いがする。
一度話の最中に藪をつついてしまったが、見事に無視された。
怪しいし、気にはなる。シャレンの仲間ということは、まず真っ当ではない。部屋に入ったときに感じた雰囲気からも、それは明らかだ。
だが、現状自分に二人を助ける力はなく、彼らにはある。
それに、真っ当でないと言えば自分たちだってそうだ。別に人殺しをしようだとか、盗みを働こうというわけではない。ただ、マギサとシャレンを助けるだけだ。
ある意味、盗みに入るのではあるのだが。人攫いとも言う。
細かいところを詰め合わせたりしている内に深夜になり、今更宿を見つけるのも何だということで部屋を借りたのだった。
今日は下見の日。実行日は明日だ。
それまでにもう一人の犯人役が見つかればいいなと思うが、ナイトがそんなことを思い悩んでもどうにもならない。
軽く首を回して、鍛錬をしようと剣を掴んでドアを開けたところでライと目が合った。
「あ、おはようございます」
「よぉ、おはようさん」
頭を下げるナイトに、ライが左右非対称の笑みを浮かべて手を上げる。
一階に下りるところだったのか、手すりの前で足を止めていた。
「良く眠れたかよ?」
「えぇ、やっぱり屋内で寝るといいですね」
「そりゃ何より。今日は俺と行動してもらうから、宜しくな」
「宜しくお願いします。あの、ヴォラールさんは?」
「ヴォルさんは仕事。あの人は忙しいから、こっちにばっか構ってらんないんだ」
「はぁ、そうなんですか」
「そうなんですよ」
意地悪そうな笑みを浮かべるライに、ナイトは苦笑を返す。
もしかして自分は嫌われているのだろうか、と思う。昨夜もろくに話さなかったし、当たり前みたいに騙されたし。なんとなくそんな気がする。
特に嫌われることをした覚えもないのだが、考えすぎだろうか。でも、ヴォラールと話しているときは言葉に棘がなかったはず。
直接聞いてみようかとも思うが、そんな度胸があるわけもなく、愛想笑いで誤魔化して一緒に下りた。
表に出ようと足を向けると、乱雑に呼び止められる。
「おい、どこ行くんだ?」
「あ、いえ、ちょっと外で鍛錬しようかと」
「はぁ? 鍛錬?」
「はい。ここ三日くらいやってなかったので……」
蹄の跡を追ってからこっち、起きて寝るまでの間殆ど走り通しだったのだ。
鍛錬などしてる暇もなく、おかげで体が鈍っている気がする。計画に従うしかない今、何かあった時の為に勘を取り戻したいと思うのはナイトにしてみれば当然だった。
ライは渋い顔をしたかと思うと、悪戯っぽく目を輝かせ、
「なら、俺が相手してやるよ。いい場所知ってんだ」
「はぁ……あの、いいんですか?」
ナイトの複雑そうな表情をどう解釈したのか、小生意気さを漲らせた若造が鼻を鳴らす。
「いいも何も、街中で剣なんか振り回したら騎士団が飛んでくんぞ。あんたの田舎じゃどうか知らねぇが、目立つ行動は避けてくれよ」
「すみません、ありがとうございます」
頭を下げるナイトに、ライが肩を竦めて先導した。
言われてみればその通りで、王都にいた頃はろくに鍛錬ができなかったような覚えがある。なるべく人目につかないところ、というのが都市には滅多にない。
郊外近くまで出て、変な人達に絡まれたこともあった。今思えば、あの人達はライ達の同類だったのだろう。当時は叩きのめして騎士団に報告していた。それが益々増長を生んで、試験の失敗に繋がったのだが。
裏に小さな空き地くらいあるだろうと思っていたのだが、流石は『小さな王都』だ。整理された街並みにはそんなものないらしい。
あっさりと納得して、ナイトは後ろをついていく。つい昨日騙されたばかりだというのに、嘘かもと疑いもしない。学習能力のない男である。
人と鍛錬をするのは、シャレンとやって以来だ。もうそろそろ一月になるだろうか。随分と前の事のように思える。
マギサもいないし、怪我だけはさせないようにしないと。そんなことを思いながら歩くナイトに、目の前の若者の考えが読めるはずもない。
師匠に妙に高く評価されている青年のことが弟子は気に食わない、なんてことは夢にも思っていなかった。
二人は雑踏に紛れ、郊外に向かって進んだ。
※ ※ ※
コンフザオにあって、廃棄されたような区画。
都市計画にはつきものの、整備する金もなくて放置された家や土地が密集し、路上生活者が蔓延する場所。
光溢れる大動脈の裏、澱み溜まる汚れの温床。
都市の中でも外縁部に位置する貧民窟近くの空き地で、ナイトとライは向かい合っていた。
元は何か家でも建っていたのか、痕跡のようなものが地面から顔を出している。やや困惑するナイトとは裏腹に、ライは楽しそうに短剣を取り出した。
「ここなら騎士団も来ねぇ。遠慮はいらねぇぜ」
「良く知ってますね、こんな場所……」
「いいから、やんのか、やんねぇのか?」
「あ、や、やりますやります」
相棒のなまくらを引き抜いて構え、神経を集中させる。
呼応するように、貧民窟で生まれ育った若造が腰を落として両刃の短剣を逆手に構えた。
大事なのは手首の固定、と師匠から教えられたことを頭の中で繰り返す。
長剣と違って隠し持てる短剣は、街中で仕事をする上で重要な武器だ。これを使いこなせるかどうかで仕事の範囲も変わってくる。
徒手空拳と組み合わせて使い、急所を確実に狙う。鎧にだって隙間がある。そこを狙って刺し込むのが基本の戦い方だ。
斬る長剣とは違う。リーチの差は、間合いの差。得意とする戦闘範囲の差だ。
懐にもぐれば、長いだけの剣など何の役にも立たない。
思い切り地面を蹴って、一気に間合いを詰めた。
反応して振り下ろされた剣を避け、咄嗟に踏み込まれた足と一緒に薙ぎ払われる切っ先を上半身を反らして空振りさせる。
思った通り、動きが鈍い。背ばかり高くてもトロくちゃお話にならない。
反動をつけて前のめりに上体を倒し、殴るような挙動で斬りつける。挨拶代わりの牽制は、予想通りかわされた。
ここから距離を離されてはいけない。逆袈裟に切り上げてくるのを受け流し、軸足で回って蹴りを入れる。
肘で迎撃され、痺れる痛みを我慢して更に一歩踏み込む。距離をとろうとしてももう遅い、柄に掌を添えて致命傷にならない脇腹にでも刺し込もうと突き出し、
振り下ろされた長剣の柄に叩き落された。
前傾姿勢で力を込めていたせいで体勢が揺らぐ。短剣が掠るのもお構いなしに膝が腹を直撃し、息が詰まって無防備になった一瞬に胸倉を掴まれ放り投げられた。
膂力の差が圧倒的過ぎる。勝ったと思った瞬間、逆転されていた。
短剣を取り落としたことに気づく前に、顔の横に剣が刺さった。
「ありがとうございました」
「……うす」
笑顔で見下ろしてくるナイトに、ライは仏頂面で答える。
勝負はあった。完敗だ。油断した隙をものの見事に突かれた。
別に戦い方が不味かったわけではない。自分が弱かっただけだし、そもそも鍛錬でやる戦い方ではなかっただけだ。
人を殺す為のやり方で鍛錬するなら、いっそ本当に殺す気でやればよかったのだ。
最後の最後で致命傷を避けようとした甘さが反撃を許した。師から教わったことは何も間違っていない、間違っていたのは自分の方だ。
剣を引き抜いて、一人何やらぶんぶん振り回す惚けた兄ちゃんを見やる。
強いのは間違いない。最後の連撃の速さを考えると、初太刀は傷つけないようにとでも思っていたのだろう。
互いに油断が相手の優位を許したというわけだ。
地面に寝転んでいるのも飽きて上体を起こす。背中と腹が痛くて反射的に声が漏れた。
何にしろ、負けたのは事実だ。師匠が評価するのも分からないと言えなくなった。こいつなら、いざという時でも何とかなるだろう。
納得いかない気持ちを燃やして煙に変え、息と一緒に吐き出す。貧民窟では、このやり方が上手い奴だけが生き残る。
胡坐をかいて頬杖を突けば、飽きもせずにナイトは一人で鍛錬を続けていた。
「兄さん! いつまでやるんすか!?」
「終わったら戻りますから、先に戻ってていいですよ」
「アホ! 道分かんねぇっしょ!」
「あ」
そういえばそうだ、という顔をして、すみませんもう少し待っててください、と頭を下げて鍛錬に戻る。
呆れて溜め息をつき、こんなんに俺は負けたのか、と我が身を思い返す。
やっぱり悔しいものは悔しい。いくら戦闘専門じゃないからって、こんな虚仮にされたまんま終われない。
明日の決行まではまだ時間がある。下見が終わったらもう一度手合わせしてもらおうと腹に決めて、ナイトの鍛錬が終わるまでじっと待つことにした。
ライの言葉遣いが変わっているのにナイトが気づいたのは、朝食を摂っている最中だった。
※ ※ ※
その日、トゥレは門番として仕事をしていた。
新米である彼に任せられる配置は、大して誰がやっても変わらないようなものばかりである。
当然の話で、屋敷内や夜番などは信頼がおける者を置くのが定石。身元を確認したとはいえ、トライゾンの自警団など半分以上ゴロツキと変わらないのだ。
勿論、トゥレとてその程度のことは承知の上である。むしろ、楽で良いとすら思っていた。貴族の顔色を窺ってあれやこれや気を揉むのは性分ではない。
理不尽に死ぬその時まで好きなように生きる。それが彼の人生哲学であった。
では今の仕事を好きでしているかというと、そこは世の中の常というやつで。どう思っていようとも、生きてる間だって理不尽は襲い掛かってくるのだ。
例えば、今日のように。
休みはいつか、と聞いただけだ。すると上司は、新人のくせに根性が足りん、などと意味の分からないことを言って当分の間休みなしにしやがった。
衣食住を握られている身で強く抗議することもできず、文句を押し殺して溜め息に変えた。人手不足とは聞いていたが、一体何でこんなザマになったのか。
話の分かる先輩もいるにはいるが、上役の兵長はトゥレが苦手な類のクソ野郎であった。他人の飼い犬という立場のくせに、偉くなったと勘違いして飼い犬の中で優劣をつけようとする奴隷の鎖自慢野郎。
愛だのなんだのとご大層な言い訳を並べているが、要は誰かに寄りかからなきゃ生きていけない分際で他人の上を取りたがる屑である。
貴族の飼い犬にはぴったりかもしれないが、そんなのと同類になるのは御免だった。
かといって、他に実入りがいい仕事も特にない。人よりいい暮らしがしたいだけなのに、世間の風は厳しい。
散々不幸な目にあったのだから、楽に稼げるくらいの幸福は訪れてもいいはずだ。
溜め息を吐けば、隣の同僚が眉を顰めて何か言いたげな視線を送ってくる。今日は厄日だ。真面目くんと同じ勤務番なんて。
そんな風に恨み言ばかりだから、運気が下がっていくのだ。
田舎者宜しく屋敷を見上げながら歩いてきた男と、ばったり目が合ってしまった。
見覚えのある顔に、トゥレの顔から血の気が引いた。
「トゥレさんじゃないですか!」
「……ど、どなたさまで……?」
「僕です、ナイトですよ!」
「……あぁ……」
精一杯の知らん振りも、天然としか思えない馬鹿の前には役に立たず深く嘆息する。
黒い疫病神ではないだけマシだが、こいつも大概だ。
面倒事を持ち込んでくる厄介者であることには違いない。
隣の真面目くんがあからさまに迷惑そうにこっちを睨んでいた。
「あれ、何でこんな所に? 自警団の用ですか?」
「いや、まぁ、色々あってな」
「え? この人、トライゾン自警団の人っすか?」
「うん、そうなんだ」
仕事の邪魔だという雰囲気を醸しているのに、驚くナイトには通じていない。それだけでも面倒なのに、一緒にいた小生意気そうなガキが首を突っ込んできた。
目つきからしてクソガキなのが分かる。息をするように嘘を吐くタイプだ。
目元を歪めるトゥレに、ライは性根の捻くれた笑みを浮かべる。
「へぇ。元自警団員ってのは本当だったんすね」
「……おい、それをどこで聞いた?」
「俺、ここの兵長とお友達なんすよ。兄さんとはどんなご関係で?」
「こいつの親父のお袋の弟の友達の親友が俺の叔父なんだよ」
見事な口からでまかせの応酬である。
互いに本当の事など一つも言っていない。
相手を値踏みするような視線をかわし、間合いをはかるように睨み合う。
一方ナイトはといえば、二人の様子に気づくどころではなかった。
何せ、トライゾンで別れたはずの人とコンフザオで再会したのだ。疑問は尽きることはなく、なんとなく偶然ですまないものを感じてしまう。
聞きたい事はそれこそ山ほどあるが、何から聞いたものか。それより、今は仕事中ではなかろうか。長いこと話し込むと流石に邪魔ではないか。
マギサとシャレンを助けるのに、手を貸してもらえないだろうか。
どんなつもりであっても、トライゾンで助けくれたのは事実だ。相談してみたくはあるが、往来で話す内容でもない。それに、先に気になることがあった。
「あの、さっきの叔父とかなんとかって本当ですか?」
「嘘に決まってんだろ」
にべもなく返され、ナイトは困り眉で口を尖らせる。
なんでこう、ライといいトゥレといい益体もない嘘を吐くのだろうか。親戚なのだろうかと本気で驚いたのに。
するとこれもどうせ嘘だろう、と思いながらライに尋ねた。
「元自警団員って、本当?」
「ホントっすよ。何でも、団長が夜逃げしたらしくて。共犯者じゃないかって疑われて追放処分くらったらしいっす」
今度こそ本当に驚いて、目を丸くしながらトゥレに振り向く。
小さく舌打ちをし、嫌そうに顔を歪めていた。
本当なのか。それに、団長が夜逃げって。一瞬最悪の想像が頭を過ぎって、思わず口にしてしまう。
「あの、それってもしかしてシャレ――」
「あー! いい迷惑だぜほんと! 責任感ない上司だと困るなぁ!」
殆どぶつかるようにしてナイトの肩に腕を回し、がっちり口を塞ぐ。
もごもごとナイトは口を動かすも、明瞭な言葉にならない。その様子にピンときたライが、二人の胸倉を掴んで軽く引き寄せた。
「シャレンさんのこと、知ってるんすね?」
小さく呟く声に、ナイトもトゥレも押し黙る。
沈黙は何より雄弁な返答だった。
獲物を見つけた獣の笑みを浮かべ、小生意気なクソガキは不良衛兵の目を覗き込む。
急所を掴まれた事を理解し、トゥレが息を呑んだ。
ナイトがついていけない内に話は終わり、ライは手を離す。
肩を組んだ腕を外し、トゥレは門番の仕事に戻る。
何がなんだか分からないナイトは二人を交互に見つめ、立ち竦んだ。
「何してるんすか、兄さん。お仕事の邪魔っすよ」
「あ、は、はい。それじゃ、トゥレさん。また……」
軽く手を振って、ナイトがライの後ろを追いかける。
本人にそのつもりは全くないだろうが、また、という言葉が実にトゥレには笑えなかった。
間違いなく、またの機会はすぐ訪れるだろうからだ。
昼は外に食いに出ようと思っていたが、やっぱり賄いにしよう。何が変わるとも思えないが、せめてもの抵抗だ。もしそれで何事もなければ、両手を挙げて喜べばいい。
ナイトは社交辞令のつもりだったろうが、全く状況を理解していないと言わざるを得ない。相変わらず腕っ節だけの男だ。
そして確実にあの男からトライゾンでの話がクソガキに漏れ、何らかのアプローチがくる。予想するまでもない、当然の流れ。
馬鹿でかい溜め息を吐き、今度こそ隣の真面目くんに小言を言われてしまった。
真後ろの屋敷にいる黒い暗殺者は、もしかしたら本当に彼にとっての疫病神かもしれなかった。




