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赤錆色の霧  作者: 機乃 遙
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霧の向こう側 (1)

 翌朝――といっても、目が覚めたのは昼ごろだった――わたしはニナの声で目が覚めた。

「へジィ、電話だよ! 起きてよ! お昼ご飯も出来てるよ!」

 彼女がそう言って受話器片手に体をゆすりにきたのだから、わたしもさすがに起きないわけにはいかなかった。

 起き抜けに電話に出ると、一番イヤなやつにつながっていた。

「おはよう、ミス・ウェザフィールド。昨晩はご苦労だった」

 男か女かも分からない合成音声。ラリュング公安委員会委員長。

「嫌味のつもりかしら」

「そうだ。……大佐を止められなかったな」

「そうね。まさか、本当に彼女が出てくるとは思わなかった。てっきりハッタリだと思ってたもの。大佐は行方不明、キス・オブ・デスは死亡した。それがわたしの理解だったから」

「だが、君があの場にいたのは、大佐からキス・オブ・デスを守るためだ。そうだろう?」

「……そうね。それは否定できないわ。でも、あの事態はあなたたちも想定出来てなかったんでしょう? やはりあの人は策士だわ。大衆を味方につけて、わたしたちを孤立無援にした。違う?」

「そうだな。……しかし、どのみち君にやってもらうことは変わらない。大佐を見つけ、サリー・へイズともども殺せ。わかったな」

「どうせ断れないんでしょ?」

 わたしがそう嫌味っぽくいうと、電話は勝手に切れた。

 わたしはスピーカーに向かって、思いっきり舌打ちしてやった。


 昼食はハムとチーズのホットサンドにピクルスの盛り合わせだった。ニナは腕によりをかけてそれを作ってくれたのだが、あいにくそのときのわたしには、料理を深く味わう余裕はなかった。

 わたしの頭にあったことはただ一つ。昨晩、死の口づけ(キス・オブ・デス)と交わした言葉だった。彼女は、霧の向こうの兵器たちは人間である。我々と同族であるのだと言った。そして、霧の外へ出れば、それはわかるとも。

 いまのわたしに出来ることは、ただ一つだ。

 わたしはサンドイッチを食べ終えると、大急ぎで地下のガレージに向かい、クルマを出した。

 グリーン・パーク・サウスを抜けて、ラリュングFMスタジオをわき目にハイウェイへ。霧とラリュングの境界線を目指す。ブロクスタイン区のはるか向こう。白い霧と、ラリュングの大地とが混ざり合う土地を。

 二時間ぐらいはクルマを走らせていたと思う。ブロクスタイン・ノースの田園地帯を抜けたあたりで、どっと人通りが少なくなった。周囲は木々ばかりになり、舗装のされていない道路には野ウサギやリスが飛び出してきた。霧との境界に近づくほど、当然のことだが人気は失せていった。

 そうしてわたしは、ブロクスタイン・ノースの外れ。もはやラリュングの地図のどこを見ても載っていない、霧と街との境界線にたどり着いた。ブロクスタインからでも霧は見えるが、ここはそれどころの騒ぎではない。

 森を抜けた先にあるのは、コンクリート打ちっ放しの煤けた大地だ。砂もなく、あるのは無機質な大地。建物の一つもなく、あるのは滞留する白い濃霧だけ。霧はまっ平らなコンクリートの上で渦を巻き、地上にしばし滞留してから、また上空へと舞い上がっていた。それらが目の前すべてを覆い尽くしている。

 クルマを停め、わたしは霧の目の前に立ち尽くした。

 記憶を辿る。かつて中尉と呼ばれていた頃、わたしは幾度となくこの霧のゲートを通過していた。しかし当時はMIST専用の輸送車両に乗っていたので、実際に霧とこちらとの境界線がどうなっているのか、その子細はわからなかった。

 いま、わたしは未だかつて目にしたことのない世界に足を踏み入れようとしている。わたしは確かめるように左手で霧に触れながら、一歩踏み出した。

 白い煙の中へ。はじめは微かに視界を乱す程度だったが、それはまもなく完全に視覚を奪った。ホワイトアウト。霧の女皇が現れるときのように、濃く深い霧が周囲を満たす。得体の知れないものへの根源的な恐怖がわき出てくる。しかし、それでもわたしは歩を止めなかった。

 一歩、一歩。進むたびに感覚が消えてくる。本当にわたしは前へ向けて進んでいるのか? 自分の肉体への疑念。あらゆる感覚はホワイトアウトし、わたしを蝕む。

 だが、ここであきらめるわけにはいかない。

 何十分も歩いたように思えた。そのじつ時計を見れば、ほんの数分でしかなかった。しかし、それほど恐怖が支配する時間だった。

 あるとき突然、霧は晴れた。何事もなかったかのように。すっと空気にとけ込むように透明になった。そして、霧の向こうの世界が姿を現したのだ。

 わたしはそれを見たとき、悔しくも懐かしさを覚えてしまった。

 ひっそりと静まりかえった古代都市。崩れたビルは、しかし自然に還るようなことはなく、その形を保ち続けている。ただホコリや汚れといったものは言うまでもなく目立ち、窓ガラスは割れ、残っていても劣化してデコボコになっていた。アスファルトには亀裂が走り、弾痕がいくつも残されている。かつてここも戦場になっていたことの証だ。

 しかし、まだラリュングの周辺は安全なはずだ。霧の向こうの兵器は、基本的にラリュングの霧を嫌うという。いま、わたしは問題の霧を背にしている。ここまで殺戮兵器が現れるとは考えにくかった。

 しかし用心するに越したことはない。わたしは辺りを見回しながら、この廃墟群を進むことにした。


 見覚えのない街並みばかりだった。民家らしき背の低い建物から、学校らしき大きな講堂。それから企業でも入っていたのだろう、高層ビルが何棟か遠くに見えた。さらにビルの向こうには巨大な塔らしきものも見えた。電波塔のようだったが、しかしそれは途中で建築が放棄されたように、中途半端な所で途絶えていた。展望台が野ざらしになっている。

 しばらく歩いているうち、わたしはようやく見覚えのある場所にたどり着いた。しかしそれは、わたしとしては思い出したくもない場所だった。

 かつてのビジネス街と住宅街とを抜けた先。そこにあったのは、広い公園だ。しかし、もはやそこに緑はなかった。あるのは砂地だけだ。煤けた立て看板が公園であると告げていたが、しかしそれ以外にここが公園であったと証明するものはなかった。

 その公園――いや砂地は、かつてわたしが死の口づけ(キス・オブ・デス)とともに戦った地だ。わたしは、ここで死の口づけを失い、さらに自身の左腕も失った。

 ここに無人兵器がいた。殺戮の限りを尽くす兵器群が。しかし、いまはそんなものは嘘だったとでも言うように、しんと静まりかえっていた。

 どこまでも続くような砂地。さきほどまでも廃墟群が嘘のようだ。ここには緑はない。息苦しいまでの砂漠が続いている。すべてが燃えつきてしまったように。

 わたしは喉が乾くのを感じた。乾ききって、亀裂が入ったように痛い。

 人気のない。殺気すらもない。ここに本当に無人兵器がいたのか疑わしく思えてくる。サリー・へイズの言ったことが、わたしは疑問に思えてきていた。

 そうしてわたしは、この乾いた公園から抜け出そうとした。そのときだ。

「待て、中尉。まだ行くな」

 突然、後ろから聞こえてくる声。

 わたしは慌てて振り返り、左腕に隠した仕込み銃の引き金に指をかけた。

 そこにいたのは、スーツ姿の女だった。

 黒いスーツ。その上からコートを羽織り、胸元には十字架のブローチをつけていた。ハーフアップにした髪は彼女の衣服のように黒く、そして肌は雪のように白かった。

 彼女はわたしよりも圧倒的に背が低く、まるで女学生のようだった。きめの細かい肌も、まるで少女のようだ。しかし、この女はそんな若人ではないと、わたしには分かっていた。この女は狐だ。

 少女はまつげの長い目をしばたたいて、アイスブルーの瞳でわたしを見つめた。

「約束の時間に遅れたことには陳謝する。久しぶりだ、中尉。変わりないか」

「……そういうあなたは、いつまで経っても変わりないですね、大佐。まさか、死の口づけがわたしを霧の外へ出すように取り計らったのは、あなたと会わせるためですか?」

「その通りだ。彼女はちゃんと私の命令をこなしてくれた。大した女だ」

「なるほど、そういうことで。……久々に会えて光栄です、大佐。今までどちらへ?」

「なに、少し世界放浪の旅にね。井の中の蛙たるラリュングの人間と、私は違う。私は、私が成すべきことを見つけるため、行方をくらました」

「それで、見つかったんですか。その成すべきこととやらは」

「ああ。……きたまえ、中尉。君に見せたいものがある」


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