第三十二話 「シャレン・その6」
衣料品屋で物色した後、ナイトは路地裏のような場所に連れ込まれていた。
小さめのテントの中で客を待ち構える老婆や、何屋かも分からない露店が並ぶ通りを歩きながら、やっぱり強く断れば良かったと後悔する。
案内を買って出た自警団員がしつこく迫るので、行ってみるだけという条件でその『お楽しみ』に向かうことにしたのだが、これが全く肌に合わない。
ナイトとて健康な男児ではあるのだが、通りに漂う淫靡でくすんだ雰囲気というものに全く馴染めそうにない。
落ち着ける気が微塵もしないし、居るだけで恥ずかしくなってくる。この自警団員は何故意気揚々としていられるのだろうか。
店の前や裏路地に立つ女達の露出度はシャレンと変わらないくらいだったが、放つ空気がまるで違う。
男を誘うような仕草と匂いに、最早ナイトは我慢の限界だった。
「あ、あの、もういいんで。早く戻りませんか?」
「そっすね。もういいかな」
自警団員はぐるりと周囲を見回して立ち止まり、
振り向きざまに切りかかってきた。
考えるより先に体が動き、抜き放った剣で受け止める。
自警団員の腹を押し込むように蹴って無理やり距離を離し、剣を構える。
「いきなり何するんですか!」
「うるせぇ! 黙って死ね!」
踏み込んでくる自警団員の剣をいなし、甲高い金属音と共に弾き返す。
ようやく周囲の人々も事態を飲み込めたのか、女達の悲鳴を皮切りに地響きのような音を立てて逃げ惑う。
視線を走らせながら、ナイトは内心で臍を噛む。
ここで余り剣を振り回すのは避けたい。何かの拍子で町の人が巻き込まれないとも限らないし、時間を取られたくもない。
今までの彼らの行動と口ぶりを考えれば、マギサの方でも似たようなことが起きているはずだ。シャレンがいれば心配はないだろうが、そのシャレンが安心できない。
早々に片をつけたいところだが、気にすることが多い今の状況だと簡単にいきそうもなかった。
一先ず事情を把握するべく、自警団員に叫ぶ。
「昨夜の仕返しのつもりですか!?」
「はぁ!? んな遊びじゃねーんだよこっちは!」
鬼気迫る表情で自警団員が剣を振り下ろしてくる。
体を横にずらしてかわし、逆袈裟に切り上げられる前に柄で頬を殴打する。
傾いだ首が元に戻る前に自警団員の振り下ろした剣を上から地面に叩きつけ、横腹を蹴って手を離させる。
板金製の胸当てに横一閃し怯ませ、顎を掴んで宙に浮かせた。
「どういうことか、教えて貰えませんか?」
「そ、それが人に物を聞く態度かよ……」
「お願いします」
顎を掴む手に力を込める。
小さく悲鳴が漏れ、自警団員がナイトの腕を掴んできた。
「お、俺たちは頼まれただけだ!」
「頼まれた? 誰に?」
思い当たる節といえば騎士団くらいのものだが、彼らが来ているなら自分から捕まえにきそうなものである。
特に、あの若い騎士なら自警団に頼るということはしないと思うのだが。
しかし、もしそうなら危険なのはマギサの方だ。幾らシャレンがついているといえど、騎士団相手では分が悪い。
ナイトの懊悩を見抜いたかのように、自警団員が下卑た目で笑う。
「へ、へへ……いいのかい、こんなことしてて。今頃お嬢ちゃんは仲間が捕まえているだろうぜ」
「……シャレンさんがいますよ」
「ど、どうかな……?」
妙に自信ありげな態度に、ナイトが顔を歪める。
何のつもりだろうか。彼ら程度でシャレンに勝てないのは明白だ。それなのにこの言い草は、シャレンに勝つ算段があるということだろうか。
それとも、シャレンがそばに居ない確信でも、
ナイトが考え込んだ隙に、自警団員は懐から笛を取り出し力一杯吹いた。
「き、緊急事態! 凶悪な犯罪者だ! 誰か来てくれ!!」
「なっ、こらっ!」
隠れていた人々が、何事かという目で覗き見てくる。
一部の男達が明らかにこちらを敵視して出てこようとしており、遠くから足音も聞こえてきた。
身の潔白をこの場で訴えてもどうしようもなさそうだ。悪行が目立つとはいえ向こうは自警団員、こちらはただの旅人。信頼という点で差がありすぎる。
それに、身に覚えがないでもない。ある意味凶悪な犯罪者というのは正しい。
このまま留まっても、面倒な事態にしかならない。町の人を傷つけるわけにはいかないし、自警団だって数が集まれば不利を強いられる。
自警団員を放り投げるように手を離し、剣を収めてナイトは音が聞こえるのと反対側に走り出す。
マギサのことも気になるが、まずはこの場を切り抜けなければ始まらない。
自警団に頼んだという『誰か』の心当たりを探しながら、ナイトは一目散に逃げ出した。
※ ※ ※
見知らぬ町の中を、マギサは必死に走り続けた。
広場を走り抜け、大通りを駆け抜けて横丁を通り過ぎる。
どこまで走っても自警団が追いかけてきて、時には先回りされていることさえあった。
土地勘があるとないとで、ここまで差があると思わなかった。幸い背が低いおかげで人混みに紛れれば撒くことが出来たが、さっきの笛と叫びが効いたのか追いかけられているマギサを見ると町の人が道を開けてしまう。
お陰で、人混みに隠れていられる時間は疲れを取るには短すぎる程度でしかなかった。
段差の影に隠れても、同じくらいの背丈の子供に見つかって話しかけられる。黙っているよう頼んでも、やっぱり目立つのかすぐに見つけられた。
走りすぎて足が痛くなる。ようやく見つけた人の居ない階段の裏に隠れ、座り込んで息を整える。
足音が近くで響き、誰かが階段を駆け下りる振動で体が震えた。
「おい、居たか!?」
「いや、いねぇ! くそ、どこに逃げやがった!」
「ちっちぇから見つけにくいんだよ! また人ん中に紛れ込まれると厄介だ、しっかり探せ!」
呼吸の音すら漏れないように膝の間に顔を突っ込む。
遠ざかる足音に意識を集中して、微かにも聞こえなくなってようやく顔を上げた。
喘ぐように肺に空気を送り込み、耳元で怒鳴るような鼓動を静めていく。
何が起こっているかさっぱり分からない。シャレンもどこにいったのか分からないし、自分と同じように追われているかどうかも不明だ。
少なくとも、店での騒ぎはシャレンだって気づいたはずだ。それなのに、あの時は助けてくれなかった。
単純にシャレンも呆気に取られていたのか、それとも。
気分が沈みそうになって、首を振る。もしも今回の件に何かしらシャレンが絡んでいたとして、今は考えるだけ無駄だ。手がかりがなさ過ぎる。
自警団の動機だって不明だ。昨夜の仕返しにしては大規模すぎるし、追いかけてきたのはあの時居た一団だけじゃない。
自分の正体がバレたのかと思ったが、それにしてはおかしな点が多い。
騎士団が喧伝しているのでもなければ、正体を知っているのは騎士団と今まで出会った中の数人だけだ。
この町の自警団が知っている可能性は薄いし、誰かに教えて貰ったにせよ一体誰に聞いたのか。
もしそれが騎士団なら、ここにあの若い騎士なりなんなりがいるはずなのだ。
だが、逃げている間騎士らしき姿を見かけたことはない。ナイトの方に行っている可能性も考えたが、彼らの狙いは『魔法使い』たる自分だ。
人質を取るような真似を騎士団がするとも思えないし、この町には来ていないと考えるべきだろう。
それに、彼らは『凶悪な犯罪者』と言った。『魔法使い』と言わない理由があるのかもしれないが、それより素直に知らないと考えた方が通りがいい。
第一、『魔法使い』だと知っていたら最初から切り殺しにきそうなものだ。それなのに、彼らは自分を殺さずに捕まえるつもりらしい。
誰かの意図が透けて見えるが、誰のどんな意図かまでは分からない。ともかく、捕まる訳にはいかないし、こちらを殺す気のない相手に余り派手な魔法も使えない。
店でも、実は危なかった。一つ間違えたら『魔法』が暴走していた可能性だってあるのだ。出来れば『魔法』を使わずに逃げ延びたい。
その為にはナイトと合流するのが最も確実な方法だが、相手の居場所どころか今の自分の位置さえ分からないのでは手の打ちようがない。
相手の狙いが分からない以上、ナイトがどうしているかも予測できない。自分と同じように襲われて逃げているのか、言葉巧みに連れまわされているのか、それとも。
町中をひたすら騒ぎながら逃げ回れば気づいて貰えるかもしれないが、それだけの脚力と体力と自信はどこを探しても出てこなかった。
呼吸が段々と落ち着いてきて、頭も回るようになってくる。
シャレンはもう頼れないし、もしばったり会ったとしても警戒したほうがいいだろう。二手に別れたことも仕組まれた事かもしれないと思うと、自分が情けなくなってくる。
ナイトと別れなかったら別れなかったで何かの手を打たれたかもしれないが、上手いこと利用されたことには違いない。ナイトを説得してまで相手の掌の上で踊ったかと思うと、申し訳なさで泣きたくなった。
――ナイトさんはちゃんと注意してくれていたのに。
自分のせいでその思いを台無しにしたことが、悔しくて仕方がなかった。
深く息を吐き、反省を切り上げる。いつまでも自虐していても事態は好転しない。
自警団に見つからないよう移動しつつ、ナイトを探す。逆転の手段はそれしかない。
階段の影から通りに向かって身を乗り出し、周囲を確認する。
視界の隅に、道端に向かって這い寄る赤ん坊が見えた。
道端は途切れていて、一段下までそれなりの高さがある。
下の方では青果の露店が開かれており、その声に釣られて近づいているようだ。
危ない。声を出そうとして、踏み止まった。叫んだりすれば、間違いなく自警団が駆けつけてくる。
親はどこにいるのかと視線を走らせれば、少し離れた場所で談笑する奥様方の姿があった。おそらく、あのどちらかの子供なのだろう。
声を出せば気づくかもしれない。だが、気づいたところで必ず一拍遅れる。その間に赤ん坊は真っ逆さまだ。
赤ん坊は段差に気づきもせず、今にも落ちそうなところまで這っていた。
今更誰が気づいても、あの子が落ちるのは避けられない。
迷いを蹴飛ばして、階段の影から躍り出た。
全力で走る。疲れた足が言うことを聞いてくれず、もつれそうになる。しかも遅い。
歯を食いしばって足を動かし、赤ん坊に向かって手を伸ばした。
「ダメッ!」
自分でも驚くくらいの声が出た。
談笑していた奥様方が何事かとマギサの方を振り向き、赤ん坊の有様に気づいて悲鳴を上げる。
赤ん坊もびくりと体を震わせ、その拍子にバランスを崩して端から落ちた。
地面を蹴って、マギサも通りから飛び降りる。赤ん坊を掴んで引き寄せ、用意していた『魔法』を行使した。
露店の屋根代わりになっていたタープの上に落ち、そのまま転げて店先の木箱に詰められた青果ごと地面に落ちる。
悲鳴とも驚愕ともつかない声が上がり、蹲るマギサを囲うように人が取り巻いた。
少しの間を置いてマギサは起き上がり、腕の中の赤ん坊に怪我がないか確かめる。
何とか怪我らしい怪我もないようで、赤ん坊はじっとマギサを見つめたかと思うとしゃくりあげる予備動作をし、大声で泣き喚き始めた。
母親と思しき女性が段差の上から金切り声を上げ、階段に向かって走っていく。
一先ずは何とかなったようで、マギサはほっと胸を撫で下ろした。
「何だ何だ、どうした!?」
「凄い音が聞こえたが、何かあったのか!」
自警団の声が聞こえ、足音が近づいてくる。
マギサは周囲を見回し、呆気に取られている露店の店主に目標を定めて赤ん坊を押し付けた。
「もうすぐ母親がやってきますから、渡してあげて下さい」
「お、おぉ……いや、ちょ、あんた!」
返事も聞かず、マギサは走り出す。
後ろで聞こえる自警団や町の人の声は無視して、一旦大きい通りに入った。
人の間を縫いながら、肩や腕がぶつかるのはもうしょうがないとして走り抜ける。
本当はちゃんと謝りたかったが、そんなことをしていたら捕まってしまう。
自警団の声が遠のいていくのを確認して、通りから階段を駆け上がって横丁に入り、段差の影から路地に潜る。
段差や階段の裏は、奥まった裏路地に通じる道がそこかしこにあって、隠れるには絶好の場所だった。
勿論そんなことは相手だって承知の上だろうが、表で追いかけっこを続けるよりはマシなはずだ。正確には、もうそんな力が殆ど残っていない。
走り回った挙句に軽いものとはいえ『魔法』を使ったのだ。折角休んで回復した分が全部吹っ飛び、それどころか疲労が限界近くまで溜まってきていた。
次に全力疾走をしたら、倒れるかもしれない。そのくらい、今のマギサは追い詰められていた。
壁に手をつきながら、揺れる視界に足元がふらつく。
焦る心をねじ伏せて『魔法』を使うと、普段よりも疲れる。今後の為にもしっかりと胸に刻みつけ、マギサは歩いた。
自警団達の声が遠くから聞こえる。早く場所を移動しないと、ここも見つかってしまう。
あの日からずっと逃げてばっかりだ。胸の内で呟けば、炎の音が聞こえた。
幻聴だ。分かっている。どこにも炎なんてない。あの日に耳にこびり付いた音が、記憶と一緒に再生されているだけだ。
壁が途切れ、伸ばした手が宙を泳ぐ。支えを失い、平衡感覚が狂って体勢が崩れる。
その瞬間、横合いから伸びてきた手に掴まれて引きずり込まれた。
体勢を崩し、体力も失っていたマギサに抗う術はない。
口を塞がれ叫ぶ事もできず、マギサの姿は闇に飲まれていった。
※ ※ ※
裏路地を走り抜けながら、ナイトは追ってくる自警団と応戦していた。
マギサと違い、自警団員達はナイトには容赦なく剣を振るってくる。
上背があるのが災いし人混みに紛れることも難しく、ひたすら人のいなさそうなところを選んで逃げ回った。
万が一にでも無関係な町の人に危害が及んだら、それこそ目も当てらない。
一応自警団も気にしているようで、大声で通行人や見物人を散らしていたりはする。だが、こんな大捕り物が繰り広げられているのに無関心でいるのはマギサやシャレンくらいにしか出来ない事だろう。
時折響く剣戟の音が厄介な事に町の人を呼び寄せ、その度になるべく人がいない方に走らなくてはいけなくなる。
自警団達の実力は、そう大したものでもない。流石にその辺のチンピラより強いとはいえ、ナイトの相手は荷が重過ぎる。
しかし、町中であるということと数の暴力でその実力差を埋めてくる。ホーント一家の時と違い、ナイトに積極的に戦う意思がないことも差を埋めるのに一役買っていた。
思わぬ所から飛び出てくる自警団員をなるべく傷つけないように追い払うのは、ウトリ・クラリアの子株を相手にするよりも厳しかった。
横合いの細道から切りかかられたのを紙一重で避け、力任せに横薙ぎに振るわれる剣を弾く。耳に痛い金属音でまた所在を知らせてしまいながら、顔面に肘を打ち込んで地面に沈めた。
追っ手に見つかる前にその場から走り去る。足を止めればいつ囲まれてもおかしくない状況に、流石に疲労の色が濃くなってきた。
逃げ回りながらも、少しだけ分かった事がある。どうやら彼らに頼んだ『誰か』は、騎士団ではないだろうということだ。
こんな派手な真似をしていいのなら、自分達の手配が各地に回ってもっと厳しい追っ手がかけられていてもおかしくない。それに、町の人を巻き込みかねない騒ぎを騎士団が容認するとも思えない。
特に、あの若い騎士ならこういう危険な追い込み方は絶対にしないはずだ。
ならば、誰か。残念ながら、それをゆっくり考えるような余裕はナイトにはなかった。
まるで誘い込まれるように、日の当たらない路地へと移動していく。高低差の大きい町であるからこそ、太陽の向きによっては完全に影になる場所が生まれる。まして、小高い土地の間に挟まれれば一日中薄暗い区画とて出来る。
ナイトが走り抜けた先は、そういった地元の人間も寄り付かない空き地だった。
まだ夕方前だというのに何かの犯罪に使われそうなくらい薄暗く、人の気配がまるでない。居るのは猫と鼠くらいだ。
思わず足を止めたのは、追っ手を撒いたと思ったわけでも、空き地の雰囲気に飲まれたからでもない。
ろくに気配も感じないのに、見知った人間が空き地に佇んでいたからだ。
胸元と背中の開いた真っ黒なドレスのような服を身に纏い、長い黒髪を一本に編み上げ、右腕にだけ篭手をつけた妖しく異様な姿。その深いスリットから見える脚は、大の男を一撃で黙らせるだけの威力がある事をナイトは知っていた。
シャレン。
怪しいとしか言いようのない経緯で同行することになった、正体不明の女性。
今はマギサと一緒にいるはずの相手がこの場にいることに、ナイトは奇妙な納得を覚えていた。
相変わらず気配はしない。しっかりと神経を集中すれば、微かに嗅ぎ取れるくらいだ。
光の届かない闇の中が、洒落にならないほど似合っていた。
「マギサは、一緒じゃないんですか」
ナイトの質問に、シャレンは答えない。その代わり、静かに一歩近づいてきた。
先程の攻防で抜き放ったままの剣を片手に下げ、ナイトはシャレンを見つめる。
「シャレンさん。マギサは、どうしたんですか」
更に一歩。足音はしない。目を逸らせば、闇に紛れて見失いそうだ。
切れ長の瞳が暗がりに揺れる。今はっきりと分かった。目を合わせて感じていたのは、悪寒だ。気のせいなんかじゃない。
その身にこびり付いた血の臭いと、人の温もりを感じない瞳に怯えていたのだ。
事ここに至り、ナイトはようやく確信した。
シャレンが、自警団を動かしている『誰か』だ。
「マギサは、どこにいるんですか!」
叫ぶと同時に、シャレンが地を蹴った。
――“爪”
呟くような声が聞こえたと思うと、シャレンの右腕に長く鋭い鉤爪が出現していた。
驚く間もなく、距離が詰められる。
速い。ナイトが剣を構えるよりも先に、鉤爪が喉を突く。
思い切り仰け反ってかわすと、無防備な腹に肘が刺さり、脇腹を膝で叩かれる。
一瞬息が詰まり、何にも反応できなくなる。その隙に間合いを取られ、袈裟懸けに鉤爪が振り下ろされた。
片手に握った剣を体を捻りながら振り上げ、鉤爪を弾く。勢いを殺しきれず、頬を先端が掠った。
シャレンは弾かれた勢いに逆らわず円を描き、後ろ回し蹴りを放つ。
腕で防いで後ろに跳んで距離を取る。酒場で自警団員を昏倒させたものとは比べ物にならない速度と威力に、痛みが骨まで響くようだ。
防いだ方の腕は暫く使い物にならない。柄に手を添えるので精一杯だろう。そのくらいなら、片手で振るった方がまだ戦える。
分かってはいたが、強い。鉤爪も厄介だが、それよりもあの体術だ。足のリーチが長いせいで、鉤爪に気をとられているとあっさり隙を突かれる。
暗闇も彼女に味方している。奇抜な服装だと思ったが、意識を集中しないと簡単に目が錯覚を起こす。鉤爪や肌の部分がちらちらと見えるせいで間合いも誤魔化される。
戦い方としては、ホーント一家のナイフ使いが近い。ただ、技量も速度も段違いだ。
体重を乗せて振るわれる一撃の重さに、本当に女かと疑いたくなる。攻勢に転じることさえ難しい。
距離を離され、様子を見ていたシャレンが横っ飛びに地面を蹴ってナイトを中心に円を描くように回る。
目に力を込め、シャレンの姿を視界に捉え続ける。背後にはわざと回らせる。警戒すべき箇所を絞れば、むしろ対応は楽だ。
それを察しているかのように、ナイトの痺れた方の腕側、視界に入るぎりぎりのところでシャレンは仕掛けてきた。
反応が一拍遅れ、思ったよりも接近を許してしまう。遠心力を利用して振り下ろした剣は避けられ、鉤爪が横っ面を襲う。
振り下ろした勢いに乗せて体を伏せるようにかわすと、つま先が眉間を狙ってきた。
剣を地面に突き立て、体を引っ張りながら首を傾げて急所だけは外す。痛みの取れてきた腕で足首を掴み、起き上がりながら持ち上げる。
動きを封じたと思ったのもつかの間、もう一方の踵にこめかみを抉られた。
思わず手を離し、引っこ抜いた剣ごと地面に倒れる。頭の中で鐘が鳴っていた。
シャレンは足が自由になったと同時に両手をついて後ろに転回し、体勢を整える。倒れたナイトに警戒しながら近づき、鉤爪を水平に構え、
飛び起きたナイトの剣閃に、鉤爪を弾かれた。
シャレン自身は瞬発的に反応して飛び退いたものの、長い鉤爪が逆に災いした。
爪の先端に当てられ、強引に体を持っていかれる。単純な膂力では、ナイトに軍配が上がった。体勢を崩し、一連の攻防で初めて隙を晒した。
まさか武器を狙われるとは思っていなかったのだろう。相手の自由を奪うという意味では、取り落とすようなものでもない限り本体を狙った方がいいに決まっている。
だが、鎧も着ていない相手を斬るつもりはナイトにはなかった。
まして、相手がシャレンなら尚更だ。どんな理由があったとして、旅を共にした仲であり、二度もマギサを助けてくれたのだ。
そんなこと言っている場合じゃないのは分かっているが、それでも嫌だった。
「せぇぇいっ!」
よろめいて空いた胴に、思い切り蹴りをぶち込む。
シャレンが後ろに跳び、顔を歪めて蹴られた箇所を押さえる。
呼吸を整えるのは諦め、痛みの残る腕を振って強引に力を込めて両手で剣を握る。
シャレンの顔を正面から見据える。産毛が逆立つ感覚は、恐怖に近い。さっきからずっと、シャレンは急所しか狙ってこない。
その技は、全て人を殺す為のものだとナイトの感覚は叫んでいた。
細く長い息を吐き、シャレンが腹から手を離す。見つめ返された時、ナイトの背筋を寒気が這い登った。
何もない。怒りも、苦しみも、悲しみも、何も。
理由は分からないが、襲い掛かってきたからには自分を殺すなりするつもりのはずだ。それが上手くいっておらず、更には反撃までされたら、普通は怒りや焦りが湧くものだろう。
それでなくとも、痛みに反応するはずだ。それなのに、シャレンは体の反射で顔を歪めただけ。その事にどうとも思っている様子がない。
一切の感情が、その瞳からは窺えなかった。
まるで当たり前の事が当たり前に起こったとでも言うように。
我慢できなくなって、ナイトは叫んだ。
「シャレンさん!」
シャレンからの反応はない。
ナイトにしても口からついてでただけで、次の言葉が出てこない。
何を言うべきか分からず、考えるのを止めて口を開いた。
「何で、何でですか!? どうしてこんなことを!?」
返答はなく、シャレンは身構えて間合いを計るように動く。
奥歯を噛み締めて、柄を握る手に力を込める。
鍛錬含め、シャレンの実力は嫌と言うほど教え込まされた。手加減や油断をしてどうにかなる相手じゃない。下手をすると殺される。
それでも、どうしても我慢がならない。何故戦わなければならないのか、せめてその理由を知りたい。
何かあると覚悟はしていたけれど、納得がいくかどうかとは話が別だ。
「マギサを助けてくれたのは何だったんですか!?」
分かってる。
もし、こうして殺しにくる事が目的だったとすれば、信頼させて油断を誘う為だ。
その計略にまんまと引っかかり、こうしてマギサと分断されてしまっている。
けれど、もしかしたら違うかもしれない。別の、何か止むを得ない理由があるかもしれない。
そんな可能性を頭から消し去ることがナイトには出来なかった。
「マギサに――」
言いかけて、口ごもる。
この質問をしてしまえば、もう後戻りはできない。
返答次第では、許しておけない。容赦をする余裕なんて吹き飛んでしまうだろう。
それでも、聞いておかねばならない。
「――マギサに、何かしましたか?」
目つきの変わったナイトに、シャレンが初めて反応した。
「『魔法使い』を殺す為、人質になってもらう。大人しく従えば命は保障する」
とんでもなくふざけた事を言われた。
ナイトは返事もせずに剣を構え、シャレンがステップを刻み始める。
しかしこれで、シャレンの目的は理解できた。怪しかったのも、旅についてきたのも、全ての説明がつく。
どこの誰かは知らないし、絶対に騎士団ではありえないが、シャレンは自分達に差し向けられた刺客だ。
『魔法使い』と言った。自警団達は、『凶悪な犯罪者』と言っていたのに。
ある程度以上の事情は知っていると考えていい。その上で今まで何もしなかったのは、マギサの『魔法』を警戒してのことだろう。
ということは、今もまだマギサは無事である公算が高い。多分、同じように自警団から逃げて町のどこかにいるはずだ。そこまで分かれば、後は簡単だった。
シャレンをぶっ飛ばして、マギサを探し出して町を出る。
息を吐いて気を落ち着け、視線をシャレンに固定する。
軽く左右に跳び、シャレンは波打つように動いてタイミングをずらしながら鉤爪を振るってきた。
両手に握った剣は振り易さが違う。剣戟の音を響かせ、脚と拳を打ち合わせた。
日はゆっくりと沈み、夜の闇が訪れようとしていた。




