第五十一話 「四つ巴・10」
――遊戯室には、マギサが今まで見たことがないようなものが並んでいた。
ビリヤード台にルーレット、カード用のテーブルにダーツボード。何をどうすればいいのかも分からず、ただ目の前の光景に圧倒された。
シャレンは慣れた仕草でキューを持ち、ルーレットを回してカードを捌き、ダーツを投げる。一通り感触を確かめると、マギサに向かって振り向く。
「何がしたい?」
「えっ……その、良く、分かりません……」
「そう」
抑揚もなく言うと、キューを持ってきて手渡し、カラーボールをセットしてラックを外す。
シャレンがこんな真似をしているのは、別に本当にマギサと遊ぶ為ではない。
三階にいる衛兵の配置を知りたかったからだ。
部屋の前に二人、階段の踊り場に一人。部屋から遊戯室までの間では全貌を把握することはできなかったが、おそらく他の階段にも最低一人は配置されている。
部屋前の衛兵はついてくるかと思ったが、動かなかった。荷物ごと出れば話は別だろうが、間違いなく先にどうしたのかと聞かれるだろう。
マギサを連れているのは、別行動をすると思われたら面倒だからだ。それに、部屋前の衛兵がついてくるかどうかの確認もしたかった。それ以上の意味はない。
一先ず、童顔執事から何らかの反応があるまでは下手に動かないほうがいいだろう。余計な警戒をさせて人数を増やされたら厄介だ。
つまり、今は何もすることがない。
出来た暇を潰すのに利用するくらい、取引の内だろう。
手玉をマギサに渡し、シャレンは自分の手玉をテーブルに置いた。
「玉を撞いて、数字順にポケットに入れて⑨を入れた人の勝ち」
「はぁ……」
「見てて」
説明が面倒になり、実演してみせる。
ブレイクショットの後、的確に一つずつポケットに入れていく。
余りの手際の良さにマギサは見惚れ、ボールが転がるのを目で追った。
結局ミスショットを一度もしないまま、シャレンは⑨の玉までポケットに入れた。
「こういう遊び」
「はぁ……」
「やらない?」
「あ……やって、みます」
小さく頷いて、マギサはシャレンの真似をしてキューを構える。
何をしているのだろうか、と思わなくもない。
さっきまであれこれと悩んでいた人間のやることではないと思う。
ただ、答えが出ないものを考えるのは少し疲れた。折角のシャレンの誘いを断るのも忍びなかったし、丁度いい気分転換だろう。
そんなことをしている暇があるのか、と頭のどこかで声がする。
気分転換などと、悠長なことをしていられる身分だと思っているのか。いいから早く魔法でも何でも使って死んで皆様の平和な世界に貢献しろ。
生を諦める理由なら、百だろうが二百だろうがくれてやる。
「あ、」
がなりたてる声に邪魔されて、キューが手玉の上を滑って妙な方向に転がった。
ぼうっと玉を見つめていると、シャレンがチョークをキューに塗ってくれた。
お礼を言わなくちゃ、と顔を上げて、
「ありがとうございます」
「良く狙って」
チョークを置いて、狙う位置を指で指し示す。
何をしているのだろうか、と思わなくもない。
ビリヤードを含めた各種遊戯は、組織の仕事に必要だからと覚えたものだ。
カジノは組織の重要な収入源の一つで、その繋がりで依頼が来ることもある。養父によって散々仕込まれた腕は、暗殺業を辞めないかと誘われるくらいだった。
勿論、シャレンにそんなつもりはさらさらない。あくまで必要があったから覚えただけだ。手先の器用さから上手くできるようになったが、それだけ。
実際、カジノや遊戯にそれほどの興味はなかった。
今度は上手く当てて、手玉が転がってカラーボールごとポケットに吸い込まれていく。
困ったように佇むマギサを横目に、リターンポケットから手玉を取り出してテーブルに置き直した。
「もう一度」
「あ……はい」
キューを構えるマギサを眺めながら、気がつけば昔を思い返している。
下らない感傷だと切り捨て、考えることを止めた。
時間を潰せば、事態が動く。それまで、部屋に居ようが遊戯室に居ようが同じことだ。
視線の先では、マギサが手玉を撞いて今度は何もポケットに落ちなかった。
窺うようにこちらを見るマギサに頷き返し、全部の玉を入れるまで続けさせた。
同じようにマギサも考えるのを止めていることに、シャレンは最後まで気づかなかった。
※ ※ ※
獄舎から放り出され、ナイトはとぼとぼと通りを歩いていた。
結局の所、尋問されただけで二人のことは何も分からなかった。
こちらからの質問には何一つ答えてもらえず、二人に会わせてくれと言ってもなしのつぶて。分かったことと言えば、やけに騎士団が二人を気にしているということくらいだ。
出身に経歴に家族構成にと、それはもう根掘り葉掘りあれこれと聞かれた。
ナイトとて馬鹿ではあっても愚かではない。話せることと話せないことの区別くらいついている。マギサが魔法使いであることや、シャレンが自分達への追っ手であることは口が裂けても言わないつもりだった。
現実はそれ以前の問題であることが分かった。
何せ、出身は知らない。本当に知らない。経歴も分からなければ、家族構成なんてさっぱりだ。何一つ、マトモに答えられる質問がなかった。
どういう人間であるかならば答えられるが、そんなものを騎士団が求めるはずもない。どこの誰が見も知らん他人に、いい人です、なんて言われて信じると言うのだ。
尋問役の騎士とて素人ではない。相手が嘘をついているかどうか、長年の経験と洞察力により見抜くことが出来るからその役についている。
結果、ナイトは本当に何も知らないと納得されてしまった。
良かったのか悪かったのか、冷やかしと判断されて追い出された、というのが経緯の全てである。
昼間の日光を浴びながら、これからどうしたものかと途方に暮れる。
当ても何もなく、獄舎に入ることももう出来ない。シャレンであれば忍び込むという選択肢もあっただろうが、騎士団相手にナイトにそんな芸当ができるはずもない。
八方塞がりの現状をどうにもできず、肩を落とす。
こうなったらいっそ、本当に騎士団と乱闘でもして無理やり獄舎に押し入るか。
追い詰められた挙句に愚かとしか言いようがない考えが浮かんだところで、ナイトの前に立ちふさがる影があった。
「やぁ、兄さん。酷い顔してんね?」
声に釣られて顔を上げれば、昼に相応しい陽気さを引き連れた青年が笑顔を向けていた。
年の頃はマギサより上、ナイトより下といったところだろう。底抜けの明るさを感じさせる風貌で、実に都会的に感じる。
どこからどうみても田舎者であるナイトとは対極に位置するような青年は、若者特有の気軽さで話しかけてきた。
「ははぁ、その顔は探し人が見つからなかったって感じっすね」
「え? 分かりますか?」
驚愕するナイトに、青年は気安く笑いながら頷く。
「もっちろん! これでも俺、そういうとこ鋭いんで。さてはダチがヤバイ橋渡ってるってところっすか?」
「はっ、はい! 凄いですね!」
「いやぁ、このくらいなんでもないっすよ。何だったら相談にのるっすよ、俺結構色んなダチいるんで、力になれるかもしれないっす」
「あ、ありがとうございます!」
傍から見ると壺でも買わされそうなくらいに怪しいが、今のナイトはそこまで頭が回らなかった。
いや、多分今でなくとも同じだった可能性が高い。騙す方にとっては、これほどやり易い相手もいないだろう。
場所を近くのオープンテラスの喫茶店に移し、ナイトは青年に事の次第を話した。勿論、都合の悪い部分はぼやかして。
話を聞いた青年は軽く顎を撫で、
「兄さん。俺、その二人の事知ってるかもしれないっす」
「ほ、本当ですか!?」
途切れたと思った手がかりに巡り会えて、最早ナイトに躊躇も何もなかった。
椅子から身を乗り出し、青年に迫る。
「お、教えて下さい! 是非!」
「ちょ、落ち着いてほしいっす。先に、兄さんに聞きたい事があるんすよ」
「何ですか?」
椅子に座り直し、青年の言葉を待つ。
青年は軽く唇を舐め、一瞬鋭く目を細めて、
「兄さん、本当にその二人のダチっすか?」
内心を見通すように尋ねてきた。
オープンテラスには、他の客も大勢居る。ナイトと青年の会話は、きっと多くの会話にまぎれて誰の耳にもちゃんとは届かない。雑多な音の一つとして処理される。
運ばれたコーヒーの湯気が、二人の間を遮った。
「正直に言うと、難しいです。でも、僕は友達だと思っています」
目つきで分かる。この青年は、普通の人じゃない。
そこまで理解した上で、ナイトは正直に答える事にした。
もしかしたら、シャレンの仲間かもしれない。だとしたら、協力できるはずだ。
どちらにせよ、嘘を吐くことも難しかった。
「その二人が、何をしてきたかは知ってるんすか?」
「詳しくは知りません。なんとなくこうだろうな、という想像くらいなら」
マギサにしろシャレンにしろ、過去を正確には知らない。
ただ、どんな人生を歩んできたのか、思いを馳せなかったわけじゃない。
何も知らない事と、何も感じない事はイコールで繋がらない。
「どのくらい二人の事知ってます?」
「今の二人の事なら、良く知っています」
ナイトに分かるのなんて、そのくらいのものだった。
今、二人がどんな人間なのか。その事だけなら、ちゃんと答えられる自信がある。
シャレンに関しては、少し怪しいかもしれないが。
青年は値踏みするようにナイトを見つめ、やがて小さく嘆息した。
「ちょっと待ってて欲しいっす。詳しいダチに連絡とってくるんで」
「あ、分かりました」
「飯でも食ってて下さい。お代はこっちで払うっすから」
「え、悪いですよ」
「いいっすよ。それより結構待たせるかもしれないんで、どっか行かないで欲しいっす」
「それは、はい。待ってます」
それじゃ、と青年は腰を上げて店から出て行く。
青年を見送ると、ナイトの腹の虫が存分に不満を訴えた。
そういえば、朝食を食べていない。ずっと走りっぱなしだったこともあって、意識するともうどうしようもなかった。
お言葉に甘える事にして、店員を呼び止めて注文する。
無駄遣いしたくなくてお店なんて入らなかったが、興味がないわけでもないのだ。
運ばれてきた料理に目を輝かせ、舌鼓を打ちながらナイトは青年が帰ってくるのを待った。
日が傾き始めた頃に戻ってきた青年――ライは、請求金額に頬をひくつかせた。
※ ※ ※
昼食を終えた二人は、ティータイムまでまたも遊戯室に篭った。
どうやら、二人を迎えに来る役はあの童顔執事で固定らしい。遊戯室に訪れた彼を見て、マギサはその事を察した。
昼食は貴族らしくやたらと豪勢だった。今までの食事は何だったのかと思うほどで、マギサは思わずたじろいだ。シャレンはといえば、いつもどおり顔色一つ変えず食べていたが。
テーブルマナーも何も知らないマギサはとりあえずシャレンの真似をしてお茶を濁した。この組織の暗殺者は本当に何でも出来て、マナーも完璧に遵守していた。
全ては、怪しまれずに標的に近づく為に覚えた事ではあったが。
遊戯室では、二人で一通り試してみた。
ルーレットもカードもダーツも、マギサは何も知らず、シャレンに教えられる事をひたすら飲み込んだ。
今回の事で、マギサはますますシャレンという人間が良く分からなくなった。
どうしてそんなことができるのか、さっぱりわからない。
例えばルーレットでは、口にした通りのポケットに玉を入れる事が出来た。
「黒の18」
と言えば、本当に黒の18番に玉が入る。他の番号を指定しても全て同じ。
慣れれば出来る、なんて言われてもマギサにはとてもそうは思えなかった。
カードにしたって、きり方からして何をしているか分からない。リフルシャッフルにファローシャッフル、ストリッピング、とか言われても理解できなかった。
弧を描いて綺麗に並べられたカードの内、一つを指定すると、そのカードが何かを当てるのだ。何で分かるのかと尋ねると、慣れ、とだけ答えられた。
ダーツに至ってはボードに当てるのも難しいマギサとでは比べるべくもない。矢が三本連なった時は何の冗談かと思った。
気がつけば時間は過ぎて、いつもの執事がティータイムを告げにくる。
部屋に戻って淹れたてのアッサムティーを飲めば、まるで貴族にでもなったような気分だった。
こんなことしていていいのか、とは思う。
頭の中の声は朝からずっと喋り続けている。
それに何の返事もできないまま、こうして紅茶を飲んでいた。
ミルクがないのに気づいて、シャレンがベルを鳴らす。
近くに居たのか、すぐにドアがノックされた。
席を立つシャレンを見送りながら、亡羊とした頭で考える。
そういえば、この屋敷に来た夜にヘクドに見せていたあの印璽はなんだったのだろう。
印璽、だと思う。多分。紋章までは見えなかった。
あれを見た途端にヘクドの態度が変わった。何か凄いものだったのだろうとは思うが、何であるかは見当もつかない。
一体、シャレンとは何者なのか。
今日、益々その疑問が強くなった。
あれだけ何でも出来て、魔道具も持っていて、ナイトと張り合えるくらいに強い。そんな人が命を狙う追っ手で、多分誰かに依頼されている。
あの遺跡で魔物を作っていた『誰か』の関係者だろう、ということまでは想像がついた。そこから先が、どうにも分からない。
昨夜の質問は、まるで当たり前のようにされた。
そのくらい、生き死にが普通という感覚なのだろう。とても真っ当に生きてきたとは思えない。少なくとも、今まで見てきた人達の中にそんな人はいなかった。
執事を中に入れて、ミルクを受け取って何事か話している。
聞き取れないくらい小さな声なのか、そもそも声を発していないのか。内容を窺い知る事は出来なかった。
童顔執事に振り向かれ、体がびくりと反応する。
にこやかに微笑まれ、一礼して彼は部屋から出て行った。
シャレンがミルクの小瓶をテーブルに置き、蓋を取ってスプーンで軽くかき混ぜる。
「いる?」
「……はい」
差し出したカップにミルクが入って、膜を張ってくるくると回る。
珍しくシャレンもミルクを入れると、回転する様子をじっと眺めていた。
小瓶は他に砂糖とジャム入りがあって、まだ少し怖くてジャムは入れていない。
カップを手に取ったシャレンが一口含んで、
「……甘くない?」
「甘いです」
「そう」
表情に動きがないから分からないが、もしかすると甘いのは苦手なのだろうか。
見ていると何も気にせずその後も飲んでいたので、やっぱり分からないという結論に達した。
ナイトは確か、甘いものが好きだったはずだ。
正確には、苦味が強くない限り大体なんでも美味しいと言って食べる。
ジャム入りの紅茶なんか、気に入るかもしれない。想像してみて、紅茶を飲まずにジャムを食べている姿が思い浮かんだ。
「彼、この都市に来ているそうよ」
何を言われているのか一瞬把握し損ない、理解した途端に息が詰まった。
彼――ナイトが、コンフザオに来ている。
あっという間に混乱し、疑問が形を持つ前にあちこちに飛び散っては思考を占拠する。
落ち着け、と繰り返しても効果が薄い。カップを掴む手が震えて、ソーサーとぶつかって音を立てた。
「今は待って。何かあれば教えるから」
視界の端に少女を捉えて、シャレンがカップを傾ける。
一気にミルクティーを飲み干し、マギサは強引に落ち着きを取り戻す。
シャレンの言葉に嘘はない。ナイトの事を教えたのは、その証明の為でもある。
そう理解し、マギサは頭の中を整理する。
どうやってかは知らないが、ナイトは自力で遺跡を脱出した。そして、おそらく馬の足跡を辿るか、近くの街だからという理由でここまできた。
ナイトの性格なら、外に自分達が居なければ待った挙句に中に探しに行きそうだ。もしそうなら、今この都市にいるはずもない。ということは、今自分達がコンフザオにいることを何らかの形で知っていることになる。
まるでお伽噺の騎士のように。助けに来てくれたのだ。
そう考えた途端、胸の奥に刃物が突き刺さったような痛みが走った。
違う。お伽噺とは全然。
騎士が助けるのは、お姫様だ。魔法使いに攫われた、可哀想なヒロイン。
自分は違う。お姫様じゃない。お姫様を攫う魔法使いの方だ。
世に混沌と不安を撒き散らす、悪の権化だ。
騎士の手によって倒される、悪役だ。
胸の痛みが全身に広がって、痺れに変わっていく。まるで体が自分のものじゃないような感覚。息苦しいのに、どうすることもできない。
空っぽのカップに紅茶が注がれ、指から伝わる温かさで我を取り戻した。
「何か入れる?」
無表情のシャレンが、色も温度もない瞳で見つめてくる。
その瞳にどうしてか、安心した。
「ジャムを、下さい」
スプーン一杯分を掬って紅茶に落とす。
飲んだ紅茶はミルクや砂糖とは違った甘さで、マギサの舌には合わなかった。
ナイトに飲ませたらどんな顔をするだろうと想像しながら、最後まで飲み干した。
※ ※ ※
戻ってきたライに案内されて、ナイトは立派な一軒家の前に来ていた。
ライ曰く、詳しいダチの家らしい。半ば緊張しながら、ナイトは玄関の扉を開けた。
中は一般的な作りといって問題ないだろう。玄関から伸びる通路と、幾つかの扉。奥には二階に繋がる階段も見える。
詳しいダチ、とは一体どのような人物なのか。ナイトはそれが気になって仕方がなかった。
一体何がどう詳しいのか。やはりシャレンの仲間なのか。だとすると、実際自分の身がだいぶ危なくはないか。
あれこれと頭を巡るものはあるが、結局は進まない事には何も得られない。虎穴にいらずんば虎児を得ず、ローリスクハイリターンは夢物語だ。
覚悟を決めて中に入ると、後ろのライが扉を閉めて鍵までかける音がした。
「階段が見えるっすよね? 上がって反対側の左の部屋っす。多分もう待ってますんで」
「あ、はい」
半ば以上脅しにしか聞こえないのは、最早気のせいではないと思う。
大人しく上がって階段を上がりながら、ふと思って尋ねてみた。
「そういえば、お名前をまだ聞いてませんでした」
「あぁ、テロルっす。兄さんは?」
「あ、ナイトです」
息を吸うように嘘をつき、早く昇るように顎で示す。
二階に上がって反対側に移動し、向かって左の扉の前でナイトは立ち止まった。
肩越しに振り向けば、手すりに寄りかかってテロルことライがじっと見つめている。
深呼吸をして、ドアをノックした。
「どうぞ」
低く腹の底に響く声に、思わずたじろいでしまう。
やっぱり真っ当な人達ではない。分かってはいたものの、こうして明らかにされると僅かな希望が打ち砕かれて凹む。
それでも気力を振り絞って扉を開けた。
「失礼します」
一言断って中に入れば、簡素というよりも生活感のない部屋が出迎えた。
申し訳程度の家具があるだけで、人が住んでいる気配というものがまるでない。
その家具の一つであるテーブルを囲むように配置されたソファに、男が一人座っていた。
産毛が逆立つのを感じ、反射的に身構える。
鷹のような目つきと、こけた頬。引き締まった体は鍛えられており、マギサやシャレンに勝るとも劣らぬ無表情を身に着けている。
気配の消し方は流石にシャレンほどではなかったが、後ろのテロルと比べても桁が違うのは分かる。
体が勝手に臨戦態勢を取り、背後の気配が殺気を増す。
緊張する二人に構わず、男はソファから立ち上がって一礼した。
「ご足労願って申し訳ない。どうぞ、お座りください」
「いえ、こちらこそ急にすみません」
慌てて頭を下げ、硬くなる体を無理に動かしてソファに座る。
危険な人物だというのは、体で理解した。警戒を解くことは難しく、今も強張って反射的に動かないよう抑えるので精一杯だ。
どう考えても、シャレンと同じ側に生きる人達だ。受ける感覚もどこか似ている。正直、彼女から感じるものよりも危険な臭いがするが。
むしろ、シャレンがおかしいのかもしれない。彼女の爪は、恐ろしくはあっても怖くはなかった。目の前の男は違う。恐ろしくて、怖い。
悪意の篭った力だ。殺気だけのシャレンとは違う。トゥレの自分勝手さとも違う。
本物の悪意を、ナイトは初めて身に受けていた。
「こうしてお呼び立てしたのも他でもない、先日この街にきた二人の女性についてです」
「はい」
頷くナイトに、男――ヴォラールは眉を顰めて先を続ける。
「なんでも、貴方はお友達だとか。それがもし本当なら、是非お力を仰ぎたいのです」
「僕に出来る事なら」
表情を強張らせて言うナイトに、ヴォラールはじっと視線を送る。
見たところ、それなりの使い手のようだ。少し気を放っただけですぐさま反応したし、後ろのライにも気を払っている。
正面から戦えば、ただでは済まないだろう。奇襲をかけても、初撃を外されれば苦しい立ち回りになる。
かように実力は十分だが、如何せん素直に過ぎる。
余りにも分かり易過ぎて、逆に罠ではないかと疑いたくなるくらいだ。
自分の知るシャレンが、果たして彼と友人足り得るかどうか。話に聞く限り、友人と言うのも怪しいものだが。
ただ、無関係ということはあるまい。もしそうなら、彼の行動も弟子から聞いた話も辻褄が合わない。
しかしどうにも、師の養女とこの真っ直ぐな青年との関係性が想像つかない。すわ標的か何かかと思うが、それなら未だに二人とも生き残っている事の理由が不明だ。
既に一戦どころか二戦ほどやらかして、狙われた方が命を救ったとは夢にも思わない。ヴォラールの常識に、そんな事例は存在しないからだ。
なればこそ、ヴォラールにとってナイトは実に正体不明の存在だった。
ナイトが警戒しているように、ヴォラールとて警戒していたのである。
しかし、目下迫る問題としてシャレンをどうにか助けねばならない。いつまでもヘクドの下にいられても、ヴォラール達にとっても都合が悪い。
昨夜のような問答を二度も三度も繰り返すのは、流石に面倒だった。
脱出計画の目処はある程度立っている。問題となるのは、表立っての主犯と共犯者の存在だった。
現状の計画では、犯人が二人必要になる。屋敷について知っている人間と、実行できる実力のある人間。
最悪でっち上げるにしても、出来れば組織の人間は使いたくないというのがヴォラールの本音だった。
そこにきて、ナイトの登場である。犯人の一人として、これ以上ない適役であった。
正体不明にしたって、贅沢を言っていられる状況ではない。正式な沙汰が決まるなり、騎士団総隊長のトロイが強引に持っていくなりすれば、簡単に転がっていくのだ。
それに、最終確認だって必要だ。
件のシャレンが、本当に師の養女であるという証拠が。
屋敷に潜ませた部下からは、本人がそう名乗っていることは聞いている。だが、そんなもの何の信用にも値しない。
この素直すぎる青年は、その点においてもうってつけの存在と言えた。
「細かいお話をする前に、お聞きしたいことがございます」
「僕に答えられることなら」
ヴォラールはナイトの目を見つめ、ナイトは真っ直ぐに受け止める。
一挙手一投足も見逃すまいとしながら、無骨なまとめ役は決定的な質問をした。
「彼女の右腕の篭手について、ご存知ですか?」
驚きにナイトが目を見開く。
それは、今まで都市にきてから一度も聞かなかった話。
あの特徴的な篭手について知っているということは、間違いなく彼女の仲間であることの証明だった。
「鉤爪の魔道具で、彼女の得意武器です」
淀みなく答えるナイトに、ヴォラールは小さく嘆息した。
疑う余地は最早なくなった。シャレンは師の養女で、彼はその関係者だ。
圧迫するような気配が消え、ナイトの肩から力が抜ける。
それを見計らっていたかのように、ヴォラールが手を差し出した。
「計画についてお話します。貴方の力を是非お借りしたい」
「願ってもないです。宜しくお願いします」
角ばった手を握り、ナイトが微笑む。
こうして、ナイトは『組織』と手を結んだ。本人がそうと知らぬままに。
ヴォラールは入り口近くに佇んでいたライに顔を向け、
「おい、ライ。お前もこっちに来い。計画に参加してもらう」
「うっす! 失礼しまっす!」
景気良く返事し、ソファの後ろまで移動してくる。
ナイトは顔を歪め、
「え、あれ? テロルさん、ですよね?」
「誰っすかそれ? 俺はライっす」
余りにも余りな答えに、ナイトは渋い木の実を食べたような顔をした。
全てを察したヴォラールは、全てを無視して話を始めた。
もう一人の『犯人』に相応しい人物が都合よくいないかと思いながら。
※ ※ ※
「ぶぇっくしょん!!」
長閑な陽気に包まれたスパイトフル家の屋敷の門前にて、衛兵であるところのトゥレが盛大にくしゃみをした。
同じ門番役の同僚が、あからさまに嫌そうな顔をする。
「なんだ、風邪か?」
「いや、これ多分噂されてるわ」
「なんだよ、何やらかした?」
「何もしてねーよ!」
余り仲の良くない同僚に言い返して、鼻を啜る。
騎士団の地図どおりに進んで、トゥレはコンフザオにて新しい就職先にありついていた。
貴族の衛兵などクソみたいな仕事だと思っていたが、実態は思ったとおりにクソだった。
だが、給料は悪くなく、腕っ節だけで稼げる仕事など危険なものしかない。
身分証明はこっそりかっぱらってきた自警団の紋章でやり過ごし、見事寝床と安全な仕事の両方を勝ち取ったのである。
衛兵は基本泊り込みの仕事で、何かあればたたき起こされるという不便の代わりに、衣食住に金をかけずに済む。
とはいっても、住はともかく衣食は多少なりと金がかかるが、それも贅沢をしていると思えば心の潤いにはなる。
普通なら飛び込みで雇われるはずもないのだが、運良く人手が足りないとかで雇ってもらえた。
やはり俺は天に愛されている、などと思うのがこの男の悪いところである。
屋敷の主が衛兵の人手を必要とした理由が三階の警備にまわす為だなどと、新人のトゥレには知りえるはずもない。
変な女が二人ほど屋敷にいるとは噂で聞いていたが、自分には関係のないことと右から左に聞き流していた。
門番としての立ちんぼの仕事も、自警団である程度慣れている。疫病神と別れて運が向いてきた、と本人は信じていた。
その疫病神が屋敷の三階にいるとも知らずに。
背筋に悪寒が走り、本格的に風邪でも引いたかと疑ってしまう。
今晩は早めに寝て、明日はなんかいいものでも食おう。そう決めて、これから日が落ちるまで立ちっぱなしの仕事を堪える気力に変えた。
その寒気の本当の正体にトゥレが気づくのは、翌日の事であった――




