それは愛よ
しうしうと雀の囀りが平和を感じさせる朝、賢治の枕元へ置かれた携帯電話を操作し、極々自然にロックを解除してアラームを鳴る前に止めるひとが一人。
「ダーリン、朝だぞ」
とろとろと蜂蜜のように甘やかな声で優しく起こされ、賢治の目蓋が震える。
完全に覚醒に至らない様子にくすり、と笑う気配。
そう、と料理を筆頭に家事を得意とするのに荒れることを知らない繊細な指先が、賢治の頬をつん、と突いた。
「けーんーじ」
「あと……五分」
「分かった。五分の間に下の賢治だけ先に起きてもらうな!」
「やめてくださいって早ッ! なんでもう俺のジャージが殆ど脱がされてんですかねえっ?」
慌てて賢治が飛び起きたときには、早脱ぎショーの飛び込み参加をした記憶もないのに下半身を覆っていた寝間着代わりのジャージのズボンが殆ど脱がされていた。
下着にも手をかけていた会長はきょとん、とした顔をすると、すぐににっこりと花のように微笑む。
「おはよう、賢治」
「おはよう、会長。あの、俺のパンツから手を放していただけませんか……」
「どうしてそんな寂しいことを言うんだ……?」
悲しげに眉を下げる会長に理不尽な罪悪感が湧いてくるけれど、屈していたら目覚めの五分が昼までの数時間に代わって失われる。
賢治はそっと会長の両肩に手を置き、噛んで含めるように言う。
「俺、会長の作った朝ごはんが食べたいな!」
「待ってな、子猫ちゃん。食べ盛りのお前の腹をすぐに満たしてやる」
「あ、軽めでお願いします」
「任せとけ」
しゅっと素早い動きでエプロンを翻す会長の頼もしい背中を、賢治は愛情深いひとだなあ、と朝陽だけではないものでしょぼつく目で見送った。
「本日の朝食は甘くないパンケーキのフレンチトーストとチーズオムレツ、コンソメスープでございます」
「俺、知ってる。会長の作るコンソメスープが二日がかりの代物だって」
女子力を意識する女が行くカフェで出てきそうな見た目の朝食であるが、会長の作るものは美味しい。
パンケーキなのかフレンチトーストなのか賢治にはいまいち判断できない不思議なブツは、口にいれた瞬間にはしゅわっと溶けた。
「はあ?」
「どうした、賢治」
「なにこれ、美味しいんですけど。はあ? はああ?」
怒りすら湧いてくる美味しさである。
まさかこちらも、と思ってチーズオムレツにフォークを入れれば、パプリカやブロッコリーが色鮮やかに顔を覗かせ、ふうわりとチーズの食欲をそそる香りを聞かせる。
賢治はごくり、と喉を上下させ、覚悟を決めて頬張った。
とろりとしたチーズの塩気と風味、野菜の瑞々しい甘味が口いっぱいに広がる。
「ちょっと会長、朝食のお皿に黄色い宝石箱乗せるのってどうかと思う。間違えて食べちゃったじゃん」
「その宝石箱食べられる宝石箱だから、全部食べていいぞ」
「マジかよ」
世の中狂ってやがる、と賢治は戦慄した。
会長はにうっとりと見つめられながら、賢治をきらきらと輝く澄み切ったコンソメスープを飲む。雑味とは無縁の旨味が凝縮された飲むご馳走だ。
「会長、いつもありがとう」
「いいんだ、賢治。身体で返してもらうから」
「台無しだよ、会長」
毎朝優しく起こしてくれて、美味しい食事を作って甲斐甲斐しく世話を焼く恋人は、肉食が極まっている。
会長はきゅ、と握りこぶしを作った両手を口元へ当てて、眉を下げながらアヒル口になる。
「そんな俺は嫌いか?」
「好きだよ」
「だよな。知ってる」
健気に尽くして、と徹しているわけではない会長は、己の欲求を押し通すことに躊躇がないので賢治はせっせと生活範囲を侵略されても「重い」と煩わしく思うことはない。遠い目をしたくなるときはあるけれど。
「無理しなくていいんだが……」
「してないぞ。賢治は俺がいなけりゃ靴下の置き場所も分からなくなればいいと思う」
「……おっそろしいことに、新しい歯磨き粉だのの置き場所が既にやばいことになってるんだよなあ……ねえ、会長。いつ場所変えたの……」
「瑣末なことだ、気にするな」
寮の自分の部屋という大して広くない場所だというのにこの体たらく、卒業後にはどうなってしまうのかと賢治はカフェオレに似たなにかを飲む。以前聞いたところによるとイタリアの麦茶らしいのだが、賢治の知る麦茶は牛乳を入れて飲むものではなかった。一部地域であるのかもしれないが、賢治の地元ではなかった。砂糖を入れる世代はあったけれど。
賢治は昼休みに購買戦争に参戦していたくらいには、食生活が貧しい。積極的に健康的な食生活を心がけない所為なのは明白だが、何年も続けていれば身体を壊す原因になっていたかもしれないような食生活だ。
会長はやたらと洒落たものを作ることも多いが、同時に賢治の全く知らないものを作る。
賢治の知らない美味しいものだ。
食べれば嬉しく、食べれば幸せになる。
また食べたくなる。
もう惣菜パンやインスタント食品、コンビニ弁当には堪えられない。
日々、健やかな身体になるように、楽しく食事ができるように、美味しいものを作ってくれて、食べる賢治をうっとりと見つめる会長。
自分以上に自分を大事にしてくれているひとを、賢治は自分も大切にしたいなあと思うのだが、それ以上に思うのはもっと単純なこと。
「俺、会長のこと好きだわー」
ふと、何気なく。
ぽつん、ぽつんと賢治は会長のことを好きだなあ、と思う瞬間がある。
恋人であるからにして、いつだって好きであることは前提なのだけど、しみじみとこのひとが好きだなあ、と思うのだ。
賢治という木っ端に、会長が積み重ねた愛情の酸素が泡になって浮かんでくるように。
会長は嬉しそうな顔をする。
「食後の運動って大切だよな!」
「食べてすぐに動くのはお腹が痛くなるのでやめてください。会長のためにもやめてください」




