第二十七話 「シャレン・その1」
――『組織』は、王都の貧民窟で生まれた犯罪集団だ。
その活動に制限はない。強盗、恐喝、殺人、誘拐、ありとあらゆる犯罪行為に手を染め、金と引き換えに何でもやる。
王都が王の眩しいお膝元なら、貧民窟は王の暗い足元だろう。
そして、その足元に巣食うのが『組織』である。
『組織』がいつ、どのようにしてできたのか、正確に把握している者はいない。まるで求められるように、いつの間にか自然に存在していた。
そもそも、『組織』に統括者はいない。
誰かが上に立って、階層構造を作って成立しているわけではないのだ。
『組織』のその本質は、犯罪者達の相互扶助を目的とした横の繋がりである。
強い日の光に晒されぬよう、影の中に隠れ潜む手助けをするのが、本来の役割だ。
時には人や事実を闇から闇へと葬って、犯罪そのものを『なかったこと』にする。
法の光から影の住人を守る為の、利害の一致した結束を『組織』と呼ぶのだ。
しかし、時の流れの前には何事も不変ではいられない。
『組織』も、その様態をやや変えていた。
基本方針は変わらぬままに、『まとめ役』という存在が出てきたのだ。
『まとめ役』とは、犯罪を行いたいが自らの手を汚したくない、または何らかの事情がある人間と、犯罪を実行するに何の呵責もない人間とを繋げる仲介役のことである。
『まとめ役』の登場により、『組織』は飛躍的に拡大することとなった。
犯罪を依頼する人間は金銭などを渡し、その代わりに誰かが犯罪を実行する。
貧民窟で金に困っていない人間などどこにもいない。瞬く間に、この形態は貧民窟全体を席巻した。
結果、『組織』は王都に留まらず、各地の大きな街にまで影響を伸ばし始めている。一定の場所や人に拘る事のない、『組織』ならではの拡大の仕方だ。
今となっては、『組織』とはこの『まとめ役』達のことであり、貧民窟全体のことを指すものとなっていた。
勿論、下手人が捕まる事も、『まとめ役』が捕まる事もある。騎士団とて無能ではない。
だが、どれだけ捕まえてもすぐに次の『まとめ役』が現れ、犯罪の温床が消えることはなかった。
仲介役をこなせばいいのだ、『まとめ役』になりたがる奴など腐るほどいる。『組織』内でのお得意様をめぐっての暗闘もあるくらいだ。
騎士団にしてみれば、終わらないもぐら叩きをしているようなものだろう。
もぐら達を全て捕縛すればいいのかもしれないが、明確な理由もなくそんなことはできないし、牢の数も虜囚に出す飯も足りない。
捕まえた端から処刑なんてすれば、暗黒時代の到来だ。誰もそんなことは望まない。
それに、『組織』のお得意様の中には、王宮で働く者もいた。
金さえ払えば、どんな依頼だって受ける。地位がある故に自らの手を汚せない人間に、これほどうってつけのものもそうはなかった。
『組織』が潰れて困るのは、何も裏の人間だけではない。だからこそ、『組織』は騎士団の目を逃れ、拡大の一途を辿っていた。
影がある限り、『組織』が消えることはない。それはもう、形無き悪意の総称だ。
そして、光が大地を照らす限り、影は必ず生まれるのだ。
ヴィシオ・ミニストロは、その影の代表的な大口の顧客だった。
※ ※ ※
王都の地下には、『遺跡』が眠っている。
正確には、『遺跡』の上に王都を建てたと言うべきだろうか。
王宮に現存する古い資料にも、そういった旨の記述があるにはある。ただし、所々欠けていて詳しくどんな内容かを知ることは出来ないが。
何らかの理由で『遺跡』の上に王都を建てた。そのことを知るのは、王宮内でも限られた人間だけである。
それどころか、王都の地下に『遺跡』があることを知っている者もそうはいない。
民の不安を煽るのは良くないと、公表していないからだ。誰だって、足元に得体の知れないものが埋まっていると聞いていい気はしない。
かといって、今更遷都するのも具合の悪い話である。かつての王とて、何の意味もなく『遺跡』の上に都を造ったわけではあるまい。
地下の『遺跡』は広大で、全て調べきることは出来ていない。幸い、地上に繋がる通路の辺りに魔物がでたことはなく、居た痕跡もなかった。
騎士団の極秘任務としてこの『遺跡』の調査があるが、もう何代も前から行われていない。別に打ち切ったわけではなく、単純に人員不足だからだ。
特段差し迫った問題でもないものに、貴重な労力を割く余裕はなくなっていた。
そこに付け入る隙が生まれるのは、当然のことでもある。
貧民窟や『組織』の人間にとって、光の届かぬ地下の『遺跡』は絶好の隠れ家となった。
魔物の居ない王都の地下は、紛れ込んだ鼠とほとぼりを冷ます犯罪者、家も金もない浮浪者が溜まる無法地帯と化していた。
騎士団が把握している『遺跡』への入り口は市街と王宮周辺まで。貧民窟や郊外にまでは手が回っておらず、抜け道はいくらでもあった。
『遺跡』の利用法は他にも色々とある。地下の悲鳴は、地上にまでは聞こえない。
連れ込んで始末し、遺体を処理してしまえば行方不明者の出来上がりだ。闇から闇へと葬るのに、これほど都合のいい場所もない。
事程左様に、『組織』にとって地下は非常に重要なゴミ箱だった。
貧民窟にさえ届く王の威光が、唯一全く届かない場所。
王宮の支配が及ばない、かつての『魔法使い』が作ったという『遺跡』。
そこは、まさに『組織』の独壇場だった。
その状況が変わったのは、今からおおよそ十年ほど前の話である。
ヴィシオ・ミニストロが、大金をはたいて『組織』に地下の管理を依頼した。
その額は、一組の夫婦が一生遊んで暮らせる程だったという。
売れるものなら尊厳でも店に並び、金さえ貰えれば何でもする。
その言葉通り、『組織』は地下から溝鼠を除く関係者以外の全ての存在を排除した。
王の威光も支配も届かなくても、金の輝きなら届く。
こうして、『組織』との契約が続く限りにおいて、地下はヴィシオのものとなった。
ヴィシオがそこまでしたのは、無論治安維持の為などではない。
その理由は、今まさに黒い女暗殺者の目の前にあった。
笑顔を貼り付けた『まとめ役』の男に連れられ入った『遺跡』の小部屋。
床一面に描かれている複雑怪奇な図形と記号を組み合わせた、知らぬ者が見ればただの落書きにしか映らない代物――即ち、『陣』である。
「凄いでしょ? これが秘密道具。その右腕と同じ、『魔道具』だよ」
女は返事一つせず、黙って目の前の『陣』を見つめる。
男はニヤけた笑みを貼り付けたまま、部屋の隅に置いてあったずた袋を取った。
「この秘密道具は君をとある『遺跡』に運んでくれる。そこから標的を探してもらうことになるね。大丈夫、安心して。情報が正しければ、その付近にいるはずだから」
信頼という言葉が全く似つかわしくない軽い口調で説明しながら、男は女の前にずた袋を置く。
女はそれを一瞥すると、説明を求めるように男に視線を向けた。
男は眉をハの字にして笑い、軽くずた袋を蹴る。
「食料に水筒にその他諸々。見つけるまで時間かかるだろうから、必要そうなものを一通り、ね。必要経費ってことで先方からお金は貰ってるから、心配しなくていいよ」
「用意がいいのね」
「君に話したら、多分直行するだろうなぁって思ってたから。それでなくとも、すぐに取り掛かれってお達しなんで」
張り付いた笑みのまま歯を見せる男に、女は興味などないように無視してずた袋を背負って『陣』に乗る。
男は肩を竦めて何かを探すように懐をまさぐり、
仄かに光を放つ『陣』を見て、手を止めた。
女が乗った箇所から『陣』が脈動するように光り、起動していく。
中央まで進んで振り返り、女は呆気に取られる男を一瞥した。
「標的は黒いローブを着て青年の剣士を連れた『魔法使い』の少女。手段は問わず殺せばいい。依頼内容はこれで間違いない?」
そう尋ねられ、男は我に返って頷く。
「あ、あぁ、そう。名前は女の子の方がマギサで、男の方がナイト。殺した証拠に女の子が持ってる杖を持って帰って来い、だって」
「分かった」
首肯し、女がそっと目を瞑って神経を集中させた。
床の文様に輝きが広がっていき、中央にいる女の足元から鱗粉のような光が立ち上る。
『魔力』は、誰しもに等しく存在する。故に、『魔道具』は『魔法使い』以外にも使える。『陣』とて例外ではない。
ただ、それを扱いこなす術は、現代にはもう失われている。
もし、現代において『魔道具』を使いこなす人間がいたとすれば、相応以上の訓練を積んだものだけだろう。見つかる端から国庫に放り込まれる『魔道具』に、そんなに長期間接することのできる人間がいれば、の話だが。
そして、女の右腕にある鈍い色をした篭手は、男の言う事が正しいとすれば『魔道具』である。
「あぁ、ちょっと待って! 報酬だけど、さっきの男を始末した分と合わせてまとめて後で払うってことでいい?」
無言で頷く女に、男はほっとしたように息を吐く。
ついに『陣』の全体が淡く輝き、女の姿が薄い光に包まれていく。
不意に聞いてみたくなって、男は口を開いた。
「この秘密道具ってさ、使った感じはやっぱりその右腕と同じようなもんなの?」
自分でも何を言っているのか分からない。が、なんとなく気になったのだ。
『陣』を使う為に借りてきたものを懐に仕舞い直して、光の中の女を見る。
女は薄く目を開いて、男の質問に小さく答えた。
「少し違う」
言うが早いか、女の姿は小部屋から消え去った。
後に残ったのは物言わぬ落書きに戻った『陣』と、困ったように笑う男の姿だけだった。
※ ※ ※
意識を取り戻した黒い女暗殺者の目に入ってきたのは、薄暗いせいでどこか古ぼけて見える壁と床だった。
ぐるっと見回せば、転送元と同じような小部屋であることが分かる。
壁や床の見慣れぬ材質から考えても、どこかの『遺跡』で間違いないなさそうだ。
視界の端に、野狐の紋章を捉える。ミニストロ家の紋章にして、『遺跡』においては『組織』の勢力圏であることを示すもの。
『組織』とヴィシオ・ミニストロとの契約が生きている証明だ。
目的の場所に着いたことを理解し、女はずた袋の中身を確認し小部屋から出る。
ずた袋には、『まとめ役』の男が言っていた通りのものが入っていた。
小部屋を出て、半ば癖で足音を殺しながら一本道の廊下を進む。女の足取りには、若干の疲労が窺えた。『魔道具』を行使するのは、やはり楽なことではなさそうだ。
そのせいだろうか。足音を殺すのが、雑になっていたのは。
人など誰もいないと思っていたせいかもしれない。
視界の先に開けた場所に通じる出口と、入ってくる光が見えた。女はそのまま広間に出ようとして、
――おー! やっぱ思ったとーりだ!
――外の風を感じるわい!
咄嗟に壁に張り付いた。
一本道の先にある広間の中央に、子供が一人走ってくる。
壁に体を擦り付けたまま出口に近づいて、子供が走ってきた方を確認する。伸びをしている老人が一人と、
その後を追うように出てくる腰に剣を佩いた青年と黒いローブの少女。
反射的に身を隠そうとして、『魔道具』を使った疲労のせいか足が小さくもつれ、思ったよりも大きな足音を立ててしまう。
想定外の失態に微かに顔を歪め、息を殺して標的と思しき少女を含めた四人組を観察する。
剣士らしき青年以外には、気づかれた様子もない。青年にしても、軽く周囲を見て何もないと結論付けたようだ。
身を屈めてゆっくりと足音を抑えながら下がり、万が一にも見つからないように距離をとる。
身を隠す場所がないこの一本道ではしっかり確認されればどうしようもないが、相手にその気がないならやり過ごすことも無理ではない。
出会い頭で殺す気は女にはなかった。嘘か真か、相手は『魔法使い』だ。正面からやりあうのは得策ではないし、護衛らしき剣士もいる。
確実に殺すには、相手が油断しているところを狙うのが一番いい。女にとっても、それは得意分野だった。
右腕の篭手の感触を確かめるように触れ、標的達が通り過ぎて行くのを待つ。
四人組は女に気づく様子もなく、『遺跡』の出口と思しき場所に向かっていった。
女は周囲を確認しながら広間に出ると、ずた袋を背負い直して四人組の後を追う。
気づかれないよう後を尾けるやり方は、もう身に染み込んでいた。
※ ※ ※
『遺跡』から表に出た所で、四人組は老人と子供、標的とその護衛の二手に分かれた。
女が潜んでいたのは会話が聞こえる距離ではなかったが、一時的に別れたというわけではなさそうなのは分かる。
何らかの事情で『遺跡』を共に探索していたのだろうと窺えるが、女は特に興味がなかった。何にしろ、邪魔がいなくなるのは都合が良い。
何事か話した後に目的地を決めたらしく、標的達が移動を開始する。街道ではなく、茂みの多い森の中に進んでいくのを見て、女はそれまで以上に距離を取った。
足音を殺すにしても、限界はある。特に、下生えや藪を歩けば無音というわけにはいかない。だからといって迂回している内に標的を見失えば、間抜け以上の何かだ。
街道や街中であれば話は別だが、女は森の中を無音で歩く訓練など積んでいない。折角のブーツも、草木が擦れる音までは守備範囲外だ。
広めに距離をとる、それ以外の解決法を女は持っていなかった。幸いにして、森の中では無音の方が珍しい。多少の物音は紛れてしまうだろう。
黒い少女と青年の後を尾けながら、隙を窺う。しかし、距離をとらなければいけない所為もあって、これといったタイミングが掴めないまま夜になってしまった。
襲撃慣れしているのか、森を進んでいる間中青年に気が抜けたところはなかった。黒い少女の方は多少なりと隙が見えたところもあったが、青年が邪魔で仕方がない。
依頼では邪魔するようならお付きの男を殺してもいいとあった。その可能性を女が検討している間に、標的達は今日の寝床を決めたらしく、焚き火を作っていた。
女が息を殺して観察していると、食事をしながら青年が何事か話し始めた。黒い少女は黙って聞いていたようだったが、青年が話し終えると何か言ったようだった。
青年と短いやり取りを交わし、場が静寂に包まれる。
夜の森は実に静かで、聞こえるのは虫の声くらいのものだ。昼間と違い、音を抑えるのにもう少し神経質にならねばならない。
食事を終えると、青年が少し離れた場所に移動する。好機とはとても言えない。他の音がなさすぎて、女が立てる音はすぐに青年に察知されるだろう。
標的の少女は、何やら杖を振っている。何をしているのか、女にはさっぱり分からない。
どうでもいいと切り捨てて、右腕の篭手に触れて神経を集中し力を込めた。
「“爪”」
女が呟くと篭手の形状が変化し、鋭く尖った五本の鉤爪が現れた。
女はじっと鉤爪を見つめると、満足したように小さく息を吐いて気を緩める。
次の瞬間には鉤爪は姿を消し、また鈍い色をした篭手が右腕に戻っていた。
標的達の方に視線を移せば、青年は剣を振り回し、少女は荷物を整理していた。
女は視線を外さないようにしながら、二人が寝付くのを待っていた。流石に寝ている時にまで物音に反応できる人間はそう多くない。
派手に音を立てなければ、最も安全で確実に人を殺せるタイミングだ。
戻ってきた青年に少女が布を渡し、この静けさでも全く聞こえない大きさで二、三言交わす。無口さでいえば、女といい勝負だろう。
暫く二人で座ったまま焚き火を見つめると、青年の方が焚き火を崩す。挙句、どちらか交代ということもなく二人して寝入ってしまった。
これでは、野生の獣に食ってくれと言わんばかりだ。昨今は魔物が出ることも増えたというし、森の中の野営としては無防備極まりない。
だが、女にとっては都合が良いこと尽くめだ。獣に先を越されないよう周囲に気を配りながら、深い眠りに入ったと思えるまでじっと待つ。
夜の森は、月の光を遮る場所では王都の路地裏よりも暗い。目を凝らしても一寸先は闇であり、草木が擦れる音が妙に耳に響く。虫の声が断続的に聞こえ、梟か何かの声もする。遠くで鳴っているのは風が通る音か、獣の遠吠えか。
女の馴染んだものは少し違う、しかし見慣れた暗闇だった。
何があるか分からないという点では、森も街も変わらない。何がいるかが違うだけだ。その脅威の度合いは、下手したら街の方が酷いかもしれない。
情け容赦なら、森も街も、等しく存在しないのだから。
二人が寝入ってから、月が地平線に向かって数度傾いた頃。
頃合いと見て、女は潜んでいた茂みからゆっくりと這い出た。
月明かりさえろくに届かない中では確認し辛いが、標的は二人とも熟睡しているはずだ。耳に神経を集中し、音を殺して近づく。
特に目立った物音は聞こえない。幸いな事に獣も近くにいないようだ。
更に近づく。微かに青年の寝息が聞こえた。
小声で呟き、鉤爪を出現させる。『魔道具』であるこの鉤爪は、人間の肉はおろか皮鎧程度なら軽く引き裂くことができる。重量は勿論、羽とそう変わりはない。
闇に慣れた目に、標的達の姿が映る。焦らず足音を殺し、ゆっくりと鉤爪を構え、悲鳴すら上げさせず一撃で仕留めるよう狙いを定めて、
気がつけば、目の前から標的がいなくなっていた。
一瞬混乱し、周囲に視線を走らせる。
暗闇と木々が並ぶばかりで、ここが森の中だということ以外何も分からない。
狙いをつけていたはずの標的は忽然といなくなり、どこにも影も形もない。
一度深く呼吸をし、落ち着いてもう一度周囲をゆっくりと見回してみる。
真後ろに振り向いた時、もって来たずた袋が見えた。
足元を注意深く確かめながら近づけば、間違いなく女のずた袋だった。ということは、標的達がいるのはこの先ということになる。
目を凝らせば、微かに標的達の姿が見えた。
一体どういうことなのか、理解が出来ない。確かに標的に接近し、もうあと少し近づけば獲物が届いて仕留められたはずだ。
狐か何かに化かされたような気分だ。幻か何かでも見せられていたのだろうか。
そこまで考えて、女の頭の中で『まとめ役』の言葉が響く。
――『魔法使い』だってさ。
『魔法使い』。かつて世界を席巻し、支配した一族。『魔道具』や『魔物』を作った存在。
女は右腕の鉤爪を見つめ、もう一度標的達に近づいていく。
今度は足音を殺すことだけに注意し、鉤爪を構えもしない。
標的達の姿がはっきりと見えてくると、一歩一歩確かめるように歩き出した。
そして、後数歩で手が届くということまできて、
またしても標的達の姿を見失った。
慌てることなく後ろを見れば、茂みに隠れるように置かれたずた袋。
間違いない。伝承やお伽噺の通りなら、これが『魔法』というものだろう。
女はそう確信し、気を緩めて鉤爪を篭手に戻した。
今の状態では、何度襲撃しようとしても無駄だ。まだ昼間襲う方が可能性がある。
とはいえ、今の一件で女はその気を全く失くしていた。こんな意味の分からないことをする正体不明の相手を襲うのは、例え不意を突いたとしてもリスクが高すぎる。
相討ちになれば依頼を達成したと報告できないし、それどころか返り討ちに遭う可能性の方が高い。
それでも、隙を突いて一撃で殺せれば何とかなるが、それはあの青年が阻むだろう。
今日一日尾け回して、そのことは確信できた。
かといってあの青年を先に殺せば、その間に何かしら『魔法』を使われてお終いだ。
実に面倒極まりない状況に、しかし女の顔は微塵も歪まなかった。
それならそれで、方策を考えればいい話だ。そもそも時間がかかるものとして用意もされている。
再びずた袋のところまで戻って、女は近くの木の根元に寄りかかって目を瞑った。
ここから先は、長期戦だ。何かしら打開策が見つかるまで、相手を尾けるしかない。
そう決めて、女は体を休めた。
眠りについた女に向かって、獣がゆっくりと近づいてくる。獲物を見定め、狩りをする動きへと移る。
身を屈め、脚をたわめて反動をつけて飛び掛り、
「“爪”」
鉤爪に切り裂かれ、五つに分かれた体が地面に転げ落ちた。
適当に離れた場所に獣の体を放り投げ、女はもう一度木の根元で目を瞑る。
寝ている時にまで物音に反応できる人間は、そう多くない。
女は、その訓練を積んだそう多くない人間の内の一人だった。
※ ※ ※
女が尾行を始めてから数日。
標的達の毎日の行動パターンも、大体理解出来てきていた。
朝の起きる時間は、大体同じ。たまに青年の方が早いときもある。
青年は起きると剣を振り回しに行き、少女は昨夜の燃え残りを使って焚き火を作る。
その後朝食を摂って、ひたすら一定の方向に進む。太陽の向きから換算して、北東から北北東。現在位置が女にも不明なので、どこに向かっているかまでは分からない。
毎日の会話は、決して多くない。青年の方から話しかけることが殆どで、少女の短い応対によって数言で終わる。
それでも、関係性はそう悪くないようだ。何かとお互いに気にかけている様子が見受けられる。特に、相手の注意が自分に向いていない場合に多い。
川や動物を見つけると、進む方向を変えることもある。水や食糧確保の為だ。確保した後は元の方角に進む。
青年は心得があるのか、狩りはそれなりに出来るようだ。青年が離れている間にどうにかできないかとも思ったが、流石にその場合は少女の方に隙がない。近くに青年がいるかどうかで、少女の気の張り方はまるで違っていた。
標的達の進みは、やや遅いくらいと言っても良かった。道すがら旅に必要な物資を確保しているからだが、それにしても急いでいるような様子もない。
その事を如実に現しているのが、日が沈んでからの行動だ。
日が落ちるとすぐに野営地を確保し、焚き火を作る。森の中であることを考えれば安全性の面からいっても妥当といえば妥当だが、その後が女には良くわからない。
焚き火を囲んで食事をし、青年は剣を振りに行く。その間、少女は杖を振って荷物を整理したり焚き火を弄ったりする。ここまではいい。まだ理解できる。
問題はその後だ。青年が戻ってから、寝るまでの間。
少女が青年に向かって、何やら長々と話をするのだ。
拾った木の枝で地面に何か描いたりもする。落書きをして遊んでいる風でもなく、敢えて言うなら何かを教えているようだった。
『魔法』について何かの教えでも受けているのだろうか。とすれば、青年も多少なりと『魔法』が使えるのかもしれない。女にしてみれば、その予想は向かい風としか言いようがなかった。
早めに野営地を決めるのは、おそらくこうして何かを教える為だ。『魔法使い』とその護衛、という関係性にしては妙な話であるが。
標的達の関係性など、女には興味のないことだ。教えている最中は二人とも気がそちらに向いているので好機ではあるが、近づく際に明らかに音を立ててしまう。
試しに一度近づいて、青年に気づかれた事がある。獣か何かだと誤魔化せはしたが。
怪しまれれば、今後何かの対策が見つかったときに枷となる可能性が高い。下手なことはしないのが一番だ。
ともあれ、その意味不明な長い話が終わった後は二人して就寝する。女もそれに合わせて体を休めた。
二日目から気づいたが、標的に近づけない『魔法』は、青年が剣を振っている間に少女が杖を振って施しているもののようだ。
獣避けにもなっているようで、たまに獲物を狩り損ねた獣が女を襲うこともあった。
悉くが別の獣の餌となってしまっていたが。
こうして標的達の日課は知ることができたが、それで状況が変わるわけではない。
『魔法』はどうにもできないし、日中に襲うこともリスクが高い。直接殺す手段は何も見つからなかった。
ならば、考え方を変えればいい話だ。
何日も後を尾けて、女にも少しだけ分かることが増えた。
どうやら青年は、かなりのお人よしであろうということ。そして、少女は気の知れた相手といるときは隙を見せるということ。
これらから算出される、現状女が取れる手段は一つ。
今までに取った事のない方法で、そういうのは『まとめ役』の男の方が得意なのだが、今更そんなことは言っていられない。
受けた依頼はこなす。
それが、女が養父から教えられた世界の絶対のルールだった。
準備をするべく、標的達から離れる。進む方角は分かっているから、問題はない。
この作戦に必要なのは、それなりに獰猛な獣だ。猪か狼か、熊でもいい。
森の中での歩き方にも、随分と慣れた。走る女の足音は、獣のそれと比べても明らかに小さい。
「“爪”」
念の為に鉤爪を出し、真っ黒い衣装をはためかせて女は目当ての獣を探す。
その計画は、おそらく『まとめ役』の男が聞いたら、困ったように笑って肩を竦めるだろうものだった。
そんなことになっているとは露知らず、マギサとナイトは平和に旅を続けていた――




