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優しい騎士と小さな魔法使い  作者: 満月すずめ
第一部・逃げる二人
43/85

第四十一話 「オルトロスのいない森」

――一体、何が悪かったんだろう。


 エウリュは床にへたり込みながら自問自答する。

 どこで間違えたのだろう。

 それとも、最初から全て間違いだったのか。

 ペロがティオを襲ったという。嘘だ、そんなの信じない。

 でも、あの少女に見せられたペロは、確かに人くらい襲ってもおかしくなかった。

 違う、そんなことはない。

 ペロは人を襲ったりしない。

 あんな優しい子が、そんなことするもんか。


 ――だったら、遠吠えの件は?

 

 ――ティオが嘘をついて、村の皆が騙された?

 

 違う、きっと何か理由があるんだ。


 ――それは何?

 

 あの少女の声で、頭の中に言葉が響く。

 もう、何が何だか分からない。

 私は何にも知らない。

 何にも知らないから、ちゃんと庇うことさえできない。

 あの子の言ったとおりだ。

 こんなことになる前に、なんとかしなくてはならなかったのだ。


 ――何とかって、何?


 何にも分からない。その答えを、私は何一つ持っていない。

 けれど、今一番胸を押し潰す疑問なら分かっている。


 ――これからどうしたらいい?


 頭と胸を締め付ける疑問の答えを、私は一つだってもっていやしなかった。



  ※            ※             ※


 村人達の怒号が遠ざかり、玄関も閉ざされて家の中は再び光を失った。

 へたり込むエウリュを見下ろし、マギサは廊下の突き当たりへと視線を動かす。


 考えうる限り最悪の事態だ。いや、騎士団がきていないだけまだマシか。

 これで、平穏な解決への道は失われた。最初から無理だと思っていたが、こんな形で壊れるとは想定外だった。

 もう、何がどうあっても何かを失うしか解決の道はなくなった。

 あとは、失うものが何かというだけの話。


 マギサはエウリュを置き去りにして、廊下の突き当たりに進んだ。

 そこには部屋が一つあって、頑丈そうな体の老人がベッドに寝たきりになっていた。


「……あぁ、お客さん……随分と、沢山来客があったようですな」

「えぇ」


 薄っすらと目を開けてこちらを向く老人に近づき、枕元に立つ。

 特に意味はない。ただ、首を傾けるのも辛そうだと思っただけだ。

 老人はマギサを見上げ、柔らかくただ尋ねた。


「何か、ありましたかな?」

「森で、化け物が見つかったそうです。それを退治にしにいく、と」

「あぁ……そうでしたか……」


 老人は感慨深げに呟き、軽く目を閉じて息を吐く。

 マギサは表情一つ動かさず、真っ暗な部屋の中で命の火が消えていく様を見ていた。


「とうとう、見つかったんですなぁ……」


 マギサの眉が微かに動く。

 もしかして、とは思っていたのだ。

 村にまで聞こえる遠吠えが、いくら年老いて病に倒れたとはいえこの老人に聞こえぬはずもない。

 それなのに、孫娘に警告するどころか好きにさせていたのだ。


「ご存知だったんですか」

「薄々と、ではありますが。孫の様子しか、見るものもありませんで……」


 黙りこむマギサに、老人は優しく微笑んでみせる。

 それは、ナイトがみせるものとは少し違う、慈しむような笑み。


「私は、感謝しとるんです。息子夫婦が死んでから、孫はちぃっとも笑いませんでな……私ではどうすることもできなんだ……」


 語る言葉は、虫の声と変わらぬ程度の大きさしかない。

 病が余程悪いのか、無理が祟ったのか。この調子では、もって後半年といったところだろう。

 残り少ない命を振り絞るように、老人は語る。


「その化け物は、孫に笑顔を取り戻してくれた……私にとって、恩人です」

「そうですか」


 冷たいマギサの一言に、老人は微笑んで頷いた。


「これも、定めというものでしょうか……例え私が死んでも大丈夫だと、安心できていたんですがねぇ……」

「……例え今日でなくとも、いつかはこんな日が来ます。それが今日だっただけです」


 マギサの言葉に老人は溜息ともつかない息を吐き、そっと目を閉じる。


 部屋の入り口で、音が鳴った。


 振り向けば、エウリュが居た。

 俯いたまま身を震わせ、一歩部屋に入る。

 眉一つ動かさず、マギサは真正面からエウリュを見据える。

 もう一歩。確実にマギサに近づく。

 覚束無い足取りでマギサの前まで来て、勢いよく顔を上げた。



「ふざけないで!!」



 叫ぶと同時にマギサの胸倉を掴み、隠そうともしない敵意を漲らせて睨み付ける。

 マギサは微動だにせず、それを正面から受け止めた。


「今日だっただけ? いつかはこんな日が来る? 他人事だからって偉そうな事言って!!」


 捻りあげる手は震えていて、徐々に力が強くなっていく。

 奥歯を噛み締めて睨むエウリュに、マギサは顔色一つ変えなかった。


「あなたに何が分かる!? 私達の、一体何が分かる!? あの子は人を襲ったりしない!! あの子は化け物なんかじゃない!! 追い立てられたら泣いて苦しむことくらい、分からないの!?」


 エウリュの目が、涙で滲む。

 悔しさか、悲しさか、怒りか。そんなこと、マギサに分かるはずもなかった。


「あの子は、一人ぼっちが寂しいだけの優しい子なのに!!」


 思い切り、息を吸い込んだ。



「だったら!! ここで泣くより、やることがあるでしょう!!!」



 叫び返されて、我に返ったようにエウリュがはっとした顔をする。

 最後の置き土産代わりに睨みつけ、マギサから手を離して走って部屋から出て行く。

 孫娘の背中を見送って、老人が口を開いた。


「……お世話をかけまして、申し訳ない……」

「いえ」


 老人の方を振り向いて、マギサは杖に『魔力』を集める。

 老人の額にそっと手を触れて、集めた『魔力』をゆっくり形に変えていく。


「お客さん……?」


 不思議そうな老人の呼びかけを無視し、『魔法』を形成した。

 額に触れた手を伝って、『魔法』が老人の体に作用する。陸に打ち上げられた魚のように老人の体が跳ね、強く咳き込む。


 『魔法』を流し込み終え、マギサが手をどかす。

 驚いた顔で見上げてくる老人の血色を確認し、背中を向けて部屋から出る。


「あの、お客さん!」


 呼び止める声に振り向き、()()()()()()()()老人に向かって言った。


「代価は払った。そうお孫さんにお伝え下さい」


 その後は、何が聞こえても振り向く気はなかった。

 目を閉じて印の位置を確認する。杖に『魔力』を集め、『魔法』を形成する。

 『魔法』は何でも出来る。『魔力』が続く限り、あらゆることを可能とする。

 世界を支配した力は、伊達ではないことを教えてやるのだ。



  ※           ※             ※


「決して離れないで下さい! 必ず固まって移動すること! 下手に藪の中には入らないこと! 松明もありますから、火事にでもなったら手がつけられませんよ!」


 村人を先導しながら、ナイトは可能な限りの牛歩戦術に挑んでいた。

 ペロがいそうな場所を避けながら移動し、速度を遅らせる。他に何も思いつかないナイトの、せめてもの抵抗だった。


 焦りと緊張で汗が止まらない。こんなもの、バレた瞬間に袋叩きだ。

 荒くなる呼吸を抑えようとして、余計に息が乱れる。一応気をつけてはいるものの、ペロの動きを完全に把握しているわけじゃない。ばったり出会えば、もうどうしようもない。

 今のところ村の人達は言うことを聞いてくれているが、パンパンに膨れ上がった怒気と苛立ちは何かの拍子に破裂してしまうだろう。

 そうなったら、もう抑えは利かない。薄氷の上を歩くような感覚が、少しも消えなかった。


「おい兄ちゃん! 本当にこっちでいいんだろうな!?」


 早速疑いを持ったのか、玄関先で話した村人が問いかけてくる。

 そんなこと聞かれたって分かるわけがない。だが、何とかして適当な理由をつけないと。


「出来る限り広い道を選んでいます。相手の大きさを考えると、狭い場所は嫌うでしょうから」

「……そうか、分かった」


 それっぽい理屈をつけることが出来て、胸を撫で下ろす。

 何だか嘘ばかり上手くなっていくような気がしているが、止むを得ないということにする。

 ペロがどこかに逃げてくれることを祈りながら、森の中を練り歩く。

 こういう時の願い事ほど叶った試しがないのは、忘れることにした。



  ※             ※              ※


 目を開けると、予想通りペロがいた。

 印の位置に『転移』したマギサは、周囲を確認する。


 鬱蒼と茂った木々に、好き放題に伸びた植物達。遠くで聞こえる虫と鳥の声。間違いない、森の中だ。

 ペロのいる辺りの先にやや傾斜が見えるのは、山と繋がっているからか。そういえば、この森は山に続いていると最初に聞いた。


 ペロの足元には、熊の死体が転がっていた。


 二体、いや三体。

 ペロに比べれば小さいとはいえ、どれもマギサの倍ではすまなそうな体躯をしていた。


 頭の中で全ての線が繋がった。

 村の子供を襲ったのは、熊の方だ。そして、それをペロが撃退したのだろう。それを見てペロに襲われると思って子供は逃げたのだ。

 以前、エウリュの両親は熊に襲われた。人肉の味を知った熊は、人里を襲うこともあるという。

 おそらく餌が不足したか何かで、味をしめた人肉を食らおうと降りてきたのだろう。

 数が合わないが、熊は餌を住処に持ち帰る習性がある。何かの拍子に分け前をもらった熊達なのかもしれない。


 もしかしたら、ペロの遠吠えはこの熊達を遠ざける為だったのだろうか。自分の縄張りであることを示すように、熊が山から降りてこないように。

 ずっとずっと、大事な人が襲われないように、人知れず戦っていたのかもしれない。

 それならば、ここにペロがいる理由も分かるような気がした。


 何にしても、今更分かった所でもう遅い。

 もう、何もかもが手遅れだ。

 村人達はペロを見つけるまで止まる事はないだろう。エウリュがどんなに懇願しようと、見つかったペロが見逃されることもない。


 何故なら、誰もペロのことを信じないから。

 見ず知らずの少年を守るために熊と戦っただけだなんて、信じてくれるはずもないから。

 だって、ペロは言葉も通じない魔物だから。

 危険だと、そう判断して、必ず仕留めようとする。

 それは、間違ったこととは言い切れない。一切どこにも危険がないと保証することは出来ない。


 『魔法』が、そうであるように。

 『魔法』から生まれた魔物も、何一つ断言することはできない。


 ペロに近づく。こちらに気づいたペロが、怯えた様子で後ずさろうとする。

 痛みに呻いて、動きが止まる。見れば、向かって左の脇腹に爪で抉られたような傷がついていた。

 熊の血に紛れて気づかなかったが、かなり出血している。浅くはない傷だ。

 マギサは黙ったまま近づいて、ペロの傷にそっと手を触れる。


「少し、我慢して」


 耳も尻尾も垂らして怖がるペロにそう言うと、掌に『魔力』を集めた。

 ナイトにもよく使う、治療の『魔法』。傷を癒して、流した血を少しだけ補填する。

 ペロは一瞬身を震わせたが、鳴き声もあげずされるがままになった。

 傷の範囲が広くて、治りが少しだけ遅い。もう少しちゃんとした『魔法』を使えばもっと早く治せるが、ペロが暴走する危険性が高くなる。


 結局、こんなものだ。

 マギサは唇を噛み締め、腹の内で呪いの言葉を吐く。

 何が世界を支配する力だ。何があらゆることを可能とする力だ。

 互いを思いあう心を守ることさえできない。

 何でも出来るなんて嘘っぱちだ。こんなものを欲しがる輩がいるなんて信じられない。


 絆一つ、繋いであげることさえできない。


 それとも、私が知らないだけなのだろうか。

 私が『魔法』をしっかり勉強して理解していれば、この奇跡を壊さずに済んだのだろうか。

 こんな結末を、変える事が出来たのだろうか。


 傷に触れていない方の手をぎゅっと握り締める。こみ上げるもので瞳が潤む。

 何でも出来るようになれば、『魔法』を使いこなせれば、この一人と一匹は幸せなまま笑いあって生きていけたのだろうか。

 村の人に受け入れてもらうなんて、夢想そのものの話が実現できたのだろうか。


 でも、今の私では無理だ。

 それが、どうにもならないほど悔しくて仕方がない。


 『仕方ない』なんて言葉で諦められたらどれほど楽だっただろう。

 きっと、ナイトも、そんな言葉で諦められなかったら一緒についてきてくれているのだ。

 いつか、なんて言葉に夢を見て。


 気がつけば、泣いていた。

 そんなつもりもなかったのに、涙が零れている。

 止めようとしても、止まってはくれなかった。


 面倒臭くなって放置していると、ペロが顔を寄せてくる。

 そして、恐る恐る舌を出してそっと涙を舐めとったのだ。

 小さく、囁くように一声鳴く。

 どうしてか、そんなことで益々涙が流れてきた。


「ごめんね……ごめん……」


 奇跡を続ける『魔法』を、私は知らない。

 出来るのはせめて、その命を永らえさせることだけだった。


 エウリュと別れる代わりに、ペロを助ける。

 それが、今出来る精一杯の解決法だった。


 エウリュの祖父の病を治したのは、罪悪感を和らげる為に過ぎない。

 全てを理解しているように、ペロは一声鳴いて顔を摺り寄せてきた。



  ※             ※              ※


「おい! どこにもいねぇぞ!」

「どういうことだ兄ちゃん、あんたまさか……!」


 とうとう村人達の苛立ちは破裂寸前まで高まり、ナイトは迫られていた。

 予想していたこととはいえ、最早どうすることもできない。引き伸ばしも、ここが限界だろう。


「落ち着いて下さい! もう探索していない所の方が少ないくらいです、気を引き締めて警戒して下さい!」


 村人達の視線に疑いの色が増していく。

 とはいっても、ナイトとて本当にペロの居場所は知らない。あえて遅らせたのは事実だが、流石にここまで出くわさないとは思っていなかった。運が良いのか悪いのかは分からないが、ともかく助かっている。

 とはいえ、そろそろ見つけてしまってもおかしくない。

 最悪なことに、村人の一人が声を上げた。


「おい! ここにでかい足跡があるぞ!」


 村人達が寄ってたかって確認しにいく。これもう、観念するしかあるまい。

 実はその前から痕跡らしきものは幾つか見つけてはいたのだが、全て無視してきたのだ。あえて反対方向に誘導したりもした。

 だが、村人に見つかってはお手上げだ。誤魔化しも効かない。ここで統制を失われても困る。となれば、後を追うしかなかった。


「足跡を辿っていきましょう。近いはずです、十分に警戒を」


 神妙な顔をして村人達は頷き、武器をしっかと握り締めてナイトの後に続く。

 どうか出来る限り遠くにいてくれという願いも空しく、歩き始めてそう時間も経たない内についにペロと出くわしてしまった。


 幾つもの熊の死体と、その背に乗るマギサと一緒に。


 呆気に取られるナイトを余所に、村人達の感情は破裂した。


「化け物めぇ!! 皆かかれぇ!!」

「殺せぇぇぇぇぇっ!」

「死ねぇぇぇぇっ!」


 迸る殺気を撒き散らし、ペロに向かって殺到する。

 ペロとマギサはその様を悠然と見下ろし、



 脳味噌を振るわせるような遠吠えを上げた。



 鼓膜を貫いて響くその咆哮は殺気だった村人達の足を止め、耳を塞がせた。

 その隙にペロは地面を蹴り、ナイトを咥えて走り出す。


「まっ、待てっ!!」


 村人達を背後に置き去りにして、マギサを乗せナイトを咥えたペロは夜の森を疾走する。

 人間の足で到底追いつけるはずもなく、あっという間に村人たちは見えなくなった。


「あ、あのー、マギサ! これどういうこと!?」


 村人達の姿が消えたのを確認して、ナイトが声を上げる。

 マギサはちらりとナイトを一瞥し、『魔法』を使って耳元に声を届けた。


「ペロと一緒に逃げます」

「……はい?」


 話は終わりとばかりに、マギサの声は聞こえなくなった。

 何も分からないまま、ナイトは器用に木の枝を避けながらペロの首にしがみ付いた。



  ※            ※             ※


 鉈だけを引っつかんで、エウリュは外に出た。

 あの子に言われた事が頭にこびりついて離れない。


 ――だったら!! ここで泣くより、やることがあるでしょう!!!


 その通りだ。一体今まで何を迷っていたのか。

 誰が何と言おうと関係ない。私は、ペロを守る。

 例え本当にペロが人を襲ったとして、今までが全部消えてなくなるわけじゃない。

 もし、もし本当にそんな凶暴な生き物になったのなら、ペロを殺して私も死のう。きっと、私の知るペロは、そんな自分に怯えて悲しむだろうから。


 ペロのことは私が一番良く知っている。

 例え、あの少女みたいなことは知らなくても、他の沢山の事を知っている。

 それだけで全てを賭けるのに十分だと、今更になって気がついた。

 もし全てが誤解なら、その方がいい。そうだったら、意地でも村の皆を説得してみせる。


 ペロを探そう。全てはそこからだ。

 森の中を走る。暗くて見えない木の枝や葉っぱが容赦なく体を傷つける。全て無視して走る。

 痛みなんて気にしている暇はない。早く行かねば、ペロが殺されるかもしれない。

 それだけは、絶対に、


 絶対にやらせない。


 藪をくぐり、木々の間を抜け、頭の中の地図を呼び起こす。

 このまま走ればあそこにつくはずだ。

 ペロの住処。最初に会った場所。呪われた地。

 きっと、ペロはそこにいる。根拠も何もなく、ただそう直感した。

 土を蹴り上げて、ただがむしゃらに前に進んだ。



  ※             ※              ※


 遺跡の入り口の前まで来て、ペロはようやくナイトを下ろした。

 マギサもペロの背中から降りて、ペロを見上げる。


「少し我慢して」


 応えるようにペロが一声鳴くと、マギサは目を薄く閉じて集中し始めた。

 何だか口を挟むのもどうかと思ったが、一応聞いておかねばならない。

 ナイトはなるべく邪魔をしないよう、声を絞って尋ねた。


「あの、一体どういうこと?」

「……何がですか」

「いや、あの、だから、ペロと一緒に逃げるって……」


 マギサはナイトを一瞥し、再び杖に『魔力』を集めることに集中しだす。

 ペロはやや苦しそうにするものの、以前のように暴走する素振りは見せなかった。


「言葉通りです。このままだとペロは殺されます」

「あー……うん、まぁ……」

「どこに逃げても同じことです。だったら、安全な場所に送ります」

「安全……?」


 そんな場所が果たしてあっただろうか。

 首を捻るナイトを見もせずに、マギサが答える。


「あの遺跡です。今から転移させます」

「あぁ、成る程。でもそれなら、こっそりやっても良かったんじゃ」


 少なくとも、あそこまで派手に姿を見せて逃げる必要もなかったように思う。

 杖に『魔力』が集まり、マギサが『魔法』の形成に移行する。


「そうでもしないと、村の人達はいつまでも森を探すでしょう。脅威は去ったと認識してもらう必要があります」

「あぁ……そっか、うん」


 そこでようやくナイトは合点がいった。

 村人もそうだが、エウリュもそうだ。いきなり居なくなったのでは、それこそいつまでもペロを探して回りそうだ。


「ペロを送って、私達は遺跡の『陣』で逃げます。シャレンさんも撒けますし、それに――」


 その先を口にする前に、近くの草むらが音を立てた。

 ナイトは剣を抜いて身構え、集中して動けないマギサの前に立ち塞がる。



 現れたのは、エウリュだった。



 鉈だけを腰に佩き、擦り傷だらけの姿でまろび出てくる。

 ペロの姿を確認して笑ったかと思うと、ナイトとマギサを見て顔を引き締める。

 どうにも困った相手に見つかってしまった。やや怯むナイトを無視して、エウリュはマギサに向かって睨みつける。


 時を同じくして、マギサの『魔法』が完成した。

 ペロの足元が光り、その体が光の粒に変じていく。

 夜の闇の中に、その光景は酷く幻想的なものに映った。


「ペロ!!」


 エウリュの叫びに反応して、ペロが首を向ける。

 視線が交わり、エウリュが笑みを溢す。両手を広げ、ゆっくりとペロに向かって近づいた。


「ペロ、一緒に帰ろう? 大丈夫、私が何とかするから」


 エウリュの呼びかけに一瞬ペロは近づこうとするが、足を止める。

 エウリュの顔が曇り、マギサを一瞥する。

 深く息をして、もう一度ペロに呼びかける。


「大丈夫、村の皆は私が説得するから。安心して、ね?」


 優しい声音のエウリュに一声鳴いて、ペロはその場から動かなかった。

 エウリュの顔が驚愕に歪む。信じられないものを見た、という顔。


「どうしたの、ペロ!? 大丈夫、大丈夫だよ! 一緒にいよう、私が守るから!」


 ペロは優しい表情で小さく唸り、



 別れを告げるように鳴いた。



 ペロの体が全て光の粒に変わり、その場から消え去る。

 『転移』が完了したのだと、エウリュには知る由もなかった。

 ペロが消えた空間を見つめ、エウリュが膝をつく。何も言わず、マギサは身を翻した。


「どうして……」


 低く、漏れるような呟きがマギサの足を止める。

 ナイトは迷ったものの、剣を収めて一歩下がる。

 振り向いたマギサに見えたエウリュの目は、何も映してはいなかった。


「ペロ……どこ……?」


 空っぽで虚ろな表情。

 見開いた目からは栓が壊れたように涙が流れ、頬を通って地面に落ちる。

 垂れ下がった手には、力の一つも篭っていなかった。


「どうして……私を置いてくの……?」


 それは果たして、ペロにだけ向けた言葉だったのだろうか。

 虚空を見る少女は、全てを失った者の姿をしていた。


「おいてかないで……一人にしないで……」


 垂れ下がっていた手に力が篭り、救いを求めるように中空へ伸ばされる。

 やがて空を切り、顔を覆って蹲っていく。



「ペロ……!!」



 もう、限界だったのだろう。

 エウリュの精神は、とっくの昔に許容量を超えて悲鳴を上げていた。

 だから、マギサはこう言ったのだ。


「ペロは、貴女の手の届かない所へ送りました」


 その声は、確かに少女の耳まで届いた。

 ゆっくり、ゆっくりと、少女がマギサを見やる。

 その瞳に浮かんだ感情を説明する言葉を、この場の誰も持たなかった。


「……どうして……?」

「貴女の下には置いておけないからです」


 冷たく突き刺す一言。

 それは狙い過たず少女の心臓を穿ち、顔に生気を、腕に力を取り戻させた。


「外道……!!」


 少女の顔が醜く歪み始める。それは、奪われた者の苦痛を示すように。


 ――本当は分かっている。


 ペロは自らの意思で少女の下を去った。それは誰が見ても明らかで、奪われたのはただの思い違いで、マギサに向ける怒りはお門違いもいいところだ。


 ――守れなかった。


 少女に打つ手は何もなかった。村人の説得など出来るものか。せいぜいが拘束されて何もできずペロが撲殺されるのを黙ってみているしかなかっただろう。


 ――また、家族がいなくなった。


 そんなこと全部分かっている。分かっていて、それで割り切れるなら誰も苦労はしない。

 怨嗟の声が空に響くことはなく、愛憎に悶えることはなく、誰とでも手を繋げたはずだ。


 どうにもならない塵芥の捨て先は、一つしかなかった。


「あんたなんか……!!」


 そして、その言葉が放たれる。



「あんたなんか人間じゃない!!!」



 それは、一体どんな気持ちで言ったのだろうか。




「はい。私は『魔法使い』ですから」




 マギサは杖を高く掲げる。

 釣られるようにエウリュが視線を動かすと、眩いばかりの閃光が放たれた。

 それは目を焼き、意識を白く染め上げる。

 エウリュの視界が回復したそのときには、二人の姿は影も形もなかった。


 あの少女は、自らを『魔法使い』といった。

 かつて世界を支配した一族。呪われた地を作り上げた存在。

 もしそれが本当なら、ペロはあの子の眷属ということになるのだろうか。

 ならば、これが全て正しい帰結というのだろうか。


 何一つ納得できず、エウリュは閃光を目印にやってきた村人達に見つかるまで、蹲って泣いていた。



  ※            ※             ※


 崩れた遺跡の奥で、ナイトとマギサは『陣』の上に乗った。


「これでよかったの?」

「これ以外の方法はありませんでした」


 ナイトの問いにいつも通りに答え、マギサは『陣』を起動させる。

 ペロに関して、考えることがあった。

 一体どこからきたのか。それはもしかしたら、この『陣』の先からかもしれない。

 少なくとも、ペロがここを住処としていたことに関して、全く無縁だとは思えなかった。


「あー……この先って、どこに繋がっているんだろうね?」

「分かりません」


 普段と変わらぬマギサの対応に苦笑して頬を掻き、ナイトは足元から立ち上る光を見下ろす。

 転移した先がどこであろうと、ろくなものじゃない気がして仕方がない。

 それはきっと、マギサも同じ気持ちだろうと思う。


「また、ペロとエウリュを会わせてあげられるといいね」


 マギサの返事はない。

 よくよく地雷を踏み抜く男である。またやらかしたかとナイトが焦っていると、


「いつか、必ず」


 意識が消える寸前、確かにマギサがそう言ったのを聞いた。



  ※            ※             ※


 誰もいなくなった夜の森。

 崩れた遺跡の傍に立つ影があった。

 真っ黒いドレスのような衣装に、長く垂らされた一本に編まれた黒髪。闇に溶け込むような姿に比して鈍く輝く右腕の篭手。百人見れば百人が振り向くであろう美貌。


 『組織』の暗殺者、シャレン。


 人を殺す為だけに作られた存在が、遺跡の入り口を見上げていた。

 一言も発さないまま、右腕の篭手の調子を確かめる。問題はない。


 実の所、ナイトとマギサの位置を把握したのは、マギサの放った閃光が決め手だった。

 何故あんな自分の居場所を晒すような真似をしたのかは分からない。よっぽどの事情でもあったのだろうか。


 何にしても、都合のいいことだ。足跡から見ても、この洞穴の中に入っていったと考えて間違いない。

 どうせまた妙なことにでも首を突っ込んだのだろう。追う身には有難い話だが、追われる身であるという自覚が足りないのではないか。

 それとも、追いつかれても問題ないと思われているのか。


 ふと気配を感じて振り向けば、血を流した手負いの熊が襲い掛かってきていた。


 体を沈めて前足の一撃をかわし、懐に飛び込んで伸び上がるように鉤爪で喉を突く。

 呻く熊が暴れる前に地面を蹴って跳び、振りぬいた前足を踏み台にして半回転する。

 シャレンの顔と熊の顔が逆さまに向かい合う。

 膝で延髄を叩き、喉から引き抜いた鉤爪をそのまま引き上げて顔面を抉る。

 最後に頭に突き刺し、落下と同時に体重を込めて振り下ろす。


 断末魔をあげる間もなく、熊は地面に倒れ伏した。

 軽く血を払って、シャレンは洞穴に足を踏み入れる。


 すぐ後ろに迫る脅威に、マギサもナイトも気付かずにいた。



  ※             ※             ※


 遺跡の最奥、溶岩の満ちる空間に二頭を持つ巨大な犬が現れた。

 その犬は暑さに驚いたように足をふらつかせ、舌を出す。

 その気配に気付いたのか、この空間の主たる火竜が寝そべった頭を起こし、薄目を開いて二頭を持つ犬を見た。


 余りの迫力に二頭を持つ犬は怯え、実に情けない鳴き声を上げて後ずさる。

 耳も尻尾も垂らし、二つの首も下げて許しを請うように鳴く。

 二頭を持つ犬も巨体とはいえ、火竜のそれとは比べ物にならない。無理からぬことだろう。


 火竜は億劫そうに立ち上がり、その巨体を存分に見せつける。

 たまらず二頭を持つ犬は悲鳴を上げて逃げ去り、壁に寄り添って身を縮めて震えた。

 火竜はそんな二頭を持つ犬に構わず、少しだけ横にずれてもう一度寝そべる。


 震えていた二頭を持つ犬も、相手がこちらを害するつもりがないと知ってか耳を上げて、片目を開けて火竜を見やる。

 火竜も片目だけを開けて、欠伸をするように一声鳴いた。

 何事かの意思疎通でもできたのか、二頭を持つ犬はそっと立ち上がり、おっかなびっくり火竜のいる場所に近づいていく。


 酔っ払いの千鳥足のような風情で近づいたかと思うと、火竜から大きく距離を開けて横に並ぶように寝そべった。

 火竜は片目を上げてその様子を見ると、またも欠伸をするように鳴いた。

 二頭を持つ犬は耳をピンと立てて火竜の方を向くと、実に遠慮がちに一声鳴いて躊躇しながら体を横たえた。



 二匹の魔物は、まるで何かの仲間であるかのように、大人しく並んで寝入ったのだった――

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