第三十八話 「オルトロスの森・3」
――お爺ちゃんが倒れたのは、私の所為だ。
二年前にお父さんとお母さんが死んでから、本来は引退していたはずのお爺ちゃんが頑張るしかなくなった。
村の人達も手伝ってくれたけど、やっぱりお爺ちゃんが先導するしかなくて、日に日に疲れて無理が降り積もっていくのを私はただ見ているだけだった。
私が一人で何とかする、と言ったこともある。子供が無理をするなと笑ってくれた。
その優しさが、私には何より辛かった。
だって、お父さんとお母さんは私を庇って死んだから。
お爺ちゃんが引退できなくなったのは、私の所為だから。
無理をさせているのが自分だと思うと、耐えられない気持ちになった。
夜毎眠る前に津波のように押し寄せてくる自己嫌悪が、爪先から全身を浸していく。
呼吸さえ苦しくなったのは、狩りの最中に無理が祟ってお爺ちゃんが倒れたのを見た時だった。
村の皆に手伝ってもらって家に運んで、村長さんに診て貰った。知っている限りの薬草だって煎じてみた。
何をしても、お爺ちゃんは治らなかった。
病気は誰の所為でもないと、皆は言う。本当にそうだろうか。無理をしなければ、引退できていれば、こんな病気には罹らずに済んだんじゃないだろうか。
お父さんとお母さんが生きていれば、お爺ちゃんは倒れずに済んだのではないだろうか。
町からお医者さんを呼ぶお金なんてどこを探してもない。私に出来る事は何もなくて、精々お爺ちゃんがベッドから動かずに済むようお世話をすることくらいだった。
夜毎に私を責める声が、ついに実体を伴って首を絞めてくる。そんなもの幻覚に過ぎないけれど、本当にそうだったらいいと何度も思った。
もう嫌だった。
誰かに迷惑をかけるのも、誰かが自分の所為で苦しむのも。
だから、お爺ちゃんの容態が一応の安定を見た夜、私は決めたのだ。
これからは一人で狩りをしようと。
いつか仕事を継ぐことは決まっていた。それが早いか遅いかだけの違いだ。
知識はもう十分にある。経験だって少ないとはいえ積んだ。出来ないなんてことはない。
当時から無茶な話だとは思っていたが、もうそれしか考えられなかったのだ。
他に何も思いつかない。これ以上何もできないのは嫌だ。自分が疫病神にしか思えなくなる。
翌朝、お爺ちゃんが寝ていることを確認して弓矢と鉈を持って森に入った。
獲物を獲るつもりはない。その日は予行演習のつもりで、森中を歩き回った。
狩人にとって、地形の把握と動物達の縄張りについては必須知識と言っていい。その二つがなければ、どんなに弓の腕が良くても宝の持ち腐れだ。
子供の頃から教え込まれていたお陰で全部頭に入ってはいる。それでも、特に縄張りは変動するものだ。確認がてら、大丈夫であると自分に言い聞かせるつもりだった。
森の様子はいつもと変わらず、明日からの狩りに使う自信を奮い起こしていく。大丈夫。覚えている。問題は何もない。
一人でもやれる。一人でやらなくちゃいけない。
深呼吸して木々の間を抜けると、ぽっかりとした空白地帯に出た。
むき出しの土と、燦々と降り注ぐ光。正面は段差になっていて、地層が露になっている。
一番目立つのは地層を穿つように空いた穴で、私の身長の軽く倍以上はある。崖というほど高くはないのが、逆に厭らしい。怪我をしたり事故を起こすのは、大抵こういう油断を誘うような場所だと教えられた。
そこまで考えて、一度この場所に来たことがあるのを思い出した。
三年程前だっただろうか。森の中にこれほど開けた空間があるのが珍しく、穴の中には何があるのかと不用意に入っていこうとしたのをお父さんに怒られた。
何でもここは、呪われた地らしい。遥か昔に居たという『魔法使い』が住んでいて、それは恐ろしい儀式を行っていたということだ。
どこにでもある伝承の一つ。そんなことを言うならここら一帯全て呪われた土地ではないかと思うのだが、どうやらこの穴のある付近だけをそう言うらしい。
かつての『魔法使い』の住居だというが、そんな大層なものには見えない。ただ、お父さんが怖い顔で睨んでいたので中に入ることは諦めた。
それからずっと、そのことは忘れていた。多分、意識させないように二度と訪れないよう両親が誘導したせいだろう。もちろん、お爺ちゃんも。
呪われた地。そんなこと、信じているわけじゃない。段差といい危険な箇所だから、近づかないように伝承を利用しただけだろう。
穴の縁に手を置いて、中を覗き込む。
もしもその話が本当なら、中に入れば呪われて死ぬのだろうか。お爺ちゃんを遺して死ぬわけにはいかない。
でも、もしも私が死ぬことでお爺ちゃんが元気になったら?
何の根拠もない妄想が頭の中を走り抜ける。私がいなくなれば、お爺ちゃんの病気が治ったりはしないだろうか。
しないだろう、普通。
でも、病気の原因がわからないなら、何をすれば治るかも分からないってことじゃないか。
だとしても、意味が分からない。
お爺ちゃんの代わりに私が死ぬと考えれば、
馬鹿の考えにも程がある。
穴の中は真っ暗でろくに何も見えなかったけれど、一番奥は何故か薄っすらと明かりが灯っていて行き止まりであることが窺えた。
そこで、何かが動いた気がした。
全身に緊張が走る。
森の中の洞穴を住処にしている動物は結構いる。全て危険というわけではないが、巣に近づかれた動物は時に凶暴になって襲い掛かってくる。
しかも、ふと見えた『何か』は、かなりの大きさだったように思う。もしかしたら、
もしかしたら、熊かもしれない。
二年前にお父さんとお母さんを殺した仇。恐怖で一歩も動けなかった自分。
唾を飲み込んで、弓を構えて矢を番える。
絶対に許さない。
相打ちでもいい、殺されたっていい。
絶対に殺してやる。
行き止まりの明かりが、不自然に遮られる。
間違いなく、何かがいる。巨大な何かが。
弓を引き絞り、狙いを定める。暗くて影すら見えなくなるのに、狙いも何もあったもんじゃない。ただ、気配は少しだけ感じる。
それを頼りに、殺意と共に鏃を向ける。
荒くなる呼吸を抑えることもできず、瞬きすらせず影を探す。
微かに、明かりが遮られた気がした。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁあああぁあぁぁっ!!」
自分の上げた叫びに呼応するように、怯えた犬の鳴き声が聞こえた。
放たれた矢は壁にぶつかり地面に落ち、悲鳴の主は洞穴の一番奥に逃げて丸まる。
何が光源かも分からない微かな明かりに照らされて、震える巨体が目に飛び込んできた。
闇に溶けるような真っ黒な毛並み。家よりも大きな洞穴が犬小屋に見える巨体。何より異常なのは、太い胴体から伸びる二本の首と頭。
明らかに化け物としか思えない風体の犬のような何かは、耳を垂れさせ前足を頭に当て、私に怯えるような目を向けて震えていた。
何故か少し罪悪感が湧いて、小さく声をかける。
「ご、ごめんね……?」
私の声が聞こえたかのように、上目遣いにこちらを見てくる。
殺意も敵意もどこかに消え失せて、謝りたい気持ちで一杯になった。
こんな化け物、今まで見たこともない。明らかに普通の動物ではなく、頭の中をお父さんから教えられた伝承が過ぎった。
『魔法使い』が住んでいた呪われた地。
だとすれば、この子は呪われた犬なのかもしれない。
異形の姿になってしまい、群れにも戻れず何が起きたのかも分からず、一人ぼっちで隠れ住んでいたのかもしれない。
誰にも頼れず、一人ぼっちで。
足が自然と動いた。
怯えさせないように、ゆっくりと。
出来るだけ笑顔を作って、怖がらせないように近づく。
怯えたように見つめていたその子は小さく後ずさる。
足を止めて、囁くように語り掛けた。
「驚かせてごめんね。あなたが住んでいたって知らなかったの」
笑いかけると、後ずさるのをやめて様子を窺うように頭を低くした。
一つ息を吐いて、足音を余り立てないようにもう一度近づく。今度は逃げなかった。
手が届く距離までくると、その子は顔を近づけて臭いを嗅いできた。邪魔をしないように、そっと顔を撫でる。
一人で寂しかったのかもしれない。二つの頭を持つその子は、恐る恐るといった具合で手を舐めてきた。
緊張が解け、肩の力が抜ける。相手が分からないのに、早とちりで殺意を漲らせていた自分が恥ずかしく思える。
そんなことだから、お爺ちゃんが引退できなかったのだ。
冷静であれ。お父さんもお母さんも、口を酸っぱくして言い聞かせてくれていた。それが出来なかったから、二年前の悲劇は起こった。
深く息を吐いて、舐められていない方の手で顎の下を撫でる。
見境のない真似は止めよう。冷静な判断をしなくては、本当に命を落とす。そうなれば、悲しむのはお爺ちゃんだ。
命がけで助けてくれたお父さんやお母さんにも申し訳が立たない。
巨大な犬のようなその子の、もう一つの頭が甘えるように擦り寄ってきた。
「……ありがとうね」
顎の下を撫でてあげると、嬉しそうに鳴いた。
この子のお陰で振り返ることができた。呪われた存在だとして、私にとっては祝福だ。
気持ちよさそうに目を細める異形の化け物に、私は救われた。
私はその子に、『ペロ』という名前をつけた――
※ ※ ※
オルトロス――『ペロ』という名前らしい――を背後に庇うエウリュと対峙し、ナイトとマギサはどうしたものかと頭を悩ませていた。
魔物を庇われる、というのは初めての経験で、どうしていいものやら分からない。
エウリュの顔は真剣で、冗談や悪戯でないことが十分に伝わってくる。それだけに、ナイトは何を言ったらいいものやら手をこまねていた。
先に口を開いたのは、マギサだった。
「エウリュ。貴女が庇っているものが何か、分かっていますか」
「ペロです」
間髪いれず言い返したエウリュに、マギサが首を振る。
「それはオルトロス。魔物です」
「だから何ですか。ペロはペロです」
淡々と言うマギサに、エウリュも一歩も引かない。
マギサの眉が微かに動いたのを、ナイトは見逃さなかった。
「その魔物は、貴女ぐらい一瞬で挽肉に変えます」
「ペロはそんなことしません」
「オルトロスは好戦的で凶暴です」
「ペロは大人しい子です!」
エウリュの叫びに、マギサが言葉を詰まらせた。
確かに、このオルトロスは凶暴とは程遠い有様を晒している。
今も怯えたようにこちらを上目遣いで窺っており、垂れた耳を前足で抑えるようにして身を縮こまらせていた。
マギサが知識として知っているオルトロスからはかけ離れた仕草であり、エウリュの反論に返す言葉はない。
しかし、あの崩れた遺跡の中で襲われたこともまた事実なのだ。
「先程、私達はその魔物に襲われました」
驚いたように目を見張り、エウリュがオルトロスの方を振り向く。
小さな鳴き声をあげて、オルトロスがエウリュと目を合わせた。
口を引き結び、エウリュはもう一度両手を広げてマギサを睨みつける。
「例えそうだとして、何か理由があるはずです!」
「今の状態の方にこそ理由がある、とは思いませんか」
何かしら理由があることくらい、マギサにだって分かっていた。
だが、それは果たして『凶暴になった事』に理由があるのか、『大人しくなった事』に理由があるのかは判然としていない。
どちらにしても、村長からの依頼もある。何かあってからでは遅いのだ。
いつもの無表情で見つめるマギサに、黙ったまま睨み返すエウリュ。
険悪な雰囲気が漂う二人の間に、ナイトが割って入った。
「あー、二人ともちょっと待って。事情がよく分からないしさ、もっとよく話し合おう? ね?」
ナイトの取り成しに、二人は小さく肯き返す。
引き攣ったような苦い笑みを浮かべて、ナイトが襟足を弄る。
「さて、それじゃあどこから話してもらおうかなぁ……」
マギサとエウリュの顔を交互に眺めながら、ナイトは小さくため息を吐いた。
※ ※ ※
一頻り事情を聞き、ナイトは腕を組み、マギサは表情を変えぬまま考え込んだ。
このオルトロス――ペロは、一年前にエウリュが崩れた遺跡で見つけたらしい。この辺りに伝わる伝承では遺跡周辺は『呪われた地』と呼ばれており、『魔法使い』がかつて住んでいた場所とされている。
そして、エウリュはペロを『呪い』によって異形となった犬だと思っており、保護していたようだ。
慣れてくると一緒に狩りに出かけるようにもなり、それが村の男衆に手伝いを頼まない理由になっていたらしい。
ペロが十分役に立ってくれるし、何よりその姿を見られたら間違いなく騎士団に通報されると思ったとのことだ。
それはそうだとナイトもマギサも思う。間違いなく討伐対象だろう。
性格は臆病だし、匿っていれば何事も起きないから大丈夫だと考えていたらしい。甘い見込みとしか言いようがないが、この大人しさを見れば無理もないかと思う。
「遠吠えは……習性だから仕方ないと思っていました。でも最近、少し増えてきていて……」
「何か心当たりは?」
ナイトの質問に、エウリュは首を横に振る。
「何か理由があると思うんです。そうでなければ、ペロがそんなことするはずありません」
エウリュの言葉に、ナイトとマギサは顔を見合わせる。
言わんとすることは分からいでもないが、実際に襲われた身からすると難しい問題だ。
理由があるとして、果たして悠長に探していていいものか。というより、それは探して何かしら分かるようなものなのか。
どちらにせよ、何かしら対策をしないと村人の不安は払拭されない。
「一先ず、一旦戻ろうか。これからどうするか考えなくちゃいけないし、とりあえず差し迫った危険があるわけでもなさそうだし」
ナイトはそう言って、笑顔を浮かべながらペロに近づく。
身を丸めて伏せているペロの前に屈み込んで、そっと手を出す。ペロはじっとナイトを見つめていたかと思うと、恐る恐るいった具合に差し出された手の臭いを嗅ぎ出した。
マギサは声もなくその様子を見つめる。
一瞬心臓が止まるかと思った。
さっきまで命のやり取りをしていたはずなのに、ナイトはそんなことさっぱり忘れたように無防備に笑っている。
噛み付かれれば手首から先があっさりなくなるというのに、鼻を寄せて嗅ぐオルトロスの好きにさせていた。
暫くすると、好奇心に負けたように小さく舌を出してオルトロスがナイトの手を舐めた。
「おぉ、舐めた舐めた」
ナイトが嬉しそうに笑って、顎の下を撫でてやる。
オルトロスは目を細めて、甘えるようにナイトの手を舐めた。
マギサの肩から力が抜け、なんだかいろんなことが一気に馬鹿らしくなった。
確かに、これはどちらかといえば『凶暴になった事』の方に理由がありそうだ。
だが、『大人しいオルトロス』なんてものがありえるのだろうか。『使役』が弾かれたこともそうだし、それでいきなり凶暴性がなくなったのも気にかかる。
預かり知らぬどこかで、何か魔物に関する大きな事件が動いている気がする。
それが何かは、今はさっぱり分からないが。
もしかしたら、このオルトロス――ペロの状態は、そこに原因があるのかもしれない。そうだと仮定すれば、想像できないことがないではないのだ。
魔物が増えているという点も含めれば、今考えられることは二つ。
どこかで誰かが、『魔道具』を使うなりして魔物を造っている。もしくは、何かしらの『魔道具』がどこかで暴走している。
この『大人しいオルトロス』は、その結果生まれた欠陥品だとすれば。
あの時杖に溜めていた『魔力』が、オルトロスの本能を刺激したのだとすれば。
ペロの『凶暴化』にも、筋が通るような気がする。
だとしても、夜の遠吠えの回数が増えたことについては分からないが。
もし想像通りペロが欠陥魔物として生まれたのなら、そのことが影響しているのかもしれない。本能の発露が遅れてきている、とか。
何にしても、今の段階では憶測に過ぎない。考えるだけ変にドツボにハマっている気がしなくもないのだ。
早速ペロとじゃれ合うナイトを横目に、マギサもペロに近寄る。
エウリュの前を通り際に、一瞬だけ視線を交し合う。
エウリュの目は、どこかで見たような色を帯びていた。
どこで見たのか。上手く思い出せない。とてもよく見ていたような気がするのだが。
二つの頭でナイトとじゃれあうペロの胴体に手を寄せ、『魔法』で目印をつける。『魔力』を溜める必要もないほど単純なものだ。
一瞬、ペロの体がぶるりと震えた。怯えとは違う種類の、どちらかといえば武者震いに近いような。
「ペロ? どうかしたかい?」
心配気なナイトの声に、ペロが元気に鳴いて応える。
もしかしたら、本当に『魔力』や『魔法』に反応するのかもしれない。『使役』で正気に戻ったのは、何らかの相関作用を及ぼしたのか、それとも単純に『魔力』が消えたからか。
後でナイトに話す必要がありそうだ。何かあった時に補助してもらわなくては。
振り向けば、エウリュが睨みつけていた。
「何をしたんですか」
「何も。私は嫌われているようです」
適当に誤魔化して、ペロから離れる。
これで少しはエウリュも安心するだろう。
ふとじゃれ合うナイトに目を移したときに思い出した。
エウリュのあの目。あれは、ナイトが自分を守ってくれるときの目と同じだ。
大事なものを、例え何に逆らおうとも守ろうとする瞳。
自分とペロがほぼ同じ状況にあることを、マギサは気づかない振りをした――
※ ※ ※
――ペロのことを、私は誰にも喋らない事にした。
誰に話しても大事になるだろうし、下手をしたら騎士団を呼ばれて駆除されかねない。
呪われた地に住む呪われた存在など、誰も情けをかけるわけがない。
だから、私はペロを匿うと決めたのだ。
狩りの手伝いはいらないと、村長さんにもきっぱりと言い切った。それでもたまに村の人達が勝手に来る事があったが、その時はペロが見つからないよう誘導した。
中でもしつこかったのは一つ年下のティオで、大人達を連れてくるのが鬱陶しかった。相手をするのも面倒で、邪魔だとはっきり言ったこともある。
ペロと一緒にいるときは、辛いことを忘れられた。
一人の狩りが上手くいかない日もあったけれど、いつもペロに慰めてもらっていた。
一人前になれば、ペロが見つかる危険もぐっと下がるし、お爺ちゃんも安心できる。努力を惜しむ理由はどこにもなかった。
ペロは、すぐに私に慣れてくれた。
案外甘えん坊で、私が行くとすぐに尻尾を振って近寄ってきて顔を舐めてくる。
本当に大人しくて、私と遊ぶときはいつも自分の体が大きいのを気にしてそっと触れてくる。
臆病すぎるところもあって、遊んでいても藪が音を立てるとすぐに悲鳴を上げて私の後ろに逃げ込む。顔を出したのが兎であっても、私が大丈夫というまでは震えて蹲っているのだ。
そんな有様で、ちゃんと狩りは出来ているのだろうかと不安になる。ペロが何かを食べているところを、私は見たことがない。それでも、やつれた様子などはないからしっかり食べているのだろう。
ペロと一緒に遊ぶようになって一月、私たちはたまに狩りに繰り出すようになった。
森の歩き方を教え、狩りの仕方を教える。ペロはよく私の言うことを聞いて、普段は臆病な癖に狩りのときだけは頑張って吼えて獲物を追い立てたりする。
多分、私が褒めるからだろう。最初はそれは酷いものだった。獲物から逆に逃げることもある始末だ。
それでも、ペロは獲物を自分の爪や牙で仕留めることはしなかった。私が捕まえてといっても、躊躇してろくに出来た試しがない。
まるで、自分の力に怯えているように。
無理強いはしたくなかった。だから、狩りに出るときはいつも仕留めるのは私で、ペロには私を乗せて走るか追い立てる役目を与えた。
上手くやれていたと思う。私とペロの連携は抜群で、狩人としての腕は一人前といってよかった。
村の皆も驚いて、もう無理に手伝いに来ようとする人はいなくなった。
ペロと一緒に狩りをして、お爺ちゃんの世話をする。そんな日常が続くのだと思っていた。
事件が起きたのは、ペロと出会ってから半年が経った頃。
いつもの場所に迎えに行くと、ペロがいなかった。
どこかで散歩でもしてるのかと思って、そのまま狩りに出た。ペロがいなくても、一人でも獲物を選べばなんとかなる。
森を歩いている内に見つかるだろうと、気軽に考えていた。
兎を一羽狩った時から、足音は聞こえていたのだ。
森の中でゆっくり歩く大きな足音と言えば、ペロ以外にいない。そう思い込んでいた。
おかしいところはあったのだ。
ペロは私を見ると、いつも駆け寄ってくる。なのに、この足音は明らかに私の方に向かってきているのにゆっくりとした足取りは変わらなかった。
まるで、獲物に気づかれないようにしているかのように。
驚かそうと思って、気づかない振りをした。
すぐ近くまで来たら、いきなり振り向いてやろう。きっとまた悲鳴を上げて逃げ惑うはずだ。そんな悪戯心を発揮して、深くは考えなかった。
足音が真後ろまで迫り、完璧なタイミングを計って振り返り、
右目が潰れている熊が、二足で立って前足を振り上げていた。
目の前の事態に頭がついていかず、体が反射的に振り上げていた右側の方向に向かって跳んだ。
振り下ろされた熊の前足は空振り、私は地面に転がる。
何も考えなくても体が反応して体勢を整え、低い姿勢で立ち上がった。
何が起きたのか理解できない。目の前にいるのはペロじゃない。右目を失った熊だ。
体の近くを通った風圧だけで、前足の威力の危険さはよく分かる。あんなものをマトモにくらったら、首ごと頭が吹き飛ぶか体が宙を舞うことになる。
右側に逃げた私を見失ったのか、熊が周囲を探すように立ち止まる。
逃げようと一歩後ずさると、その音で気づいたのか熊がこちらを見た。
その顔に、どこか覚えがあった。
軽く倍以上の体躯に、潰れた右目。凶暴な顔と、身の毛もよだつような唸り声。
頭の中から引きずり出されるように思い出す。二年半前、森を舐めきっていた私と、深刻な顔で話し合うお父さんとお母さん。
突き飛ばされた痛みと、飛び散る血。耳鳴りのように響くお母さんの声と、痛みに怒り狂う咆哮。
間違いない。こいつだ。
お父さんとお母さんを殺した熊だ。
心の中に暗い感情が沸き起こり、弓を構えて矢を番え、心臓を狙って放つ。
殺してやる。
殺意をこめた矢は狙い過たず熊の胸に突き刺さり、鼓膜を破らんばかりの悲鳴に変わる。
だが、致命傷ではない。
またも右前足を振り上げて近づき、力任せに振り下ろす。
紙一重でまたも右側に転げて避け、今度は起き上がりと同時に逃げて距離をとる。
こちらの位置に気づかれないうちに、弓を引き絞ってもう一度放つ。またも胸に刺さるが、致命傷にはならない。毛皮と肉に防がれて内蔵に致命的な一撃を与えられない。
熊は怒り狂って暴れ回り、ついに手当たり次第に破壊し始めた。
次の矢を番え、打つ。暴れる熊に狙いがずれ、腕に刺さってしまう。そこで矢が放たれた方向を核心したのか、こちらに向かって突進してきた。
速い。
飛び退こうとしても間に合わず、掠ってしまった。
たったそれだけで、思い切り放り投げられたように体が宙を舞う。
内臓が押しつぶされるような衝撃が襲い、ぐるりと回転して肩から木にぶつかる。思い切り地面に背中をぶつけ、呼吸が止まる。
三半規管が悲鳴を上げ、吐き気が喉元までこみ上げてくる。弓はどこかに取り落とし、手の中にはなにもない。
息をしようと必死に胸が震え、手が勝手に草を握り締める。
視界も頭も揺れてよく分からないが、熊が吼えた気がする。
揺れた視界の片隅で、熊がこちらに近づいてくるのが見えた。
まだだ。まだ生きている。まだ戦える。
鉈に触れようと手を動かしても、何一つ自由にならない。意思とは裏腹に体は痙攣を繰り返すばかりで、一矢報いることさえできそうにない。
悔しい。苦しい。辛い。悲しい。
仇が目の前にいるのに、二年半前のあの時のように私はまた何もできずにいる。
四足のまま熊が私に覆い被さり、赤ん坊くらいなら丸呑みにできそうな口をあけて牙を見せ付けてきた。
あの牙に噛まれれば、一たまりもないだろう。
相打ちにさえなれないまま、私もお父さんやお母さんと同じように餌になるのだ。
涙が溢れてくる。
仇をとれなかったことも、ペロやお爺ちゃんを置いて死ぬことも、何もかもが悔しい。
せめて腹を壊してしまえ、と念じた。
横合いから飛び込んできたペロが、熊に噛み付いた。
私が呆気にとられている内に、ペロは二つの頭で熊に噛み付いたまま、高々と掲げ上げる。
そして、思い切り首を振って地面に叩きつけた。
断末魔の悲鳴すら上げず、熊は潰れて絶命した。
念入りに止めを刺すように、ペロは再び熊に噛み付き、背筋の凍るような音を立てて骨ごと噛み砕く。
息の根が止まった事を確認して、ペロは私に近づいてきた。
余りの光景に、私はペロに恐怖を感じてしまっていた。
反射的に逃げ出そうとして、体が言うことを聞かず震えるだけに止まった。少し前までとは別の意味で涙がこみ上げ、ペロの姿が歪んで映る。
ペロはゆっくりと私に近づいて、
私を気遣うように、静かに頭を垂れて擦り寄ってきた。
隣に座り込んで、まるで早く元気になってくれと言わんばかりにそっと痛みのある箇所を撫でるように摺り寄せる。
涙が出てきた。
言葉に出来ない何かが、胸の奥で渦巻いている。
ようやく動くようになった手を上げて、ペロの頭を撫でる。
ペロは大人しく撫でられて、いつものようにじゃれてはこなかった。今の私の状況を理解しているかのように。
「ありがとう……」
掠れた声で呟くと、応えるように小さく鳴いた。
満足に動けるようになるまで、ペロは私の傍から決して離れようとはしなかった。
その日から、ペロは私にとって家族も同然の存在になった――




