第十九話 「リーナの里・エピローグ」
泥塗れのリデルを見て、キラザもリーナも腰を抜かしそうなほど驚いた。
二人に薦められるままに汲み置きの水で泥を落とし、鎧も服も脱いで綺麗な布で体を拭き、キラザの服を借りて温かいお茶を飲む。
思ったよりも冷えていた体が、芯から温まっていくような気がした。
疲労とも安堵とも取れる息を吐き、リデルは礼を述べる。
「有難う御座います。人心地つきました」
「いえ、大した事では」
リデルを気遣って微笑むも、キラザの目はもの問いたげに揺れていた。
リデルは目を細め、カップを両手で持ち上げる。
キラザが何を聞きたいか、本人に尋ねるまでもなく分かっていた。
「ナイト君達は、逃げました。今どこにいるのか、もう分かりません」
「あ……そうですか」
安堵していいものか、反応に困った様子でキラザは頷いた。
少し冷まして、リデルはゆっくりカップを傾ける。
キラザの複雑な心境は、分からないでもない。
ナイト達に対して、どういう立場に立ったらいいのか分からないのだろう。
彼等は、決して悪人ではない。むしろ、善人といって差し支えないだろう。
しかし、だからこそ、多くの人の心を悩ませるのだ。
そしてそれは、リデルもまた例外ではなかった。
説得できると、思っていた。
いや、実際は違う。説得しなければならないと思っていた。
ナイトに言った言葉に、嘘偽りは一つもない。公的な騎士としては言ってはならない事もあったからこそ、個人的に口にした。
納得して引き渡してくれたのなら、マギサに関して王や議会に十分に説明し、国の監視下に置けば命を奪う必要性はほぼないことを訴えようと思っていた。
悪いようには決してしないと、約束するつもりだった。
だが、結局はナイトの言うとおりかもしれない。
団長に聞いた所では、『魔法使いの里』の殲滅を声高に唱えたのはヴィシオ大臣らしい。
現在、議会で最も発言力があると言っていい人物だ。
彼がマギサを処断する方向で話を推し進めれば、自分の訴えなどどれほどの意味を持つか知れたものではない。
マギサが危険であることは、何がどうなろうと変わらない。そこを持ってきて叫ばれれば、反論は力を失っていくだろう。
ナイトの言葉が、頭の中で繰り返し響く。
――マギサの故郷は、あんたら騎士団が滅ぼしたんだろ!!
その通りだ。事実だから、肯くしかない。
正直、詳しい事情はマギサの捕縛に失敗し、追っ手に任命されてから知った。
確かに、そんな状況で投降しろといわれてする奴はいない。
どんな理由があろうと、それがどれほど正しかろうと、彼女の故郷は騎士団によって焼かれ、家族どころか一族郎党皆殺しにされた事実は変わらない。
今の彼女は、もうこの世界にただ一人の『魔法使い』だ。
ナイト達の気持ちを、間違ったものだなんて口が裂けても言えない。
彼らの足跡を追っていれば、どんな人間かなんて簡単に想像ができた。本当は、説得に応じるとは最初から思っていなかった。
それでも、説得しなければならないと思った。
善悪は関係ない。『魔法使い』の存在は世を乱す。人々が心安らかに生きていく為には、『魔法使い』を自由にさせてはおけない。
議会の判断と国王の決定で騎士団が『魔法使いの里』を滅ぼした事は、その使命と職務において正しい行為だ。
他の道が一つもなかったとは言わないが、そうしなかったということは、選べなかったということだ。
ナイトに言った通り、人の弱さを糾弾しても始まらない。弱さを悪というなら、それは人間全てに滅べということと変わりない。
分かっている。そういうことだと、分かってはいるのだ。
分かっていて、その考えに迷いが出ている自分がいる。
今も、別に間違っているとは思わない。思わないが、妙な違和感がある。
だから、ナイトを説得しようと思った。
それが、一番正しい道だと思ったのだ。
例えそれが、不可能だと分かっている道だとしても。
しかし、結局はナイトを説得できなかった。説得できずに、争う羽目になった。
当たり前だと分かっていても、全て上手くいくことなんてないと知っていても、正しいと信じた道を歩めなかったのは事実だ。
アバリシアといい、自分の実力不足を痛感させられる。
この件が片付いたら、いっそ騎士団を辞するのもいいかもしれない。
騎士を名乗るには、余りにも情けなさ過ぎる。
リデルは半分ほどに減ったカップを置いて、長く静かに息を吐いた。
一先ず、彼らのことを考えるのは後回しだ。二人の行方の分からぬ今、切羽詰って考えるべき問題は他にある。
リデルは居住まいを正し、思い悩むように視線を泳がせるキラザに向き直った。
「キラザさん、一つお聞きしたい事があります。宜しいですか?」
「え? あ、はい、私に答えられることでしたら」
肯くキラザを確認して、リデルは口を開く。
「二年程前、二人組の男が見せた許可証にあったという印章ですが。どんなものだったか、具体的に覚えていますか?」
「具体的に……ですか」
リデルの質問に、キラザが腕を組んで唸る。
キラザの話を聞いたときから、気になっていた。ナイト達の方が逃げてしまう可能性があった為後回しにしたが、こちらも捨て置けない問題だ。
自分の考えが正しければ、今回の事件の直接的な元凶。二年程前、国の調査団を名乗って『山小屋』に入り浸ったという二人組の男。
泥から抜け出して『山小屋』を見たが、奇妙な紋様が円状に床に描かれ、それ以外には何もない空間だった。
昔、一度だけ見たことがある。あれは、『魔道具』の一種だ。
どういうものかまでは分からないが、状況から考えて、あの『魔道具』が里を襲ったという植物のような魔物と無関係とは思えない。
そして勿論、『山小屋』に入り浸ったという二人組の男とも。
キラザから聞いた話と『山小屋』で見たものを全て合わせると、おそらくその魔物は『山小屋』に封印されていた『山神様』であり、二人組の男は『山小屋』であの『魔道具』を調べていて、何らかの事故を起こしたのだろう。
それが、魔物に何らかの影響を与え、山で人が消えるという事件を引き起こした。
ナイトの態度から考えても、それでほぼ間違いはないはずだ。
つまり、その男達は『魔道具』に対して何らかの知識を持っていたことになる。それだけでも憂慮すべきことだが、問題はその先。
その男達が見せた許可証にあったという、野狐の印章。
リデルの知っている限り、そんな印章を持つ家系は一つだけ。
ミニストロ家。『魔法使いの里』殲滅を強く唱えた大臣、ヴィシオ・ミニストロが当主を務める家だ。
偶然の一言で片付けることは、リデルにはできなかった。
何かを思い出したように、キラザが腕を解く。
「そういえば、何かあった時の為に写し取っていました。ご覧になりますか?」
「是非」
間髪入れぬリデルの答えに苦笑しつつ、キラザが席を立つ。
リデルがお茶を飲み干す頃に、キラザは一枚の羊皮紙を手に戻ってきた。
「こちらです」
「有難う御座います」
礼を言って受け取り、羊皮紙を開いて目を通す。
そこに描かれていたのは、リデルにも見覚えのある野狐の印章。
ミニストロ家のものに違いなかった。
リデルの目が鋭く細められる。確たる証拠を前に、疑念は膨らんでいく。
ヴィシオ・ミニストロが『魔法使いの里』殲滅を声高に唱え、今も『魔法使い』を拿捕することに強い意欲を見せているのには、何かしら理由がある。
それも、口にしているものとは全く別の、個人的な理由が。
まだ断言できる状況ではない。だが、この考えがあたっていれば、ヴィシオは大臣の身でありながら国家に虚偽を働き、自らの都合のいい方向に誘導していることになる。
決して、看過しておいてはならない。
羊皮紙から視線を外し、カップに口をつけて上目遣いに様子を窺うキラザを見やる。
「申し訳ありません、こちらをお借りしても?」
「あぁ、いえ、差し上げます。もう必要ないものですし」
首を振って手で示すキラザに礼を言い、羊皮紙を懐に収める。
ヴィシオが何らかの謀をしていたとしたら、これはそれを暴くきっかけになるだろう。
雨が止んだら、一旦王都に戻ろう。リデルはそう決めた。
この証拠を団長に渡す必要がある。政権争いに忙しい王宮の事だ、これ幸いとヴィシオの腹を探るだろう。
それが国家にとって益となるなら、政権争いにも意味はある。
それに、戻る理由はそれだけではない。改めてナイトと向き合って、説得するのは無理だという結論が出た。
だが、それはあくまで、自分なら、という話だ。
別の誰かなら、説得できるかもしれない。
それは例えば、彼の故郷の村で、彼やマギサと親しかったと思しき、あの自分に平手を打った女性ならば。
そもそも、彼の説得を頼んで受けてくれるかどうか怪しいが、力に頼る前にやれることはやるべきだ。
力づくで事を成すのは、本当にそれ以外の選択がないときだけにしたい。
考えがまとまったところでお茶を飲もうとして、カップが空になっていることに気がついた。
目聡くそれを見つけたキラザが、気遣うような微笑を浮かべる。
「お代わりは、いかがですか?」
「……はい、頂きます」
一瞬逡巡してリデルが肯き、キラザが腰を浮かせると、都合良くティーポットを持ったリーナが入ってきた。
出鼻をくじかれたキラザはリーナと空のカップを見比べ、乾いた笑いを上げて諦めたように大人しく座った。
父の行動で理解したのか、リーナは空のカップを引き寄せてお茶を注ぎ、そっとリデルの前に置く。
「冷めない内に、どうぞ」
「……有難う御座います」
柔らかく微笑むリーナに、なんとも言えずリデルは頭を下げる。
リデルは今少し、リーナにどう接すべきか分からずにいた。
リーナにしてみればナイト達は命の恩人で、里が魔物に襲われた原因で、自分という騎士に追われている存在だ。
どのような感情を抱いているのか、想像するに余りある。どんな言葉をかければいいのか、リデルにも答えが出せない。
彼女は、多分、さっきまで泥だらけの鎧や服を洗ってくれていたのだろう。それがナイトと戦ってついたものだということくらい、想像がついているはずだ。
一体どんな気持ちで、汚れを落としてくれていたのだろうか。
まだ舌に辛い熱さのお茶と一緒に、リデルはえもいわれぬ気持ちを飲み込む。
ポットと一緒に持ってきたカップにお茶を注いで、リーナはキラザの隣に座った。
「ナイトさん達は、ご無事でしたか?」
リーナの言い草に、リデルの動きが止まる。
まるで何でもない世間話でもふるように、あっさりと口にした。
ぎょっとした顔をして振り向くキラザを無視し、リーナは薄い微笑をリデルに向ける。
湯気を立てるカップを置いて、リデルはリーナと向き合った。
「はい。少なくとも命に別状はないと思います」
「そうですか……良かった」
心からの安堵の息を吐いて、リーナは胸を撫で下ろす。
どういうつもりか図りきれず、リデルはじっとリーナを見つめる。
そのままの意味に捉えれば、雨の降る夜の山に入った二人を心配しているということだろうが、彼女が彼らをただ好意的に思うのは難しいはずだ。
自分がナイト達と会ったと考えるのは簡単だろうが、自分に直接聞く胆力があるとは思わなかった。
リデルの視線に気づき、その意味も理解したのか、リーナが綺麗な微笑を浮かべた。
「お二人は、私の命と里を救ってくれました。その行方と無事を気にするのは、おかしいでしょうか?」
「……いえ」
小さく首を振るリデルから視線を外し、リーナはまだ熱いカップを両手で持ち上げる。
その瞳は、後悔と煩悶に揺れていた。
「お二人には、色々事情があったのだと思います。それを察せず、庇いきれなかったのは私の責任です」
リーナを視界から外さず、リデルはお茶を一口飲む。
彼らの人となりが、また一人悩み苦しむ者を作ってしまったようだ。
「どんな事情があれ、お二人が皆を守ってくれたのは事実です。それなのに、お礼の一つも言えてない。せめて無事なら、いつか言う機会もある。そう信じてます」
「……そうですか」
カップを置いて、リーナから視線を外す。
鳴り止まぬ雨音が、ふと意識の表層に上ってくる。
雨音の向こうから、ナイトの叫び声が聞こえる気がした。
本当に、どうして、こんなことになってしまうのか。
一体誰が悪いのか。
そんなものないと分かっていても、問わずにはいられない弱さを、リデルは噛み締めていた。
雨は、翌朝まで降り続けた。
※ ※ ※
自分がどこを走っているのか、ナイトに考える余裕はまるでなかった。
とにかく遠くへ、少しでもあの騎士から離れようと走る。
足元がふらついて、体力も限界を超えてとうとう倒れ、せめて雨から少しでもマギサを守ろうと木の根元に這いずった。
途切れた意識が戻ったとき、雨は既に上がっていて、マギサはまだ眠っていた。
体がだるくて重い。泥が服や顔にこびりついて、湿った気持ち悪い感触がする。
全身がずきずきと痛むし、少し動かすだけで骨が軋むような音がした。
それでも、あの騎士と戦って五体満足でいられたのだから十分だ。
マギサを背負い直して立ち上がり、前へ進む。
ここがどこかなんて、考えるのは止めた。別にどこだろうと変わりはしない。とにかく歩いて、休めそうなところを見つけなければ。
木々の間を抜け、斜面を渡り、藪を踏み分ける。
日が暮れるまで歩いて、休んで、日が昇ったらまた歩くのを繰り返す。
幾つか見つけた洞穴は、とてもマギサが目を覚ますまで寝かせていられるような場所ではなかった。
体が重い。疲労が少しも抜け切れていない。
日が昇ってまだ少ししか歩いていないのに、もう息が切れ始めていた。
腕にも力が段々篭らなくなっていく。一歩一歩が、亀よりも遅くなる。
いやに右脇腹が痛むから何かと思えば、薄く切れて血が流れていた。
騎士の剣を受け止めた時に斬られたやつだろう。防ぎ切れているとは思っていない。
そんなものに構っている暇はなかった。
マギサを安心して休ませられる場所が欲しい。洞穴じゃ獣が心配で目を離せない。
夜は物音一つで起きられるくらいの浅い眠りを、ずっと繰り返していた。
それだけじゃない。暗闇の中で目を閉じれば、あの騎士の声が耳元で聞こえて眠れないのだ。
――どれだけ逃げても、何も変わらないぞ!!
本当に、逐一あの騎士の言うことは正しくて嫌になる。
確かにその通りだ。逃げたからって、マギサが追われなくなるわけじゃない。
人の弱さがマギサを殺そうとするなら、どこに逃げても意味なんてない。あの騎士の言うとおり、人の弱さが消え去ることはない。なら、今自分がしていることはほんの僅かな延命であり、世が乱れる危険をばら撒く行為だ。
弱さを悪だと、言えるはずもない。
でも、だからといってマギサの死を受け入れることはできない。
何にも答えが出せない、中途半端な状態。
どうしたらいいのか、何一つ分からなかった。
ただ、立ち尽くしていたら、マギサが殺される。それが嫌で、こうして逃げている。
何も変わらなくったって、少なくともこうしていればマギサが死ぬことはない。
それだけを頼りに、ナイトは歩き続けていた。
視界が揺れる。何にもないのに足がもたつく。
自分の体がろくな状態にないことは、いくらナイトでも分かっていた。
右脇腹の傷が、熱を持ち始めている。手当てをしたくても、知識も道具もない。
この程度の傷、子供の頃はいくらでもしていたが、その度にクーアに治してもらっていた。もっと色々習っておくべきだったと思う。
時間の感覚も薄れて、あの谷間の里を出てからどのくらい経ったかも分からない。
あの若い騎士は、追ってはこなかったみたいだ。それとも、気がつかないだけでもうすぐ後ろまで迫ってきているのだろうか。
どこまで逃げればいいのか、誰かに教えて欲しかった。
どれほど逃げても同じ事だと、理屈では分かっていた。
どこに行けばいいのだろうか。
どこまで行けばいいのだろうか。
あの騎士の言葉が頭の中で繰り返されて、視界が滲んでくる。
ただ、笑って生きていたいだけなのに。
どうしてそれが、許されないのだろうか。
腐った床板が抜けるように、足が地面を踏み抜いた。
そこは狭く突き出た足場になっていて、下は緩い崖になっていた。
咄嗟にマギサを庇い、腕の中に抱きかかえる。体勢を崩した体は重力に従い、斜面を転がり落ちていく。
全身が打ち付けられ、崖下に叩きつけられた瞬間、ナイトは意識を失った。
地面に転がって、微動だにしない。
ただ、未だ意識を取り戻さないマギサだけは、腕の中にしっかりと抱きしめていた。
慌てたような二つの足音が、二人が倒れ付した所に近づいてきていた。
※ ※ ※
妙な胸騒ぎがして、クーアは洗濯物を干す手を止めて空を見上げた。
「どうかしたの?」
ナイトの母が、家の中からクーアに声をかける。
振り向いて、なんでもないとクーアは首を振ってみせた。
ナイトがマギサと共に村を出て行ってから、クーアはナイトの母と一緒に暮らしていた。
最初はマギサが開けたクーアの家の穴が塞がるまでという話だったはずだが、なんだかんだと戻るきっかけが掴めずにいる。
別に無理に戻る理由もないし、仕事に支障もなければ不便もない。何よりも、ナイトがあんな形で出て行って、おばさんを一人にしたくないという気持ちがあった。
つくづく腹立たしい。自分に何も言わずに出て行ったナイトもそうだが、何よりもあの騎士団の連中が頭にくる。
マギサが一体どんな悪いことをしたというのか。年端もいかない女の子を追い掛け回して、恥を知れ。
特に、あの隊長だという若い騎士。あいつの態度は何なのか。
まるで自分は何一つ悪いことをしていませんという面をして、無実の小さな女の子を追い回すのが悪いことじゃなかったら何だというのか。
ビンタの一発じゃ全然足りない。今度あったら、二発くらいくれてやろうと思う。
あの連中がこなければ、今頃マギサも村に馴染んで、皆で毎日畑を耕して作物の世話をして、一緒にご飯を食べてぐっすり寝ていたはずなのだ。
風邪を引くこともあるだろう。怪我をするときだってあるだろう。そんなときこそ、私の出番だ。とっておきの薬を調合して、あっという間に治してやる。
それからもきっと色々あって、年月が経って、そして――
「――はぁ~……」
何やってんだろ、と自嘲する。
ナイト達が出て行ってから、幾度となく繰り返した妄想。現実では叶いっこない、まさに頭の中だけの空想だ。
どれだけこねくり回したって、最終的に虚しくなる。
頭を振って、残りの洗濯物を干す。
それにしても、さっきの胸騒ぎは一体なんだったんだろうか。
もしかして、ナイトやマギサに何かあったのだろうか。
頑丈なナイトはどうせ殺しても死なないだろうが、マギサは別だ。もしマギサに何かあれば、どうナイトに責任をとってもらおうか。
頭の中でひとしきりナイトを殴りつけて、怒らせた肩を落とす。
本当に二人に何かあったとしても、今の自分は何もできない。
そんなどうしようもないことが、悔しくて仕方なかった。
もし、
もし、自分に何かできるのならば。
そんな機会が巡ってきたら、後悔しないようにしよう。
父と母が死んでからの、クーアの座右の銘だ。
人は、何かの拍子にあっさりと死ぬ。
どんなに願っても、祈っても、どうしようもない時はどうしようもない。
薬師として多少なりと勉強してきて、昨日まで元気だった人が今日には死んでいたということもあった。
だから、とにかく出し惜しみはしないことにした。
言いたい事は言う。やりたい事はやる。後悔しないことは無理だけど、できる限り減らすことはできるはずだ。
晴れ渡り、雲が流れる空を見上げる。
こんなに気持ちのいい天気の日でも、どこかで泣いてる人はいて、誰かが命を落としている。
それが、できれば自分の親しい人でなければいいと思う。
酷い考えだと思うときもあるが、心を偽れば後悔が増える。
誰も泣かない世界が無理なら、せめて自分の大切な人達だけでも笑っていて欲しいと思う。
マギサやナイトはきっとこんな考えをしない。だから、人より余計に苦しむんだ。
あの子達はそれでいい。その分、自分が他人よりあの子達の幸福を願おう。
きっとそうしたら、世界は平和に回ってくれる。
溜まったものを吐き出すように、クーアは深く嘆息した。
「さ、ちゃっちゃと終わらせましょうかね」
洗濯物を干す手を忙しなく動かす。
柄にもなく変なことを考えすぎた。
なんだか、ナイト達が村を去ってから妙に感傷的になっている気がする。
自嘲して洗濯物を干し終わり、籠をもって家の中に戻った。
天高く、雲は流れ。
ナイト達が旅をしている間、村にも同じだけの時間が流れていく。
クーアが物思いに耽る時間は、日増しに増えていっていた。
そしてこの数日後、ナイトが村を出た日以来の、馬の蹄の音が村に響くことになる。




