インサイド・アウト (1)
悪趣味な部屋を出てから、わたしはクルマに戻り、バーファス区内をぐるりと回った。
ラリュング・シティ中央区、特別地区バーファス。そこは、大企業のLACと、そこの従業員。そしてLAC創立以前の入植者がごった返すサラダボウルだ。おかげでこれまでにバーファスでは何度も暴動が起きていた。LACと労働者の対立。LACと霧信者の対立。労働者同士の抗争……あげたらキリがない。
その中でももっとも激しいのが、霧信仰とLACとの抗争だ。その対立の遺物が、バーファス区には残されている。
平和の壁。それは、そう呼ばれている。霧信者が住む区画と、労働者が住む区画とを隔てる、巨大な壁だ。
全高五メートルはあろう巨大な緑色の壁。分厚い鋼鉄の板は、なにも行政府がわざわざ建ててやったのではない。LACと霧信者との対立の末に、互いに互いの平和を守るために取られた手段だった。両者ともに、いつまでも思想の違いで殴り合いをやっていられるような身分ではない。休戦は、心の壁を顕在化させることによって遂に成立した。それが平和の壁と呼ばれるのだから、皮肉なものだ。
わたしはLAC側の住宅地から壁を眺めていた。深緑色をした壁には、所狭しと落書きがされている。
「偽りの平和」、「Q,いつになったら人は分かりあえるの? A,永遠に無理」
などと、カリグラフィーで書き連ねられている。
そしてその隣には、霧でできたような白い女性のシルエットと、男性とがキスしている壁画もあった。よく見れば、男性のほうはシュタイナー社長のようだった。
わたしはその光景を見つつ、シュタイナーから受け取った資料を見ていた。腕時計端末に挿入されたデータチップが、左腕の上空にホログラムを描き出す。
受け取ったデータは、暴行事件の被害者たちの情報だった。顔写真とともに、社員データが表示される。年齢、職業、所属する部署、そしてどの社宅に住んでいるかが記されている。
わたしはそのデータのうち、一人目の被害者である男性のもとへ向かっていた。
*
彼は、マルコム・デイヴィスと言った。LACでプログラマーを務める彼は、高身長で精悍な面構えをした黒人男性だったが、その実彼の内面は、とても穏やかだった。いかにもプログラマといった具合である。
彼は、ワンルームのアパートに一人暮らしをしていた。しかし室内は男の一人暮らしといった汚さはなく、随所にアンティーク調のインテリアや、デジタル機器が備わっており、落ち着いた雰囲気だった。むしろ、ニナが来る前のわたしのほうがよっぽど汚いぐらいだ。
彼はわたしをソファーに座らせ、その間にコーヒーを淹れてくれた。インスタントだったが、悪くない味だった。
「それで、社長の依頼で事件の捜査をしている、と……?」
「はい。それで、まずは被害者であるミスタ・デイヴィス、あなたにお話を伺おうと」
わたしはそれから、いくつか典型的な質問を彼に浴びせかけた。
敵はいたか? 最近なにか異常は無かったか? 身内に異変は? 恨まれるようなことをした覚えは? などなど。
しかし、当の本人に聞いてみても、すべては「分からない」の一点張りだった。
「本当に分からないんです。僕はしがない社員の一人ですし、これといって霧信者に反抗してたとか、そういうわけでもないんです。なのでおそらく、狂信的な霧信者が無差別な暴行を行っていたんだと思うんです。あるいは、気の狂った薬物中毒者かもしれない」
「それは確かに考えられますね。……それで、犯人の特徴などは覚えていますか?」
「それがさっぱりで。あれは夜中、残業終わりで帰ってきたところだったんです。突然後ろから何かで殴られて、気を失ってしまって……。ちょうど平和の壁の境目で、乗り越えようとすれば登ってこられるところだったので。おそらく霧信者じゃないだろうか、というふうに……」
「なるほど。……では、本当に無差別なモノだ、と?」
わたしはそう訊ね、彼の淹れたコーヒーを飲んだ。
するとデイヴィスは、顔を俯かせて首を傾げたのだ。
「実を言うと、一つだけ可能性はあるんです。僕が襲われた理由……」
「なんですって?」
「ええ、その……。これ、言っていいかどうか分からないんですが。……社長が進めている極秘プロジェクトに参加しているんです。社外秘なので、壁の向こうの霧信者に伝わるはずはないんですが……もしバレていたとしたら、襲われるのも無理もない気がするんです」
「それで、その極秘プロジェクトというのは?」
「そこが問題で。あなたにお話ししていいのか分からないんです。社長から箝口令がしかれていて……」
「確認を取ってみましょう。わたしは、この事件解決にシュタイナー社長から直々の依頼を受けています。もしかしたら許可が降りるかもしれません」
「お願いします。僕としても、プロジェクトより事件のほうが重要だと思うので」
彼は深々とうなずき、わたしの目をじっと見つめた。
彼の黒い肌。丸めた頭の後ろには、まだ傷の跡が生々しく残っている。何かで後頭部を殴られたのであろう、曲線を描く傷跡。
わたしはソファーを立つと、左腕の端末を操作してシュタイナーに発信した。しかし、彼は通話中だった。仕事の最中なのか、何度かけても応答しなかった。
それから秘書のほうにもかけてみたが、留守電サービスが機能しただけだった。
仕方なく、わたしは秘書に極秘プロジェクトについてメッセージを入れてから、通話を切った。
「ごめんなさい、社長とは連絡がつかないみたい。あとでまた来るわ。いいかしら?」
「ええ、かまいません。僕は社長から休暇を取るよう言われているので、今は暇で仕方ないんです。いつでも大丈夫ですよ」
「どうも。助かるわ」
わたしはそう言うと、彼が出したコーヒーをすべて飲み干してから、アパートを出た。
向かうべき場所はまだある。次は、壁の向こうだ。




