第二十八話 「シャレン・その2」
――焚き火の向こうで、ナイトさんは笑っていた。
夜の山、雨の中。長年抱き続けた憧れが零れ落ちた話をしながら、それでも彼は笑った。痛みに耐えるような顔をして。
騎士になりたかったのだと、そう私に話してくれた。
その事自体は以前クーアさんから聞いていたが、彼の口から聞くのは初めてだ。
けれど、私を助けた挙句に騎士に向かって剣を抜いたのでは、もうそれは叶わぬ夢だろう。明らかな反逆行為だ。
彼もその事は分かっていて、どこか遠くを見つめながら苦笑してこう言った。
――夢で、終わっちゃったけどね。
胸が詰まって、何も言えなかった。
私を助けさえしなければ、彼の腕前なら騎士になれたかもしれない。最初から無理な夢だったんだ、と彼は言ったが、少なくともその夢に止めを刺したのは私だ。
なのに、彼は恨み言の一つも言わず、ただ優しく話してくれた。祖母のように。
薪の燃える音が響き、火花が散る。夜の闇の中に、ぼんやりと彼の顔が浮かび上がる。昼間は暑くなってきたけれど、夜はまだ少しだけ寒い。
夜の森は音がしなくて、彼の柔らかい声が良く聞こえた。
あの若い騎士はやはり強く、手も足も出なかったらしい。どうやって撃退したかを尋ねると、恥ずかしそうに教えてくれた。
――その時、言われたんだ。『どれだけ逃げても、何も変わらないぞ』って。
多分きっと、ずっと彼を苦しめてきた言葉。
それは確かに一つ正しくて、私が『魔法使い』である以上どうしようもないことで、世界の果てまで逃げたってその事実が消えるわけじゃない。
どこに行ったって、私が『魔法使い』である以上何らかの追っ手がかけられるだろう。この世界のどこにも、私の居場所はない。
それはつまり、私と一緒にいる限り、彼も同じ目に遭うということだ。
暗闇に包まれた未来を前に、思い悩まない人はいないと思う。この状況をどうにかするには、私が『魔法使い』でなくなるか、世界が一瞬の内に価値観ごと変化するかだ。
そんなもの、あり得るわけがない。
だからきっと、彼は何も言えなかったのだ。若い騎士の言うことはその通りで、これからどうしたらいいか分からなかったから。
そんな状態で口にすれば、本当に八方塞がりになりそうだったから。
もしかすると、私が酷く責任を感じるだろうと思ったのかもしれない。
私を責めるような言葉になったかもしれない。それならそれで、私は構わないけれど。
でも多分、彼はそういうのを嫌がると思う。だから、喉に何かつっかえたようにそのことを言わなかったのだろう。
何にせよ、私の所為には違いない。半ば本気で、彼を置いて一人でどこかへ行こうかと思ったくらいだ。
そうすれば少なくとも、彼のこの先が暗闇に閉ざされることはない。騎士に剣を向けた事実は消えなくても、色々と言い訳のしようはある。
それを彼がするか、そして国がそれを受け入れるかは別の問題ではあるが。
それでも、現状より少しはマシになるはずだ。このどうしようもない状況より悪い状態なんて、想像もつかない。
その考えは、次の彼の言葉で雲散霧消した。
――だから、少しでも何か変えてみようって思ったんだ。
色々教えて欲しいって言ったのはその所為、と。
照れたように笑う彼に、頭の中の文字が全部吹っ飛んだ。
こういう事を本気で言うから性質が悪いのだ、彼は。
それで何が変わるものでもない。世界も事実も、何も変わらないだろう。
でも、例えそれが無駄で無意味なものであったとしても、他に何も思いつかない限り何もしないよりはマシだ。
彼がそう思ったかは分からない。もしかしたら、本当にそれで何かが変わって現状を打開できるようになると思っているのかもしれない。
流石に私はそこまでは思えないけれど、反対する理由もなかった。
気絶していた間の事を話してくれたら教えるという約束だ。約束は、守らなくちゃいけない。
一通り話し終えた後、講義は明日から始めると確認を取って、寝床についた。
寝つきのよい彼の寝息を聞きながら、ゆっくりと意識を手放した。
その夜は、どうしてか雨の音が聞こえた気がした――
※ ※ ※
目的地をマギサの故郷に定めて歩き出してから数日。
二人の旅は、それなりに順調に過ぎていた。
水や食料を補給しながら進むと足は遅くなったが、急ぐ旅というわけでもなし。獣や追っ手に気を払いながら、森の中を北北東に向かって進む。
森の中でまで追っ手に気を払うべきか、という話もあるが、ついこの前追っ手と一戦交えたばかりである。
流石に山から逃げ出した時のような焦燥感はないが、いつどこで追っ手に会っても不思議ではない。騎士団とて人員に限界はあろうが、全く割いていないということもあるまい。
どうせ獣の類に気を付けねばならないのだ、ついでに追っ手の可能性も頭に入れておいて悪いことはない。
ナイトはなるべくマギサから離れないようにしたし、マギサも同じように水汲みに行く時さえついてくるようになった。
狩りの時ばかりはどうしようもないが、マギサに気をつけるようしっかり言い含めた。おかげで、追っ手どころか獣に襲われたことも殆どない。
幸い、恵みの多い森で山菜の類もそれなりにあり、そういった点で不安要素はなかった。
日が落ちるとすぐに野営し、食事を済ませて鍛錬をしてマギサの講義を受ける。
知らないこと尽くめで、ナイトが混乱してしまうこともままあった。その度にマギサが根気強く説明してくれるので、ナイトは益々頭が上がらなくなっていく。
マギサはそれでも、毎日嫌な顔一つせず教えてくれた。
そんな平和な旅が続いていた、ある日の事。
木の根が這う森の中を足元に注意を払いながら進んでいると、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
どことなく棒読みっぽく、一本調子な所があったが、それは確かに悲鳴……のように聞こえた。
ナイトはマギサと顔を見合わせ、小さく頷くと悲鳴の聞こえた方に向かって走り出した。
慣れたもので、木の根や藪を飛び越えて足を止めることなく突き進む。マギサは後ろから、無理のない速さで追いかけてきていた。
悲鳴の聞こえた方に近づくと、獣の唸り声も聞こえてきた。酷くいきり立っていて、割とまずいかもしれない。足に力を込め、藪を突っ切る。
そこには、土を蹴って構える猪と、真っ黒いドレスのような服を着た黒髪の女性が居た。
胸元と背中が大きく開かれ、足にも大きなスリットが入ったそのドレスじみた服は、とても森の中を旅する格好とは思えない。肘上まである長手袋や脚を守るブーツ、それと右腕の篭手は辛うじてそれっぽかったが、全身真っ黒なのは意味があるのだろうか。
マギサと似た黒髪は一本に編まれて尻尾のように垂れ下がり、解けば多分マギサと同じくらいの量だろうと思う。
細くしなやかな体は尻餅をついてはいたが全く震えておらず、切れ長の冷たい瞳は恐怖など微塵も感じていなさそうだった。
猪は完全に狙いを黒い女性に定めていて、鼻息荒く唸っている。今すぐにでも飛び掛りそうで、そうなればその細い体はあっさり宙を舞うだろうに、女性は微動だにしない。
女性が、ナイトを見た。
唐突さとその瞳の冷たさに、心臓が跳ねる。
その隙を突くように、猪が雄叫びを上げて黒い女性に向かって突っ込んだ。
考える暇も何もない。体が動くのに任せ、女性と猪の間に割り込むように走りこむ。
猪の脚の方が速い。互いの速度差によって、ナイトは猪の脇腹にぶつかる形になる。
足を緩めず、ナイトはそのまま猪の脇腹に体をぶち当てた。どんな生物も、横からの突撃には弱い。
軽く飛んで猪を下にして地面に倒れ、暴れ回る足の餌食にならない内に腹を蹴って飛び退く。
荒い息を整えながら剣を抜くと、猪は起き上がって狙いをナイトに変えてきた。
しっかりとナイトを睨み付け、距離を測るように土を蹴りながらゆっくりと動く。
ナイトも負けじと猪を見据え、気合を込めて対峙する。
狼の時のように引いてくれるとは思えなかった。大層不機嫌そうな上に、それほど優位性を示せていない。
何度かいなした後なら分からないが、果たしてそれだけ持つか。体格も力も向こうが上だ。それ程の余裕はありそうにもなかった。
狩り以外での殺生はすべきでない、というのが村の猟師のカサドルさんの教えだったが、今回ばかりは守れそうにもない。
猪の目はやる気満々で、ナイトが脅した程度ではどうにもならなさそうだ。
剣を握り締め、突進に備える。正面から受け止めたら間違いなく無事では済まない。なんとか避けて、横から斬りかかるしかない。
猪が足を止め、身を屈めて足を鳴らす。ナイトも覚悟を決めて、一挙手一投足を見逃すまいと目を凝らす。
剣の柄を握る手が汗で湿り、猪が土煙を上げて突進し、
そのままあらぬ方向へ向かって走り去ってしまった。
あっという間に猪の姿は見えなくなり、ナイトは剣を構えたまま呆気に取られた。
どういうことかさっぱり分からず困惑していると、後ろの茂みが音を立てる。
反射的に振り向けば、マギサが少しだけ息を切らせながら近づいてきていた。
それで合点がいった。『魔法』を使ったのだ。
何かしら、軽いものを使ったのだろう。相変わらず『魔法』の事は分からないが、なんとなくどのくらい『魔力』を使うものかは察せるようになった気がする。
マギサが軽く走った程度の疲労具合だから、多分間違いない。
剣を収め、マギサに目配せをして倒れている女性に近寄る。
女性は、何故かじっとマギサの方を見つめていた。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけると、表情を変えないままこちらのほうを振り向いた。黒髪といい表情の無さといい、まるでマギサが大きくなったみたいだとナイトは思う。
黒髪の女性は軽い身のこなしで立ち上がり、尻についた砂を払って小さく頭を下げてきた。
「助かりました。有難う御座います」
何一つ感情の入らない棒読み。
流石にここまで露骨に怪しいと、ナイトの顔にも苦笑が浮かぶ。立ち居振る舞いからして何かの心得もありそうだし、猪に襲われていたのは芝居か何かかと思ってしまう。
猪に芝居が出来るわけもなし、そんなことはないだろうが。
服装といい振る舞いといい怪しさしかなく、普通の旅人などということはまずあり得ないと思ったが、荷物はちゃんと持っているようだった。
よくよく見てみればかなり見目麗しく、どうにもちぐはぐな印象が拭い切れない。
これほどの美人が、一人で、しかも明らかに旅する格好ではなく、しかし荷物は旅用にしっかり持っていて森の中を彷徨っている。
篭手にしたって、何故右腕にだけつけているのか。まさか飾りという事はあるまいが、意味が分からない。
何かしらの訳ありとしか思えないが、それを言うならこっちもだ。人のことを言う前に、自分達も旅をする格好としては微妙に変であることは自覚していた。
どう接したらいいか分からず、とりあえず適当にお茶を濁す。
「怪我が無ければ、何よりです。あー……その、気をつけて下さいね」
「そうします。何かお礼をしたいのですが、今は持ち合わせが」
「あーいえいえ、気にしないで下さい」
慌てて手を振って、襟足を触りながら笑ってみせる。
今は特に何も困っていないし、女性の一人旅から物や金を貰うのは気が引けた。
それよりも、これからどうするか、だ。
それじゃこれで、と別れるのは簡単だが、女性を一人で森の中に置き去りにするのもどうかと思う。
いや、今まで旅をしてきたのだろうからそれでいいのかもしれないが、知る前と知った後ではこちらの心持ちがぜんぜん違う。
何かしら訳ありのようだし、怪しさが大爆発しているし、深く考えずに旅を続けた方がいいのかもしれない。
それで後ろ髪を引かれなくなるのなら、何の苦労もないのだ。
「代わりといっては何ですが、この辺りの地図を持っています。どうぞ」
「地図ですか?」
差し出された羊皮紙を受け取れば、確かに何かしらの地形が描かれていた。
この辺りの事かどうかは分からなかったが、幾つか描かれた川の位置が大体一致していたので、多分間違いないだろう。
とはいっても、ナイトの記憶が正しければあるはずの川が描かれていなかったり、若干稜線が違ったりして正確とは言い難かったが。
そもそも、地図を読む力などナイトにあるはずもない。マギサを手招きして見て貰うと、小さく頷き返してきた。
確証も取れた所で、どうしたものかと思う。地図は有難いといえば有難いが、マギサのお陰で別に無くても困らない。
それに、これを貰うとむしろ女性の方が困るだろう。そう結論づけて、ナイトは地図を女性に返した。
「本当にお礼は結構ですから。僕らは大丈夫です」
「そうですか」
表情を変えずに受け取る女性を見て、つくづく似ているとナイトは苦笑する。
一言の言い方が、なんとも会話を続けにくい。接しにくさは、マギサ以上かもしれない。
どうにも捨て置けず、実に余計な事をナイトが言おうとした所で、黒髪の女性に機先を制された。
「一つ、お願いがあります」
「え、あ、はい、なんでしょう」
女性に真っ直ぐ見つめられ、なんとなくナイトは居心地の悪いものを感じる。
まるで蛇にでも睨まれたような、鷹に見据えられているような、奇妙な感覚。
どこか胃の腑が冷えるような感覚は、今までに余り覚えのないものだった。近いものとしては、『遺跡』のドラゴンと目が合った時か。
気にしすぎだと首を振って、女性の目を見つめ返す。
改めて見ると、本当に綺麗な人だった。身長はクーアより少し低いくらいか。ナイトと目を合わせると、自然と見上げる形になる。
どうにも慣れず、ナイトの方から目を逸らした。
「私を、旅に同行させてもらえませんか」
その一言にナイトは動揺し、マギサは顔を微かに歪めた。
それはナイトが言おうとした余計な事であり、マギサからすれば今後の旅が気の休まらないものになるという事である。
正体不明で極めて怪しい女が一緒など、安心できるはずもない。正体不明に関しては、マギサとて人の事は言えないのだが。
ナイトは動揺したまま、回らない口を開く。
「へ、はい? あの、同行、って」
「また獣に襲われるかもしれません。なので、出来れば」
「あー、いや、でも、その、目的地とか」
「特にありません」
怪しさ極まりない台詞を、女は平然と吐いた。
もうどこから突っ込んだらいいのか分からない。そんな格好で旅をして、目的地はありませんなど、疑いを通り越して確信を持っておかしいと言える。
怪しすぎて訳が分からなくなり、ナイトは困ったようにマギサを見た。
マギサはナイトを一瞥し、諦めたように軽く目を閉じる。分かっているのだ、こういう時に何をするべきか。
どうせここで、怪しいから置いていこう、なんて言っても後ろ髪を引かれまくった挙句にこの女性を探す羽目になるのだ。
マギサの知るナイトは、そういう人物だった。
「危険なのは、事実です」
さっきの猪にしたって、幻影を見せて追い払っただけだ。その内にばったり遭遇することもないとは言えない。
マギサがそれだけ言うと、ナイトは馬鹿みたいに頷いた。
「そうだよね、うん。危ないよね」
そう言って黒髪の女性の方に振り向いて、気の抜けた笑みを晒す。
「じゃ、その、とりあえず森を抜けるまではついてきてもらうってことで。いいですか?」
「はい、お願いします」
後ろ頭に手を置くナイトに、黒髪の女性は小さく頭を下げる。
小さく笑うナイトに、マギサは不満と一緒にそっと息を吐いた。
止むを得ない事とはいえ、これでいつでも気が抜けなくなった。怪しすぎて感覚が麻痺しそうだが、警戒すべき対象であることには違いない。
マギサは黒髪の女性を横目に見ながら、本当に森を抜けるところまでであって欲しいと思った。
こうして、ナイトとマギサの旅に、道連れが一人加わる事となった。
※ ※ ※
黒髪の女性は、名前をシャレンと言った。
シャレンはマギサ以上に無口で無表情であり、しかしマギサと違って人慣れはしているようだった。
何かと積極的に手伝おうとするし、マギサやナイトに常に気を配っていた。
ナイトにしてみれば、嬉しい誤算だった。
最初の印象だとマギサ以上に接しにくそうだったが、確かにある意味会話を続けたりするのはマギサ以上に辛いが、その分楽なところはマギサ以上に楽だった。
一番嬉しいのは、狩りを手伝ってくれることだ。
体術に心得があるらしく、足の速さや身のこなしはナイト以上だった。お陰で、普段の半分の時間で済んだりもする。
やっぱり只者じゃないし、何か事情があるんだろうとは思ったが、それを言うならこちらも同じ事。詮索をしないのが、互いの為だろう。
目を合わせるのは未だに苦手だが、ナイトは比較的すぐに打ち解けた。
反対に、マギサは全く打ち解けようとはしなかった。
当然と言えば当然だ。怪しさ満点なのは変わっていないし、マギサは『魔法使い』で追われる身の上だ。
まさかとは思うが、シャレンが追っ手の可能性だってある。それでなくとも、下手に『魔法』を使っているところを見られたら厄介極まりない。
ナイトもそれは分かっているのか、毎晩の獣避けをするときは必ずシャレンを連れ出して鍛錬に付き合ってもらっていた。
数日も経てば、『魔法』を見せないことと鍛錬に付き合ってもらうこと、どっちが本命か分からなくなっていたが。
何せ、シャレンに攻撃があたらない。剣は流石に危ないので木の枝で代用していたが、掠りもしなかった。
その内に夢中になって、ナイトがシャレンと打ち解けるのに貢献した事柄となった。
シャレンはといえば、打ち解けたのかは怪しい所だ。
最初から全く態度は変わらないし、マギサと同じく必要な事以外は喋らない。
ナイトもマギサで慣れていなければ、打ち解ける事は不可能だっただろう。
マギサを超える無表情で、ナイトもマギサもシャレンが顔色を変えたところを見た事がなかった。
それ故に、シャレンが何を考えているか窺い知る事は出来ない。
それは、マギサが打ち解けようとしない理由の一つとなっていた。
三人の旅は奇怪なリズムを刻みながら、それでも穏やかに過ぎていた。
※ ※ ※
その晩も、ナイトはシャレンを連れて鍛錬を行っていた。
一頻り剣を振った後で、枝振りのいいものを拾ってシャレンを促す。
「今日もお願いします」
「はい」
互いに小さく頭を下げあい、一刀一足の間合いを取って構える。
呼吸を整え、鋭い呼気と共にナイトが踏み込む。
上段から振り下ろした枝は空を切り、沈み込んで円を描くようにかわしたシャレンの拳がナイトの脇腹を狙う。
肘で拳を叩き落し、体を大きく開いて横なぎに枝を振るう。
シャレンは後ろに弧を描いて転回し、距離をとってもう一度構え直す。
ナイトも構え直し、摺り足で距離を詰める。焚き火を背にする格好になって、シャレンの姿がうまく見えないのが難点だ。
出来れば位置を変えたかったが、そんな悠長な事を言ったら鍛錬にならない。視界の悪い状態の訓練と思えば、悪くは無かった。
シャレンは鍛錬に付き合っているだけだからか、自分から打ち込んでくることはない。それどころか、最初はずっと避けているだけだった。
今みたいに戦ってくれるのは、多少は反撃して欲しいと頼んでからだ。
融通が利かないというか、言われた事以外はやらない、という姿勢のようだ。
多分、本来の彼女の性質はそちらなのだと思う。狩りなんかを手伝ってくれるのは、お礼か何かのつもりなのかもしれない。
湧いた雑念を払って、意識を目の前のシャレンに集中させる。折角の人とやる鍛錬だ、精一杯やりたい。
地面を蹴って近づき、枝先を下げて逆袈裟に切り上げる。
見事な足捌きで回転しながらかわし、側頭部に裏拳を叩き込んでくる。
避けても防いでも、体勢が崩れる事は避けられない。ならば、とそのまま食らって、反動をつけて袈裟懸けに振り下ろした。
驚くべきことにシャレンは股を大きく開いて身を屈めることでそれをかわし、そのまま足を閉じるように足払いをしかけてきた。
飛び上がってそれをかわし、シャレンは回転するように立ち上がって蹴りを叩き込んでくる。
両腕で防ぎ、牽制交じりに枝を斜めに切り上げる。後ろに下がられ、枝は空を切った。
反則気味な避けられ方に、思わずナイトは口に出してしまう。
「体、柔らかくない!?」
「それなりに」
それなりどころじゃないと思う、というのは心の中だけで突っ込んだ。
どういう訓練を積んだらそうなるのか。さっき蹴られた腕だって中々痺れているし、殴られた頭もガンガン鳴っている。
鍛錬をする度に垣間見えるシャレンの実力に、一体何者なのかという思いは膨れ上がるばかりだ。
自分達だって尋ねられたら困るから、決して言わないが。
結局位置を変えられないまま、むしろさっきより焚き火が遠くなった分暗くなってしまった。
もう一度構え直すと、不意に茂みで音が鳴った気がした。
手を止めて、周囲を見渡す。シャレンも同じように構えを解いていた。
奥の方と、近くの茂みから物音と、微かな足音。狐か狼か、中型といったところか。
焚き火から離れすぎたかもしれない。そろそろ獣避けも終わってるだろうし、獣に邪魔されるのも面倒だ。
「シャレン、もうそろそろ」
戻ろうか、と言う間もなく、たなびく黒髪が目の前を通り過ぎていった。
一瞬動きが止まったが、すぐに我に返って後を追う。何があったのか分からないが、只事ではなさそうだ。
ふと見れば、焚き火の奥にある暗がりに中型の狐がいた。
鋭い歯が焚き火の明かりで照り返され、マギサに顔を向けたまま身を屈めている。
噛み付かれれば、ただではすまない。獣避けが済んでいるなら大丈夫のはずだが、その前に近づかれていたとすればどうだろうか。
油断していた。こういうこともあるから鍛錬の時も注意していたのだが、シャレンに集中しすぎた。
後悔しても遅い。狐が飛び掛る前に、追い払わなくては。
マギサは狐には気づいておらず、走ってくるナイト達には気づいて背中を向けた。
ナイトがまだたどり着かぬ内に、隙を見つけた狐が屈めた体をぐっと伸ばして飛び掛り、
シャレンの飛び蹴りが、狐の体を吹き飛ばした。
鳴き声をあげて狐は地面にぶつかり、見事に着地したシャレンが追撃の蹴りを見舞う。
茂みの中に蹴り飛ばされ、怯えた鳴き声を上げてどこぞへと走り去っていった。
息を切らせたナイトがようやく到着した頃には、周囲の獣の気配も消えていた。
マギサが事態を掴めない様子で、ナイトとシャレンを交互に見る。
「あの、何が……」
「獣がいたから、撃退しました」
それだけ言って、シャレンはいつもの位置に移動して腰を下ろす。
マギサは困ったようにナイトを見上げ、ナイトも苦笑して補足した。
「狐がね、マギサを襲おうとしてて。後は見ての通り」
マギサは考え込むように俯き、少しだけ逡巡して、
「有難う御座いました」
シャレンに向かって、頭を下げた。
シャレンは顔色一つ変えずにマギサを見つめ、
「いえ、別に」
そこで会話は終わった。
会話が続かない事この上ない。それでも意思疎通はとれたのか、二人とも納得したようだった。
それにしても、とナイトは思う。
シャレンがあそこまでマギサを助けようとしてくれるとは意外だった。多分、あれが本気の走りだろう。速すぎて音があまりしなかった。
怪しい所も分からない所もあるが、悪い人ではないかもしれない。今夜の件は、ナイトがそう思うのに十分なものだった。
焚き火を見つめたまま微動だにしないシャレンに、ナイトが頭を下げる。
「僕からも。マギサを助けてくれて有難う、シャレン」
「……いえ、別に」
ナイトを一瞥し、シャレンはすぐに焚き火に向き直った。
その様子がまるで照れているように見えて、ナイトは少しだけ嬉しくなった。勿論、それはただの勘違いなのかもしれないけれど。
モガとアドの時みたいに、助けて助けられてのお互い様が出来たみたいだ。そういうことを繰り返していけば、いつか何かが変わるかもしれないと思う。
いつか、マギサが逃げなくてもいい世界がきてくれたらいいなと思う。
ナイトもいつもの位置に座って、マギサから布を受け取って汗を拭き取った。シャレンは殆ど汗を掻いていないが、股裂きといいどんな身体をしているのだろう。
ここ数日鍛錬に付き合ってもらっているが、シャレンが酷く汗を掻いたところなんて見た事がない。
いつか、汗を掻くシャレンというのも見てみたい。
やってみたいことが増えると、明日がその分楽しみになる。悪い事じゃないはずだ。
そんなお気楽な事を考えながら、ナイトは上機嫌に焚き火を崩した。
夜の森はどこか不気味さを湛えながら、奇矯な三人組を包んでいた。




