第四十四話 「四つ巴・3」
――拾われてから凡そ五年、篭手の『魔道具』を貰った頃だったと思う。
その頃の私は髪が背中の真ん中くらいまであって、酷く邪魔だと感じていた。
時折視界が塞がれるのが嫌で適当に縛っていたが、いっそ切ろうかと思って養父にどうするべきか尋ねた。
養父は、切るな、と言った。
――長い髪は女の象徴であり、武器だ。自らの利点を捨てるような真似をするな。
そう言って、戸惑う私を余所に櫛と果実を模した髪飾りを取ってきた。
何をするつもりか分からなくて、とにかく動かずにじっとしていた。
養父の手が優しく頭に触れたのは、後にも先にもあの一度きりだった。
梳いた髪を一本に編み込まれ、崩れないよう先端を髪飾りで結ばれた。養父の手つきに迷いはなく、それは器用さ故か慣れていたせいかは判別がつかなかった。
頭を振っても髪が邪魔にならず、驚いたのを覚えている。
養父は何も言わなかった。何故自分が使いもしない櫛や髪飾りを持っていたのかも、そんな髪の編み方を知っていたのかも。
私も聞かなかった。必要な事は養父から教えてくれる。言わないという事は、必要ないということだ。
養父の教えを受け、髪の編み方を会得したのはそれから一月後。おかげで、それから一度も髪を切った事がない。
切るなと、養父に言われたから。
編み込んだ髪は意外に便利で、丁度いい高さにあるから目潰しに使ったり、紐の代わりになることもあった。
束ねた髪は意外と丈夫で、人の首を絞めることも出来る。そういう意味でも武器になると分かったのは、随分後の事だった。
基本的には、相手の油断を誘う事が役目だ。見た目は人を判断する大きな材料であり、望みの反応を引き出す事さえ可能とする。
養父の言うとおり、自らの利点として使えば暗殺の成功率は格段に上がった。
特に興味はないが、私の容姿は女として性的欲求を刺激するものらしい。使えるものは使う、それだけだ。私にとって、手段の一つに過ぎない。
祖父が死んでから、それが少しだけ変わった。
自分の容姿には相変わらず大して興味はないが、髪だけは少し丁寧に扱うようになった。
特に意味があるわけじゃない。ただ、解いて洗った髪を編み込む時、妙な落ち着きを覚えるようになった。
嫌な感じもしないし、仕事の邪魔になるわけでもない。だから、放置した。
使っている櫛と髪飾りは、髪の編み方を覚えた時に養父から譲り受けたものだ。壊れてもいないのに買い換える理由もなく、ずっと使い続けている。
時々、櫛を使って髪を梳いていると、養父の手の感触を思い出す。
死んだ人間の事など、覚えていてもどうしようもないのに。
どうしてか、浮かび上がるときがある。
それは例えば、赤い光が飛び交う部屋の中で、大きな手に抱え上げられた時。
火鉢に突っ込んだような痛みが和らぎ、小さな手の温度を感じた時。
忘れられないものが、頭を過ぎるのだ。
それがどちらも、殺すべき標的のものだとしても。
※ ※ ※
遺跡特有の仄かな明かりに囲まれた部屋の中で、マギサはシャレンの傷を癒す『魔法』をかけ続けていた。
減り続ける『魔力』に意識が朦朧となりながら、焼け爛れた肌が元に戻るまで手を離さなかった。
ナイトが消えてからどのくらいが経ったのか。時間の感覚が消え失せた二人には正確な判断などできない。すぐ後だったかもしれないし、四半日経ったかもしれない。
シャレンの足から見るも無残な深紅が消え、マギサは力尽きてその場に倒れ伏した。
荒い呼吸を繰り返すマギサを見下ろし、シャレンが軽く足を動かす。痺れにも似た痛みが奔るが、問題なく動いた。
さっきまで、どんなに力を込めても言うことを聞かなかったのに。
『魔法』の脅威を改めて実感し、ゆっくりと立ち上がる。
マギサはもう顔を上げることさえできない。邪魔をするナイトもいない。間違いなく、確実に標的を仕留める好機がシャレンに訪れた。
力も少しは回復している。『魔法』を切り裂くことは無理でも、篭手を鉤爪に変えるくらいなら何とかなるだろう。
マギサの首筋は、古くなった肉よりも柔らかそうだ。
少し腕に力を込めれば、簡単に火傷痕のような深紅が飛び散るだろう。
町一つ巻き込んでさえ掴めなかった未来が、目の前に転がっている。
迷う理由など、どこにもあるはずがなかった。
シャレンはマギサを無視し、下に続く階段に足を向けた。
奇襲をかける前に置いた荷物を取って、マギサの所へ戻る。
ずた袋の中身を適当に抜いて、丁度いい高さにして地面に置く。マギサを抱え上げ、ずた袋を枕代わりに横たえた。
シャレンを見上げるマギサの目は、言葉よりも雄弁に心中の疑問を語っていた。
そんな目をされても、シャレンだって困るのだ。
「取引をしましょう」
平坦極まりないシャレンの声からは、その内心を窺い知る事は難しい。
意識が途切れかかっている状態では、尚更だ。
「この遺跡を出るまで、私は貴女を決して襲わない。貴女は私の脱出に協力する。いい?」
薄れていくマギサの目が、それでもシャレンの瞳を捉える。
霧が掛かったような視界の中で、シャレンの目が揺れているのが見えたような気がした。
一緒に旅をしたことの、全てが嘘だなんて思えない。
その思いを信じて、マギサは小さく頷いた。
疲労が見せた幻覚か、どこかシャレンがほっとしたように見えた。
「傷と妙な膜の分、貴女を守る。これも取引だから、貴女は休んでいい。『魔法』の使える貴女に協力して欲しいから」
声を出すのも億劫で、その言葉を遠く聞きながらマギサは目を閉じた。
ギリギリで保っていた意識を手放せば、あっという間に暗闇に沈んでいく。
シャレンの言葉が全て嘘なら、きっともう二度と目を覚ますことはない。
それも悪くないと思いながら、でも多分そんなことはないだろうと感じてもいた。
だって、こんなにも安らげている。
ナイトと一緒に眠るときのような安堵を覚えている。
それが裏切られるくらいなら、生きていようが死んでいようが同じことだ。
言葉の響きの優しさを、マギサは信じることにした。
ナイトの無事を願いながら、ふつりと意識は途切れた。
※ ※ ※
無理矢理叩き起こされるように意識が浮上し、着地し損ねて顔から地面にぶつかる。
痛みに言葉を失いながら、ナイトは体を起こして周囲を見回した。
砂と土の地面を囲うように壁で塞がれた、円形の広場。ナイトが跳んだ程度では指の先もつかない高さの壁の向こうは段になっており、長椅子のようなものが並んで置かれている。
まるで、観劇をする為の客席のように。
ろくなところに飛ばされないだろうことは、分かりきっていたのだ。
出口を探せば、不自然に壁が凹んでいる箇所に外に繋がっていそうな扉を見つけた。
同時に、扉の反対側にこれもどこかに繋がっていそうな檻が見えた。
膨れ上がる嫌な予感が正しいというように、格子の向こう側から雄叫びが上がる。
全身に緊張が走り、考えるより先に剣を抜いて構える。
格子がひとりでに上がり、檻の向こうにいた化け物たちが解き放たれた。
オルトロス。犬をモチーフにした魔物で、凶暴で好戦的。熊でさえも骨ごと噛み砕く力を持ち、動きの俊敏さは人間とは比較にならない。
ペロと同じ種族で、ペロとまるで違う存在。
先陣切って飛び出してきた一匹の牙を刃を合わせて受け流し、後続の突撃を横に飛んで避ける。
檻の方を睨んで、何匹出てきたのか見極めようとする。八匹までは数えられた。多く見積もっても十匹、それ以上はない。
打ち止めがあるのかは知らないが、途切れることなく次々出てくる、なんて悪夢は見ずにすみそうだった。不幸中の幸いというやつか。
どちらにしろ、十匹も相手にしていたら確実に死ぬ。なんとか隙を見て扉まで行くしかないが、それまで無事でいられるかどうか。
ここも『遺跡』の中だとすれば、すんなりと扉が開くとも思えなかった。
飛び掛ってきた牙を避け、振り下ろされた前足の下を潜るようにして切りつける。
なるべく壁を背に、四方八方から襲われないよう位置取りに気を配らねばあっという間にオルトロスの腹の中だ。
巨体が災いして、広い場所に出さえしなければ一匹か二匹相手にするだけで済む。呼吸を整えながら牙や爪を避け、確実に斬り返していく。
持久戦を挑む相手じゃないのは分かっている。だが、焦って勝負に出られるほどの力がこちらにはない。少しずつ少しずつ傷を蓄積させ、致命傷を与える機会を窺うしかない。
アバリシアでのナイフ使いやシャレンの戦い方を思い出しながら、剣を振るう。
振りは短く鋭く、決して一撃で決めようなどとは思わない。その時その時で手が届く場所に傷をつけて、素早く身を引く。
大きく動くよりも足を止めない事に重点を置いて、とにかく相手に狙いを定めさせない。
体で学んだやり方で、ナイトは十匹のオルトロス相手に立ち回っていた。
オルトロス達の苛立ちが遠吠えとなって広場に響き渡る。身の毛もよだつ咆哮に奥歯を噛んで耐え、潜り込んだ胴体の下から心臓めがけて突き刺した。
絶叫が迸り、苦痛に悶えて暴れまわる。
咄嗟に胴体を蹴り上げて剣を引き抜き、全速力でその場から離れる。
暴れ回るオルトロスの爪や頭が他のオルトロスに激突し、地響きのように吼えて致命傷を与えたオルトロスに噛み付いた。
益々苦しんで暴れ、近くにいたオルトロス達が巻き込まれていく。
気がつけば、広場の中は目に映るもの全てが敵という殺し合いに発展していた。
それは、壁に背をつけて事の成り行きを見守っていたナイトとて例外ではない。
目が合ったオルトロスが、容赦なく爪を撃ち込んでくる。避けたところに別のオルトロスの牙が迫り、辛うじて剣で弾いて勢いに押され地面に転がる。
すぐさま飛び起きて剣を構えるが、その時には既にナイトに踊りかかってきた二匹同士が噛み付き合っていた。
もしあのまま襲われていれば、致命的な姿を晒したナイトがどうなっていたかは想像に難くない。滴る汗を拭って、ナイトは慎重に壁際を移動した。
どうして仲間同士で殺しあっているのかは分からないが、もしかしたらペロのようにどこか欠陥を抱えた魔物なのかもしれない。
理由が何であれ、生き残れるのなら何でもいい。こんな場所で死ぬわけにはいかないのだ。
生きて、やらなくちゃいけないことがある。
その為なら、同士討ちだって利用してやる。
悲鳴と怒号が鳴り響く中を、オルトロスに絡まれないように足音を殺して進んだ。
ようやく凹んでいる場所に辿り着き、寄りかかるようにして扉を押し開ける。
ぴくりとも動かなかった。
おぞましい何かが背筋を駆け抜け、もう一度力一杯扉を押す。
全体重をかけても扉はびくともせず、頭が真っ白になる。
落ち着け、考え直せ。引き戸じゃないのか。
取っ手らしきものはどこにも見えず、試しに横に動かしてみたが意味はなかった。
閉じ込められている。ナイトがそう理解するのに、十分な証拠が目の前にあった。
殴っても蹴っても傷一つつかず、振り下ろした剣も弾き返された。
不味いなんてもんじゃない。どう考えても、あの見境のなくなったオルトロス達を相手に生き残れるとは思えなかった。
同士討ちで何匹かは倒れるにしても、巻き込まれてタダで済むわけがない。体力が底を尽いたらそこでお終い、暴走してるものだから行動も読みにくい。
それでも、やらなきゃやられるだけだ。
絶望的な覚悟を決めようとしたところで、閃くものがあった。
檻。オルトロス達が出てきた、丁度反対側にあるもう一つの出口。
奥に何が居るかわかったものじゃないが、どっちにしても状況は最悪だ。賭けてみる価値はあるかもしれない。
僅かな望みを託して振り向いて、
正気とは思えない目をしたオルトロスが、ナイトの前に立ち塞がっていた。
不自然に凹んでいる壁、取っ手もなく斬っても殴ってもびくともしない扉。
それ自体が罠なのだと理解した時にはもう既に遅かった。
自ら袋小路に逃げ込んだ愚かな獲物を見下ろし、オルトロスが牙を剥く。
ここはそういう場所なのだ。微かな希望を無残に砕き、絶望に歪む顔を楽しむ為の。
性根が腐りきっている仕掛けに、ナイトはまんまと嵌ってしまった。
横に避けたとて、オルトロスの牙から逃れられる広さはない。迫りくる牙を剣で防ぐも、頭突きをもろに喰らう。
宙に浮いた体が扉に叩きつけられ、避ける暇もなく前足で押さえつけられた。
肺の空気が全部漏れ出し、唾液と一緒に胃液と赤いものまで吐き出す。
口の中に広がる鉄の味を感じながら、両手で剣を握り締めて大上段から突き下ろした。
肉を貫く感触と、はっきりそれと分かる悲鳴。拘束から解放され、体勢も整えられないままに尻から地面に墜落する。
痺れるような尾てい骨の痛みを唇を噛んで我慢し、扉に手をついて立ち上がった。
肺に空気が大量に流れ込んで、反射的に咳き込む。剣を握る握力も、走り回るだけの体力もまだ辛うじて残っている。
躊躇するのを待ってくれるような相手じゃない。大きく息を吐くと、ナイトは全力でオルトロスの懐に潜り込んだ。
下から思い切り振り上げて、胸部を斬りつける。一瞬怯んだ隙を逃さず、身を屈めて胴体の下を潜り抜け、壁沿いの空いている場所に駆け込んだ。
先程までナイトを追い詰めていたオルトロスは怒り狂って涎を撒き散らし、一目散に突っ込んでくる。同時に、目に付いたナイトを襲おうと別のオルトロスも飛び掛ってきた。
飛び掛ってきたオルトロスを盾にするように回り込み、振り下ろされた爪を受け流す。
狙い通りオルトロス同士がぶつかり合い、怒り狂った形相で取っ組み合いを始めた。
安心したのも束の間、横合いから振り抜かれた前足に構えた腕の上から弾き飛ばされる。
息をするのも苦しい状態で地面を転がり、体を起こそうとする前に牙が振ってきた。
刃をかちあわせ、なんとか押し止める。力比べでは明らかに分が悪い。体重をかけられる体勢なのはオルトロスの方で、一分も持たないだろう。
渾身の力を込めて顎を蹴り上げ、歯を噛み合わせて剣の上を滑らせる。
転がりながら起き上がり、横っ面目掛けて剣を突き刺す。蹴り飛ばして剣を引き抜き、耳を劈くような悲鳴を背後に壁際に駆け込む。
広間は地獄絵図と化していた。
夥しい量の血が舞い、砂と土の地面に吸い込まれて赤黒く色が変わっている箇所さえある。
真新しい鮮血が一時的に水溜りを作り、倒れ伏すオルトロスの体が沈むように崩れていく。
血溜りが消え、砂のような粒となったオルトロスの体は次第に真っ黒な灰へと、
変わらなかった。
砂のような粒になったまま、地面と同化していく。本来だったら真っ黒な灰となって消えていくはずなのに。
ふと吐き気を催す想像が過ぎり、屈み込んで地面を軽く擦ってみる。
想像通り、土だと思っていたものは、踏み固められた砂のような何かだった。
これは、魔物の死骸だ。
骸さえ残らないはずの魔物の、崩れ落ちた姿だ。
ここで、数え切れないほどの魔物が死んだのだ。
これが、かつての『魔法使い』の所業なのか。
胸に沸き起こった気持ちが何だったのか、ナイトには分からない。
ただ、胸焼けにも似たそれは腹の中で膨れ上がり、今にも倒れそうだった体に力を取り戻してくれた。
マギサが苦しむ原因がここにある気がした。
望んだものが手の届かない未来になってしまったのは、こんなことをしていたからだ。
昔の人に何を言っても仕方ない。そんな理性的な答えに何の意味があるというのか。
立ち上がりながら握り込んだ拳は、震えていた。
マギサが悲しむ正当な理由があると言われているようで、我慢がならなかった。
「ああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
オルトロスの咆哮を掻き消すつもりで叫び、手近な一匹に向かって走る。
その声を聞き咎めたかのように、食い合うオルトロス達がナイトの方を振り向いた。
同士討ちでやられようが、自分の剣にやられようが、結局は同じことだ。
砂の粒になって新しく積もっていくことには変わりない。かつての『魔法使い』が創った法則をどうこうすることなんてできやしない。
大人しくしていればいいものを、渦中に飛び込むなんて馬鹿のすることだ。
だけど、それでも、
せめて、仲間に殺されるなんていう末路だけは辿らせたくなかった。
※ ※ ※
マギサが目を覚ました時、シャレンは『装置』に背を寄せて目を瞑っていた。
眠っているのかと思って、なるべく音を立てないように起き上がる。
微かな衣擦れの音しかしなかったはずなのに、シャレンの目が開いた。
いつもと変わらぬ色と温度のなさに、何を言うべきか迷う。
眠りに落ちる直前、シャレンと何か話したはずなのに、内容を思い出せない。
確か、取引がどうとか何とか。落ち着いて寝入ったことだけはやけに覚えている。
寝起きの緩い頭では考えも上手く回らない。『魔力』が尽きた後はいつもこうだ。多分、まだ回復しきれていないのだと思う。
ぼうっとシャレンの顔を見つめていると、向こうから話しかけてきた。
「体調は?」
「……悪く、ないです」
「そう」
驚くより先に素直に答えてしまう。頭が回っていない証拠だ。
シャレンは立ち上がって、ずた袋を拾って隅っこにまとめられた荷物を詰め始める。そこで初めて、マギサは自分がずた袋を枕代わりにしていたことに気づいた。
回復魔法をかけ終わって倒れた時には、あんなものはなかった。
なんとなく思い出してきた。
そうだ、確か倒れた後にシャレンに抱えられて寝かされたのだ。辛うじて意識だけが引っかかっている状態で、指一本動かせなかった。
取引、と言われた。この『遺跡』から出るまでの間、襲わない代わりに協力しろ、と。あと、確かもう一つ。
こっちはもう殆ど意識が薄れていたから良く覚えていないが、早く『魔法』を使えるようになれとかなんとか。
その代わりに、守ってくれるって。
恥ずかしさにも似た気持ちがこみ上げて、息を吐いて静める。
落ち着け、相手はシャレンだ。どのくらい信じられるかも分からない。
けれど、無防備に眠りこけていた間に殺されなかったのは事実だ。向こうにしてみれば、これ以上ない好機だっただろうに。
何を言われたかは良く覚えていなくとも、いつもより優しい色を帯びていたのは覚えている。気のせいだったかもしれないけれど、そんな感触がした。
何かを聞こうとして顔を上げれば、荷物を詰め終わったシャレンがずた袋を担いで見下ろしてきていた。
何かが喉元に詰まって、声が出なかった。
「行きましょう」
「あ、はい」
掠れた声で返事をして、慌てて立ち上がる。
マギサがついてくるのを確認して、シャレンは背中を向けて上に続く階段に足をかけた。
ナイトと違って行動が実に大胆だ。『魔道具』に絶対の信頼があるのか、それとも自分が寝ている間に調査を済ませたのか。
そうだ、ナイト。
『転移』の光に連れて行かれたまま、どこにいったのか分からない。
「あの、待ってください。ナイトさんが、まだ、」
言いかけたところで、シャレンが振り向いた。
「ここじゃ十分に休めないでしょう。『遺跡』を出て休んでから、探せばいい」
温度の無い瞳に射抜かれ、言葉が詰まる。
シャレンの言うことは正しい。正しいけれど、納得はいかない。
その間にナイトの身に何かあったら、どうするのか。
「でも、今すぐ探さなきゃ、」
「彼は多分、それを望まない」
淀みの無い答えに、息が詰まった。
確かに、彼女の言うとおりだろう。ナイトはきっと、まずは自分が無事にこの『遺跡』を出ることを望む。
無性に腹立たしくなって、声に混ざる棘を抑え切れなかった。
「何でそんなことが分かるんですか」
「彼が、私に貴女を頼むと言ったから」
今度こそ、二の句が告げなくなった。
確かにナイトはそう言った。それは、自分の身よりもマギサの身を案じたが故の言葉。
命を狙う相手に言う台詞じゃないと思うが、きっとあの時はそれが精一杯だったのだ。
他に選択肢が無い状況で、それでも縋った藁の束がシャレンだったのだろう。
「取引は守る。だから、貴女も守って」
それだけ言って、シャレンは再び身を翻した。
後ろをついて歩きながら、マギサはナイトと違う背中を目で追っていた。
杖を握り締める。これは取引なのだ。十分に休んだから、何かあったらシャレンを守らねばならない。
『遺跡』を出るまで、協力しあう約束だから。
大丈夫。ナイトは絶対に生きている。シャレンとの約束を破って後先考えなしに助けにいったって、どうにもならない。まずは自分達の安全を確保してからだ。
ナイトだって、きっとそれを望んでいる。
前を歩く背中は少しも揺らぐことはなく、ふとナイトの姿と重なってしまった。
階段の折れ曲がった部分に差し掛かると、シャレンが手を広げて制止してきた。
マギサが大人しく立ち止まったのを一瞥し、シャレンは身を屈めて壁に張り付く。
音を立てずに階段を昇り、壁の向こう側に顔を覗かせる。
息すら潜めて見守るマギサに振り向き、囁くように言う。
「ここで待ってて」
頷くマギサを見届けて、シャレンは音もなく浮くような身のこなしで折れ曲がった階段の向こう側に姿を消した。
静か過ぎて、マギサの耳には自分の心臓の音がやけに煩く聞こえた。
ナイトが傍にいないことといい、トライゾンでの一件を思い出す。このままここに置き去りにされたらどうしようか。
そんなことはない、と自分に言い聞かせる。『遺跡』の恐ろしさはシャレンだって十分に分かっているはずだ。『魔法』が使える自分がいるかどうかで、危険度は大きく変わる。
例え『魔道具』があったところで、シャレンだって随分消耗していた。自分をここに置いていく理由がない。
もしも、一人だけしか先に進めない仕掛けを見つけたとしたら。
そんなことを言ったら、なんだってアリだ。可能性に限りなんてない。
もしもそうなら、シャレンはあっさり自分を見捨てるのではないか。
当たり前過ぎる答えに、心臓が何故か大きく脈打つのを感じた。
実際は焚き火を組むのとそう変わらない程度の時間しか経っていないはずなのに、引き伸ばされた感覚は永遠にも近かった。
「進みましょう」
突然降ってきた声に、思わず体がびくりと反応する。
去った時と同じく音もなく戻ってきたシャレンが、いつもと変わらない顔で見下ろしていた。
ぐるぐると巡っていた考えが驚いた拍子に飛び出して、空っぽになった頭で頷き返す。
シャレンはマギサの様子など一顧だにせず、今度は微かな音を立てて階段を昇った。
置いていかれないよう後をつけながら、思わず溜め息をついてしまう。
自分の命を狙っている相手に、一体何を考えているのか。
我ながら、甘いを通り越して間抜けに思えてくる。
これじゃあ、ナイトのことをとやかく言えない。一度裏切られたというのに。
それでも、シャレンの背中はどうしてか頼もしく見えた。
「聞いておきたいのだけれど」
「……はい」
唐突に尋ねられ、一瞬詰まるもちゃんと返事ができた。
肩越しにマギサを一瞥し、そのままシャレンの視線は自らの右腕へと落ちていく。
「この爪は、『魔法』の仕掛けにも効く?」
「……はい、多分。『装置』を壊せたので」
「そう」
会話はそこで終わり、階段を昇りきって広い場所に出た。
どうやら、かなり大規模な『遺跡』のようだ。道が幾つか伸びていて、扉も複数ある。
『魔法』の罠も、幾つあってもおかしくない。
「私が先に出て調べる。爪で触れば、仕掛けの有無くらいは分かるでしょう。対処は貴女にお願いする。いい?」
「はい」
頷くマギサから目を逸らし、シャレンが先へ進む。
その足取りに迷いはなく、まるでどれが正解か分かっているようだった。
こういう時ナイトだったら困った顔をして、どれだろうね、なんて言うのに。
篭手を鉤爪へと変化させるシャレンの歩幅を追いながら、杖に『魔力』を込める。
取引なのだ。
シャレンは自分を守り、自分はシャレンを守る。
そこだけはナイトと同じで、胸に去来する不可思議な感覚に振り回されないよう、マギサは杖をぎゅっと握り締めた。
※ ※ ※
街道から少し離れた森の中。
ぽっかりと口を開けた洞窟の前で、年嵩の騎士が周囲を警戒するように見回していた。
洞窟の近くには、騎士団の印が刻まれた看板が立てられている。入り口傍の土壁にも、同じように騎士団の紋章。
何の変哲もない洞窟、などというわけがないのは一目瞭然だった。
蹄の音を響かせて、五人の騎士が四方から現れる。
「『遺跡』北部、異常ありません」
「同じく北西部、異常ありません」
「西部、異常なしです」
「南西部、右に同じく」
「南部、異常見受けられません」
「ご苦労」
五人の報告に頷き、年嵩の騎士がちらりと洞窟の入り口を見やる。
同じように五人も洞窟に目をやり、表情を引き締めた。
彼等は、この洞窟が何だか知っている。ここは『遺跡』。かつての『魔法使い』が残した、恐るべき遺産だ。
そう、彼等は先だってトゥレと別れた騎士団の一群であり、定期巡回の為にこの街道近くの『遺跡』を訪れていたのだ。
この『遺跡』は東に街道を臨み、旅人が紛れ込む可能性が非常に高い。分かりやすく看板を立ててはいるが、不届き者が潜り込むには絶好の位置にある。
調査した限りは大したものはないが、それでも本来なら常駐の騎士を置いて管理すべき場所だ。人員不足はこんなところにも影響を及ぼす。
巡回に訪れた際は入念に調査しているが、どれほど意味があることか。年嵩の騎士としては疑問が拭えないところではあったが、それでもやらないわけにはいかなかった。
「全員、下馬せよ。これより『遺跡』内部の調査に入る」
「了解」
見事に唱和し、全員が馬から降りる。
訓練された騎士団の馬は、縄に繋がれずとも自らその場を離れることもない。年嵩の騎士を先頭に隊列を組み、腰の剣に手をかける。
確認するように先頭の騎士が全員の顔を見回し、号令をかけた。
「行くぞ」
揃って応と答え、『遺跡』内部に足を踏み入れる。
何事もなければいい、と年嵩の騎士は思う。先日会った旅人への忠告は、別に冗談でもなんでもない。本当に、『遺跡』内部はいつどこで魔物が出てきてもおかしくないのだ。
随分昔の話だが、数十人規模の騎士隊がたった一匹の魔物に全滅させられた、などという話もある。『遺跡』の中に入るのは、誰にとっても命がけだ。
騎士だからといって、死にたいわけではない。できることなら、部下は全員無事に帰らせたかった。
慎重に慎重に、『遺跡』の奥へと進んでいく。
ふと、視界の片隅に人影が見えた気がした。
一瞬にして全身に緊張が走り、足を止めて剣を引き抜く。
波打つように緊張が伝わり、全員が抜剣して構えを取った。
「そこにいるのは誰だ、出て来い!」
年嵩の騎士の誰何の声が、静かな『遺跡』に響く。
自分達のものとは違う足音がして、物陰から人影が姿を現した。
その姿を見た騎士達に、理解に困るといった動揺が広がる。
『遺跡』特有の仄かな明かりに照らされた人影の、その正体は――




