亡き女を想う (1)
翌朝、わたしは起き抜けにニナの作ったフレンチトーストとコーヒーをいただいてから、問題の貸倉庫へと向かった。
ラリュング中心街に住むわたしにしてみれば、郊外の倉庫街など無縁の存在といっていい。仕事柄訪れることはあるが、しかし探偵業なぞしていなければ一度も足を踏み入れることなく墓に入っていたかもしれない。
朝のフリーウェイを、わたしは通勤ラッシュの流れに逆らって進んだ。火曜はツキが戻ってくる日だ。わたしは軽く一二〇キロを出していたが、事故を起こすこともなく、何十台ものトラックを追い越した。
そうしてたどり着いた倉庫街。その一角にある古びた貸倉庫が、問題の場所だった。
昨晩オンライン・データベースで調べたところ、すでにこの貸倉庫の運営企業は倒産しているようだった。おかげでわたしの目の前には、ふつうの家なら四階建てはあろう巨大なコンクリートがあったのだが、それは寂れて今にも崩れそうな姿になっていた。手入れは行き届いておらず、グレーの壁面にはあちこちシミのような汚れが残されている。
もしこれが郊外ではなく、もう少し住宅地よりの場所にあったとしたら、子供たちの遊び場になっていたかもしれない。これだけ広い空き地だ、わんぱく坊やにしてみれば絶好のプレイグラウンドになる。
しかし、この倉庫はそうはなっていない。それも、霧のせいだ。
倉庫のすぐ脇にクルマを止めると、わたしは外の風景をみた。倉庫越しに、さらに外周の風景を。
そこにあるのは濃い霧だ。目を凝らせば、層になって白く濁るもやの様子が見えた。この場所は、ラリュングを覆う『霧の壁』の目と鼻の先なのだ。霧は街の人々を戦争の遺物から守るが、同時に人間にも害を与える……そう言われている。親が子供をこんな危険な場所に近づけるはずがない。
しかし、独り身の私立探偵なら別だ。
わたしは愛用の革ジャンに探偵手帳が収まっているのを確認すると、倉庫の入り口へと歩き出した。
高い天井。ダークグレーの壁面。地面には金属のカスのようなものが散乱し、また屋内にはカビ臭い空気が充満していた。思わずわたしも鼻を覆ってしまった。
倉庫の中は人っ子一人いなかった。
大型トレーラーが二台も三台も入りそうな屋内。天井は高く、吹き抜けのようになっている。
わたしはその中に、唯一仕切で区切られた小部屋を見つけた。倉庫の事務室らしき部屋だったが、いまやその機能は果たしていない。
わたしは手始めにそこに入った。内部は作業部屋らしく、物書き用の机と椅子が無造作に置かれていた。
机の上を見ると、そこには書類の山があった。ひとつ手に取って見てみる。その内容というのが、また興味深いものだった。
『霧外部に存在する無人兵器に関するレポート』
書類はそう題されていた。そしてホチキスで留められた書面には、設計図らしきものが描かれていた。どうにもそれが無人兵器のようだ。二足をした人間のような姿。両手には機関砲が各一門ずつ。腹部ウェポンラックにはミサイルを搭載。こんなものが霧の外には跋扈しているのだ。人間が外へ出たがらないのも納得できる。
他にも興味深い資料はたくさんあった。一メートル七〇センチ前後の、一般的な人間と同じサイズのヒューマノイドロボット。それを支援する車両ユニットなどなど……。それもかつての大戦で使われていたという、霧の向こうの地獄の者たちだ。
アオイの父親は、そんな霧の外の研究をしていた。やはり、ここがその場所で違いない。
それからわたしは階段を上り、キャットウォークへ向かった。一度高いところから倉庫を見回してみようと思ったのだ。
地上四階近い高さまで登り、わたしは倉庫を見回した。しかし、これといって『何か』というものは見つからなかった。
むしろ、『何か』が消えたあとのような趣きさえある。巨大な倉庫。そして無数の無人兵器に関する書類。これだけの空間が、もぬけの殻のまま何年も放置されていたはずがない。本来は、ここに『何か』があったはず……。わたしの直感がそう告げた。
そのときだ。
「がっ……がはぁっ……! たすけっ……!」
掠れた男の声。
わたしはすぐに耳をそばだてて、声のするほうを探した。それはキャットウォークを進んだ先、小さな小屋のような場所からだった。
そこは、倉庫内のシャッターやクレーンを操作するコントロールルームだった。しかし今では窓ガラスは割れ、出入り口のドアもひしゃげてひどい様子だった。
わたしは、立て付けの悪いドアを蹴破って中に入った。そして入った瞬間、異臭を覚えて鼻を覆った。
コントロールルームの中、操作パネルの下に横たわる一人の男。白衣姿の初老の男が血を吐いて横たわっている。顔は青白く、腹からは真っ赤な血を流していた。両手は傷口をおさえるように腹を抱えている。しかし、傷口は掘削機でも使われたように広く、もはや止血は不可能にさえ見えた。
わたしはすぐさま彼に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
呼吸を確認。息はある。
しかし鮮やかな色をしている。致命傷に違いない。血液とは、瀕死の状態であるほど綺麗な色になるものなのだ。皮肉なことに。
わたしは革ジャンのポケットからハンカチを取り出すと、それを彼の腰に押し当てた。しかし、これでも止血できそうにない。
仕方なく、わたしは上着を脱いで、ワイシャツに手をかけた。シャツをちぎれば包帯はできる。
「やめろ……やめるんだ……」
男がささやいた。しかし、わたしはやめなかった。シャツを脱いで包帯代わりに。男の細い腹に巻こうとした。
だが、男の手がわたしを止めた。
「……あんた、探偵さんだろう……ミナから聞いたよ……」
「あなたが、ミスタ・蒼井?」
「いまは旧姓の緑川だがね……。そうだ、ミナの父だ。アイツのことなんてなんにも知らない、ろくでもない父親だけどな……げほっ、げほっ……! すまん、僕はもう長くはない。だから君に……伝え、ゲホッ! ゲホッ! ……ミナは……ミナは殺されたんだ! ……僕のアオイが殺したんだ! ……僕が殺したも同然なんだ! ミナ、ごめんな……お父さんが、悪かった……」
その瞬間、蒼井――緑川シゲルの顔がひきつった。
かと思えば、表情はそこで固まった。死んだのだ。
わたしは簡易包帯をその場に置くと、彼の手を胸元であわさせた。「安らかに眠れ」と一言つぶやいてから。