スターにかなうものなどない
これを読んで君もスターになろう!
「ベース狩り」の噂が流れだしたのは二年生の終わりのころだった。最初は廊下や通学路で知らない生徒達が話しているのを耳にする程度だったが、登校中、清水からそれと同じ話をされた。
「おい三崎、ベース狩りって知ってるか?」
自転車通学の清水は徒歩の俺に合わせて自転車を押して歩いていた。カラカラと音を立てながら俺達と同じ速度で動くその自転車は、清水が入学したときから使っているものだ。この春で乗りだして三年目になるのだが、朝日を反射させてきらきらと輝く車体は、見る角度によっては新品のようにも見えた。
「名前だけは知ってるけど、それがなんなのかは知らねえな」
俺の答えを受けて清水はニヤリと笑った。長い前髪で目が隠れているせいで笑うと不気味だ。
「俺も別のやつから聞いたから詳しくは知らないんだけどさ、K高校のやつら、他の学校に勝負を挑んでは、負けた相手からベースを奪っていくらしいぜ」
ベース狩りという名前からどのようなものが行われているのかいろいろ考えていたが、実態は名前の通りのシンプルなもののようだ。つまり昔風に言えば道場破りが看板を奪っていくのと同じことだろう。
「そのうち、俺らのところにも来るかもしれないな」
駐輪場に自転車を停めながら清水はそんなことを言う。K高校といえばうちの学校から電車で三駅程度の距離だ。その可能性は十二分にありえる。
「もしそうなったら三崎、お前どうするんだ?勝負、受けんのか?」
「当たり前だろ」
最初から失敗を恐れてるようじゃあ、熱いグルーヴは奏でられないぜ。
下駄箱で靴を履き替えると教室、ではなく部室へと向かった。校舎の最上階、その端に俺達の部室はある。部室に入ると清水は床に置いたバッグからスティックを取り出し、ドラムの前に座ると軽く打ち鳴らしながら感触を確かめていた。俺も背負っていたバッグを机の上に降ろし、中からベースを取り出す。
「ベース狩りね・・・」
もしこいつが誰かに奪われるとしたら。どんな気持ちになるのか想像しようとしたが、できなかった。こいつが俺の手元から離れるということがあまりにも現実味がなさ過ぎる。まるで宇宙の向こう側がどうなっているのか説明するみたいだ。
だがその逆の未来なら容易にイメージできた。このベースを奪おうとするやつは返り討ちにしてやる。それがK高校だろうと、それ以外の何者であろうと、だ。
練習の合間に窓から校庭を見下ろすと、他にも朝練をしている部活の姿が見えた。風が強いせいで校庭脇の桜の花びらが散らばり、グランドはまだらに鮮やかなピンク色に染まっている。
ふと時計を見やると長針はすでにホームルームの開始時刻の五分前を指し示していた。
結局朝は俺達の他にメンバーは現れなかったが、放課後の部活には来るだろう。じゃんけんで負けた清水に部室の鍵を託し、俺は教室へと向かう。廊下の窓からは物凄い勢いで職員室から飛び出してくる清水の姿が見えた。
*
放課後、部室に俺が入ったとき、まだ他のメンバーは来ていなかった。手近な椅子に腰を下ろし、ベースの弦に触れる。音に違和感を感じたので、チューニングをする。
弦を弾きながら机の上に置かれた音楽雑誌に目をやる。表紙を飾るバンドは今年でデビュー二十周年を記念するロック界のスターだ。持ち味の派手なパフォーマンスは近年やや抑えられ気味になっているが、それでも高い演奏技術は未だ衰えることを知らない。
この写真ではメンバーがみな派手な衣装に身を包み、まるで歌舞伎のような白塗りメイクをしているが、実際はもう五十代になろうかという年齢だ。テレビですっぴんを見たことがある、そこらへんにいるおじさんと大差なかった。
ただ、そのおじさん達はひとたび楽器を持つとスターへと変身する。激しく動く指は、体は、轟く声は、見る者の心までも振るわせる。中学二年生の夏休み、この人達のライブを生で見ていなかったら、俺はひょっとすると今別の部活に入っていたのかもしれない。
意外と美術部なんて選んでるのかもな。キャンバスとにらめっこしながら顔やエプロンを絵の具で汚す自分の姿を想像するととても滑稽に思えた。
チューニングが終わるのと清水が息を切らしながら部室に入ってくるのはほぼ同時のタイミングだった。清水は何かを言おうとしているが、息が切れているせいで途切れ途切れになってよく聞き取れない。清水自身もそのことを理解し、深く呼吸をして息を整えた。
「ベース狩りが来たぞ」
清水の言葉を聞いて、返事もせず反射的にベースの方を見ていた。先ほどチューニングしたばかりの相棒は手の中で形を歪めた。
違う。歪んだのは俺の視界の方だ。
今朝、清水とその話をしたときはまるで実感がわかなかったが、きっと俺はベース狩りの噂自体をそこまで信じていなかったのだろう。現実に起きている話だとわかり、ここにきて少しだけベースを失うことのイメージができた。
しかしそれを考えるとベースを失う恐怖よりも、むしろ怒りに近い感情が湧き上がった。
このベースは俺が、俺の手で。
一定時間おきに停止する換気扇が止まり、部室内の静けさが引き立つ。
「おい、三崎。大丈夫か?」
清水が心配そうにうかがう。ビビっていると思われると癪なので、軽い笑みを含みながら「ああ」と返す。
すると音楽雑誌が、あのロックスターの姿が目に留まった。彼らは普段はそこらへんにいるおじさんと大差ない。きっと悩みや不安も人並みに、いやもしかするとそれ以上にあるのだろう。
でもこの人達は変身できる。変身した彼らは無敵のスターだ。どんな悩みも不安も感じさせない。恐怖や怒りといった余計な感情などなく、ただひたすらに自分達がロックを楽しんでいて、そして観客を楽しませている。
俺は、この人達のようになりたい。今までだってずっとこの人達に憧れて真似してきた。俺も変身するんだ。
先ほど清水がそうしたように、息を深く吸って、吐く。心を落ち着かせて、ベースの弦に指を添える。
余計な感情を捨てなくては。
ベン、と弦を弾く。ふつ、と心が熱くなるのを感じた。続けてベンベン、と弾く。また弾く。指を弦の上で踊らせる。そうするとどんどん闘争心が高まっていく。弦を弾くたびに心が熱いもので満たされていくようだった。
清水の方を見る。一連の動きはいつもライブ前に行うルーティーンだ。それを知っている清水はもう心配などしておらず、俺の手元をまっすぐ見つめていた。
ルーティーンを終えると、自分が無敵になった感覚を覚えた。
「よし、行くぜ。清水、ベース狩りのやつらどこにいるんだ?」
俺の問いを受けた清水ははっとして視線を上げた。
「ああ、やつらは今グランドだ。・・・行くって、ベース狩りのやつらと勝負するのか?」
「当たり前だろ」
幸いにもこっちはチューニングを終えたばかりだ。むしろ今が絶好のタイミングといえる。ベースを入れたバッグを背負い、清水の方を振り返る。
「今の俺は無敵のスター状態だぜ」
*
グランドに行くと、確かにそこには見慣れない二種類の服装をした集団がいた。片方は見覚えがある気がしたが、どちらもK高校の制服とは違うものだった。だが相手がどこの誰であろうと関係ない。スターは相手を選ばないのだから。
「よう、お前らが噂のベース狩りか。やけに人数が多いようだが関係ねえ、俺が相手になってやる」
なるべく全員に聞こえるように、思い切り大声を出した。
すると集団はみな丸い目をして固まった。遠くにいるカラスの鳴き声が聞こえてくるほどに、グランドは静まり返っている。
すると集団のうちの一人がこっちへずんずんと歩いてきた。遠くてよく見えなかったがそいつはクラスメイトだった。
クラスメイト!?
「三崎、本当に助かるよ。よく来てくれたな」
クラスメイトの阿部はそう言って俺に抱きついた。
「二年の飯田ってやつがいるんだけどよ、そいつ生い立ちが特殊でさあ、急にジャングルの奥地にあるゴリラの王国を治めることになったらしくて、今日学校辞めてったんだよ。でもお前が来てくれたから、これで九人だ。試合ができる」
嬉しそうに言う阿部の言葉はしかし、俺の耳には届いておらず、手を引かれるがままに野球部の部室に案内された。そしてそこで「これに着替えてくれ」と阿部から手渡されたのは阿部達と同じデザインのユニフォームだった。
ここまでなにが起こっているのかさっぱりわからなかった。しかし、常温の部屋で氷が溶けるように、じわりじわりと時間をかけて、ようやく今起きていることが理解できた。
だがそれを理解したのはユニフォームに袖を通した後のことだった。誤解を解こうと部室を出たときにはすでに両チームとも整列していた。全員の視線を浴びて、ユニフォームを着て出たのは間違いだったと強く後悔した。
「三崎、何やってんだ早く来い」
断ろうとしていたのだが、阿部に呼ばれるまま自分と同じ格好をした列の端に並んでしまった。向かい合うチームの胸にあるワッペンを見ると、やはり相手はK高校のようだ。俺が戸惑っていることなどお構いなしに、審判は試合開始を告げた。ああ、始まってしまった。
グランドの端から声が聞こえたのでベンチの方を見ると清水が爆笑していた。やはり清水が笑うと不気味だ。くそ、あいつが最初にこの噂を俺に話したのに。ベースはベースでも野球のベースだと、もっと詳しい情報を仕入れてから話せよ。
だが始まったからには仕方がない。どちらにしろベース狩りなんて迷惑行為は自分とは無関係であっても見過ごすことはできない。未だ完全には納得できていなかったが、自分自身にそう言い聞かせることで、試合に集中しようとした。
*
ベース狩りという名の道場破りじみた行いをしているだけあって、K高校はかなりの実力だった。俺という素人が数合わせに入っているせいもあって、こっちのチームはかなり防戦一方だった。実はキャプテンだったらしい阿部は「飯田よりもうまい」と言うが、それは俺が戦意を失わないようにかけたキャプテンとしての気遣いだろう。
K高校の打線は非常に強力で、どのバッターも豪快なスイングや精密なバントをしてくる。だが守備に関していえばうちの野球部もかなりのものをもっていた。相手チームは何度もヒットを打つが、なかなか点にはつながらない。
「お前という素人がいるから逆にみんな自分ががんばろうと思っているんだろう」
阿部はそういうが、あれだけのヒットを打たれながらも未だ五点しか差がついていない。これは単にそういったやる気だけが原因ではなく、チーム内の個々の能力が決して低くないことのあらわれだろう。
だがそんなうちのチームは、未だ相手から一点も奪うことができていない。七回裏の攻撃、ベンチに座りながらグランドに声援を送る。時折、額からつたってくる汗をユニフォームの袖で拭っては、マネージャーから渡されたスポーツドリンクを口に含む。
マウンドに立つピッチャーは二年生らしいが、かなりの長身だ。その長い腕から繰り出される速球は、打席から見るとまるでジャングルジムの頂上から投げられているかのようだった。
さらにその高低差に加え、向こうのピッチャーは切れ味の鋭いカーブまで投げられた。このカーブはとくに厄介で、曲がる幅が半端ではない。スイングするタイミングが掴めず、何度もバットが空を切った。
このままでは負けてしまう。どうにかあのカーブを攻略したいが、いかんせん野球においてはド素人だ。ピッチャーのクセなんか見抜けるはずがなかった。
結局七回の攻撃も得点にはつながらず、三者凡退に終わった。現時点で5対0。よく守りきっている方だが実力差を考えるとかなりきつい。それに加えて向こうには控えの選手もいるがこちらは九人ギリギリの控えなしだ。このままあと二回の攻守ができるのだろうか。
だがその不安とは反して、野球部の連中はまだまだやる気に満ちていた。
「よし、みんな、次こそは点を取るぞ。まずは絶対にこれ以上点差を広げるな。簡単な話だ、アウトを三つとるだけだ!」
根性全開の阿部のかけ声に、他の野球部員も「おおー!」と呼応する。釣られて一緒に大声を出すと、なんだかみんなとやる気を分け合えたような気がした。今日で初対面のやつの方が多いのに、俺はこいつらのために絶対に勝ちたいとまで思えた。
やる気注入が効いたのか、ピッチャーの好投もあって八回のK高校の攻撃もなんとか無失点に抑えることができた。
そして八回の裏、今度は攻撃でもうちの根性が爆発した。
一人目が三振し、続く俺の打席。なんとかボールにバットを当てようと思うが、あえなく三振に終わる。
しかし打順が一巡した一番バッターの打席、バットは見事ボールを捉え、一二塁間を抜けるヒットとなった。
向こうのピッチャーも投球数こそ少ないが徐々に疲れがたまっていたのだろう、ここにきてヒットを打たれたことで少し動揺しているようだった。
二番、阿部はその隙を見逃さず、甘い球を見事にバットの芯で捉えた。轟音と共に高く飛び上がった白球を敵味方全ての選手が目で追うが、それはフェンスを越え山奥に消えたため、その行方を誰も見届けることはできなかった。
特大のホームランにベンチが沸く。いける、このままの勢いを保てば逆転できる。そんなムードにベンチは包まれた。
ホームベースを踏んだ阿部はみんなに囲まれ揉みくちゃにされる。そしてどさくさに紛れてアンダーシャツを破られていた。なんでだ。
そんな俺達を横目にK高校はピッチャーを囲んで話し合いが行われていた。全員ピッチャーを労っているようで、うちにも負けない結束の強さが見てとれた。
いつの間にかあたりは暗くなり始めており、グランドを照らすのは太陽ではなくライトへと代わっていた。夕日よりも強いその光は先ほどよりも色濃く人や物の影を映し出していた。
そこから相手ピッチャーの投球はさらにキレを増した。三番打者も難しい球を打たされるかたちになり、アウト。追加点を挙げることは叶わなかった。
逆転ムードに満ちていたベンチはそのピッチャーの気迫の投球を見て、改めて気を引き締めることとなる。
九回の表、K高校の攻撃。四番打者から特大の当たりが出て、これにはみな思わず頭を抱えた。しかし外野を守っていた一年生がフェンスを利用した三角飛びでボールを捕らえるという必死のプレイを見せ、得点を許さなかった。他にも危ない場面はあったが、チーム全員が死にものぐるいで守りきった。
5対2の点差を保ち、ついに迎えた最終回の攻撃。この回で逆転するしかないという共通の思いがチーム内にあった。阿部に背中を押された四番打者は殺気にも似たオーラをまといながら打席に立つ。
だが相手のピッチャーも気迫では負けておらず、鬼気迫る表情で一球一球を放った。バッターはストレートとカーブの使い分けに苦戦しながらも粘り強くバットを振り続け、十球を超える激しい攻防の末、こちらにヒットが出た。続く五番もイレギュラーなバウンドをする打球を飛ばし、なんとか出塁に成功する。
ノーアウト一二塁という状況だが、相手ピッチャーの投球に全くミスは生じず、続く二人のバッターを三振に抑えて、一気にツーアウトとなった。二塁に立つランナーの悔しそうな歯ぎしりの音がベンチにまで聞こえてくるようの思えた。
八番のバッターが打席に立つと、キャッチャーが大きく右にミットを構えた。
「満塁策か」
阿部が苦虫を噛み潰したような表情を見せる。満塁策という言葉の意味を知らず首を傾げていたら、親切な一年生が教えてくれた。あえて満塁にすることで、得点される可能性と同時にアウトをとる可能性を高めるのだという。
時間をかけて体力を回復するかのように、ストライクゾーンを大きく外れた球をゆっくり四球投げ、フォアボールになる。
次に打席に立つのは打順の最後、九番だ。正直なところかなり絶望的な状況である。片膝をついて靴紐を結び直していると阿部が近づいてきた。
「三崎、肩の力抜けよ」
そう言って阿部は背中を叩く。不思議と強張りが解けるのを感じた。さっきの四番も阿部に背中を押されていたが、これと同じ感覚だったのだろうか。
顔を上げると相手ピッチャーと目が合った。「あいつ、お前より年下なんだぜ?」と阿部は小声で言う。
「ヒットでいいから打ってこい。なあに、守備のいないところを狙ってボールを打つだけだ」
「簡単に言うなよ」
全くブレることのない根性論に思わず吹き出してしまう。だが、良い意味で力が抜けて、落ち着いて打席に立つことができた。
ベンチから声援が聞こえる。ベンチだけではない、塁に出ているランナーからもだ。みんなが俺に向かって声をかけてくれている。さっきまで初対面だったやつらの声援が、こんなにも心強いとは。
突然、校舎の方からギュイイインと大きな音が鳴り響いた。野球部だけでなく校庭にいる誰もが音の出どころを探そうと校舎を見る。音が出ているのは校舎の最上階、端の部屋。そう、軽音部の部室だった。
グランドに面する窓が大きく開いているため、中から出る音が筒抜けになっている。しかも音の大きさから考えてボリュームもマックスに調節されているようだ。
みなの視線を集める窓からひょっこりと清水が顔を出す。いつの間にグランドから移動したのだろうか。清水は打席に立つ俺を見つけると、手に持ったマイクを口に近づけた。
「三崎、いいか。ライブのクライマックスだと思え」
清水の言葉がグランドに響く。言った清水はさっさと窓から離れ、その姿は見えなくなった。代わりに、今度はドラム・ギターの音、ボーカルの声が聞こえてくる。
この曲は・・・。
俺達の十八番。いつもライブのクライマックスを飾る曲だった。言葉の意味はよくわからなかったが、きっとあいつなりの応援歌なのだろう。いつもの仲間からもエールをもらい、さらに心に火が点いた。
向かい合うピッチャーの眼光が強く光る。今日一番の迫力だ。だがこちらも負けてはいられない。きっと睨み返し、バットを握る手に力を込める。
一球目はど真ん中のストレートだった。今までだってまともに触れることすらできなかったのに、ここにきて球威はさらに増すばかりだ。
しかしバットはボールの端を叩いた。
大きく斜め後ろへ飛んだ打球が金属製のフェンスにぶつかり、ガシャンと音を立てる。
相手のピッチャーが驚いた表情を見せるが、当てた本人の方が驚いていた。当たったことを喜ぶ間すら与えず、すぐさま投じられた二球目。相手が投じたのは必殺のカーブだ。だがこれもバットはギリギリのところでぶつかり、ボールの軌道を変えた。
今までの打席と比べて何が変わったのだろうか。手も足も出なかったのに、ストレートにもカーブにもついていける。相手の投げる球が遅くなったわけではないのだが、なんとなくどこでバットを振ればいいのかわかる気がした。
その後もバットは来る球全てをすんでのところでとらえ続けるが、相手の全力投球に力負けしてなかなか打球が前に飛ばなかった。しかし徐々にではあるが確実に、入射角に対する反射角の差は狭まっていっている。
人は極限の状態でいるとき、時間が流れるのを遅く感じるという表現をよく聞くが、それは個人差があるのではないだろうか。だって今俺が置かれている状況は自分ではかなりの極限状態だと思うし、見たところ相手のピッチャーや守備だって極限である。ひょっとすると相手は今この時間を長く感じているのかもしれないが、俺は違う。
とても時間が早く感じる。世界が加速していくようだ。そして俺の心も加速していく。まるでライブのときみたいだ。
ライブという単語から連想して清水の言葉を思い出した。これがライブのクライマックスならラストのサビを終えて楽器を激しくジャカジャカ鳴らしているところだ。
その思考に至ったとき、いつの間にか投げられていた球が視界に入る。次の瞬間、自分でも驚くくらい、今までで一番力の入ったスイングをしていた。バットとボールが激しく衝突する音が響き、グランドにいた全ての人が思わず空を見上げる。上空にはまだ微妙に白い月が昇っていたが、その横にもう一つ、小さな白い月が見えた。
皆の視線を集める小さい方の月は、すぐに空から地上へと向けて加速していき、やがてフェンスの向こうに消えて見えなくなった。
ベンチから歓声が聞こえる。二塁に立っていた四番は大声で泣いている。ホームベースを踏んだ途端に、チームメイト全員に囲まれた。抱きつかれ、頭を掴まれ、もみくちゃにされる。いつの間にかユニフォームの下に着ていた自前のシャツが破られていた。だからなんでだ。
「三崎、すごいなお前。野球部でもないのに、あんな特大の場外ホームラン」
阿部が満面の笑みを浮かべながら駆け寄ってくる。
阿部の発言はまさしくその通りだった。野球部でもない俺が野球部でも苦戦するような強いピッチャーからホームランを打つなんて、まぐれにしてもできすぎている。勝利の喜びに沸く我が校の野球部員達も皆きっと同じことを感じているだろう。
*
「おい、清水。三崎がホームランを打ったみたいだぞ」
「マジかよ、あいつ野球なんてできたのか」
窓からグランドの様子を見ながら二人はそんな会話をする。窓は二つ並んでいるのに二人ともが同じ一つの窓を覗き込むものだから大変窮屈そうに見える。マイクとギターぐらい置いてから見に行けよ。
「なあ、清水。三崎を応援するのに一曲演奏するのはわかるけど、なんでこの曲だったんだ?応援歌にしたってもっと盛り上がる曲は他にもあっただろ」
顔の向きを窓ではなくこちらに向けて、ギターの木島が訪ねてくる。
「この曲が丁度良かったんだよ、リズムが一致してたんだ」
木島は「ふーん」とわかったようなわからないようなそんな反応をした。
「それじゃあさ、いでっ!」
言葉はそこで止まった。ボーカルの吉谷が窓の外に出した顔を戻そうとして、頭をぶつけたのだ。それを見て木島と俺は声を出して笑う。ぶつけたところを手で押さえながら吉谷が質問を言い直す。
「あの言葉の意味はなんだったんだ?クライマックスだと思え、って」
「それは俺も気になってた」
木島も賛同し、それをうけて吉谷は「だよなあ」と共感を上乗せする。
「三崎のライブのクライマックスって毎回やばいじゃん。ベースを力いっぱい壁や物に叩きつけてぶっ壊してさ。あれって確か三崎が崇拝してるバンドのリスペクトでやってるんだよな」
「楽器の弾き方だけじゃなくて壊すところまでやるか普通?しかもあいつ前にちらっと言ってたけど、楽器を壊すのにもパワーが必要だ、とかって理由で、毎晩砂を詰めたギターで素振りしてるらしいぜ」
「おいおい、もはやライブのために楽器壊してんのか、楽器壊すためにライブしてんのか、わかんねえな」
木島と吉谷は三崎の狂気ともいえる一面に戦慄していた。確かに三崎はライブに関わることでは狂っているが、憧れの存在に近づきたいという思いがとても強いだけで、そういう意味ではすごく純粋なのだ。
「ああいうやつが本当に大物になるんだよ」
三崎が中古屋で買ったギターに砂浜の砂を詰めている光景。人生で最も衝撃を受けたあの光景を目にしてから約二年が経った。あのとき感じた思いは、二年経った今でも変わらない。
*
「三崎、じゃーなー!本当にありがとうな!今度うちに来いよ!俺ん家ドーナツ屋やってんだ!」
阿部はよく響く大声でそう叫ぶ。試合後だというのによくそんな元気が残っているものだ。角を曲がったらもう阿部の姿は見えないが、耳をすますとどうやらまだ何か叫んでいるようだった。
試合が終わった途端、どっと疲労感が押し寄せてきた。まるで加速した分の時間が後から追いかけてきたみたいだ。これは軽音はしばらく激しい練習は控えて、体力回復に努めた方がいい。
家に帰るなりベッドに倒れこむ。風呂に入りたいと思ってはいても、脳は体に動けという指令を送ろうとはしなかった。徐々に体から力が抜けて、意識が遠のいていく。
「どんなに一流のパフォーマーであっても、常に最高のパフォーマンスを保つことはできない。普段は自らの技を磨き体を休め、決められた時間のみに全力を注ぐことで、スターになれるのだ」
これはもちろん、あのロックスターの受け売りである。彼らはいつもスターであり続けるわけではない。一回のライブのためにも日々のレッスンやレコーディング、体力トレーニングなど、地道な積み重ねがされているのだ。
それに比べたら必然、スターでいる時間は短いものだ。