第二十六話「遺跡・エピローグ」
意識を取り戻した時、足元に何もなくて平衡感覚を失った。
一瞬の浮遊感の後すぐに足が何かに当たる感触があったが、対応できずに躓いて転んでしまった。
強かに尻を打ちつけて、痛みと共に目を開いてみれば、薄暗い部屋の中だった。
「ってーーーーーーーー!!」
「おぉぅっ!」
どうやらアドとモガも同じように尻を打ちつけたらしい。
見回せば、尻を撫でる冒険家二人と、一人無事着地に成功したマギサの姿があった。
とりあえず何事もなく無事なのを確認して、どこの部屋なのかと首を巡らせる。
小さく薄暗い部屋で、どこか見たことがある気がした。
床についた手に妙な感触を覚えて下を見てみると、『陣』が書いてある。
思い出した。
半円状の広場から繋がる三本の通路の先の一つ、機能を失った『陣』がある部屋だ。
ナイトは知らない事だが、この『陣』は機能を失ったわけではなく、先ほどの空っぽの部屋からの一方通行になっているだけである。
目印としての役割しか果たしていない為、マギサにも機能不全に見えただけだ。
ナイトは尻を叩きながら立ち上がり、もう一度周囲を見渡した。
間違いない、見覚えがある形をしている。
確かめようとマギサの方を振り向けば、既にここがどこか分かっているような顔をしていた。
「マギサ、ここってやっぱり」
「はい、最初の三本の通路の先の一つです」
確認が取れて安堵し、モガに手を貸しに行く。
アドは既に立ち上がっていて、元気にきょろきょろと周りを見回していた。
「いや、すまんのぅ。年はとりたくないもんじゃて」
「流石に二度目は堪えますよね」
「にーちゃん、ねーちゃん、じーちゃん! ここ最初の通路の先の部屋だ!」
苦笑しつつモガを立ち上がらせると、アドが大発見をしたとばかりに叫ぶ。
既に確認済みだが、それは黙っておく。
モガは驚いて、忙しなく上下左右に視線を走らせた。
「おぉ、本当じゃ! この文様、覚えておるわい!」
「すげー! ほんとに戻ってきた!!」
はしゃぐ二人を余所に、ナイトはほっと胸を撫で下ろした。
あのまま出口が見つからず、白骨死体になるのは御免だった。自分だけならまだしも、モガやアドやマギサもいたのだ。
四人仲良く餓死だなんて、笑えもしない。
一頻り二人の様子が落ち着いた所で、声をかけた。
「さて、じゃ出ましょうか」
「うむ、そうじゃな」
「おー!」
モガは満足そうに頷き、アドは元気一杯に拳を突き上げる。
収穫といえるほどの何かはなかったが、二人の冒険心は十分に満たされたようだ。
尤も、あれだけのことをしておいて満たされないのはどうかと思うが。
何度死ぬ目にあったか分からない。マギサがいなければ死んでいた場面は多いし、最後のドラゴン戦なんかまさにそれだ。
ともあれ、素直に言う事を聞いてくれるのはいい事だ。四人で連れ立って、元来た道を引き返していった。
一本道を抜けると、記憶の通りに広い半円状の広場に到着した。
「おー! やっぱ思ったとーりだ!」
「外の風を感じるわい!」
嬉しそうに広場の真ん中に躍り出るアドに、胸を開いて伸びをするモガ。
もう少し気が早いんじゃないかと思うが、ずっと狭い場所で気を休める暇のない探索を行ってきたのだ。少しくらい羽目をはずしてもいいだろう。
ふと、何か足音のようなものが聞こえた気がした。
周囲を見回してみても、何もない。ここに自分達以外の人間がいるはずもないし、動物の類だったらもっと分かりやすく音を立てているだろう。
神経を尖らせることばかりで、少し疲れているのかもしれない。
走り回るモガとアドの後を追って、マギサと歩調を合わせて入り口に向かう。
半円状の広場を抜けて、入り口までの一本道を歩く。
差し込んでくる久しぶりの太陽の光に、ナイトは口元を綻ばせながら目を細めた。
誰もいないはずの半円状の広場に、小さく殺した靴音が響いた。
※ ※ ※
外は、朝焼けに光り輝いていた。
どうやら、殆ど丸一日『遺跡』の中を歩き回っていたようだ。
余りの眩しさに、目が慣れるまでは殆ど何も見えなかった。
人間の目は、暗すぎても明るすぎても駄目らしい。適応力の高いアドは両手を広げて走り回っていたが、モガは目を瞬かせて難儀していた。
ほぼ一日ぶりに吸う外の空気は何だか爽やかで、ナイトも胸一杯に吸い込んでみる。
長い間緊張を強いられた凝りが、ゆっくりとほぐれていく気がした。
思いっきり伸びをして、肺に溜まったものを吐き出す。
明るさにも慣れてきた所で、モガが尋ねてきた。
「それで、お前さん達はこれからどうするね?」
好々爺然とした微笑と共に、ナイトとマギサの顔を見やる。
気を利かせてくれたのであろうモガに、答えを出す時間が来たことをナイトは悟った。
「わしとしては、心強い道連れが増えるのは嬉しいんじゃが」
モガはいつも、自分の気持ちしか語らない。
それはきっと、この老齢の冒険家なりの優しさであり、遺跡や魔道具なんかを人生をかけて追いかけることにした変人なりの矜持なのだろう。
空っ惚けた様子で襟足を掻くモガに、ナイトの返事はもう決まっていた。
「誘ってくれるのは嬉しいですけど、僕らは行く所がありますから」
「……ん、そうか」
珍しくはっきり断ったナイトに、マギサが少しだけ驚いたように見やる。
モガは残念そうに笑って、走り回るアドに声をかけた。
「おーい! アド、行くぞー!」
「わかったー!」
駆け寄ってくるアドに顔を綻ばせながら溜息をつき、モガは何かを思い出したように荷物を漁り出す。
使い古されてくたくたになった袋から出てきたのは、最後の部屋で見つけた何が書かれているか分からない羊皮紙だった。
「今回の冒険の思い出にの。持ってってくれい」
「え、あ、いいんですか?」
「どうせ持ってても読めんしのう」
笑って差し出すモガに、それじゃあ、とナイトは遠慮がちに受け取る。
おそらくは、遥か昔に『魔法使い』達が使っていたであろう文字。
今となっては、マギサしか読めないだろうもの。
そこに何が書かれているのか、嘘でも気にならないとは言えなかった。
近づいてきたアドの頭を撫でて、モガは背を向けた。
「それじゃあ、元気での」
「にーちゃん、ねーちゃん、またなー!」
満面の笑みで手を振って、アドはモガに連れられて遠ざかっていく。
もう少しアドは何か言うかと思っていたが、存外素直に別れてくれた。
やや思う所がないでもないが、もしかしたら最初からここまでと思っていたのかもしれない。バカとはいうが、妙に聡いところがあるから。
実際少し寂しいのは自分の方ではないかとも思うが、図星なので考えないことにした。
記念に貰った羊皮紙を、太陽に透かしてみる。
勿論、そんなことをしたって読めるようになるわけじゃない。分かりきった事ではあるが、なんとなく試してみたくなるのが人情というものだ。
「行く所って、どこですか」
ほんの少し剣呑な響きを感じないでもないマギサの声に、ナイトは苦笑する。
毎度の事ながら、また勝手に決めてしまった。
悪気があるつもりはないのだが、どうにも間が悪いというか、相談する機会が上手い事ないことが多いような気がする。
マギサが結局は頷いてくれるので、それに甘えているのかもしれない。
こういうところも、少しずつ変えていけたらいいと思う。
自省は胸に仕舞い込んで、聞かれた質問に答えた。
「マギサの故郷」
その答えに、マギサが息を飲む様に黙り込むのが分かった。
望外だと言わんばかりに次の言葉を失い、ただじっとこちらを見ている。
表情にも口にも出なくても、存外マギサは感情表現が豊かだと思う。
「色々考えたんだけれど。特に行く所もないし、マギサの里に行ってみようよ。マギサは僕の村を知ってるけど、僕はマギサの里を知らないし」
「……何も、ないですよ」
「それなら、それを見てみたい。マギサは、その、色々あると思うけど。僕は行きたい」
アドの言葉を思い出す。
やりたいことをやる、と彼は言った。
きっと、彼はその言葉に従って、モガのような冒険家になるのだろう。
思い通りに出来るかどうかは、別の話だけれども。
それは、多分、自分だって同じ事だ。
嫌だ嫌だと喚いても、一人剣を振り回しても、あの若い騎士の言う通り何も変わらない。
けれども、だからといって諦めれば、マギサが連れて行かれてしまう。
何とかする方法も分からないけど、少しずつでもいいから何かを変えていきたい。
それは、思い通りに出来るかは別の話だけれども。
何も変わらないと言われたことに対する反発に過ぎないのかもしれないけれど。
ちょっとでも何か変われば、もしかしたらマギサが連れて行かれずにすむようになるかもしれないから。
まずは、今の何もマギサの事を知らない自分を変えていこう。
アドに腹を括らせておいて、自分がやらないなんてことは出来なかった。
「あの、だから、道とか全然分からないから、マギサに案内してほしい、んだけど……」
段々と尻すぼみになる言葉に、ちらちらと様子を窺うようにマギサに送る視線。
相も変わらぬナイトの自信のない挙動に、マギサは聞こえぬよう小さく溜息をついた。
「……ど、どうかな?」
「……いいですよ」
怯えたようなナイトの顔が、途端に笑顔に変わっていく。
マギサはいつもの無表情で、黙ってナイトの顔を見つめていた。
「あ、ありがとう! あの、それで、道って分かる?」
自分から頼んでおいてこれである。
滅茶苦茶に逃げ回った挙句、適当に歩いてきて、果てには気絶して勝手に運ばれた事もあるマギサが、現在位置など把握しているはずもない。
マギサは無言で杖に魔法をかけ、適当に地面に突き刺すように立てる。
杖は、北北東の方向に向かって倒れた。
「あっちです」
「そうだね、魔法使えば分かるよね……」
自らの無知を恥じ入るように萎縮して、ナイトはマギサに笑いかける。
杖を拾って歩き出すマギサの隣に並んで、ナイトは恐縮そうに話しかけた。
「えと、それで、もう一つお願いがあるんだけど」
「何ですか」
どことなくマギサの声が冷たく聞こえるのは気のせいということにして、ナイトは根性と勇気を振り絞って口を開く。
「村に居た頃みたいに、教えて欲しいんだ。魔物の事とか、魔法の事とか、文字の事とか色々」
意図を確かめるように軽く見上げてくるマギサに、力なく笑い返す。
自分がそれなりに悠長な事を言っている自覚はある。
それでも、魔物の事を含め色々覚えるのは今後の旅にとっても悪い事じゃないはずだ。
教えてもらうのも、いつもの鍛錬が終わってから寝るまでの間なら時間を無駄にしない。マギサには、少しばかり……いや、自分の頭の悪さを考えるとかなりの負担を強いることになってしまいそうだが。
マギサの里に着くまでに、少なくともそれなりの理解は得ておきたい。でないと、多分何があっても良く分からないだろうから。
マギサは暫くナイトを見つめていたかと思うと、急に視線をはずし、
「いいですよ。私が気絶していた間の事を教えてくれるなら」
と言った。
どんな心境かナイトには知り及ぶべくもない。
あの雨の夜に受けた痛みは、今も消えてくれてはいない。
それでも、もう話す事に抵抗はなくなっていた。
自分が知りたいように、マギサだって知らない事は知りたいだろうから。
「分かった。ありがとう」
頼みを聞いてくれたのなら、こちらも頼みを聞くしかない。世の中もちつもたれつだ。
手に持った羊皮紙に目をやり、いつか必ず読んでやろうと野望を燃やす。
それまでは、マギサに聞くのも止めておく。
歩調を合わせて、二人は北北東へと進む。
目的地は、『魔法使い』の里。
騎士団に襲われ、全てが焼け落ちてしまった、マギサの故郷だ。
※ ※ ※
草の生い茂る山道を、二人の冒険家が歩いていた。
一人は老齢で、一人は子供。祖父と孫という関係の二人は、性格も行動もとても良く似ていた。
だから、祖父には孫が声も出さずに泣いている理由も、とても良く分かったのだ。
「よう我慢したの」
モガが優しく声をかける。アドは泣いたまま、黙って頷いた。
どう見ても訳有りの二人が、一緒に来るわけないとはモガもアドも思っていた。
一体何をどうすれば、あんな酷い状態で崖から落ちるというのか。少女の方は怪我一つないことも気になっていた。
何より、遺跡に入ってからのあれこれは、とてもモガの知る常識では説明できない。アドは良く分かっていなかったが、二人が何か普通でないことは感じていた。
それと、良い奴かどうかは別の話だ。
モガもアドも、あの朴訥な青年と無口な少女を気に入っていた。互いを思いやりあっているように見えたし、それを自分達にも分けてくれた。
冒険家として旅をして数十年、モガは自分が余り良い目で見られる類の人間でないことは理解していたし、アドもそれを知らずにいるほど一緒にいる時間は短くなかった。
あの二人は暖かかったし、モガもアドもそれで十分だった。
だから、出来れば一緒に行きたかった。
アドにしてみれば、久々になつくことができた人だ。別れるのが寂しくないはずがない。
でも、泣けば、きっと二人は傷つく。
遺跡の冒険は危険で怖かったけれど、とても楽しかった。その思い出の最後を、嫌なものにはしたくない。
別れは、笑ってするのが一番だ。
モガに比べれば短い旅の中で、それでもアドはそのことを学習していた。
泣くわけにはいかない。自分のプライドにだって関わる問題だ。
だから、出来るだけあっさり別れた。余計な事を言えば、漏れてしまう気がした。
離れて、姿が見えなくなって、ようやくアドは泣けた。
またな、と言ったのは伊達や酔狂ではない。本心だ。
「また、会えるといいのう」
モガの大きな手に撫でられながら、アドは唇をかみ締めて頷いた。
バカだけれど、何が気持ちいいかくらいは分かる。そうあのぼんやりした青年に言った。
だから、これでいいのだ。間違っていないのだ。
笑って別れたほうが、泣いて別れるよりずっと気持ちいいのだ。
口元を引き結び、泣き声を飲み込んで、アドは目元を擦った。
やりたいようにやったとしても、涙が出る時はある。
思い通りに出来るかどうかは、別の話だ。
話を逸らすように、モガが独り言を呟く。
「それにしても、あれには何が書いてあったんじゃろなぁ」
「あの、にーちゃんにやったやつ?」
「そう。惜しい事をしたかもしれんの」
あの羊皮紙は、おそらくは遺跡の主が遺したものだろう。
あの無口な少女は読めたようなので渡したが、こちらの手元には今回の冒険の成果が何も形として残っていない。
せっかく大当たりを言うべき遺跡を引けたのに、これではいつもと変わらない。
別に後悔などはしていないが、あれを調べるのも悪くなさそうだと思えた。
「今度会った時、見せてもらえばいーよ」
何の気なしに言おうとして、力がこもってしまっている言い方だった。
孫を見下ろせば、また何か一つ強くなったような顔をしていた。子供の成長は早い。
それを喜べるのは、祖父の特権とでも言うのだろうか。
「そうじゃな」
頷いて、前を向く。
どうせ読めもしないのだ。読める人の所にある方があの羊皮紙の主も幸せだろう。
二人の冒険家は、下生えを踏みしめて歩く。
行き先は、次の冒険。
それがどこで待っているかは、まだ分からないけれど。
新たな冒険を探して、二人はきっと歩き続けるのだろう。
あの文字を読むことが出来た少女は、もしかしたら『魔法使い』かもしれない、なんて突飛な事を考えながら――
※ ※ ※
――『親愛なる、未来の同胞へ。
この手紙が、私の同胞に読んで貰えている事を願う。
この施設は、私の心そのものだ。怯え、惑い、他人を拒絶する。
それは私だけでなく、『魔法使い』全てに言えた事だろうと今になって思う。
我々は、何よりも臆病だったのだ。
だから彼らを支配し、全てを意のままに操ろうとした。
その癖に孤独を恐れ、何もかもを徹底しようとはしなかった。
その半端な精神は、この施設にも存分に現れていることだろう。
そんな我々に虐げられた彼らが、反旗を翻すのは当然と言えた。
彼らが手にした武器の中には、自らの命を奪うものさえあった。
それでも、彼らは我々を滅ぼそうと止まることなく襲ってきた。
彼らの目は、我々を人間として映してなどいなかった。
その目に恐れをなして、私はこんな避難所を造って逃げ込んだのだ。
ここで暮らし始めて、どのくらいの時が過ぎたのかは分からない。
何もすることがなく、ぼんやりと頭に思い浮かぶことを考えて過ごしていた。
すると、段々と彼らのあの目は、当然の帰結だったのではないかと思い始めた。
あの目は、我々が彼らに向けていたものだ。
人ではないと蔑んでいたのは、我々の方だ。
あの目は、写し鏡に過ぎなかったのではないかと思う。
果たして存在しているかも分からぬ未来の同胞よ。
私は孤独に耐えかね、考えるのに疲れ、己が犯した罪の重さを背負いきれない。
せめてもの贖罪として、私の持つ全てと共にこの世から消える。
後世に生きる人々が我々のようにならぬよう、何もかも忘れてしまうよう。
この手紙は結局の所、最後まで徹底できない私の愚かさの表れだ。
本当に忘れ去られてしまうのが怖くて、残してしまう弱さだ。
どうか、この半端な祖先を許してほしい。そして、覚えておいて欲しい。
誰かを軽んじれば、誰かに軽んじられる。
何かを奪えば、何かを奪われる。
もし、何らかの形で同胞が生き延びて、未来にも同族が生きているのなら。
どうか、このことを理解して欲しいと思う。
そして、我々のせいで何かしら悲惨な目にあっていないことを祈る。
彼らの怒りは、きっと星が一度巡る程度では終わらないだろうから。
追伸:部屋の前にいた火竜だが、できればそっとしておいてあげて欲しい。
長年過ごして、彼に友情のようなものを勝手に感じてしまっている。
彼はやや面倒臭がりで、居心地の良い場所からは無理に動こうとしない。
放って置いても、何もしない。どうか、私の最後の願いを聞き届けて欲しい。
名も無き臆病な魔法使いより』
※ ※ ※
光が強い程、闇も濃くなるとは、誰の言葉だっただろうか。
王のお膝元である王都、その外れの路地を男が一人必死で駆けていた。
さしもの王都も、深夜には一部を除いて寝静まる。起きているのは、真っ当でないものばかりだ。
男は、その一部だった。
二年程前に受けた仕事で相方を失って以来、こうして深夜遅く、時には朝まで呑んで帰るのが日課になっていた。
今日もいつもと変わらず、仕事をこなした後一杯ひっかけて帰るはずだった。
それが、どうしてこんなことに、
何かに蹴躓いて、盛大に転んで木箱にぶつかる。
派手な音が鳴ったが、こんな貧民窟でそんなことを気に留める者はいない。深夜ともなれば、例え気づいた者がいたとしても巻き込まれるのを恐れて近寄らない。
気にしてくれそうな連中が居る所まで、そんな音が届くわけもなかった。
足元が暗すぎて何も見えない。痛みを押し殺して木箱を押し退け、走り出そうとした所で背中に激痛が走った。
「い、ぎぃっ!?」
潰れた蛙のような声を上げて、男はその場に膝をつく。
反射的に後ろを向けば、斬りつけてきた犯人が映った。
それは、真っ黒な夜に溶け込みそうな、黒髪の女だった。
細くしなやかな体は女性としての魅力を十分に備えており、胸元と背中が大きく開いた体に密着するドレスのような黒い服を着ている。真っ黒い髪は一本に編まれて尻尾のように垂れ下がり、切れ長の瞳は温度というものを感じさせない。
両手に肘上までの黒い長手袋、足を守る黒いブーツは音を小さくする為のものだ。
そして何より、赤い血の滴る、右腕に輝く銀の『鉤爪』。
五本の爪は、人間の肉など易々と切り裂きそうな鋭さを見せつけている。
見下ろす黒髪の女の目からは何の感情も読み取れず、男は背筋を這う冷たい感触に身を震わせた。
「ま、待て! 待ってくれ! い、一体どうして俺を狙う!?」
思い当たる節ならそれこそ山ほどあるが、そのどれもがこんな暗殺者を雇う金などないはずだ。
本気で走ったのに、振り切れない。それどころか、息一つ乱していない。
あの鉤爪だって軽くはないだろうに、そう膂力があるとも思えないのに、女の細腕で軽々と振り回している。
そして何より、その目。
男とて、真っ当とは言えない社会で仕事をしてきた身だ。色んな人間を見てきたし、人殺しを見るのだって初めてじゃない。
その女の目は、今まで見てきたどれとも違う。殺しを楽しんでもいないし、相手を見下してもいない。仕事と割り切っているといった様子でもない。
当たり前に、そういうものだというように、人を殺そうとしている。
動くような感情もなければ、こだわるような理由もない。ただただ、殺せといわれたから殺している。そういう目だ。
その辺に転がっているような奴ではない。ほぼ間違いなく、『組織』の人間だ。
だが、何故、どうして『組織』が自分を狙うのか。
「何か誤解だ、そう! 行き違いがあるんだ、だから――」
情け容赦なく、鉤爪が男を貫いた。
悲鳴すら上げる間はなかった。
血を噴出して、男は地面に倒れる。
女は一言も発さないまま、鉤爪について血を振り払った。
「お見事。任務成功、お疲れ様です」
小さく拍手をしながら、路地の影から新たな男が現れる。
並み程度の背に、細く引き絞られた体。貼り付けたような笑顔をしたその男は、血溜りの中に倒れた標的の髪を掴んで、顔を確認した。
「はい、間違いなく。まぁでも、余り血が出ないように殺してもらえると、後処理が助かるかな~、なんて」
「無理」
一言でばっさりと切り捨てられ、笑顔を崩さぬまま男の眉が困ったように歪む。
諦めたように溜息をつき、掴んだ髪を手放して立ち上がった。
標的の頭が重力に従って血溜りに落ち、赤い飛沫が撥ねて男のズボンの裾につく。
血の染みを悲しそうに見下ろして、男は身を翻した。
「さ、それじゃ報酬を渡さないとね。それと次の仕事の依頼があるよ」
黒い服の女は、歩き出す男のやや後ろにつく。
その右腕にあったはずの鉤爪はいつの間にか姿を消し、代わりに鈍い色をした篭手が填められていた。
男は目だけを動かしてそれを確認し、気弱な声を出す。
「あの~、そうやってついてこられると怖いんだけど……」
女は、一言も返事をしなかった。
笑顔を崩さずに深く深く溜息をつき、今度はしっかり女のほうを振り向く。
「次の仕事も、いつものミニストロさんとこ。で、同じようにすぐに取り掛かって欲しいんだってさ。どうする? すぐに行く?」
女が頷くのを見て、男が進路を変えた。
貧民窟の路地は、王都内の市街と違って入り組んでいる。誰もが適当に家を建てたり壊したりするからだ。
王都内の市街とは余りにも違う。区画整理も何もあったものではない。かろうじて石畳なのが王都であることを感じさせるが、それも所々欠けていたりする。
王都にあって、ほぼ無法地帯。強い光によって生まれる濃い影。
それが、この貧民窟である。
どこもかしこも雑然としていて、道端にゴミが寝転んでいる。どこにいってもくすんだ臭いが鼻をつき、犬以外も残飯を漁っては齧る。
命と金貨が日常的に交換され、売れるものなら尊厳でさえ店に並ぶ。
暗闇の中で何が行われようと、誰の目に触れることもなく、誰に気づかれることもない。
月明かりさえ届かぬ場所が、確かにここに存在していた。
入り組んだ路地の行き止まりに、地下へ続く階段があった。その前には、明らかに真っ当でない仕事についていると分かる者が二人。
男はその二人に軽く挨拶し、女を引き連れて階段を下りていく。
小さな靴音が反響して響く中、男は振り返りもせずに言った。
「次の仕事はね、ちょぉっと場所が遠いから、標的を探すのもそっちでやってもらうしかない。その分報酬も高いし、すごい秘密道具も使っちゃう」
横目で窺うも、女は相変わらず無反応だ。
男は眉尻を下げ、説明を続ける。
「今向かってるのは、秘密道具のとこ。秘密だからね、誰にも言っちゃダメだよ」
女が頷きもしないことは分かっているので、男は様子を見ることもしなかった。
階段を下りきると、縦横に広がる通路になっていた。
材質は、石とも鉄ともつかない。壁自体仄かに光り、足元を見る分には困らなかった。
それはまるで、ナイト達が冒険した『遺跡』のように。
男は迷わず左に折れ、目的地が決まっているような足取りで進む。
女も、何も言わずにその後に続いた。
「秘密道具は、その場所に着いてからのお楽しみ。大丈夫、ちゃんと説明はするよ」
薄明るい通路に、男の足音と声だけが響く。
女の足音は小さく押し殺され、男の音に紛れて、まるで幽霊のように物音一つ立てていないようだ。
「で、肝心の内容だけど。小さな女の子を殺して欲しいって。ついでに、邪魔するようならお付きの男も」
「特徴は?」
僅かにでも動揺を見せず、黒い女は標的を識別する情報を尋ねる。
男は貼り付けた笑顔を崩さぬまま、実に楽しそうに口元を歪めて嗤った。
「『魔法使い』だってさ」
ヴィシオの魔の手が、ついに直接伸ばされようとしていた。




