亡き女を想う (2)
あのあと、わたしはすぐに警察を呼んだ。そして殺人課のリリーたちがやってくるまでの間、蒼井――もとい緑川シゲルの言葉を何度も頭の中で反芻していた。
『ミナは殺されたんだ。僕のアオイが殺したんだ』
緑川は、確かにそう言った。しかし、まったく意味が通らなかった。ミナは殺された――それはまだわかる。だが、アオイとは? 蒼井家の誰かのことか。それともアオイという源氏名――すなわち、蒼井ミナ自身が自分を殺したというのだろうか。
余計に訳が分からなくなってきた。
アオイが死んだ後、彼女からかかってきた電話。失踪した祖母。そして、アオイがミナを殺したという言葉……。
あまりの意味不明さに、わたしは思わずため息をもらした。
しばらくして、ラリュング市警察ご一行が到着。鑑識班が倉庫にぞろぞろと入っていった。わたしはその様子を、車のボンネットに腰掛けて見ていた。彼らは何を見つけられるのだろう。そう思ったのだ。
しばらく眺めていると、リリーがわたしを訪ねてきた。彼女はいつものように渋い顔をしていた。
「被害者の名前は緑川シゲル。昨日殺されたアオイ――蒼井ミナ……いや、緑川と呼ぶべきかしらね……彼女の父親。彼は書面上はミナを引き取っていたらしいけれど、実質は育児放棄をしていたらしいわ。多少の金は送っていたみたいだけれど、研究熱心で娘のことなんてほったらかしていたみたい。最近はその金も底を尽きて、結局お嬢さんは娼婦にまで落ちぶれてしまった」
「彼女は落ちぶれてなんかない。アオイは、つねに彼女の誇りである美貌とともにあったわ」
「あらそう」リリーは心底つまらなそうに言った。「それはそうと赤錆、前にも言ったけれど、警察の邪魔はしないでもらえる。わたしとあなたの仲だから注意勧告だけで抑えているけれど、わたしがいなくなったら、あなた探偵免許の剥奪だってあり得るわよ」
「そうね……でも、わたしはもう少しこの事件を追うことにする。新しく依頼者も現れたし」
「蒼井ミズキ……彼女の妹ね」
「そう。それに関しては、あなたが口出しできる範囲ではないはずよ、リリー。ねえ、ところでこの倉庫が何なのか分かる?」
「さてね。何年も前に廃棄された貸倉庫よ。緑川はここで何かをしていたんでしょうけれど、今のところ倉庫内からは何も見つかってないわ。彼を殺した原因らしきものも見つかっていない。ま、少なくとも盗み目的ではなさそうよ」
そう言われて、わたしは目線をリリーから倉庫内の鑑識たちに移した。青色の作業着を着た男たちが地面とにらめっこを続けている。
「でも、彼はここで何かをしていた」
「そうね。……ところで、あなたはここで何をしていたのよ、ヘイズル?」
「それは探偵の守秘義務に関わるわ」
「あら、そう」
リリーはあくびを噛み殺しながら、退屈な表情で言った。
わたしは彼女を無視して、車の中へ戻ろうとした。どうせ警察の捜査資料なら、あとでいくらでも見れる。
しかしそうしようとした時、リリーがわたしを呼び止めた。
「そういえば、へイズル。せっかくだしあなたに教えておくわ。……実はね、事件後に何回か『蒼井ミナを見た』って通報がきているのよ」
「妹のほうと間違えてるんじゃない? 彼女、瓜二つよ」
「そうじゃないの。本当に蒼井ミナだって言うのよ。娼婦の格好をした彼女見たって。しょっちゅう彼女を買ってたヤツが通報してきたの」
「でも、蒼井ミナは死んだ」
「そうね。DNA鑑定はクロだった。だけどおかしな情報が錯綜して、理由もわからない殺しが起きたことだけは確かよ」
「調べることが増えそうね」
わたしはそう言うと、キーを片手に車内に戻った。
キーを回し、エンジンをスタート。どうやら調べることは山積しているようだ。
*
わたしに出来ることと言えば、地道に調べを尽くすぐらいなものだった。いくらツテがあろうと、技術があろうと、最後には足が物を言う。
わたしは、警察資料から件の『蒼井ミナを見た』と通報をよこした人間を片っ端から洗ってみた。
一人目は、彼女をよく買っていた老紳士。二人目もまた、彼女をよく買っていた男だった。彼らは、わたしが「アオイという女性について聞きたい」というと、みな顔を背けてみせた。わたし自身、彼らの気持ちは分からなくも無かった。だが、さんざん彼女を痛めつけた彼らがこのように白々しい態度をとるのは、どうしても気にくわなかった。
彼らの目撃証言はだいたい似たようなもので、ブロクスタインの娼館で彼女を見たのだと言う。
わたしは「彼女は死んだはず」と答えたが、彼らは譲らなかった。
「いいや、あれは間違いない。アオイだったよ。彼女に違いないね。あの黒髪、白い肌、長いまつげ……間違いなく彼女さ。声色も、表情も、何もかも完璧だった。あんな綺麗な娼婦、ほかにいやしないよ。死んだって話を聞いてたから、怖くて声もかけられなかったけどさ」
彼らは口をそろえてそう言った。
だからわたしも、それを信じるよりほかになくなってしまった。
その晩、わたしはニナに「夕食はいらないと」告げてから、ブロクスタイン地区に向かった。そしていくつかの娼館が立ち並ぶ前でクルマを停めて、車内で様子を見守った。
暗い歩道脇も、娼館に近づけば雰囲気は一変する。場末のストリップバーは下品なネオンサインを散らし、原色きどきどしい黄色を見せつけてくる。裸体の女を模した3Dネオンは、投影機が壊れかけているのか、女の胸元がついたり消えたりを繰り返していた。ブラジャーが赤くなっては黒くなってを繰り返している。
わたしはそこから目を移して、今度は娼婦たちを見た。酒場から出てくる男たちを彼女らは誘惑する。彼女らも金を稼ぐのに必死だ。アオイと比べては、天と地ほどの差がある彼女らは、あの手この手で男に買われようとしている。
果たしてこんなところにアオイがいるのだろうか?
もしいたとしたら、ここを通る者たちは皆アオイに目を向けるに違いない。路肩にたむろす化粧の濃い怪物たちなど相手にせず。
するとそんなとき、腕に巻いた携帯端末が震えた。左腕にはめた腕時計型端末。わたしはそれに触れて、虚空に映像を描き出した。
蒼井ミズキからのメールだった。調査の進捗はどうですか、と怒りの見え隠れする文面だ。
「焦りは禁物よ、ミズキ」
わたしは独りごち、メールの返信文を送った。
『現在の状況。祖母の行方は知れず。蒼井ミナの線で捜索を継続中』
文面を打ち終え、送信の表示に触れる。まもなくウィンドウが閉じて、メールが送信された。
すると、そのときだった。
コンコン、と誰かが窓ガラスを叩いた。わたしは驚くつもりはなかったのだが、突然のことだったので思わず肩を跳ねさせた。
そこにいたのは、二人組の警官だった。
「すみませんね、ミス。ここは駐車禁止なんですよ。免許証はあります?」
「そうだったんですか。すみません、わたし知らなくって」
「ええ。駐車違反の連中はみんなそう言うんです。とりあえず免許証見せてもらえますかね?」
青色の制服をまとった警官。一人が警戒するように周囲を見回し、もう一人がわたしに手を差し出した。免許を出せと、彼の手は言っている。
ツキが戻ってきたのか、それともブルー・マンデーは続いているのか……。
わたしはため息混じりに、札入れから免許証を取り出そうとした。
しかしそのとき、わたしの視界にある女性が映ったのだ。
黒い髪、白い肌、長いまつげ。真っ青なドレスを身にまとった女。吸い込まれるような美貌を持つ、彼女。
蒼井ミナ=アオイ。
一台のセダンが歩道につけ、運転手が彼女に声をかけた。アオイはニコリと微笑んで、男の手招きに応じる。彼女はセダンの助手席へ。
――まったくツキは戻ってきたじゃないか。
わたしはアクセルを踏みつけた。警官が「こら、止まれ!」と叫ぶ。
だが、わたしは止まれなかった。
アオイが男に拾われる。車は発進。この場を去ろうとする。だが、そうはさせない。