恋人前線異常なし
晴れ晴れと青い空。
湿度は低く、日差しは強すぎず空気は冷たすぎず。
良い天気であった。心地良い気候であった。
こんな日は、いつもであれば昼間で寝てしまうに限るのだが、今日の賢治は一味違う。
そうっとベッドから起き上がり、抜き足差し足忍び足。隣で眠っていた会長を起こさぬように起床を果たし、賢治は凄腕の傭兵のような顔でミッションを遂行するために行動を開始する。
ささっと整えた身支度。まとうはエプロン。構える端末に表示するのは老舗レシピサイト。
顔つきばかりは歴戦の傭兵、殊台所という戦場においてはルーキーどころか訓練兵である。
訓練兵はありもので何かを作るなどという高等技術を持たない。安売りされている食材からレシピを選ぶこともできない。予めなにを作るのかを決めて材料を買いに行くことから始める、それが訓練兵である。
しかし、訓練兵とてそれらの下準備を前日に終わらせるくらいの芸当はできるため、賢治は改めて台所で材料を前にしてレシピを睨みながら作業を開始する。
訓練兵は最初から上等なものなど作れない。見栄えのするものなど作れない。逆に簡素すぎるものも腕が丸出しになるので作れない。
玉ねぎとベーコンを細かく切って、フライパンでしゃっと炒める。溶いた卵を揺らさず置いて、固まってきたらご飯を投入してざっくりと炒める。加えるのは鶏がらスープの素とごま油。これがあれば大体中華っぽい味付けになるらしい。訓練兵は一歩、新兵へ近づいた。
ひたすらぱらぱらになるまで炒めるべし、炒めるべし。炒まった。
訓練兵に炒めている間に湯を沸かすなどという手際の良さはない。賢治は一つの作業、炒飯を作るというミッションを完遂すると、次なるミッションへと移行する。
片手鍋に水を張り、沸騰したらコーンをひと缶投入する。ちょっと、大分、汁気が入ったけれど賢治は「まあ、なんとかなる、はず」と信じることにした。
再び登場するのは鶏がらスープの素。これを入れておけばなんとかなるのだ。水で溶いた片栗粉は水加減がよく分からなかったが、溶ければなんとかなると信じて鍋に入れる。
溶き卵も投入してふわふわとしてきたら火を止めて、中華スープの完成である。
賢治はずしゃり、とその場にしゃがみこんだ。
手順の基礎がよく分からない、さじ加減というものがよく分からない。分からないものだらけでは簡単なミッションも難度がベリーハードを突破する。訓練兵は燃え尽きていた。
それでも、ぺたぺたと数歩分を四つん這いで進み、賢治はテーブルの支度を始める。
常ならば会長が素敵な食卓を演出してくれるが、賢治のその余力もなければ食卓を彩るセンスもない。できるのは丁寧に布巾でテーブルを拭くなどの基礎的なことである。訓練兵は背伸びをしない。
「……よし」
時計を確認すれば予定よりも遅くなってしまったが、派手な失敗はいまのところしていないので良いことにして、賢治は会長を起こしに向かう。
ベッドの上で目蓋を閉ざす会長はまさにスリーピングビューティー、起きているときに見せるエキセントリックさなど微塵も感じない。
賢治はなんとなく起こすのが可哀想になってきてしまった。このまま寝かせていたほうがいいのではないだろうか。
なんといっても今日は絶好の惰眠、二度寝日和である。そこへ声をかけたり肩を揺するなどという行為は、あまりな暴虐だ。
賢治は考え、悩み、そっと起こしてみて起きてくれなかったそのままにしようと決める。
賢治の手が会長の顔へと伸びる。静かに、声もなく。
す、と伸びた指先が会長の目元……睫毛へ触れて、しゅしゅっと揺らした。
「ふっんんッ?」
飛び起きた会長に賢治は吃驚して仰け反った。
会長は顔を押さえたと思えばぐしぐしと目を擦ったり、心底理解できないとばかりに自身の手のひらと賢治の顔を何度も見比べる。
「なんでっ?」
「な、なにがっ?」
「俺は賢治が甘く切なくやさしくクレバーにキッスして起こしてくれるものと信じていたんだがっ?」
「会長、もう朝だ」
「わぁお、辛辣う!」
朝からテンションの高い会長に、賢治はへらりと笑いかける。
「おはよう。飯、作ったから食べよう」
会長が作るときに比べればずっとずっと質素で見栄えのしない朝食は、しかし当の会長がやたらめったらご機嫌な様子で食べるのでとても上等なものであるかのような錯覚を催す。
「美味いなあ、美味いなあ」
「いや、そうでもないだろ」
いうなれば普通、と賢治は思うが、会長は何故か自分こそが得意そうな顔で「めちゃくちゃ美味い」と断言する。
「賢治が俺のために作ったんだ。たとえそれが消し炭でも俺は食えるぞ」
「いや、消し炭は食うなよ。歯茎から血が出るぞ……」
「愛は痛みを伴うんだよ」
「不要な血を流すのはやめよう」
少なくとも賢治は消し炭を堂々と食べてくれと言って出すほど、性根が腐っていない。食べ物を粗末にしてはいけなくとも、食べてはいけないものになった以上は廃棄せねばならぬのだ。胃袋はごみ箱ではない。
「賢治、ところでこれはレシピを見て作ったのか?」
にこにこと笑ったまま訊ねられたので、賢治は素直に頷いた。老舗レシピサイトの人気レシピのなかから簡単なものを参照したのだ。
そうかそうか、と頷いて、会長はそのままもう一度「賢治」と呼ぶ。
「今度、俺が教えるな」
「えっ」
「賢治が俺以外の味付けを覚えたままにするなんて……ははは、ご冗談を」
会長は賢治が作ったものなら消し炭でも食べるほど胃袋が柔軟にも拘らず、賢治の舌事情に関しては驚くほど懐が狭かった。
賢治は行儀悪く中華スープをずび、と音を立てて啜る。
思ったよりも甘い味は、やはり缶から汁気が多く入った影響かもしれない。
「会長が作ったやつ好きだから、覚えるならそっちのほうがいいな」
会長が作った中華スープはもっととろんと卵もスープもふくよかな味わいで、どこかの味が飛び出したり、漏れ出したりすることなく一体感を持っていた。
偶にはゆっくりしてもらおうと思ったが、そのときに食べるものがいまいちであるより美味しいもののほうが、慣れているもののほうがずっといい。
会長は嬉しそうに炒飯を掬いながら「俺は鬼軍曹のように厳しいぞ」と嘯いた。
「ついていきます、サー」
賢治が真面目振って応えた後日、案の定会長は「にゃんこの手」から教える甲斐甲斐しさで賢治と台所へ並んだ。




