第十一話 「アバリシア・4」
人のいないアバリシアの街を歩きながら、トルファは唾を吐き捨てた。
一仕事こなしたというのに、ボスの態度が気に食わない。
もう少し何かしらあっていいものなのに、すぐ次の仕事に移れとは。もっと有能な部下の労をねぎらわないと、ホーント一家も先がないぜと嘯く。
言われなくとも、ナイトの間抜け野郎が逃げない内にさっさと取り掛かる手筈だ。この計画が終われば、晴れてエカテーをモノにできる。
トルファは軽い足取りで行き止まりの廃墟に入り、『クナイペ』へと続く階段を下りていく。
ナイトの死に顔くらいは看取ってやろうかと思う。これから連れて行くのは、ホーント一家が大挙して待ち受けるアジトだ。万が一にも生きて帰れまい。
余所者の分際でエカテーの周りをうろちょろと目障りだったが、いざ死ぬとなれば多少は同情の気持ちも湧いてくる。バカな奴だ、用心棒などしなければ良かったのに。
マギサは、ナイトを誘き寄せる為の餌に過ぎない。エカテーに頼まれれば、命ぐらいは助けてやろうかと思う。
トルファ如きの進言など、ホーント一家の頭が聞くはずもないのだが。
階段を下り切って扉を開けても、トルファはまだその雰囲気に気づかなかった。
酒場の中には、扉に体を向けて木箱に座るナイトの姿があった。
驚いて一瞬身を引き、その事に内心苛立ってトルファは中に入る。
ナイトは服を着替え、腰に剣を佩き、足元に背負い袋を置いて座っていた。
まるで自分がやってくるのを待っていたような風情に、トルファは鼻を鳴らす。
「荷物をまとめて、街を出て行くつもりか?」
「えぇ、そのつもりです」
ナイトの返事に、トルファがニタリと笑みを浮かべる。
ボスの言うとおり、さっさと来て正解だった。逃げられたらたまったものじゃない。
こいつも所詮は、我が身が可愛いのだ。
「悪いが、その前について来て欲しい所があんだよ」
「えぇ、そのつもりです」
ナイトの返事に、トルファが眉を顰める。
こいつは何を言っているのか。マギサがいなくなって混乱して、本物の馬鹿にでもなってしまったのか。
ナイトの腹積もりが読めず、トルファは次の言葉を迷う。
トルファが迷っている間に、先にナイトが口を開いた。
「マギサの所ですよね。早く案内して下さい」
ようやく理解して、トルファは苛立ち紛れに舌打ちする。
ナイトは逃げるつもりで荷物をまとめていたんじゃない。
本来の狙いが自分であると判断し、迎え撃ってそのまま出て行くつもりで荷物をまとめていたのだ。
ホーント一家と事を構えれば、どうあれアバリシアの街にはいられないから。
舐められたもんだ、とトルファは歯噛みする。
ホーント一家と正面から喧嘩しようというのだ。こんなふざけた態度をとったのは、トルファが知る限りバールに続いて二人目だ。
やっぱり、バカはバカを呼ぶらしい。思い上がった阿呆に、身の程を教えてやらねばならない。
バールが捕まってなおその態度を取るのは、トルファには理解し難かった。
「望み通り案内してやるよ。ついて来い」
顎で示せば、ナイトが荷物を手に立ち上がる。
離れ過ぎれば、気がつかない内に逃げられる可能性がある。距離を測って身を翻せば、カウンターの奥から何かがぶつかる音がした。
何事かと視線を送れば、明かりのない暗闇からエカテーが出てきた。
覚束ない足取りでふらふらと、壁に手をついて姿を見せる。ナイトとトルファの姿を見咎めて、不安に揺れる瞳を向けた。
「ナイト、どこ行くの?」
トルファは盛大に忌々しさを込めて舌打ちする。
なんでそこでナイトに話が行くのか。この頭の悪い間抜け面が何だというのか。
人に取り入ることだけは立派な男のどこがいいのか、理解ができない。
トルファの憎々しげな視線を受け流し、ナイトはエカテーに笑いかけた。
それは、先程マギサに見せたような無理矢理作った笑みではなく、
「マギサとバールを助けに行ってきます」
客のいない真っ暗な店内に、その声は良く響いた。
目を見開くエカテーと、今にも唾を吐きそうなトルファ。
もう一度笑って、ナイトが振り返って歩き出そうとしたところで、
「ちょ、ちょっと待って!!」
エカテーが叫び、慌てた様子で厨房に入っていく。
ナイトはトルファを見やり、トルファは鼻を鳴らして視線を逸らした。
あちこちにぶつかる音や物がひっくり返る音がして、美人が台無しといった様のエカテーが飛び出してくる。
手にはずっしりと中身の詰まった金貨袋。
押し付けるようにナイトに渡して、涙を湛えた瞳で頭一つ分高い顔を見上げた。
「これ、今までの二人分の給料。いつ何があってもいいように、お父さんが貯めてたの」
「ありがとうございます」
「それと、私のへそくり。お店を改装したくて、ずっと貯めてたやつ」
ナイトは驚いて手元の金貨袋を見る。
そういえば、内装で妻と随分揉めたとバールが言っていた。きっと、エカテーは母が想像したような店にしたかったのだろう。
母の名を冠した店に、化粧くらいしてやりたかったのかもしれない。
受け取れないと返そうとしたナイトの手を、エカテーが力一杯押し付けて止まらせる。
言うべき言葉を失ったナイトに、エカテーの震えが伝わった。
「お願い、助けて」
涙交じりの声は、店内に反響して鼓膜を震わせる。
数日前にもこんなことをいわれた気がする。林から飛び出してきたバールに巻き込まれた時は、こんなことになるとは思っていなかった。
たった数日。
楽しい日々だった。
「大丈夫、任せて」
ずっと言いたかった言葉を口にして、ナイトは笑った。
崩れ落ちるエカテーから視線を切って、トルファを見据える。
トルファは不愉快そうに口の端を歪めて、ついて来いというように歩き出した。
ナイトは振り返らず、トルファについていく。
その先にどんなものが待ち構えているにせよ、間違いなくそこにはマギサがいる。
選択肢は、考えるまでもなく決まっていた。
細かいことを考えるのは、もう止めにした。
※ ※ ※
トルファに連れて行かれた先は、門から門を繋ぐ大通りに面する大きな屋敷だった。
街のどこからでも見える領主の館と比べても遜色のない作りで、主が只者ではないことを押し付けがましく教えてくる。
屋敷に比例して大きな表門を開け、庭を通り過ぎて玄関の前で立ち止まる。
ナイトがついてきているのを確認して、トルファは玄関を開けた。
ナイトの目に入ってきたのは、だだっ広いエントランスだった。
正面に緩やかな弧を描く階段、左右に一つずつの扉、奥にも扉が二つ。敷き詰められた真っ赤な絨毯は、血が飛び散っても多少は分からないだろう。
階段の先には吹き抜けの二階通路と、等間隔で並ぶ扉。左右と正面に通路が伸びていて、見えないところも広そうだ。
トルファに促され、エントランスの中央付近に進み出る。後ろで玄関が閉まり、鍵のかかる音がした。
予想済みで動じないナイトに舌打ちし、トルファが声を張り上げる。
「つれてきました! 例の用心棒です!」
地震のような足音がして、あちこちから武装した男達が出てきた。
あっという間にナイトは囲まれ、数十のぎらつく視線に晒される。
微動だにしないナイトに向かって、トルファが嘲るように嗤う。
「お前さっき、エカテー相手に調子こいたこと言ってたよなぁ? 大丈夫だぁ? 任せてだぁ? この数を前にしても言えるか、あぁ!?」
トルファを一瞥すらせず、ナイトは口を開く。
「マギサはどこですか?」
「は?」
「マギサはどこですか?」
素直に繰り返すナイトに、トルファの額に青筋が浮かぶ。
怒りを表すように足を踏み鳴らし、ナイトに怒鳴りつける。
「てめぇ、目ぇ見えてんのか!? どこですかもねぇよ、お前はここで死ぬんだよ!」
「マギサは、どこですか?」
トルファのことなど無視しきった発言に、ナイトを囲むホーント一家から嘲笑と苛立ちの唸りが浴びせられる。
頭に血が上り切ったトルファが、あらん限りに叫んだ。
「ぶっ殺してやる!!」
その言葉が、開始の合図となった。
鬨の声を上げて襲い掛かるホーント一家を睨み付け、ナイトは荷物を足元に放った。
剣に手を沿え正面に踏み込み、革の胸当てを狙って抜き放つ。
まさか突っ込んでくるとは思わなかった男は、タイミングを狂わされ短剣が宙を泳ぐ。
剣が革鎧に突き刺さり、そのまま力一杯振りぬく。
切っ先は防げても、圧と衝撃は防げない。胸を強く叩かれて息が詰まり、動きが止まった男に体当たりをして後ろに転がす。
「てめぇ!」
左右から踊りかかってきた手下が激昂し、腰の入らない構えで獲物を振り下ろす。
前に踏み込んだ分で左右の凶刃を避け、倒れこむ男のせいでたたらを踏む後続に狙いを定めて切りつける。
ナイトの視線に小さく喉を震わせ、縫いとめられたように動きが一瞬止まる。
獲物を弾き飛ばし、柄尻を首筋に叩き込んで意識を飛ばす。右から襲い掛かってきた男の鳩尾を蹴って動きを止め、左から襲ってくる男の胸当てを切りつけて顔面に拳を入れる。
鼻から血を流して男が倒れ、ナイトを取り囲む手下達に動揺が生まれた。
おかしい。こんな筈じゃなかった。今頃地面に転がっているのは、相手の方だった筈だ。
怯える手下達を、ナイトは一切斟酌しない。
振り向きざまに思い切り横薙ぎに剣を振って、二、三人まとめて武器を持つ手を震えさせた。
その眼光の鋭さと熱さに、手下達は震え上がる。
聞いていた話とまるで違う。もっと軟弱な、お行儀の良い戦い方をする奴じゃなかったのか。
大して切れ味の良くない剣を振り回し、力尽くで叩き伏せるナイトの姿に、男達の足は勝手に後ろに下がろうとする。
彼らの予想は一部合っている。
確かにナイトは、強引な戦いを好む方ではない。
彼らがこんな真似さえしなければ、ナイトはここまで苛烈にならなかったはずだ。
怒りよりも涙を選ぶ男を、彼らは怒らせた。
ナイトの振るう剣が、また一人床に這い蹲らせる。
まるで相手にならない。ナイトを前に、次々とホーント一家の手下達が倒されていく。
そも、一人一人が弱い。これでは森の野盗の方がまだマシだ。
それもそうで、街で一般人を脅して生きてきたような連中が、命を懸けた戦いに慣れているはずもない。
人の命を奪ったことのある奴もそういなければ、自分の命が奪われるかもしれない事態に陥った奴はもっといない。
魔物に襲われたことも、野盗に狙われたことも、騎士団に追われたこともない。
アバリシアという揺り篭の中で、ぬくぬくと育ってきたのだ。
そんな状態で、連携の仕方なんてものも覚えるはずもない。せっかくの数も、ひしめき合って襲うだけなら動きにくい分損しかない。
まさか仲間を傷つけるわけにもいかない。どこに振っても当たるナイトと、周りを考えて狙いを定めなければいけない手下では訳が違う。
まして、気を失って転がってる仲間に気を使ったりすれば、ますます動きは鈍くなる。
その隙を突かれ、自分が転がる羽目になるのだ。
ナイトが容赦なく延髄を突き、鎧を切り裂き、顔を潰していく。
辛うじて息をしているだけの人間が、一息つく間に増えていく。
振り下ろされた斧を受け止め、押し返し、体勢を崩した所に喉突きをして倒す。
短剣を叩き落し、柄を振り上げて顎を打ち上げ、腹に蹴りを入れて転がす。
突いてくる剣を受け流し、顔面に肘を入れ、足を払って床に叩きつける。
連携がなっていなければ、一対一を何度もやるのと同じだ。ホーント一家とナイトでは、潜ってきた修羅場も、積んできた鍛錬も違う。
絨毯を覆う手下の数に、トルファは尻餅をついて後ずさる。
気がつけば、最初にナイトを囲んでいた手下は全員、床に転がっていた。
騒ぎを聞きつけてか、二階から数人の手下達が顔を出す。
下の余りの惨状に言葉を失い、ナイトに睨み付けられて引っ込んでいく。
エントランスでまだ意識があるのは、最早ナイトとトルファだけだった。
そこでようやく、トルファはナイトの纏う雰囲気が普段と違うことに気がついた。
目が据わっている。動きに迷いがない。普段はあんなに、怯えた子犬のようなのに。
ナイトに睨まれ、トルファは夜の森で狼と目が合ったような恐怖を覚えた。
酒場の中で会った時から、ナイトはずっとそうだったのだ。相手の状態や力量も計れない奴に勝てる道理はない。
抜き身の剣をぶら下げて、ナイトはトルファに近づいて見下ろした。
「マギサは、どこですか?」
喉が引きつる。早く答えなければ殺される気がして、トルファは口を必死に開く。
呼吸よりも早く言葉を出そうとして、声にならない息が漏れた。
「ち、地下、地下だ、です!! 地下の牢にいます!!」
「牢?」
「は、はい! 正規の牢の地下に作ったやつです! 繋がってて、入りきらなかった奴を入れたり、一家に反抗した奴入れるのに使ってました!」
「どうやっていける?」
「階段裏の床板を外せば、地下への階段があります! 下りて、ずっと真っ直ぐ進めば扉がありますんで、そこです!」
ナイトは頷いて、視線を階段に向ける。
ナイトの視線が外れた隙に、トルファは荒く息を吐く。
嘘を吐く余裕など欠片もない。とにかく逃げたい。生き延びたい。他の事なんてどうなったっていい。
背の高さが、ここまで圧力を感じるものだとは思わなかった。
ナイトが視線を戻す。引きつった悲鳴が漏れ、涙が滲む。
人生でこれ以上ないほど情けない声が出た。
「た、助けて下さい……助けて……」
トルファを見下ろしたまま、ナイトは剣を収めた。
助かった。
張り詰めていた緊張が途切れて脱力し、大きく息を吐く。
歓喜に震える暇もなく、ナイトの言葉がトルファに止めを刺した。
「君を殴るのは、僕じゃない」
言葉の意味を図りかねて見上げると、ナイトと目が合った。
縫いとめられたように息も忘れ、その真っ直ぐな目に見入る。
興味を失ったように背を向けて荷物を拾い階段に向かうナイトを、トルファはじっと見ていた。
自分を殴るのは、一体誰なのか。
分かりきったその答えを、考えないようにしていた。
今はただ、生き延びて良かったと泣きたかった。
※ ※ ※
ホーント一家のアジトの地下は、思ったよりも広かった。
人が三人はすれ違える程の通路があり、十字路になっている箇所もあった。
出会った手下達を片っ端から倒し、ナイトは真っ直ぐ進んで扉を目指す。
左右に伸びる通路には幾つか扉が見え、むしろ地下こそ本格的なアジトであることが窺えた。
通路の影から、不意を突こうと手下が飛び掛ってくる。軽く身を引いてかわして、無防備な腹部に膝を蹴り込み、裏拳で払うように打ち払った。
逃げる相手は追わず、目的の場所に向かう。別にホーント一家を潰しにきたわけじゃない。マギサとバールを助けに来たのだ。
通路の突き当たりに、扉が見えた。
話の通りなら、あの扉の向こうには牢屋があって、そこにマギサが捕まっているはずだ。
扉の前まで来て、取っ手を握る。
鍵はかかっていなかった。
捻って、押し開ける。
中には確かに薄汚れた牢屋があって、突き当たりに錠のかかった扉があって、誰かがいる気配があった。
ナイトは静かに一歩踏み込んで、
ナイフが鼻先を掠めた。
顔を引いていなければ、今頃鼻が切り取られていたことだろう。掬い上げるように放たれたナイフを辿れば、見たことのある顔がいた。
初日に追い返した男だ。
感極まったという顔で口が裂けんばかりの笑みを浮かべ、男が扉を思い切り蹴り開ける。
取っ手を握っていたせいで体勢を崩しそうになり、たたらを踏む。
その隙を逃さず、男は両手に持ったナイフを繰り出してきた。
抜き身で持っていた剣で防ぎ、弾き返して、勢いに逆らわず部屋の中央まで躍り出る。
男は片手で扉を閉め、その前に陣取った。
「よぉ、ナイトォ。会いたかったぜぇ」
逃がさないというように、扉を背にしてナイフを弄ぶ。
元よりナイトに逃げるつもりなどない。剣を構えて、男を見据えた。
ナイトの態度に機嫌を良くして、男は喉だけで嗤う。
「自己紹介がまだだったな。俺はロブ。これでもホーント一家で一番強い」
妙に親しげに話しかける男に、ナイトは全く返事をしない。
「この前の借りを返すときをな、ずっと待ってたんだよ」
粘つくような男の視線がナイトに纏わりつく。
獲物を見定めるような、悪意と敵意が入り混じった気色の悪さ。
その視線を浴びて、しかしナイトは顔色一つ変えなかった。
暗い喜びに顔を歪めて、男は唇を舐める。
「どういうことか分からないか? つまりだな、」
男が講釈を垂れている間に、格子の音が小さく鳴ったのをナイトは聞き逃さなかった。
視線をそちらに向ければ、見慣れた小さな姿。
その隙を、男が逃すはずもなかった。
「お前はここで死ぬんだよ!」
地面を蹴って、男が飛び掛る。
右のナイフで切りつけるのをかわし、横薙ぎにされた左のナイフを剣で受け流す。
男はつま先で地面を蹴って素早く位置を変え、更に連撃を重ねる。
両利きから繰り出される圧倒的な手数と、身軽な体を活かしたフットワーク。それをあわせたヒット&アウェイが男の戦法だった。
上と思えば下、下と思えば中、中と思えば後ろで、振り向こうとすれば前。
動きを止めず、縦横無尽にナイフを振るう。
一つ一つは掠り傷程度でも、重ねていけば動きは鈍る。動きが鈍れば、ナイフでも致命傷を狙える。
ナイトが今まで戦ったことのない、街で強くなった者のやり方。
「そらそらそらそらそらそら!」
人を傷つけることが楽しくて堪らないというように、男は嗤いながらナイフで切る。
一つ、二つとナイトの体にかすり傷がついていく。
ゆっくりと、男のペースに嵌っていく。
少なくとも、男はそう思っていた。
ナイトは深く息をして、思い切り剣をナイフに合わせて振った。
ナイフを握っていられず、男の手から弾き飛ばされる。膂力の違いがはっきりと現れた。
痺れる腕を庇う男の腹に、ナイトのつま先がめり込む。
堪らず男は後ろに跳び、距離をとって咳き込んだ。
剣を正眼に構えて、ナイトは悠然と男を見据える。
たった一振りで形勢は逆転し、男は残ったナイフを握り締める。
途中まで自分のペースだったはずなのだ。傷を重ねて、隙を作って、トドメを刺すはずだった。
頭が理解を拒み、呆然とした目でナイトを見やる。
自分を見下ろすナイトの目が、見下しているように見えた。
頭に血が上り、怒りが爆発する。
こんなクソガキに舐められてたまるか。人を殺したこともないような雑魚に。
奇声じみた叫びを上げ、右に左にと素早く動きながらナイトに迫った。
男の姿を視界に収め、ナイトは腰を落として待ち構える。
確かに動きは捕まえ辛いし、慣れない戦い方だ。
でも、その程度どうということはなかった。
ナイトが今まで戦ってきた相手に比べれば、大したことではない。
グラン・スパイダーほど変幻自在でもなく、
森の野盗と違って一人で、
あの若い騎士隊長みたいな絶望感もない。
フェイントをかけるように男は左右に動き、
上に跳んだ。
考えるより先に、体が動く。
男に向かって一歩踏み込む。
全体重を乗っけて、男のナイフが届くより早く、剣の腹をぶち当てた。
袈裟懸けに男の体を叩き、力一杯振り下ろす。
もう一歩踏み込んで、地面に叩き付けた。
潰れた蛙のような悲鳴を上げて、男が動かなくなる。
荒れた息を整えて、男に近づいて腰に下げた鍵束を拝借した。
辛うじて息をしているのを確認して、背中を向ける。
掃除など全くしていないであろう、薄汚れて血すら染み込んだ牢の中で、それでもまだ綺麗な方の牢に彼女は居た。
左奥から数えて二番目。鍵を開けて、錠ごと用済みになった鍵束を投げ捨てる。
どうしてか彼女が中から出てこないので、ナイトは自分から牢に入った。
「マギサ、」
呼びかける声に、彼女の肩がびくりと震える。
何か悪いことをしている気にもなって、それ以上近づくのは躊躇われた。
どうしたものかと頬を掻いていると、彼女の方から声がかかった。
「どうして、」
小さく掻き消えそうな声は、それでもちゃんとナイトの耳に届いた。
どういう意味だろうか。
彼女の意図を判別しかねて、ナイトが首を捻る。
それが見えたわけでもないだろうが、彼女が顔を上げて続きを聞かせてくれた。
「どうして、来たんですか」
ようやく合点がいって、ナイトは頷く。
眉を顰める彼女に笑いかけ、さてどう言ったものかと頭を悩ませた。
どうしてなんて、答えは一つに決まっている。
それをどう言えば彼女に上手く伝わるのか、ナイトはあれこれと考えてみた。
考えてみたが、どうにも上手い言葉が見つからない。
止むを得ず、ナイトは素直に言うことにした。
あの時と同じ、何一つ成長していない答えを。
「マギサを、助けに来た」
能天気な顔して笑うナイトに、マギサは本当に心底腹が立った。
一体誰がそんなことを聞いているのか。
どうしてそこまで鈍いのか。
何で助けに来てしまうのか。
自分など見捨てていれば、こんなところまでこなくて良かったのに。
もう騎士団に追われることも、こうして事件に巻き込まれることも、魔物相手に死ぬ目に会うこともなかったのに。
どうしてそう、何でもないように笑ってくれるのか。
一度零れだした涙は止まらず、ナイトが慌てふためいて謝罪と心配の言葉を繰り返す。
そんなナイトに構わず、マギサは泣いた。
焼け落ちる里を見ても、騎士団に追い詰められても、命の危機を感じても、化け物と誹られても泣かなかったのに。
『魔法』を使うようになってから、一度も流したことのない涙を、精一杯流した。
溜め込んでいた分を吐き出すように。
いつもの黒ローブに着替え、杖を握ったのは、泣き止んだ後だった。
※ ※ ※
突然の爆発音に、バールは牢屋の中で飛び起きた。
立ち上る砂煙に視界をふさがれている内に、数合打ち合う音と兵士の呻き声。
事態を全く把握できないでいると、牢の鍵がひとりでに外れ、格子戸が開いた。
何が起こったのか全くわからない。
混乱するバールの前に、砂煙の向こうからマギサが姿を見せた。
いつもどおりの無表情で、眉一つ動かさずバールを見つめる。
頭の中身が混線したままで、バールは藁にでも縋るようにマギサに問うた。
「な、なぁ、なんだ? 今何が起こったんだ?」
「エカテーに頼まれて、貴方を助けにきました」
全く答えになってない返事に、バールは呆けてマギサを見やる。
マギサは牢の入り口に入って、綺麗に畳んだ服を置いた。
バールは一目で、店で着ていたやつだと気づく。そして、マギサの行動の意味にも。
マギサの顔を見る。心なしか、雰囲気が柔らかくなったような気がした。
「もう行くのか」
「はい」
「この騒ぎは、お前達の仕業か」
「はい」
「まだ給料払ってねぇぞ」
「エカテーから貰いました」
「今回助けてもらう分はまだだろ」
「エカテーから貰いました」
我が娘ながらしっかりしてやがる、とバールはぼやく。
引き止める手段をなくして、バールは唸って頭を掻いた。
こんなにいきなり出て行くことはないだろう、と思う。それにしたって、一晩騒いでからだっていいはずだ。
こんな騒ぎを起こして、それじゃすまないことはバールにだって分かっていた。
「ナイトのやつは?」
「兵士と戦ってます」
「んだよ、挨拶くらいしていけよ」
「伝えておきます」
言える言葉がなくなって、バールは口を噤む。
言いたいことも聞きたいことも山ほどあったが、今それを口にするのは違う気がした。
そんな場面じゃないと、心の何処かが分かっていた。
そんなことはどうでもいいと、頭の何処かで分かっていた。
マギサがバールの顔を見つめてくる。思わず見つめ返すと、その黒く小さな瞳から目を離せなくなってしまった。
強い意志を秘めた瞳だった。
まるで、妻のような。
「ここの地下に、ホーント一家の牢があります。そこで、クナイペさんという方からバールさんへのメッセージを見つけました」
マギサの言葉に、バールが固まる。
マギサはバールを見つめたまま、顔色一つ変えずに言ってのけた。
「聞きたいですか?」
選択肢など、バールにあるはずもない。
一も二もなく頷いて、マギサの目を見つめ返した。
小さく肯いて、マギサは深く呼吸して口にする。
そこで聞いたものを、バールは一生忘れることはないだろうと思った。
――『愛する夫 バールへ
私達の明日を守ってくれてありがとう
忘れないで
何があっても
貴方を愛しています
愛された妻 クナイペより』
兵士をなぎ倒し、門を吹き飛ばして、ナイトとマギサはアバリシアから逃げた。
二人を止めることは、誰にも出来なかった。
二人が起こした騒ぎは街中を巻き込んで、誰しもの心に火をつけた。
燻り続けた怒りが、流し続けた涙が、このままで良いわけないと叫んでいた。
騎士リデルが街を訪れたのは、ナイト達と殆ど入れ違いだった。




