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ガッツポーズがやめられない  作者: 最後の掃除機
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ガッツポーズがやめられない

「田中君ってどんな人?」


新年度、新しいクラスになってから二日目。俺がまだ名前を覚えていないその女子は問いかけてきた。この子の名前は確かーーー。俺が記憶を探る間にもその女子は話し続ける。


「田中君と同じ係になったんだけどほら、一緒に係の仕事をする以上相手がどんな人か気になっちゃって。友達に聞いたら渋沢君が田中君と仲良いって言ってたから」


黒板を見ると先ほどのホームルームで決められた各係の名前が記されてある。美化委員の項目には「田中」「佐々木」と記されていた。そうか、この人は佐々木だ。名前を憶えていなかったことを悟られないようにしながらその問いに答える。


「あいつは面白いしいいやつだよ」


これといってひねりのない返しではあったが、この女子が聞きたいのは田中がいいやつかどうかということだろう。この質問にそれほどの重要性は無いだろうし、これくらいのシンプルな返答が妥当だと思った。


「そうなんだ、じゃあーー」


佐々木の聞きたいことは一つではなかったらしく、俺の答えに相槌を打った後、続けてもう一つ質問された。


「ーー田中君って彼女とかいるの?」


~~~~~昼休み~~~~~


「なんてことがあってさ、ひょっとしたらだけど田中のことを好きな女子がいるのかもしれないな」


昼休み、教室の端でいつもの男友達で机をつなげて弁当を食べているときのことだ。田中がトイレに行くため席を立った後、俺は今朝の出来事を報告する。


「マジかよ」


話を聞いて一番驚いているのは飯田だ。慌てているような喜んでいるようなよくわからないテンションの飯田は口の中の食べ物を飲み込まないまま話しかけてくる。


「それにお前なんて返したの?」


「『川』」


「なんで合言葉?会話の流れおかしいでしょ、川なのに」


「『・ミドル・マリアンヌ』って」


「人名だったのかよ。誰だ川・ミドル・マリアンヌて。ミドルネームにミドルってついてるようなやつこの学校にいねえよ」


素のテンションに戻った飯田は口の中のものを飲み込んで、改めて質問してくる。


「それで本当はなんて返したの?」


「普通にありのままを答えたよ。彼女はいないって」


教室の中を見渡して本人がいないことを確認したうえで少しボリュームを下げて飯田は聞いてくる。


「それに対して佐々木さんはどんな反応したの?」


「『そうなんだ』って」


「それだけ?」


「それだけ」


「そっかあ、それじゃあ本当に同じ委員としてただ知りたかっただけっていう可能性の方が高そうだな。面白くない」


そう言って飯田は肩を落として両手を広げ、まるで外国人みたいに残念がるリアクションを見せた。次の瞬間、掃除ロッカーから放たれたレーザー光線によって飯田は消し炭と化していた。飯田はその特殊な生い立ちから、常にレーザー光線の射程に入っており、それがいつ放たれるかは飯田を含め誰も知らないのだ。


昼休み終了のチャイムと田中が教室に戻ってくるのは同時のことだった。


~~~~~午後の授業~~~~~


「女子から見たら田中ってどんなやつ?」


午後の授業中、隣の席の安達に質問してみる。


「なんでそんなこと聞くの?」


「ちょっと気になったんだよ。田中がどんなやつだと思われてるのか」


予測できた反応に頭の中で用意していた答えを読み上げる。


「別に普通だよ。嫌われているわけでもなさそうだし。」


大した面白みもない安達の返答を少し残念に思った。


「あ、でも友達から聞いたんだけど田中君って小学校からずっと続けてるスポーツがあるんでしょ?でも中学校に上がってから一度も勝ったことがないって。馬鹿にするわけじゃないけど、それってちょっと不思議だよね。体育の成績が悪いわけでもないのに。」


この安達の言う不思議はある意味田中の代名詞となりつつある。確かに田中は部活に入っておらず、小学校の頃から一つの習い事を続けているが、中学に入ってから今まで一度として勝ったことがない。運動神経は決して悪くないのだが、そんな話が広まっているせいで田中はスポーツが苦手というイメージが定着してしまっている。なので本当に運動が下手なやつらは田中に仲間意識をもち、大抵体育祭やマラソン大会などの際にイメージに反する田中の活躍に目を丸くする。


「ところで田中君って彼女いるの?」


自分の知りたいことは知ったのでもう話は終わったものだと勝手に思っていたが、安達からすればこの田中談義はまだ続くらしい。


「それ今日聞かれるの二回目なんだけど」


「えっ、そうなんだ。すごい偶然だね」


「佐々木に聞かれたんだよ」


「へえ、さっちゃんがねえ」


安達は佐々木のことをさっちゃんと呼んでいるのか、仲がいいのかな?なんてことを考えていると安達が気になることを言った。


「さっちゃん、田中君のことを好きなのかも」


誰かが田中のことを好きという疑惑はまさに今日浮上して先ほども議論されていたことだった。しかしそれが佐々木だとは。疑惑の全貌をより明確にするため、安達からできる限りの情報を得ようとする。


「なんでそんなこと思うんだ?」


「前からさっちゃんって田中君のことを気にしてる様子があったの。じっと見つめていたりして。それで今年同じクラスになって、しかも同じ委員になっちゃって。だから私も応援できるならしたいなって思って。今渋沢に田中君に彼女がいるかどうか確認したのもそのため」


安達から伝えられるこれまでの佐々木の行いに疑惑はどんどん強くなっていく。ひょっとしたら本当に佐々木は田中のことを好きなのかもしれない。新たなイベントの予感、これは面白くなってきたぞと気持ちが高揚するのを感じた。


「あ、渋沢。今の話と、これを私が言ったっていうのは絶対、誰にも内緒だからね」


友人のそこそこ重要そうな情報をあらかた開示した後、安達はそう言って自らの保身に走った。


「さっちゃん、自分の噂が勝手に広まってるって知ったらきっとショックうけちゃうから」


ならペラペラ喋るなよ、と思ったがこの話は今最も知りたい情報だったのでそこについては何も言うまい。男子の恋愛事情ならばあまり気にせず言いふらすこともできるのだが、女子の場合だとバレたときの報復の方が怖いので安達に注意されるまでもなく言いふらすことなんてできない。


「さっちゃん、けっこう傷つきやすい性格してるから」


「でも安達は佐々木のことをまるで鉄の女みたいに呼んでるじゃないか」


「それはサッチャーでしょ。さっちゃんだから」


授業終了のチャイムが鳴った。


~~~~~放課後~~~~~


学校から徒歩十分ほど、俺はいつも行く公園へと足を運んでいた。この公園へは下校中によく立ち寄り、田中や他のやつらなんかと一緒に公園の端にあるベンチに座ってしょうもない無駄話をしている。しかし今日はホームルームの後すぐに田中はトイレに籠もったため、俺だけ先に学校を出ることとなった。公園に到着したものの一人でやることもないので足元の蟻の行列が巣穴に出入りするのを静かに眺めていた。すると突然誰かに声をかけられた。


「渋沢君、今日は早いんだね」


声の主は佐々木だった。


「今日は田中君いないんだ」


そんな言い方をされるとまるでいつも一緒にいるみたいじゃないか。確かに普段から行動を共にすることは多いが、そんなに俺と田中はセットの印象が強いんだろうか。


「二人っていつも一緒にいるけど、それだけ仲が良いってこと?それともなにか特別な関係だったりするわけ?」


「特別な関係って?親友ってこと?」


「いや、そういうのじゃなくて。その、恋愛関係とか」


突然何を言いだすんだ、この女は。頭がお花畑というより薔薇園だ。知り合ったばかりなので相手のことを俺はまだよく知らないが、もしかしてそういう多少腐敗した趣味嗜好をもっているのだろうか。驚いたせいで否定するのにいささか間が空いてしまったが、このまま勘違いをされても困るのでそれは違うぞと声をあげる。


「恋愛関係ってなんだよ。ただ気が合うからいつもつるんでるだけだって。俺も田中も普通に女子が好きだし」


「なんだ、じゃあ渋沢君と田中君はただの友達なんだね」


当たり前だと強めに言いたいところだが、それよりもさっきから妙に田中のことを気にしているのがひっかかる。来て早々に田中がいるか確認したかと思えば、今のやりとりでもまた田中を気にかけている。思い返せば今朝の質問も今の愚問も田中の恋愛事情を知ろうとしているではないか。これはひょっとするとひょっとするかもしれない。実は授業が終わった後、トイレで田中に佐々木のことをどう思うか聞いてみた。そこで田中は好意的な感想を述べており、うまくいけば、二人は付き合うことになるかもしれない。そうなるとやはり佐々木の気持ちが気になる。聞き出したいが、こういうときにしてはいけないのは、むやみやたらに相手の心情に干渉することだ。急な質問は相手の心にロックをかける。十字路で無駄に信号を経由するように、遠回しに質問してみることにした。


「佐々木って田中のこと好きなの?」


十字路も、信号もそこにはなく、あるのはゼロヨンコースのみだった。これでは直球という名の魔球だ。自らの我慢のきかなさに淡い恐怖すら抱いたが、言ってしまったものは仕方ない、気持ちを切り替えなくては。しかしむしろこの問いへの反応で佐々木の真意が読み取れるのではないだろうか。田中に好意を寄せていれば驚くなりなんらかのリアクションを見せるだろうし、好意なんてこれっぽっちも抱いてなければ普通に困ったり味気ない返答をするだろう。案の定、佐々木はこの質問に驚いたような素振りを見せており、俺は見た目には自然体を保ちながら、しかしその内心ではわくわくしていた。


「もしかして渋沢君、何か勘違いしてない?」


まずい。勘違いだったか。勝手に先走ってとんでもないことを言ってしまった。田中には悪いと思う。


「私、田中君のことなんか全然好きじゃないしーー」


そこで佐々木は軽く息を吸いこんだ。


「ーーむしろ、大嫌いよあんなやつ。私、田中君のことは、絶対に許さない」


予想から大きくかけ離れた反応に思わず固まってしまう。


「本当は口に出して言うことじゃないんだけど、誰かにそんな勘違いをされるのは私にとっては侮辱以外のなにものでもない。渋沢君がしているその勘違いが広まっても嫌だからこの際はっきり言うわね」


私は田中君が嫌い。と佐々木は改めて、先ほどよりも強い語気でそう言い放った。その発言は愛情表現というにはとても無理があり、その表情からは好意とは程遠い感情がうかがえた。


「私、田中君に裏切られたの。信じていたのに。だからそれからはずっと恨んで、復讐するチャンスを待ってたのよ」


突拍子も無い冗談かと思ったがどうやらそうではなかったようで、その言葉には優しさなんてこれっぽっちもなかった。


「田中に裏切られたって、一体なにがあったんだよ」


裏切られたと言っているが、どんなことをされたのかまずその事情を知りたい。今のところでは友人を敵視するこの女子を俺はよく思っていないが、その理由を聞けば田中に非があることがわかるかもしれない。佐々木は全てを話すつもりでいるようで、すんなりと口を開いた。


「私、昔重い病気だったの。手術をすれば治るんだけど、どうしても手術をする勇気が出なかったんだ。そんな私によくお見舞いに来てくれた幼馴染みがいて。それが田中君よ」


話の始まり方からして田中がその手術の執刀医を務め、失敗して恨まれてるのかと思ったがそんなことではなかった。というか二人が幼馴染みだったことに驚いた。田中はそんなこと一言も言っていなかった。


「彼は私に言ったの。次の試合で自分が勝ったら手術を受けてくれって」


「メジャーリーガーかよ」


「私それでちょっと勇気が湧いてね。彼の言葉を信じることにしたの」


ここまでだと二人の関係はそこまで悪くない。むしろ感動的なエピソードだと思う。


「そして田中君の試合の日、私は病室のテレビで試合の生中継を観てたわ。私の応援する彼はガムを噛んでリラックスした様子だった」


「メジャーリーガーかよ」


「ホームランかと思った当たりも相手選手の守備範囲内だったわ」


「メジャーリーグじゃねえか。田中の試合を観ろよ」


「メジャーの試合が終わってから田中君の試合の結果をネットで調べたら、負けていたことがわかったの。とても失望したわ」


自分のためにがんばっている田中の試合でなく野球の観戦を優先するとはなんと身勝手な女だとも思ったが、それよりも一つ気になることがあった。


「ちなみにそれって何歳ぐらいのときの話?」


「十三歳よ。中学生に入ったばかりのころ」


やはりか。ちょうどその時期から田中は勝てなくなっていた。彼女は約束する相手を間違えたのか、それとも約束するタイミングを間違えたのか。


「命をかけた約束を破られたとき、それまでの人生で味わったことがないくらい失望したわ。そのときから私は田中君に復讐することを誓ったの。そのために手術も受けたわ」


約束は果たせなかったが結果として彼女は手術を受けたのだ。それはこの救いようのない話の中で一番の救いだと思った。


「私は田中君と違う学校だったから結局中学三年間で復讐は果たせなくて、だから高校は彼と同じ学校を受験した」


そして一年待って今年、ようやく復讐する相手と同じクラスになったということか。命は助かったのだから今更復讐なんてしなくていいだろうと思うが、そこは本人にしかわからない、譲れないものがあるのだろう。佐々木が田中のことを嫌っているのはわかったが、なにか違和感を感じた。


「今日は彼に下剤を盛ったわ」


今日田中がトイレに行く頻度がやけに高い理由がわかった。それは一介の高校生の嫌がらせにしてはかなり度が過ぎてやしないだろうか。


「クッキーを作ってそれに混ぜたの。彼ったら何も疑わず美味しそうに食べてたわ」


「わざわざクッキーまで作ったのか」


「彼に復讐するためならどんな苦労もいとわないわ」


そこまで言ってのけるのか。それじゃあ嫌いというよりもむしろ・・・。ふと、その思考に行き着いたとき、感じていた違和感が何に対してのものかわかった。佐々木の行動や言動を振り返る。


さっき公園に来たとき、佐々木はなんと言ったか?「今日は田中君いないんだ」と言っていたはずだ。「今日は」ということは、つまり佐々木はいつも田中や俺がこの公園に来ていることを知っていたということだ。


次に下剤入りクッキー。下剤を盛るためとはいえわざわざクッキーを手作りしたのだ。飲み物に混ぜるとかの方がよっぽど楽だろうに。


そして今日。どうしてわざわざ公園まで来たのか。俺達の行動パターンを知っていたようだが接触したのは今日が初めてで、今までは観察に徹していたのだ。どうしてこのタイミングで公園まで来ておしゃべりする気になったのだろうか。今日ここに来ることで果たせる目的が何かあるのだろうか。


頭がこんがらがってきた。この女のやることなすことは全て好きな相手に対するそれとも思えるが、本人は真逆の感情を述べておりその感情と行いは一致しているといえなくもない。これが好意の裏返しか、それとも本人が好意に気づいてないのか、もしくは本当に嫌いなだけなのか。俺にはそれを解明するような経験や知識はなかった。


「あ」


佐々木がこちらを見てそう呟く。俺の顔に何かついてるのかと思ったが、よく見ると俺よりも奥の方に焦点が合っている。佐々木は俺の背後にある何かを見ていたのだ。


振り向くとそこには田中がいた。腹の調子が良くなったのか、冴えなかった顔色にも明るさが戻っている。田中はいつもはいないゲストに少し驚き、不思議そうな表情で俺の方を見てきた。そんな風に表情で経緯を聞かれても、俺も予期せぬ出来事なので説明のしようがない。そんなニュアンスをこめて小首を傾げて見せた。


アイコンタクトを交わす俺達に挟まれながら、佐々木は田中にクッキーの感想を聞き、そして田中は笑顔で感想を述べた。その高評価を聞いてクッキーを作った本人は嬉しそうに次の手作り菓子の予告をし、はにかみながら別れの挨拶を告げると公園を去っていった。


「渋沢君も、また明日ね」


「また明日」


さっきまで憎悪の塊のようだった女が今では年相応の女子高生に戻っており、これが同一人物とは思えなかった。しかし田中が来るなりすぐに帰ったな。もしかして、今日公園に来たのはクッキーの感想を聞くためだったのだろうか。


もしそうならやはりーーと思ったが、これではキリがないので、このことについて考えるのはもうやめにした。新しいクラスメイトは面白そうなやつだ。そういう結論でこの話はおしまいにしよう。頭の中でこんがらがっていたものに封をして、今日あまり会話できなかった友人とくだらない話をしながら帰路についた。


~~~~~土曜日・午前~~~~~


二週間後の土曜日。俺は市営の体育館にいた。今日この体育館では高校生剣道の大会が行われており、県内の猛者達が全国大会出場の切符を賭け、汗と怒号の飛び交う激しい打ち合いを繰り広げているのだった。会場内には闘気や殺気に満ち溢れた選手がわんさとおり、今か今かと己の順番が来るのを待っていた。三戦ほど知らない人間の試合を見た後、ようやく知ってる人間の試合が始まろうとしていた。


「田中君、今回も出場しているのか」


「どうせいつも通りの結果になるのにな」


他のギャラリーの声が耳に入ってくる。その視線の先にいるのは田中だ。同姓同名の別の田中ではなく、俺の友達で、剣道を習っている田中だった。ギャラリーの反応を見たところどうやら田中はそこそこ有名人物のようだ。まあその戦績を見ればそれもそうか。


「相手は烏崎君か!前大会の優勝者じゃないか!」


「この大会は一本勝負だからすぐに決着が着いちまう。残念だけど彼が相手なら勝ち目はないな。運が悪かったよ」


声の大きいギャラリーは好きじゃないが情報を提供してくれるのでまあ良しとしよう。


「田中、今日こそは勝てよ」


ぼそりとエールを送る。聞こえたのかどうか知らないが田中はぐるりと会場内を見渡した。そして再び前を向き、試合場に入った。

審判員の「始め」の声がかかる。烏崎という男は素人目に見てもその佇まい、放つ空気から強者であるということが感じとれた。「この間合いに入ったら負ける」、そういう境界線が見えるようで、これが自分達と同じ高校生だとはとても信じられなかった。そしてその境界線に、田中が、触れた。


次の瞬間、烏崎は目にも留まらぬ速さで竹刀を振り下ろしていた。一方。


すでに振り終わった田中の竹刀は俺の目に止まって見えた。


「胴あり、一本!」


審判員の声が会場内に響く。目にも留まらぬ烏崎の竹刀、それよりも速かった田中の竹刀は烏崎の胴を横薙ぎに一閃していた。通常ならこの瞬間に観客席や応援からは歓声が湧き上がるのだろうが、この田中の場合は少し違う。


勝敗が決したにも関わらず、なおも会場内の注目を一身に浴びる田中。今ここにいる全ての人間が彼の一挙手一投足に視線を向けていた。審判員に勝利を宣告された田中は、両の拳を強く握り、天高く突き上げ、歓喜の声をあげた。そして、審判員から声をかけられ、田中の勝利は取り消しとなった。


そう、剣道の試合ではガッツポーズをしてはいけないのである。武士の心を重んじる剣道において、ガッツポーズは武士道に相応しくないとされ、それをやった瞬間に勝利が取り消されてしまう。


中学生になってから今日までの四年間、田中はそれまでの全ての試合を今回と同じ理由で勝ち星を逃していた。周囲からガッツポーズをやめるよう言われたり、ときには非難を浴びることもあったが、頑として田中はそれを聞き入れなかった。俺も試合の度に祈ってはみるが効果があったことは一度もない。中学校に入ってから最初の試合、そのときからこのガッツポーズは続けられているが、その理由を田中に教えてもらったことはなかった。


ふと、向かいの観客席を見るとそこには佐々木がいた。佐々木も田中と同様に小さくガッツポーズをしていたが、それにどんな意味がこめられているのか。これもまた、本人のみが知りえることだった。



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