第三十四話 「シャレン・その8」
――物心ついた頃には、シャレンは既に養父の下で人を殺す術を教え込まれていた。
養父は『組織』の『まとめ役』で、人殺しで、寡黙だった。
幼いシャレンに毎日毎日容赦なく殺人術を叩き込み、気絶しても水をぶっかけ、死ぬ一歩手前まで追い込んだ。
拾われてからの一年間は、物を食べる事も苦痛だった。咀嚼して飲み込むのに、数分かかっていた。
幼さを利用して、仕事の手伝いもさせられた。女の子供は油断を誘うのに都合が良く、何度も囮として使われ人が死ぬ瞬間を見てきた。
養父は下手をするとシャレンを人として見ていなかったが、シャレンに別に不服はなかった。
親も記憶もないシャレンにとって、養父から教えられることが全てだった。
養父がそう扱うのなら、シャレンにはそれが当然で常識で、そういうものだった。
目の前で人が死に、生温い血が顔と体にかかり、冷たくなっていく。それは例えば、朝に日が昇って夜に沈むことと同じものだった。
拾われてから五年。徒手空拳での殺し方を一通り学んだ頃、養父はこう言った。
――命に拘るな。元よりないものと思え。
言われたとおり、その日からシャレンは温度を無くした。
シャレンの知る命のない状態は、冷たくて暖かさを失ったものだったから。
それから養父が教える事に、『仕事』の仕方と心得が加わった。
人を殺す時に守るべきことと考えるべきこと。命のない人殺しのなり方。
教えられた事を、シャレンは一つ一つ覚えていった。命のないものは文句も言わないし、抵抗したりもしない。ただその身に受け取っていくだけだ。
養父の仕事を手伝う回数も増え、範囲も広がっていった。単純に年月が経って囮としての機能が弱くなったせいもあるが、シャレンが力をつけたのも理由の一因だろう。
教わった技術と思考で、人を殺した。その手際は同業者が驚く程で、シャレンに仕事を依頼する者も出始めた。
その頃からだったろうか。養父の命がはっきりと狙われるようになったのは。
珍しくもない『組織』の勢力争いの標的となったのだ。
養父が育て上げた手駒は何もシャレンだけではない。養父の一声で動く者は多く、広い人脈も持ち、『組織』が処理する仕事の三割を取り仕切っていた。
その座を狙う者は少なくない。得られる利益に目が眩み、養父を暗殺しようとする刺客は後を絶たなかった。
シャレンはその全てを返り討ちにし、依頼者を探し出して暗殺した。
養父からは、その事を咎められた。
――依頼もないのに、仕事をするな。
仕事をしているつもりはなかったが、養父が言うならそうなのだろう。
言われた通り、依頼者を探し出すのは止め、明らかに邪魔な刺客だけを殺すことにした。
刺客はこちらのことなどお構いなしだ。食事中だろうが睡眠中だろうが、むしろ隙が多いので積極的に狙われる。
それらは命懸けの訓練となって、シャレンの隙を消していった。気を休められる時間も場所もなくなり、それが当たり前の日常となった。
拾われてから十年と少しが経った頃、その生活が突然終わりを告げた。
養父が捕まった。
その時、シャレンは養父とは別の仕事を遂行中だった。
どうやって捕まったのか、その経緯をシャレンは知らないし、興味もない。手がける仕事が多いということは、それだけ捕まるリスクが高まるということ。養父から教えてもらった考え方の一つだ。
その通りに、どこかで情報が漏れるかリークされるかして、踏み込まれたのだろう。
そして、養父の所業を考えれば、その後のことなど簡単に予想がついた。
養父は、問答無用で処刑された。
巨悪が一つ潰れた事に、表の人間達は諸手を挙げて喜んだ。
養父が持っていた全ては、誰かに取られる前に養父が育て上げた手駒の一人が確保した。ただ一つ、シャレンを除いて。
養父が処刑されたと聞いても、シャレンに別にどうという感慨も湧かなかった。
何故なら、養父がそう教えたから。
その教えはシャレンの血肉となり、全てとなっていたから。
『魔道具』も髪の編み方も、シャレンの全ては養父に貰ったものしかなかったから。
だから、養父が死んで何もすることがなくなって、とりあえず教えられた事を実践する為に『仕事』を続けた。
『仕事』を続ける意味なんて、それだけしかなかった。
命のない人殺しに、自分で考える頭なんてあるわけがない。あるのは、教えられたとおりの思考をする器と、染み付いた技術を実行する体だけだ。
不満も不服も、特に何もなかった。
元から、何一つ持ってない命なのだ。
何せ、養父に拾われる前に覚えていることなんてただ一つ。
腹も空き喉も渇き、野垂れ死ぬ寸前の状態で道端に転がっていた事だけだ。
守ってくれる親も、助けてくれる家族も、何一つ持っていなかった。
拾い上げる養父の大きな手が、生まれて初めてシャレンが感じた暖かさだった――
※ ※ ※
マギサの意識が夢の中からぽかりと浮上したのは、人の声が聞こえたからだ。
寝ぼけ眼を軽く擦りながら、藁の山から顔を覗かせて声のしたほうを見る。もしかしたら、あの自警団の男がナイトを連れて帰ってきたのかもしれない。
その期待は、すぐに裏切られた。
「あれ、ここだっけ?」
「そうそう、ガキの頃の秘密基地。トゥレとかは今も使ってんだよな」
声と足音が近づいてくる。聞いたことのない声。ナイトではあり得ない。
一気に意識が覚醒し、どこか隠れる場所はないかと周囲を見回す。殺風景なこの小屋にそんなものはあるわけもなく、精々今と同じく藁の山に潜むくらいしかなかった。
少しだけ顔を出して相手を見ようとするが、ぼろぼろの壁の隙間から覗く外の景色は真っ暗で、文字通り何も見えない。
あれからどのくらい時間が経ったのだろう。暗闇に沈んだ世界に、少なくとも日が完全に落ちたであろうことは確信できた。
どうすることもできない内に、扉ががたがたと動く。
「んだこれ、立て付け悪ぃなぁ」
「当たり前だろ、どんだけ古いと思ってんだよ」
笑いながら男が二人入ってくる。部屋の中に明かりがあるわけもなく、まだ暗闇に慣れない目には良く見えないが、板金の胸当てが白く浮かんでいるのが見えた。
自警団だ。まさか、ここまで捜索にきたのだろうか。
体が硬直し、視線が二人から外せない。
男二人は談笑しながら適当な場所に座り、休息しているようだった。
「にしても、やってられねぇよなぁ」
「男も小娘も見つかんねぇし、もう町から出たんじゃねぇか?」
「だよなぁ。あー、早くこんなクソ仕事終わんねぇかなぁ」
どうやら、自分達を探しにきたわけではなく、サボリにきたようだ。ほっと胸を撫で下ろし、二人の様子を観察する。
いざとなれば、隙を突いて逃げなければならない。この場に居る以上、見つかる可能性はあるし、こんなところにナイトやあの男が来たら騒ぎになってしまう。
対処のしようはあるだろうが、それでも何事もない方がいいに決まっている。この二人が長居するようなら隙を見て小屋を出て近くに待機し、二人が来たところで合流するのが一番いいだろう。
自警団員達は一通り愚痴ると、片方が懐から水筒を取り出した。
意味深な笑みを浮かべて蓋を取ると、ふわっと独特な香りが広がる。
「お、お前それ、」
「へっへー、酒もこうして詰めればわかんねぇもんだろ?」
「団長に見つかったら大目玉だな」
「んじゃお前は呑まねーのな?」
「呑む呑む、待ってろ今つまみ出してやるから」
そう言うと、酒を持っていない方が腰の小袋から干し肉を取り出す。
マギサの目の前で、二人は酒盛りを始めてしまった。
酒の量は少ないとはいえ、今後どうなるかは二人の体質次第だ。赤ら顔で表を出歩くわけにはいかないだろうし、酔っ払って寝てしまうかもしれない。
逃げた方がいいかどうか、もう少し様子を見て判断するべきだ。もしもの時にすぐに動けるよう、マギサは姿勢を変える。
触れた床が腐っていて、小さくない音と共に割れた。
血の気が一気に引く。全身に走った緊張が微細な動きさえ停止させ、眼球だけが動いて二人組の様子を探る。
酒盛りは中断され、二人は不審げな顔をしてマギサのいる藁の山の方を向いていた。
心臓の音がいやに良く聞こえる。息すら抑えて、細く小さく繰り返す。体が固まったように動かない。
動けば見つかる。間違いなく。
微かにでも物音を立てることに怯え、顔にかかる藁が振り落ちるのを目で追って止まれと念じる。
「なんだ、今の音」
「誰かいるのか?」
二人の内、干し肉を出した方が立ち上がって近づいてくる。
止めて。来ないで。
声も出せずに、目を閉じてひたすらに祈る。神様には届かず、無造作な男の足音が鳴る。
その一歩一歩に反応して、心臓が口から飛び出そうになる。いざという時の為に杖を握り締めた。
意識が散り散りになって、少しも集中できない。男の足音がすぐそこまで来ている。もう見つかっているかもしれない。怖くて目を開けられない。
その時、マギサの足の裏を何かが通り過ぎた。
チュウ、チュウ。
「んっだよ鼠かよ」
「まぁ、ここは絶好の住処だろうからな」
茶色い鼠が鳴き声を上げ、隅の方へと消えていく。
男達は鼠のせいだと思ってくれたようで、声が少しだけ遠くなる。
鼠嫌いなんだよ、と言い合う声に安堵し、マギサは静かに胸を撫で下ろした。
「ここにいたのか」
頭の上から聞こえた声に振り向けば、男が見下ろしてきていた。
悲鳴すら上げられず、握り締めた杖をでたらめに振り回す。
男の顔面に当たり、呻き声を上げて倒れた。
「ぐっ、このガキっ!」
「どうした、誰だっ!?」
もう一人の酒を持っていた方が駆け寄ってくる。
考える前に体が動き、倒れた男と反対方向に藁の山から飛び出して玄関扉に向かって走る。
「てめ、こんなとこに隠れてやがったか!」
「待ちやがれ!!」
男達の怒声に構わず、扉に体当たりをしてこじ開ける。
外は予想通り夜の暗闇に包まれていて、この一画は月明かりさえ届いていない。
足元すら良く見えない中を、何かに蹴躓きながら駆け抜けた。
合流はどうするかなんて、考えている暇はどこにもなかった。
※ ※ ※
真っ暗な路地を、マギサはとにかく出鱈目に走った。
足元が見えないせいで、石や何かの破片に躓いて何度も転ぶ。
後ろから今にも男達が追ってきそうで、地面を掻き毟って飛ぶように立ち上がって曲がりくねった道に入る。
逃げられれば何でも良かった。捕まったら終わりだ。自分もナイトも殺される。その恐怖は、悲鳴を上げる足を動かすのに十分な理由だった。
何よりも、うっかり眠りこけるという自分の失態のせいでそんな結末になることが許せなかった。
炎の音がする。肉の焼ける臭いまでする。あの日も、こんな暗い夜だった。
全部幻で錯覚に過ぎないと思っても、こびりついた記憶は間単には取れない。
裏路地は狭く、人もいない。こんなところで見つかれば一発で捕まってしまう。何とか表通りまで逃げて人混みに紛れたいが、道がさっぱり分からない。
それに、自警団が通りに出る所で張っている可能性もある。地理を把握している相手とでは逃げ回る方が圧倒的に不利だ。
網を張っていそうな場所は避けるしかない。自警団の人員だって無限ではないだろうから、なんとかその隙を突かなければ。
木箱に足をぶつけ、体勢が崩れて肩から地面にぶつかる。
鈍い痛みが走る。打撲で済めばいいが、骨まで傷が入っていないだろうか。『魔法』で治すにしても、ただの打撲と骨の罅では使う魔力の桁が違う。
暫く眠ったお陰で、体力も回復している。『魔法』も多少なら使えるだろう。
こんな細い路地では、道を塞がれれば逃げ場はない。そうなったら『魔法』を使うしかないが、果たしてその後走り続ける体力が残るかどうか。
痛みを堪えて起き上がり、足に力を込めて地面を蹴る。足が地面につく度に肩が痛み、速度を維持できない。
『魔法』で治してしまおうかと思うが、この先何に使うか分からない。下手な消耗は避け、備えるべきだろう。どうせ元から大して足は速くない。
幸いにして追っ手の声も足音も聞こえないが、逆に回りこまれている危険性が高まることも意味する。
頭の中を駆け巡る懸念を振り払い、今はとにかく逃げるしかないのだと言い聞かせた。
肩を庇いながら路地を駆け抜け、どこかの横丁に出る。
右を向けば表通りに通じているらしく、篝火の炎に照らされているのが見える。人の姿は殆ど見えないが、時間帯を考えれば当然だろう。人混みに紛れて逃げる算段は、捨ててしまったほうがいいかもしれない。
迷ったのは、ほんの数秒程度だった。マギサは左の方、裏通りに向かって駆け出す。
どうせ紛れられる程人がいないのなら、いっそ誰もいない方がいい。
いざという時『魔法』を使うにしても、人が少ない方が気分的に少しはマシだ。
それに、自警団だって裏通りにまで張っている可能性は低いだろう。追う上で一番厄介なのは、人混みに紛れられることなのだから。
裏通りに飛び出て、周囲を確認しようとして、
腕を捕まれ、土壁に向かって力任せに叩きつけられた。
一瞬息ができなくなり、力が抜けて地面にずり落ちる。
痛めた肩が痺れるくらいの衝撃を訴え、呼吸をしようと喉が必死に震える。
何が起こったのか分からず、力なく蹲って咳き込むのが精々だった。
「手間ァ取らせやがって、クソガキィ」
聞き覚えのない、苛立ちと優越感に満ちた男の声。
痛めた肩を蹴り上げられ、漏れた悲鳴と共に背中が土壁にぶつかる。
掠れた視界に映ったのは、下卑た笑みを浮かべる自警団員の姿だった。
「さんざっぱら苦労させてくれたが、覚悟はできてんだろな、えぇ?」
見下してくる目は、傷つけずに捕まえるつもりなど欠片もなさそうだ。
呼吸も乱れ、痛みに痺れる頭で制御できるかは分からないが、『魔法』の使い時だ。
杖に意識を集中しようとして、手に何も持っていないことに気づく。
目だけを動かして探せば、すぐ近くに落ちていた。壁に叩きつけられた時か、蹴られた時に手から零れ落ちたのだ。
掴もうと手を伸ばせば、腹につま先がめり込んだ。
「動くんじゃねぇ! これ以上面倒かけんな!」
肺の空気が吐き出され、呼吸困難に陥る。
駄目だ。杖もなしに、こんな状態で『魔法』は使えない。
何とか打開策を考えるが、何も思いつかない。杖を拾うのは不可能だ。他の何かに気を取られてくれれば可能性もあるが、今は期待できない。
自分を見下ろす男の目は、弱者をいたぶる快感に浸っている。むしろ、周囲の事に何も気を払っていない状態だ。
どうすることもできない。『魔法』を使わなければ、このまま捕まるだけだ。
それでも、使うわけにはいかない。暴走したら本当に取り返しがつかない。それこそ言い逃れのできない『凶悪な犯罪者』になってしまう。
唇を噛み締め、視線を這わせる。何かないか、何か。この状況をひっくり返せるような。
そんな都合のいいもの、あるわけもなかった。
「また逃げられたら厄介だからな。痛みで死ぬんじゃねぇぞ、我慢しろよ」
虫の羽根を千切るような気軽さで、男は少し距離をとって剣を振り上げる。
果たして切り落とされるのは腕か、足か。
逃げられないように、というのが口実に過ぎないことは、男の顔を見ればすぐに分かった。溜まったストレスを何かにぶつけたいと顔に書いてある。
悪い奴には何をしてもいい、ということだろう。何一つ反論もできない。男の思惑がどこにあるにせよ、抵抗する手段もない。
ただ、男の言うとおり、痛みで気を失ったり死んだりしないよう、目を閉じて堪える準備をした。
剣が大きく振り被られ、体重を込めて思い切り振り下ろし、
鼓膜を劈くような金属音が響いた。
目を開けると、そこにはナイトがいた。
横から走りこんできたのだろう、半身を向けてマギサと男の間に割り込み、長年の相棒であるなまくら剣を振り上げた姿勢のまま男を睨んでいる。
男の手に剣はなく、風を切る音と共に上空高くから剣が地面に落ちた。
振り下ろした剣を、駆け込んできたナイトの剣が弾き飛ばしたのだ。
呆気に取られた男は目の前の邪魔者がもう一人の標的だと気づき、瞬間的に激昂して怒鳴り散らす。
「てめぇ!! 何しやがる!!」
「それは、こっちの台詞だ!!」
腰を捻り、体重の乗った拳を横っ面に叩き込む。
そのまま力任せに引っ張って、地面に顔を叩きつけた。
男はぴくりとも動かなくなり、ナイトが振りぬいた拳を解いて振り返る。
マギサは、ただ呆然としたままその光景を見ていた。
「ごめん。見つけるのが遅くなって」
申し訳なさそうに顔を歪め、ナイトは小さく頭を下げる。
いつもこうだ。自分は、いつだって少し遅い。
トゥレと名乗る男に叩き起こされなければ、今も木箱の裏で寝ていたかもしれない。そう思えば、余りの不甲斐無さに怒りまで湧いてくる。
マギサを助けられる時は、いつだって大変な目に遭ってしまった後だ。
その前に助けることが、未だに出来ていない。
マギサが傷つく前に何とかしたいのに、どうしていつもこうなのか。
自分を殴りたい気持ちを抑え、一先ず怪我の具合を確認しようと顔を上げ、
一歩踏み出す前に、マギサが胸の中に飛び込んできた。
顔を胸板に押し付け、小さな手で一生懸命服を掴んでくる。
その体は、小さく震えていた。
どうしようもないもので、心が潰れそうになった。
「ごめんね、ごめん。守れなくて、ごめんね」
顔を押し付けたまま、マギサが小さく首を横に振る。
今、はっきりと分かった。自分が憧れや未練を捨ててまで選んだもの。
この子が、笑顔で暮らせる毎日が欲しい。
こんなに優しくて、他人のことを思える子が泣かなければならないのは絶対におかしい。それだけは、何がなんでも絶対に間違っている。
人を傷つけるより自分が傷つくことを選び、強大な力を振り回すこともせず、むしろ自分の中の力に怯えるような弱く小さな子が、どうして命を狙われなければならないのか。
大勢に追い立てられ、落ち着ける場所もなく逃げ回り、責められなければならない正当な理由とは一体何なのか。
今だって、その気になれば自警団の一人くらいどうとでもできたはずだ。それなのに、黙って斬られようとしていた。
そんな子の、一体どこが危険なのか。
弱き者を守り、怯える者を励ますのが騎士ならば、この子を助けるのが騎士たる所業のはずだ。
マギサの背中に手を回し、安心させるように抱き締める。
この子が泣かなくていいようにしたい。悲しまずに済む世界が欲しい。明日を笑って迎えられる居場所を見つけたい。
――僕が憧れたお伽噺は、この子が死んでめでたしめでたしになんて絶対ならない。
それが、大事に抱え込んだものを手放し、新しく抱え込んだ大切なものだった。
あの若い騎士の言うことが、誰から見ても正しいものだったとしても。
皆から悪と誹られたって、欲しいものは欲しいのだ。
幸せな結末を。この子が笑って暮らせる毎日を。
例えそれが、世界中から捨て去れと言われるようなことだったとしても。
愚にもつかない憧れを十年以上抱えた執念を、甘く見てもらっては困るのだ。
震えが収まるまで、ナイトはマギサの体を抱き締め続けた。
「あー、そろそろいいかね、お二人さん?」
突然聞こえた男の声に、マギサが実に見事な速度で体を離した。
急に手持ち無沙汰になったナイトは適当に襟足を弄りながら、声の主の方に振り向く。
「トゥレさん」
「盛り上がってるとこ悪ぃが、早いとこ町から出てってくんねぇかな」
皮肉と棘がふんだんに盛り込まれた口調に、ナイトが苦笑を返す。
マギサはといえば、背中を向けて杖を拾っていた。顔色が窺えず、どう反応していいものか困ってしまう。
振り向いたときには、もう既にいつものような無表情だった。
何かタイミングを逃したような心地で、とりあえず状態を確認する。
「マギサ、怪我はない?」
「もう治しました」
素っ気無い返しに、意味のない言葉を漏らしながら適当に頷いた。
何だか少し怒っているような気もする。やはり、助けに来るのが遅れたのが拙かったか。
自省がぶり返し、自分を責める声が心の中で大きくなる。
そんな二人の様子も構わずに、トゥレは親指で行き先を示した。
「こっちの方に町から出る裏口みたいなもんがある。柵を乗り越えりゃどこからでも出られるんだが、面倒は嫌だろ」
「はい」
心の声を一先ず押し込んで、ナイトが頷く。
また自警団に見つかって斬り合うのは御免だし、シャレンはもっと御免だ。
人に見つからず出られるならそれに越した事はないし、第一どこからでも出られると言っても、どこが町の端に繋がっているかも分からない。
トゥレだって仲間に見つかりたくはないだろうし、言うことを聞くのが正解だ。
「ついてこい。遅れるなよ」
走り出すトゥレの後を追おうとして、服の裾を掴まれた。
つんのめるように立ち止まって振り返れば、マギサがやや不機嫌そうに黙ってこちらを見つめていた。
「な、何?」
若干怯えながら尋ねると、マギサは一言も口を利かないままナイトの脇腹に手を触れた。
痛みに思わず体が震える。シャレンにやられた傷が、まだ塞がりきってはいないのだ。
血がついて汚いよ、と言おうとして、マギサが触れた部分がほんのり暖かくなった。
痛みがみるみるうちに引き、マギサが手を離すと傷口が完全に塞がっていた。
驚いたように眉を上げ、ナイトはいつもの力の抜けた笑みを浮かべる。
「ありがとう」
「……いいえ」
マギサはそっぽを向き、トゥレの後を追って走り出す。
助けが遅くなった事がよっぽど腹に据えかねたらしい。マギサの態度にナイトは落ち込み、心の声が刺す棘が鋭くなった。
斟酌も何もなく、遅れているナイトにトゥレの罵声が飛ぶ。
「おい何してんだ! 早くしろ!」
「あ、はい、すぐ行きます!」
胸の痛みを気にしないことにして、ナイトは走り出した。
※ ※ ※
トゥレに案内された先は、月の光も差し込まない裏路地の更に奥だった。
裏口というだけあって柵がなく、そのまま街道の見える草原に通じていた。
「ここはまぁ、自警団に袖の下を渡した悪ガキを逃がす道だ。この辺の連中も抱きこんでるから、チクる奴もいねぇ」
「はぁ……」
トゥレの言い分に、治安維持が仕事じゃなかったのかとナイトは突っ込みたくなる。
しかし、そのお陰でこうして逃げられるのだから、文句を言える立場でもない。
「じゃ、ここでお別れだ。あの女に見つからないようにな」
「はい、ありがとうございました」
トゥレだけが足を止め、ナイトとマギサはそのまま走り抜けようとする。
町から出ようとした所で、ナイトの背筋に冷たいものが走った。
「マギサ!」
マギサの肩を掴み、急停止させる。
殆ど感覚で暗闇に向かって剣を振るった。
甲高い金属音と共に、五本の鉤爪が闇の中に浮かび上がった。
目の焦点を強引に合わせて、その姿を捕捉する。
黒一色に染まる暗殺者、シャレンが襲い掛かってきていた。
鉤爪が弾かれたと同時に後ろに跳び、距離を取ったと思ったらすぐに突っ込んでくる。
振り下ろされる爪先を弾き、掬い上げるように放たれた蹴りをかわす。反撃に入れた蹴りは空を切り、再び距離を取られる。
息つく間もない攻防に、マギサはただ立ち尽くし、音に釣られて様子を見に来たトゥレも息を呑んだ。
何故、シャレンがこの場にいるのか。そんなに都合の良い偶然が起きるとは思えない。おそらく自警団の誰かに聞いてこの場を張っていたのだろう。
ということは、ほぼ間違いなく自分の姿も見られている。二人が始末されれば、次は自分の番だ。何としてもナイトに勝ってもらわねば。
ナイトとシャレンは睨み合いながら、互いに間合いをはかる。
状況は、ナイトにやや不利だった。空き地での戦いで、より傷を負ったのはナイトの方だ。脇腹の傷は治ったとはいえ、蓄積された損傷が回復したわけではない。
全快の状態でも良くて五分といった有様なのに、今の状態で勝ち目は薄い。ましてや、後ろにはマギサがいる。庇いながら戦える相手ではない。
呼吸を整え、剣を構える。それでも、やらねばならない。
シャレンが軽くステップを踏む。懐に入る準備運動だ。視線を外されないよう、集中して視界に捕らえ続ける。
シャレンが地面を蹴り、暗闇に紛れながら突っ込んで、
背後で魔力の集まる感覚がして、マギサが小さく杖を振った。
目に見えない『魔法』の膜が張られる。突っ込んできたシャレンの爪が膜に阻まれ、
そのまま、『魔法』の膜が切り裂かれた。
構えた剣を引っ掻くようにして、鉤爪が振り抜かれる。
想像もしなかった現象に驚き、ナイトの剣が押されて下に流れる。
後ろからマギサが驚く気配も伝わってくる。こんなこと、今まで一度もなかった。
剣を下げられ、ナイトは無防備な姿を晒してしまう。拙いと思った時には遅く、今打ち込まれれば直撃を喰らうしかない。
しかし、追撃は何もこなかった。
視線を下げれば、シャレンが鉤爪を振り下ろした姿勢のまま地面に倒れていた。
力が入らないようで、上目遣いにこちらを睨み付けたかと思うと気絶した。
何が何だか分からないが、とにかく逃げるなら今しかない。
マギサの手を引いて走り出そうとして、ふと思い止まってトゥレに振り返った。
「トゥレさん!」
「え? あ、あぁ、おぅ」
突然名を呼ばれ、困惑しながらもトゥレがナイトを見やる。
意識を失ったシャレンを一瞥し、シャレンを見つめるマギサを横目に、腹を括るように深く息を吐いた。
「一つ、お願いがあるんですけど――」
その夜、ナイトとマギサは、トライゾンの町から逃げ出した。




