鐘が鳴るのを待って (2)
それから事務所に戻ったのは、零時を回ったころだった。サリー・へイズという女が何者かはわからないが、とりあえず関わるべきではないと直感が告げていた。おそらく同業者か、マフィアの手先だろう。そんな女にはどうしても見えないが、しかし私も人のことは言えないだろう。
翌日――といっても私はほぼ昼夜逆転の生活をしているので、もう午後だった――私は再びLACを訪れた。そして向かいのカフェに陣取ると、退社時間になるまで粘った。目的はマリー・ライアルが退社するのを見計らい、彼女を追うことだ。そしてもし都合が良ければ、マリーとヘンリーの不倫現場を押さえる。それで仕事は完了だ。
午後七時過ぎ。残業終わりのマリー・ライアルがようやく出てきた。彼女の隣には、好都合にもヘンリー・ウィンストンがいた。
私はコーヒーの支払いを済ませると、彼らの後を追った。
簡単な仕事だった。私はマリー・ライアルとヘンリー・ウィンストンがホテルへと入っていく決定的な瞬間を撮影した。あとはこれをミセス・ハンナ・ウィンストンに送ればいいだけだ。
しかし、考えてみれば私も卑しい仕事を続けているものだと、ぼんやりと思った。
おそらくマリー・ライアルは、自分の部署でも権威があり財力もあるミスタ・ウィンストンに取り入ろうとしているのだろう。商魂たくましい女だ。私はそんな二人の関係や、ウィンストン夫妻の関係にまでズケズケと踏み込んでいる。この歪な夫婦関係が正しいのかと言えば、それはどうとも言えないが、しかし私がやっていることが正しいとは、少なくとも考えられなかった。
私は帰り道、道中で封筒と切手を買うと、そこに写真を入れてポストに投函してきた。明日の昼下がりには、おそらくウィンストン家はひどい騒ぎになっていることだろう。
だが、もう私には関係のない話だ。私は金を手にいれ、依頼主は要望通りの写真を手に入れた。実にwin-winの関係ではないか。
私は調査料金を銀行からおろすと、事務所に戻った。パブ・リリーは開いていたが、客は一人きりだった。それも最悪の客だった。
「ああ、お待ちしてたんですよ。ミス・ウェザフィールド」
ブロンド髪の女が、パイントグラス片手に私を見た。昨晩の女、サリー・へイズだった。
「あなたは昨日の……」
「ええ、サリー・へイズです。ミス・ウェザフィールド、いまお暇ですか?」
「いまですか……?」
私は、たどたどしい口調で言った。実際、あせっていたのだ。まさか昨日の今日でまたあの妙な女とはち合わせるなどとは考えていなかったから。
リリーに目をやったが、彼女は我関せずといった様子で首を傾げていた。
しかたなく、私は大きくため息をついてから応えた。
「いいわ。何の用かしら?」
サリー・へイズは、私を近くの広場にまでつれてきた。教会が近くにある広場で、円形に広がる石畳が特徴的だ。春には木々が周囲を取り囲んで非常に美しいが、いまやすっかり葉を落とし、寂しげな雰囲気を帯びていた。
リンゴーン……と鐘が鳴った。
「あなたにお話があるんです、ミス・ウェザフィールド」
「だから、何かしら? 依頼じゃないんでしょう?」
「ええ。私は、ただあなたに会うためだけに来たんです」
「それがまったく分からないんだけど。あなた、何者なの?」
「それが分からないということが、まずいんですよ、ミス・ウェザフィールド……いや、中尉殿」
「中尉殿? あなた、私を誰かと間違えてないかしら。私はしがない探偵よ。この掃き溜めの街ラリュングで、掃き溜めたちの尻拭いをしている。それが私よ」
「そうじゃないんです。……いい加減気づいてください。あなたはいつまでそうしているんです。あなたはもっと、自分に誇りを持っていたはずです。それを思い出してください。。
今一度あなたに問います、ミス・ウェザフィールド。あなたは、誰ですか?」
「私は私よ。ヘイズル・ウェザフィールド。探偵よ」
「そうですか……」
リンゴーン……
鐘が鳴った。
サリー・へイズが、顔をうつむかせる。彼女は鐘の音と共に、ゆっくりとその場を立ち去っていった。
奇妙な女が残したのは、奇妙な疑念だけだった。私が何者か? そんなもの決まっている、私はヘイズル・ウェザフィールド。この掃き溜めで何とか生きている。それ以上でも、それ以下でもない。
私は彼女の姿が見えなくなってから、事務所に戻った。途中、リリーが「一杯飲まない? 私のおごりで良いから」と言ったが、断った。疲れていたのだと思う。
そうして私は、ほこりっぽい事務所に入った。元倉庫という事務所は、非常に手狭だ。ベッド代わりのソファーとデスク、それから書棚を一つおいてしまえば、もういっぱいだ。
私はソファーに腰掛けると、ぼんやりと壁を見た。壁、というよりはその隣にある書棚だった。棚には今までの調査資料と、新聞や本がおいてある。あまり本は読むほうではないから、新聞と資料がほとんどだ。
そんな中で、私はオレンジ色のペーパーバックに目がいった。小説だった。どこで買ったか覚えてないが、しかし本棚に挟まっている。
「こんな本、買ったか……?」
私はぼんやりと思い出しながら、本を手に取る。パラパラとページを繰っていると、目を疑うようなページと遭遇した。
そこには「ヘイズル・ウェザフィールド」と書かれていたのだ。しかもよく呼んでみれば、ヘイズル・ウェザフィールドとは女の子の探偵。ある少女が個人的に書いている小説だというのだ。その内容は、私自身とはまったく違っていた。しかし、まるで自分のことを言われたみたいで恐ろしくなった。
サリー・へイズの言葉がリフレインする。
「ミス・ウェザフィールド、あなたは誰ですか?」
私は誰だ。
私は何者だ。
私は――私は、所詮誰かの被造物に過ぎないのか?
そう考え始めたとき、私はサリー・へイズに会いたいと感じている自分がいることに気づいた。
彼女に会いに行かなくては。
気づくと私の身体は独りでに動き出し、パブ・リリーから地上階へ向かっていた。
パブを飛び出して、私は広場のほうに向かった。しかし、もうそこにサリー・へイズの姿はなかった。私は舌打ち一つして、駅に向かって走った。アテはなかった。だけど、私は彼女に会いたくてたまらなくなっていた。
ペーパーバックを片手に私は駆けた。彼女を捜して。
ピルグリム・サーカス・ステイションは混雑していた。次が終電だとかで、飲んだくれたちがホームに溢れている。
私はそんな雑踏の中に彼女がいないかと思った。
ホームを見回す。彼女がどこ行きの列車に乗ったかは分からない。そもそも駅にいるかどうかも分からない。でも、私は彼女に会いたいのだ。
「サリー・へイズ、あなたいるんでしょう!?」
わたしは叫んだ。脇目も振らずに。周囲の人々が一斉に私を見たが、そんなのどうでも良かった。
するとどうか。その刹那、わたしに周囲にあったものが一斉に消え失せていくではないか。先ほどまでいた酔っぱらいたちは消え、吐瀉物にまみれたホームは真っ白い床に変わる。ホームに飛び込んできた列車も消えて、何もかも、すべてが純白無垢に変わった。
残されたのは、わたし。そして――彼女。
彼女はわたしのすぐ目の前にいた。モッズコートを着た女。
「サリー・へイズ……わたしは何者なのか……あなた、それが重要だって前に言ったわね……」
「思い出しましたか、中尉」
「ええ、思い出したわ。……わたしはヘイズル・ウェザフィールド。それ以上でもそれ以下でもない。誰かの被造物であろうが、それが何だって言うのよ。わたしは、わたしよ。このラリュングの探偵――ヘイズル・ウェザフィールドなのよ」
「そうです、中尉。それでいいんですよ。あなたは、あなたでしかない。そうでしょう」
「そうね、そのとおりね……」
わたしは、手に持ったペーパーバックを床に落とす。白い床に落ちた途端、ペーパーバックは白く染まり、消えた。もとからそこには何もなかったとでも言うように。
「ありがとう、サリー。わたし、目が覚めたわ」
左手を包む手袋を取り払う。宝冠のエンブレム。わたしはそれに優しくキスをした。
そのとき、どこからか鐘が鳴った。
リンゴーン……




