第四十話 「オルトロスの森・5」
――部屋の隅で膝を抱えて、あの少女に言われた事をずっと考えていた。
ペロにある、私の知らない所。
沢山あるだろうことくらい、出会った時から分かっていた。
『呪われた存在』だなんていうのも、想像に過ぎない。ペロは本当に犬なんだろうか。そんなことさえ、私は知らない。
あの子は知っているんだろうか。ペロが何者か。
多分、少なくとも私よりは知っているだろうと思った。
危険でない保証は無い。あぁもはっきり言われると、反発する気力さえ湧かない。
思い当たる節がないとは言わない。
半年前、熊を噛み殺した時のペロに私は怯えた。見た目から分かっていたけれど、とてつもない力の持ち主で、人間とは比べるべくもない。
いくら大人しいとはいっても、あの力を見せ付けられた後では誰も近づかないだろう。駆除しようとする気持ちを分からないとは言えない。
それでも、ペロは私を助けようとして力を振るったのだ。
力の強さが恐怖を生み、排除する理由になるというなら、子供にとって大人は全員そうだ。人間の間にだって力の差はある。
どうして人間はよくて、ペロは駄目なのか。ペロが人間じゃないからか。そりゃそうだ。
ペロの優しさを私は良く知っている。一人ぼっちで震えていたことも。
だから、怯えも恐れも捨てられた。そんな風に思った自分を恥じた。私がペロから逃げたら、また独りになってしまう。それだけは嫌だった。
独りになるのはどっちだ。ペロか、私か。
昨夜のペロは私の知らない顔をしていた。敵意と殺意に満ちた、何の躊躇もなく噛み殺そうとする瞳。優しさなんてどこにもない、凶暴な獣。
あれが、本来のペロだとでも言うのだろうか。
そんなことはない。あんなのは、本当のペロじゃない。
果たして、そう言い切る事ができるのだろうか。
今まで見ていたペロの方が、何かの間違いだとすれば。彼らを襲ったというあのペロが、真実の姿だとすれば。
あの子の言うとおり、何かが起こってからじゃ遅いのだとすれば。
膝を抱える腕に力を込める。
そんなことないと否定する度、頭の中で昨夜のペロの姿と一緒にあの子の声が木霊する。
ペロを信じたい。信じている。
それでも、何も知らないことを思い知らされたばかりだ。
そんなザマで、本当に信じていると言えるのだろうか。それはただ、自分の都合のいい幻想を押し付けているだけではないのか。
その幻想のせいで、また誰かが犠牲になったら。
思考が堂々巡りを始めて、一歩も動けなくなっていた――
※ ※ ※
朝も過ぎた頃、ナイトは目を覚ました。
昨夜は驚くことが多くて疲れていたせいか、思っていたより眠ってしまった。
隣を見れば、ベッドの上でマギサが座って杖を膝に目を閉じている。
妙な寝方をしているな、と思えば、マギサがゆっくりと目を開けた。どうやら眠っていたわけではないらしい。
「……おはようございます」
「あ、うん、おはよう」
やや不機嫌そうな挨拶に、いつものように笑って返すとマギサはすぐに視線を逸らした。
昨夜からマギサの不機嫌が直らない。原因は多分、エウリュとペロだろうと思うが、それ以上は良く分からない。
確かにエウリュは軽率なところがあるし、ペロは何とかして助けてやりたいが状況は苦しい。苛立ちを覚えても仕方ない所は多いが、どうもそれ以外の理由がある気がしてならない。
ペロに自分の姿でも見ているのだろうか。それとも、エウリュの方か。
何にしても、情緒不安定なときは思わぬことに足を取られるものだ。その分、自分がしっかり気をつけなくてはいけない。
ベッドから下りたマギサと連れ立って、台所に併設されている食堂に向かう。
流石村長の家というだけあって、居間に応接間、客間に寝室、台所に食堂と部屋数が多い。何でも村の人が集まって宴会を催すこともあるので、こんな作りになっているらしい。
応接間はまだしも、居間と食堂が分かれている家はそうはない。ナイトとマギサが食堂に顔を出せば、家政婦と村長がお茶を飲んでいた。
もしかしたら、自分達が顔を出すまで待っててくれたのかもしれない。若干申し訳ない気持ちになりながら、ナイトが頭を下げる。
「おはようございます」
「おぉ、お二人ともおはようございます」
「おはようございます」
村長と家政婦の挨拶に、マギサも軽く頭を下げて応えた。
二人が椅子につくと、家政婦が席を立ってスープとパンを持ってきてくれる。まだ少し温かい。今日は遅い朝食だったのかもしれない。
食事を始める二人を見ながら、村長が軽く咳払いをする。
「急かすようで申し訳ないのですが、昨夜の件をお聞きしたい」
マギサは黙々とスプーンを動かす。何も言うつもりはなさそうだ。
ナイトは苦笑し、スプーンを動かす手を止めた。
「進展は余り。遠吠えも聞こえませんでしたし」
「えぇ、昨夜は珍しく聞こえませんでした。何かありませんでしたか?」
「何か……ですか」
「あぁ、食べながらで結構ですよ」
村長の気遣いに甘えて、ナイトは止めていた手を動かす。
それはもう昨夜は色々あったが、その話をするわけにもいかない。真剣な村長を前に何も言わないこともできず、思い出す振りをして誤魔化し方を考えた。
「もしかしたら、僕らが森に入ったのを察知して警戒したのかもしれません。勘の鋭い動物は初めて見る相手を注意深く観察するものですから」
「成る程。確かに、そういうこともあるかもしれませんな」
「一応昼も森に行きますが、今夜が本番だと思っています。二日連続で何もしないということはないでしょう」
「分かりました。宜しくお願いします」
深々と頭を下げる村長に、ナイトは罪悪感で串刺しにされる思いだった。
何とか誤魔化す事は出来たが、こんな真似はそう何度も通じない。出来る限り早めに対処しないと、痺れを切らすだろう。
頭の痛い事を飲み込むように、ナイトはスープを胃にかっ込んだ。
「今日は、戻ってこないかもしれません」
突然の呟きに、その場の全員の目が集まった。
六つの目に見つめられながら、マギサはスープを飲み込んで口を開いた。
「仮眠は森に近いエウリュさんの家で取らせてもらおうと思います。何かあってもすぐに対応できるように」
「あ、あぁ、成る程、分かりました」
頷く村長を一瞥もせず、マギサは食事を続ける。
確かに、その方が何かあった時すぐに動けるとは思う。それに、昨夜あのまま別れたからエウリュの様子は気になっていた。あとで挨拶に行こうとは思っていたのだ。
マギサも、昨夜の事を気にしているのだろうか。
不機嫌でも根の優しさは変わらないと分かって、ナイトの顔が綻ぶ。
マギサが何を考えているかまでは分からないが、なんとなくほっとして気が楽になった。
胸のつかえが取れれば腹が空くのが人間だ。
「あ、あの、すみません、お代わりって貰えますか……?」
「はい、はい」
家政婦が器をもって台所へ引っ込み、村長が相好を崩す。
ナイトは恥ずかしそうに笑って、マギサを横目に見る。
マギサは黙ったまま、小動物のように少しずつパンを齧っていた。
窓の下で盗み聞きをしている存在には、ついに誰も気づかなかった――
※ ※ ※
食事を終えて森に入り、昨日と同じくマギサが先導する。
今更昼に何をすることもないが、表立っては何一つ手がかりを掴んでいないことになっているのだから遊んでいるわけにもいかない。
一先ずペロの様子でも確認しようと、印で位置の分かるマギサの後をついてナイトは歩いていた。
木々を抜けた先、森の中の空白地帯。
降り注ぐ日の光も眩しいそこは、ペロが住処とする崩れた遺跡がある場所だった。
地層に埋まる入り口は相変わらずどこか不気味で、ペロの姿はどこにも見えない。
マギサが足を止めたので、ここにいるのは間違いない。おそらくは遺跡の中だろう。
「ペロー? いるかーい?」
ナイトが呼びかければ、遺跡の奥から足音がする。
予想通り遺跡の入り口からひょっこりと顔を出したペロはナイトを認めると、耳を立てて嬉しそうに舌を出す。
「あぁ、いたいた」
小さく手を振るナイトに向かって走り出そうとして、
マギサの姿を見つけてぴたりと止まった。
耳と頭を垂れさせ、躊躇するようにその場を移動する。
マギサがじっと見ていることに気づくと、ペロは情けない鳴き声を上げて遺跡の奥へと引っ込んでいった。
苦笑して振り向くナイトに、マギサはいつもの無表情で一瞥だけして顔を逸らす。
「あー……嫌われちゃったかな?」
「好かれる必要もありません」
きっぱりと言い切るマギサに、ナイトは乾いた笑いをして頬を掻く。
どうやら、不機嫌さは何も直っていないらしい。というより、今ので更に不機嫌になったのか。
そんなに嫌なら少しは優しくしてあげればいいのにと思うが、マギサもマギサで色々思う所があるのだろう。
機嫌の悪さがこちらにまで飛び火しても困る。沈黙は金、ナイトは言葉を飲み込んだ。
何も言っていないのに、マギサからどこか咎めるような視線を寄越され心臓が跳ねる。まさか、何を考えているかまで読まれているのだろうか。
マギサはナイトから視線を切って、森の中へと戻ろうとする。
慌てて背中を追い、隣に並んでできるだけさり気無く話しかけた。
「えっと、これからどうするの?」
「周辺をもう一度調査します。別の遺跡や魔道具があると厄介なので」
「あぁ、ペロの為だね」
何の気無しの一言に、マギサが睨むように見上げてくる。
引き攣った笑みを浮かべて、笑って誤魔化す。間違ったことは言っていないはずだが、なにやら気に障ったようだ。
『魔力』や『魔法』が凶暴化の原因であることは昨夜確認済みだ。その為の対策ということはペロの為のはずだが、そう言われるのは嫌らしい。乙女心は複雑だ。
単にナイトが機微に疎いだけ、という説もある。
「それが終わったら、エウリュさんの家で夜まで待機します。今度こそ邪魔されないように」
「だいぶショックを受けてたみたいだから、思い詰めてないといいけど」
やや眉を顰めて睨めつけられ、ナイトは視線を逸らす。
今日のマギサはやたらと好戦的だ。オルトロスの特性でも移ったのだろうか。
馬鹿なことを考えているとは思うが、余りに普段と様子が違って調子が狂う。ただ、昔よりずっと感情を表に出すようになったのはいいことだと思う。
元々、感情表現は豊かな子ではあったのだ。素直に表に出せないだけで。
少しずつ、マギサも変わってきている。特に、今回はだいぶ露骨に。でも、悪い変化というわけではないはずだ。
もう少し、マギサは自分に素直になってもいい。心からそう思う。
ペロとエウリュの件は、穏便に解決したい。マギサの為にも。
淡い希望に縋るような願いではあったが、ナイトの本心でもあった。
たまには優しい結末があったっていいと、本気でそう思うのだ。
※ ※ ※
日が傾くまで調べまわっても、他の遺跡や魔道具は見つからなかった。
当然といえば当然の話で、遺跡が一つ見つかるだけでも珍しいのだ。二つも三つも見つかるようなら、とっくに噂になって国の査察が入っているはずだ。
夜のことも考えて早めに探索を切り上げ、ナイトとマギサはエウリュの家の玄関を叩く。
中からの返事はなかった。
顔を見合わせて、扉の取っ手を回してみる。
何の抵抗もなく開き、やや薄暗くなった室内に光が差した。
「すみませ~ん……」
尻すぼみになりながらナイトが声をかけるも、返事はない。
何かあったのだろうか。もう一度マギサと視線を交わし、ナイトは中に入る。
「誰かいませんか~……?」
音のなる床を踏みしめて、奥へと進む。
途中の部屋を覗いて見たが、誰もいない。
ついに突き当たりの部屋まで来て、何だか悪いことをしている気分になりながら中を覗く。
そこには、寝たきりの老人とその傍で座り込むエウリュがいた。
窓も開けないまま、エウリュは蹲っている。ナイトとマギサに気がついた様子もない。
もしくは、気づいていてあえて無視しているのか。
四人の中で一番最初に反応したのは、寝たきりのエウリュの祖父だった。
「おぉ……昨日のお客さんですな」
「あ、はい、すみません、返事がなかったもので勝手に……」
「いえ、構いませんよ。申し訳ない、私がこのような体でなければ……」
「いえいえいえ、こちらこそすみません」
申し訳なさそうに首を傾ける老人に、ナイトが大きく手を振って頭を下げる。
マギサは、ただじっと微動だにしないエウリュを見つめていた。
「あの、それで、申し訳ないんですが今夜もまた森に入りますんで、少し休ませてもらえませんか……?」
「えぇ、はい。そういうことでしたら……遠慮なくどうぞ」
すみません、と頭を下げるナイトに、エウリュの祖父は柔らかく笑う。
優しいがしっかりした人だ。エウリュとの血の繋がりを確かに感じる。
その当人は、さっきから背中を向けたままぴくりとも動かないが。
その背中から視線を動かさないマギサにそっと触れて退室した。
適当に空いてそうな部屋に入って、ナイトは座って壁に背を預ける。
マギサも膝を抱えて座り込み、一言も発さないまま目を閉じた。
思っていたよりずっとエウリュはショックを受けていたようだ。あの様子では、今夜は何もできそうにない。
マギサも何か思う所がありそうだし、もしかしたらこの家に来たのは失敗だったかもしれない。
溜息の一つもつきたいところだが、マギサに聞き咎められたらまた臍を曲げられかねない。何とか噛み殺し、少し眠ろうと目を瞑って、
気配を感じて視線を上げれば、戸口の手前にエウリュが立っていた。
驚いて声が出そうになった。マギサはとっくに気づいていたのか、いつもの無表情かつ無感動な瞳でエウリュを見上げている。
エウリュはナイトを一瞥すると、すぐ近くのマギサを見下ろす。
「何をしにきたんですか」
「夜に備えて休みに」
淡々としたマギサの答えに、エウリュが唇を噛み締める。
口を挟める空気ではとてもなく、ナイトは黙って事の成り行きを見守った。
「また、ペロを虐めるんですか」
「事実調査をするだけです」
「そうして、ペロを殺すんですか」
マギサは何も答えなかった。
エウリュの体が震え、ぽたりぽたりと床に染みが出来る。
「約束して下さい。ペロを殺さないって。そうしたら、私何でもしますから」
親を亡くし、祖父も倒れた少女にとって、あの魔物がどれほど救いになったかは最早考えるまでもない。
ただの狩りのパートナーというだけではない。そこには、誰も入る余地のない絆があるのだろう。
そのくらいのこと、マギサにだって分かっていた。
分かっていて、何も言わなかった。
「どうして……約束してくれないんですか……?」
隠しようのない震える声に、マギサはそれでも無言を貫いた。
エウリュの方を見ないよう、俯いた。
見ればきっと、余計なことを言ってしまうから。
「それならせめて、放って置いてはくれないんですか!?」
空気を震わすエウリュの叫びに、マギサは表情一つ変えずに言う。
「放って置いても、何も解決しません」
エウリュが俯き、奥歯を噛み締める。
マギサ、杖を抱きしめた。
「解決って……なんですか……?」
掠れた響きの中に、微かな怒りの色が混ざる。
マギサは俯いたまま、微動だにしない。
「……あなたがペロのこと、どのくらい知っているっていうんですか……」
「少なくとも、貴女よりは」
エウリュは勢いよく顔を上げ、敵意に満ちた視線でマギサを睨み付ける。
マギサはそれでも、エウリュの方を見なかった。
「じゃああなたは知っているんですか!? あの子が耳の裏を掻いてもらうのが好きなことや、鳥の羽ばたきに怯えて周りを見るときの顔や、遊んでほしいときの尻尾の振り方を!?」
搾り出すような声が部屋の中に響く。
マギサの瞳は小揺るぎもしない。そのことが、益々エウリュの心を逆撫でしていく。
「いい匂いのする花を避けようとして変な歩き方をしたり、兎すら捕まえられずに逃がしたり、凄く不器用なお手をしたり、どうして、」
喉を詰まらせながら、それでも抗うようにエウリュは言葉を叩きつけた。
「どうしてそんな子が、殺されなくちゃいけないんですか!!」
「危険だからです」
ただ一言。
突き放すような冷たい言葉は、エウリュに直撃して口を封じた。
何かを言おうとして口を開いては閉じて、結局何も言わずにエウリュは背中を向けて走り去っていく。
何と声をかければいいか分からず、ナイトは去っていくエウリュとマギサを交互に見やる。この場合、どうしたらいいのだろうか。
マギサはエウリュを一瞥すらせず、杖を抱えたまま目を閉じた。
「ナイトさん、少し休んでおかないと夜が辛いですよ」
「あ、うん……そうだね」
結局はマギサに従って、ナイトは壁に背を預けた。
マギサの言うことは何も間違っていない。けれど、どこか違和感を覚えるのは何故だろうか。
自分に言い聞かせているような、無理に割り切ろうとしている感覚。
もしもの時に備えているのだろうか。ペロを始末するしかなくなった時の為に。
何にしても、今の状態では明るい未来がまったく見えない。
一筋縄でいかないことだけは、ナイトにも嫌というほど分かっていた。
※ ※ ※
――その少年は、名をティオと言った。
平凡な村の百姓の息子であったが、彼にはむやみやたらに行動力があるという非凡な才能があった。
更に言えばエウリュに惚れており、エウリュが一人で狩りに行くのを最後まで反対していた人物でもある。
大人達を連れてエウリュの手伝いに行った事も何度もある。邪魔だと言われた事もあるが、背伸びをしているだけだと思っていた。
エウリュの両親についてはティオとて知っている。変に自分の所為だと気負うことはないのだと伝えたかったが、エウリュに届いた様子は一つもない。
さて、そんなティオ少年であったが、村に来た余所者が森の異変の調査を請け負ったと聞いて大人しくしているはずもない。
森の異変はティオとて気にしていたのだ。ただ、大人達から下手に踏み入るなときつく言われていたし、エウリュにも特に変わった様子がないので置いておいた。
しかし、余所者が首を突っ込むとあっては黙っていられない。森はエウリュ達一家の仕事場だし、村の問題でもある。見事解決してエウリュにいいところを見せるのは自分の役目だ。
しかも、余所者の一人は男だ。負けてなどいられない。
朝から村長の家に張り込んだ結果、今夜の森での調査が本番という情報を手に入れた。先んじて森に入り、遠吠えの原因を見事探し当てるのだ。
畑での手伝いを終え、大人達が談笑しながら家に帰る隙を見計らって村を抜けて森に入る。
そういえば、あの余所者達はエウリュの家で仮眠を取るらしい。
あの男、エウリュに変なことをするつもりじゃないだろうな。気になるところではあったが、エウリュの腕っ節は中々のものがあったし、そんな度胸があるようにも見えなかった。
もしも何かあったらとっちめてやる、と肩を怒らせて森の中を歩く。
森の異変を解決し、余所者をとっちめればエウリュの心もこちらを向くはずだ。そうすれば、三年前の悲劇からも解き放たれるだろう。
楽観的に過ぎる思いを抱えて、ティオ少年は藪を掻き分け下生えを踏みしめて森の中をさ迷い歩く。
遠吠えの原因を探すといっても、特に当てがあるわけでもない。とりあえず奥へ奥へと進んでいけばなんとかなるだろうという考えだ。
軽く鼻歌さえ歌いながらティオは進む。それはまさに、警戒心を欠いた間抜けの姿だった。
ゆっくりと日も落ち、木漏れ日が赤く染まっていく。
その赤い光を切り取る大きな影が、突然ティオの前に現れた。
ティオの1.5倍はあるかという高さに、横幅は倍ではきかない。鋭い爪と牙は本能的な恐怖を引き起こし、腕の太さはティオの腰ほどもあった。
熊。山や森に住まう最強の動物。
獲物を見つけた歓喜の咆哮に、ティオの全身は金縛りにあったように射竦められた。
腰が抜けて尻餅をつく。運が良いことに、丁度熊の前足が空ぶって髪の毛を数本刈り取るに留まった。
「ひ、い、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
恐怖に引きつった叫びを上げ、這いずって逃げる。
もう一度熊が振るった腕は、今度は大木に邪魔された。
苛立ち紛れに大木を薙ぎ倒し、ゆっくりとした足取りで這いずるティオに近づく。
荒くなる呼吸に気づく余裕もなく、ティオは熊を見つめて必死で記憶を探る。
何だっけ、確か昔にエウリュの両親から教えてもらったことがあるはず。熊と会った時の対処。ちっとも思い出せない。
素手で敵う相手にはとても思えない。武器があったところで自分じゃ無理だ。逃げるしかない、でも確か逃げ方も何かあったはず、何か。
何一つ思い出せないまま、熊はティオの目の前まで迫ってきた。
こみ上げてきた涙に視界が揺れる。
そのせいだろうか、熊の背後にそれよりも大きな影が見えた。
熊のものではない咆哮が聞こえたと思ったら、熊が何かに噛み付かれていた。
苦しげな悲鳴を上げて熊が暴れる。
そんな抵抗も意に介さず、その『何か』は噛み付いた熊を持ち上げた。
それは、余りにも巨大な二つの頭を持つ犬だった。
熊よりも高く、熊よりも太い。持ち上げた熊の悲鳴が強くなる。
噛み砕こうとしているのだ、と気づいたときには大きな噛み跡のついた熊の体が地面に落ちていた。
雨のように赤い血が降る。
焼けた光と合わさって、ティオの視界がすべて真っ赤に染まった。
「ひぃぃぃぃわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
何も考えられなかった。
無我夢中でその場から逃げた。
抜けた腰がいつの間に元に戻ったのかさえ分からない。とにかく一刻でも早く離れなければ殺される。
涙も鼻水も、気にしている暇などどこにもなかった。
どこかから溢れてきた無尽蔵の力は、村に戻るまでティオの足を動かした。
※ ※ ※
ナイトが目を覚ましたのは、殴りつけるように鳴らされるノックの所為だった。
只事ではない様子に腰を上げれば、マギサも同じように起きていた。
視線を交わして玄関に向かえば、そこにはエウリュも来ていた。
マギサと目を合わせて互いに視線を逸らし、殴りつけられる玄関を見やる。
誰も事情を理解していないことを確認して、代表してナイトが扉を開けた。
そこには、厳しい表情をした村人達が松明と武器を手に、大挙して押し寄せてきていた。
「あんたが、村長から森の調査を頼まれた人かい!?」
「え、えぇ、はい、そうですけど……」
勢い込んで尋ねる声は、怒りと決意に満ちていた。
一体何がどうしたというのか。目を白黒させるナイトに構わず、村人は後ろにいるマギサとエウリュにも視線を向ける。
「エウリュもいたか! 丁度いい、今から化け物退治に向かうぞ!」
「……化け物退治?」
村人の言い分に最悪の予想を感じつつ、尋ね返す。
もう月も出ている夜だというのに、松明の明かりで外にいる村人達の顔はよく分かる。
皆血気に逸っていて、冗談ではすまないものがあった。
「そうだ! 森には巨大な犬の化け物が巣食ってやがったんだ!!」
「村の子供、ティオが襲われた! 相手は熊さえ噛み殺す化け物だ! 人手はいくらあっても足りねぇ、あんたらも手伝ってくれ!!」
決定的な言葉が出た。
熊さえ噛み殺す、巨大な犬の化け物。間違いない、ペロのことだ。
しかも、村の子供が襲われたという。
想定していた最悪の事態が起こってしまった。
だが、一体どうして。あの大人しいペロが人を襲うだろうか。それとも、何かしらの切っ掛けで凶暴化してしまったのか。
考える暇は、与えてもらえそうになかった。
「エウリュ! 森ん中はお前が一番詳しいんだ、手伝ってくれ!!」
疑問をとりあえず押し殺して、肩越しに後ろを振り向く。
エウリュは目を見開き、呆然とした表情で玄関先でのやり取りを見ていた。
信じられないのだろう。無理もない。ナイトとて、こうして聞きながらも嘘ではないかと疑ってしまっている。
だが、村人達の顔を見れば、それが真実であろう事は想像に難くなかった。
「あの、その子供は無事なんですか?」
「あぁ、必死で逃げてきたんで何とか無事だった! さぁ早く!」
「いや、ですが、夜の森は危険です。明日の昼でも、」
「ふざけたこと言ってんじゃねぇ! 化け物だって夜は休む、そこをついてすぐに殺すんだ! このままのさばらせたら、どんな被害がでるか分かったもんじゃねぇ!!」
駄目だ、完全に頭に血が上っていて話が通じない。
化け物が夜休むなんて決まりごとはどこにもない。まして、ペロは魔物だ。休息も食事も必要ない。夜に挑むのはむざむざ殺されにいくも同然だ。
それに、子供が逃げて無事だった、というのも気になる。ペロが本当に凶暴化していたのだとしたら、子供が逃げたくらい簡単に追いつけるはずだ。
何か追いかけられない事情があったのか、それとも凶暴化はしていなかったのか。
悠長に考える暇は与えてくれなかった。
「この腰抜けェ! もういい、俺達だけで行く! エウリュ!!」
声に釣られて一歩前に出ようとして、エウリュは腰が抜けたようにへたりこんだ。
心ここに在らずといった体のエウリュに、村人は顔を顰めて声を荒げる。
「分かった、お前はここにいろ! お前ら行くぞ!!」
ナイトと話していた村人が号令をかけ、背中を向ける。
もうどうしようもない。このまま行かせたら、間違いなくペロは追い立てられて下手をすれば殺される。
判断に必要な時間は残されていなかった。
「待ってください! 僕も行きます!」
村人を呼びとめ、振り向いた顔に頷いてみせる。
とにかく、できるだけ時間を稼ぐ。出来ればその間に逃げて欲しい。もう、その可能性に縋るしか取れる手段はなかった。
「森には慣れています。ここの森も大体の地理は覚えました。夜ですし、僕の指示に従ってください。そうでなければ、命の保証はしません」
「……分かった。頼むぞ、兄ちゃん」
話していた村人が、他の集まった人達に説明を始める。
その隙に家の中に取って返し、マギサに耳打ちする。
「後は頼むよ。別行動になるから、シャレンには気をつけて」
頷くマギサから身を離し、エウリュを一瞥する。
茫然自失といった具合で、多分もう何も見えていないし聞こえていないだろう。
出来ればマギサと離れるのは避けたかったが、この状態のエウリュを放置していくわけにもいかない。
昨日の村への帰り道で話したもしもの時が来るかもしれないことを、ナイトは感じていた。
鉢合わせたら、何とかしてペロを逃がさなくては。
無茶な事をする覚悟を決めて、ナイトは村人達を先導して森に入っていった――




