鐘が鳴るのを待って (1)
わたしの体に巨大な影が落とされる。
人の姿をした影は、ちょうど巨人がわたしを喰らったみたいに、胃のあたりにわたしを押し込めていた。
わたしはその影の下で、胎児が体を丸めるみたいに倒れ込んでいる。もはや何をする気力も起きなくて、体は独りでに収縮していく。筋肉が縮んで、焼け残った死体みたいに、わたしの背中が丸まっていく。わたしの意志はそれに反することが出来なくて、ただ丸まっていく体を「ああ、わたしは死ぬのだな」と思いながら感じるしか出来なかった。
それがちょうど、巨人の胃の中にいる感覚だった。
押し寄せる虚構の胃液が、わたしの視界を阻む。まもなく酸の群が到着して、眼球は完全につぶれてしまった。皮膚も爛れていき、触覚が次々と失せていく。地面に触れている、という感覚はもはや失せ、ただ焼け付くような痛みだけが全身を支配する。
しかし、その痛みに抗おうにも身体は言うことを聞かない。むなしくも、その痛みに耐えることだけがすべてなのだ。声をあげて痛みを和らげることすら出来ない。地獄の業火に肌を焼かれる思いを、ただひたすら受けるのみ。それがわたしの最期なのだと、そのとき実感した。
*
来る日も来る日も、私は面倒な調査ばかりをやらされていた。頼まれることと言えば浮気調査ばかり。今日もブロウトン区のマダムから、夫の浮気調査を頼まれていた。
私の名はヘイズル・ウェザフィールド。このロクでもない霧の街で、探偵というロクでもない仕事をしている。
私はカフェで盗聴器の音を聞いていた。ホロ・タブロイドを読みふけるふりをしながら、耳にさしたイヤフォンから音を聞く。音は向かい側にあるホテルの一二五号室からきていた。先ほどから男の吐息と女の嬌声が聞こえてくる。もううんざりだったが、それが私の仕事だった。
私は録音した音声の確認を終えると、録音データをコピー。カフェを出て、途中でパブに寄って一杯ふっかけてから、依頼人のもとまで向かった。
そのときには、依頼人も目標も帰宅していた。テープを渡すと、すぐに夫婦喧嘩が始まった。
「あなた、やっぱり浮気してたのね!」とマダム。
「誤解だ! これは俺じゃない!」とミスタ。
私はこの光景を見るたびに、こんなことをしていていいのかと思う。
でも、マダムが「報酬よ」と金を落としてくれたので、私はそれを拾い上げた。金払いの良い客は好きだ。でも、仕事は大嫌いだ。
そのあと私は、近くの安酒場で朝まで飲んだくれた。バカな男がすり寄ってきたので、適当に相手をしてやると、そこそこの金を払ってくれた。おかげで酒代が浮いた。
そうして翌朝目が覚めたころには、私はピルグリム・サーカス・ステイションの地下鉄ホームに横たわっていた。隣には小便臭いホームレスがいて、目覚まし時計代わりに「チッププリーズ、チッププリーズ」と叫んでくれた。
すえた小便と自分の吐瀉物のにおいで目が覚めて、私の朝は始まる。それから化粧室で一応の体裁を整えた。私とて女として商売をしている。近頃家に帰っていないので多少は匂うが、香水を数回吹き付ければ気にならなくなった。そのあとは、新たな依頼人を求めて事務所に戻った。日々、こんなことの繰り返しだ。
私の探偵事務所は、ピルグリム・サーカスのセイヴィル・ストリート。そこにある図書館の真向かい、半地下のパブの中にある。郵便受けはパブと共有で、いちいち手紙を探すのが面倒くさい。だが、家賃が安いのでこれで我慢していた。
今日は運がいいことに、一通の依頼があった。わたしは早速それだけ握りしめて、依頼人が待つブロウトン区に向かった。また、どうせ浮気調査だ。
依頼主はハンナ・ウィンストンと言った。いかにも高慢そうなブロンド髪の女で、パーマのかかった髪をいじってなければ死んでしまうだった。
案内された彼女の家は、地上三階地下ミニシアター、プール付きの豪邸だった。彼女の夫が何の仕事をしているかは分からないが、少なくとも私よりは収入があるとだけは分かった。
ハンナは応接室に私を招き入れた。
「それでご依頼の件ですが……旦那様の浮気調査でよろしかったでしょうか?」
「ええ、かまいませんわ」
彼女は肩まであるブロンド髪をいじりながら言った。
「詳しく教えてもらえないでしょうか。最近の旦那様の動向ですとか。何かおかしな点とか」
「そうですね。家に帰ってくる回数がめっきり減りましたの。前は三日にいっぺんは帰ってきたんですが、いまは週に一度も帰ればいいほう。ねえ、探偵さん。どうにかして彼が浮気してるって見つけだしてくれないかしら。ね?」
彼女は念を押すように言った。
私には、この女が私を頼ってきた理由が少し分かったような気がした。
リビングに置かれた無数の工芸品や花々。色鮮やかなインテリアは、カラフルという言葉を通り越してしつこいとさえ言える。私の推論を言わせてもらうなら、おそらくこの女は、夫を出し抜いて毎晩若い男とドンチャン騒ぎをしていたのだろう。そのたびに彼女にアプローチをかけてくる男がいて、そのせいで部屋はこの有様だ。ここにあるのは、そういう男たちからの貢物に違いない。そして彼女は決めたのだろう。夫とは別れて、慰謝料だけぶんどって、別の男と一緒になろう……と。まったくもってたくましい女だと思った。
しかし、私には仕事を選んでいる余裕はなかった。
「わかりました。お引き受けします。料金は一日一〇〇パウンドで。よろしいですね?」
「ええ、よくってよ。じゃあお願いしますわ」
私たちはそう言葉を交わして、握手も交わした。女同士の握手というのは、往々にして親密な関係を表すものではない。ビジネス上の、利害関係の一致を示すものだ。
そうして私は応接間を出ていこうとしたのだが、そのとき来客が訪れた。応接間の扉を開いて、少女が顔を覗かせてきたのだ。見かけ齢十ばかりの少女で、青いワンピースを身にまとっていた。
「こら、ニナ。お母さん大事なお話があるからあっち行っててって言ったでしょう?」
「ごめんなさい。でも……」
「でもじゃない。ニナ、はやく行きなさい!」
少女は母親の叱咤に追いやられていく。
それから私は、何事もなかったかのように玄関へと出て行った。しかし屋敷を出ていく直前で、私はどうしても気になり、聞いてしまった。
「……ミセス・ウィンストン。もしあなたが離婚なさる場合、親権はどうなさるおつもりですか?」
「親権? あー……まだ考えてないわ。でも、たぶん夫に譲るわ。わたし、子育てとか得意じゃないの」
「そうですか。わかりました。とりあえず、旦那様の件はなんとかいたします」
「頼んだわ」
軽い会釈を交わし、私は停めておいたクルマのもとへ。
調査などというのは、名ばかりである。私がやっているのは叩き掃除と同じだ。人間誰しもホコリの一つや二つ蓄え込んでいるもので、ちょいと叩き棒ではたいてやると、それがブワァッと拡散する。私はその瞬間を捉えて、依頼主に送りつける。探偵とは、そういう仕事だ。
蓄え込んだホコリというのは、金持ちになればなるほどスキャンダラスなものになる。ハンナ・ウィンストンの夫、ヘンリー・ウィンストンもそういう人物だった。少し覗いただけで、彼はぼろを出した。
ミスタ・ウィンストンは、巨大複合企業LACの製薬部門。そこのエリート営業マンだった。取ってきた契約は数知れず。若くして財をなした彼は、社の内外で注目の的だった。
そんな彼のウワサを聞いて回ると、すぐにボロが出た。同じ部署の女とヤったとか、実は不倫でつきあっているとかなんとか。特に下っ端から聞いて回ると、彼への不平不満を含めた根拠もない悪評がいくらでも出てきた。私はそのような悪評をまとめて、とくに信憑性が高いものを集めた。その中でももっとも確率が高いのは、彼の部署に今年入ってきたばかりの新人女性社員、マリー・ライアルと不倫関係にあるというものだった。
私はそれだけ情報をまとめると、今日の仕事は終わりにして、調査報告書だけ作成。メールにして、ハンナに送りつけた。
それから事務所に戻って、酒を飲むことにした。幸いなことに、事務所はパブの倉庫を間借りしている。事務所から一歩出れば、そこは酒場だった。
馬蹄型のカウンターには、誰も客がいない。ここはそういう店だ。パブ・リリー。マスターのリリアン・リュウは、もともとバーテンダー見習いとして中央街で働いていた。それが独り立ちしたのだが、いまはこういうことになっていた。
「リリー、エールを一パイント」
私は勝手に灰皿を拝借すると、タバコに火をつけた。
「あんた、お金は?」
「ツケといて」
「あんたねぇ……」
リリーはそう言いつつも、サーバーからエールを注ぐ。黄金色の神の飲み物。パイントグラスに並々注がれたそれが、私の前に現れる。
「どうも」
と、タバコをひと吸い。いったん灰皿に置く。
「仕事はどうなの」とリリー。
「問題ないわよ。またホコリ叩き」
「浮気調査ね」
「そうよ。だって、これが一番事件として蔓延っているし、なにより金になる。倫理的にどうかと思う事案だけど……。でも、背に腹は変えられないわ」
「そうね……」
リリーはそう言って、カウンターに帳簿を広げた。真っ赤な数字がそこには書き連ねられていた。
「黒字は私からの賃貸収入のおかげかしら」
「バカ言わないで。あんなの雀の涙よ」
「あらそう」
私はタバコを手に取り、自分の手帳を開くことにした。
まとめられたのは、マリー・ライアルとヘンリー・ウィンストンの関係にまつわる情報だ。LACの社員曰く、マリーは狡猾な女――これは特に女性社員の談である――で、一方ウィンストンは女性関係に関して押しに弱い男だという。曰く、マリーの策謀にウィンストンはかかってしまったのだ、とか何とか。しかしそれは私にとって良い情報だ。ずいぶんと的を絞ることが出来る。
しかし、このように人間関係を洗う仕事は、やっていて反吐が出てくる。むせかえるような思いだ。
そうして私は手帳に今後の捜査方針を書き込んでいたのだ。
するとしばらくして、パブ・リリーのドアベルが鳴った。私は思わず驚いて、振り返ってしまった。ここに私以外の客が来るなんて滅多にないからだ。
そこには、モッズコートを着た女が立っていた。まるで五〇年代からタイムスリップしてきたみたいな女だった。モッズコートに、首からドッグタグをさげ、髪はブロンドを短く切り詰めている。これでターゲットマークのバッジでもつけていたら完璧だった。
「いらっしゃい」とリリーが帳簿から目を上げた。「何にしますか?」
「ギネスを一パイント」
「かしこまりました」
それから女は、わざわざ私の隣に腰を下ろした。座席はいくらでもあるのに、よりにもよってだ。
私はわざと彼女とは逆の方向を向いた。なんだかイヤな予感がしたのだ。
それから彼女はギネス・ビールを受け取って、しばらく周囲を見回した。店内にはLBCラジオ6が流れていた。
女はそれから、ギネスに口を付けた。一口、深呼吸するように飲んでから、グラスを置く。
「あなたがヘイズル・ウェザフィールドですか?」と彼女。
「そうよ。仕事の依頼だったら、今すぐは無理よ。いまは先約が入ってるの」
「残念ながら仕事の依頼ではないんです。私はサリー・へイズ。あなたに会いにきたんです」
「何のために?」
「何のために? そうですね、会うために、会いにきたんです」
予感が的中した。これは面倒臭い女だ。
「失礼。私、仕事がまだ残ってるんで、今日はここで失礼させてもらいます」
手帳を革ジャンのポケットにしまい込んで、私は店を出ていこうとする。事務所はすぐ隣だが、この女がいてはむしろ危険と言えた。
「そうですか。残念ですね。またお会いできる機会を楽しみにしていますよ」
「こちらこそ。今日はすみませんね」
私は残ったエールをすべて飲み干すと、地上階へ出た。ドアを開けて、ピルグリム・サーカスへ急ぐ。
しかしその途中で、半地下の店内から彼女――サリー・へイズが私を呼んだ。
「ミス・ウェザフィールド。あなたは、揺れ動いている。早く戻ってきてください。あなたはほかの誰でもない。ラリュングの私立探偵ですから」
――妙な女だ。かまってられない。
私は散歩がてら、グリーンパーク方面へと歩き出した。




