権力の足下
太陽が天高く昇り、霧の街を見下ろしている。今日はやけに雲が少なく、陽光がダイレクトに降り注いでいた。ラリュングにしては珍しく暑い日だ。
わたしは、シティ・セントラル・ノースにあるバーファス区にいた。太陽が燦々《さんさん》と光を投げかけるなか、わたしはワイシャツの袖をまくって、パラソルの下に腰をおろしている。ゆったりとしたデッキチェアの隣にはサイドテーブルがあり、冷たいジントニックがおかれている。
眼前には、サーキットがあった。8の字と直線を組み合わせた、とてもシンプルなコース。いま、そこを一台のクルマが駆け抜けている。巨大なリアウィングを持つ、白い銃弾のような形をしたマシン。それが猛々しいエキゾーストノートをあげながら、コースを疾駆する。その姿は豹のようだ。
「すばらしいでしょう、ミス」
わたしにそう声をかけてきたのは、サイドテーブルを挟んで向かいに腰掛けた男。
ハワード・シュタイナー。ポロシャツにチノパン、サングラスという出で立ちの彼は、いかにもプレイボーイ然としている。顔にはところどころ小皺も見えたが、それでも若い印象を受けた。彼は五十手前だが、まだ三十代に見えた。
彼はサングラス越しにわたしに笑顔を投げかけ、それからパラソルとストローの刺さったグラスを持ち上げた。グラスの中には、バナナリキュールベースのカクテルが注がれていた。
こうして昼間からジンを嗜み、ガソリンを吐いて捨てるようなクルマを眺めているのにも理由がある。これも仕事の一環だ。
数日前、バーファスに本社を構えるLAC社から直々に依頼があった。いつものわたしなら男性からの依頼は断る。しかし、社長秘書のトゥールという女性が何度も打診してきたので、しぶしぶ受けた。女にせよ男にせよ、わたしは諦めの悪い人間が好きだ。だから引き受けることにした。
依頼主のLACは、ラリュング最大の企業である。機械産業において、LACの右に出る企業は一つもないと言っていい。それぐらいの大企業だ。
そして同時、彼らは行政府より直々に『霧の向こうの兵器』の解析を任されていることで有名だった。捜査の一環として、大戦の遺物を解析、ならびに処理している。
そんな企業の社長から、わたしに依頼がきたのだ。これはまた行政府の根回しがあったのだろうと考えざるを得なかった。引き受けたのには、そういう理由もある。
そうして今日、わたしは社長のハワード・シュタイナーのもとを訪れたわけなのだが……どういうわけか、彼の自慢につきあわされているところだ。
さきほどまでサーキットを走っていたレーシングカーが、ゆっくりとエキゾーストノートを響かせながらピットに入ってきた。彼はこのクルマを見せたいがために、サーキット脇のデッキにわたしを呼び出したのだ。
クルマは流線型で、空気抵抗を抑えることのみを想定したような、流麗なボディをしていた。それに相反して車体後部には巨大なリアウィング。漆黒の翼が、鴉がごとく広げられていた。
「すばらしいでしょう。我が社が総力をあげて作り上げた、まさしく最強のクルマです。ラリュングにおいては、文字通り右に出るものはいません。どうです?」
――どうです、などと言われても。
わたしは答えに困ったので、とりあえず愛想笑いだけ浮かべておいた。そうしていると彼も微笑み返してきたので、まんざらでも無い様子だった。
「このマシン、VAC1は、つぎのラリュング・グランプリに出場する予定なんです。いまのところスペック上ではぶっちぎりのトップ。これにかなうものは無いと言っても過言ではない。すばらしいでしょう? ねえ、ミス?」
「ええ、本当に」
わたしはまた愛想笑いを浮かべた。
ラリュング・グランプリで優勝といっても、結果は目に見えているものだ。市内にあるまともな車両メーカーといえば、LACしかいない。LACに競合できるような大規模メーカーは、ただの一つもないのだ。あとはちらほらと二番手三番手がいるきりで、どこもいまいちパッとしない。大衆車ではそこそこのシェアを占めているが、さすがに政府お墨付きのLACに技術力でかなうはずがないのだ。
彼はレーシングカーを見ながら笑い声をあげていた。「チームメイトも最高なんだ」と言って、ピットクルーを紹介。彼らも鼻高々に頷いている。
「あの、ミスタ。そろそろ本題のほうに入っていただきたいのですが……」
「ああ、そうだったな。すまんな、つい先日コイツが完成したばかりで、うれしくなってしまってね。そろそろ本題に入ろう。こっちだ」
シュタイナー社長はそう言って、踵を返し、本社ビルのあるほうへ向かった。
やれやれ、ようやくか。
わたしは小さくため息をついて、彼のあとを追った。
LAC本社ビル、通称『クレセント』と呼ばれる三日月状のビル。その隣にある邸宅にわたしは案内された。そこは地下室を含めた地上三階建ての邸で、偏光ガラスが美しい近代的な住居だった。シュタイナーのオフィス兼自宅は、そのように本社とは別個に用意されているのだった。
わたしは、地下室に案内された。エレベーターに乗り、地下深くまで下がる。エレベーターのボタン表示には、「地下二階」とだけ表示されていたが、しかし一階と二階との間には明らかに大きな差があった。間隔が広く、到着するのに時間を要した。どうにも地下一階と二階の間に、地上四階近くの空間があるように思われる。
わたしはそれまでシュタイナーの自慢話に付き合わされ、すっかり嫌気がさしていた。だが今度もまた、先ほどとは違った地獄が待っていた。
電子音が鳴り、金属光沢を放つ扉が開く。その先に広がっていたのは、暖色系の光に照らされた深紅の空間だった。壁は赤く、絨毯も真っ赤。さらに壁奥には画廊のように絵が並べられている。その絵がまた珍妙なもので、まさしく地獄だった。
獰猛な雄牛がひとたび踏み込めば、怒り狂って大量虐殺でも起こしかねない空間。そこに飾られていたのは、なんともサイケデリックな色使いをした絵画だった。ご丁寧に金の額縁でかたどられていたが、しかしその絵はお世辞にもうまいとは言い難い。だが、奇妙な魅力はあった。赤と青、黄色といった原色をふんだんに使い、描かれているのは殺人の光景。ふくよかな男が目玉をひん剥きながら、全裸の女をめった刺しにしている。女はベッドに横たわり、まるで腹のポケットからソーセージでも取り出したみたいに、赤い物体をあふれさせていた。
わたしは思わず顔を背けそうになった。死体はいくらでも見てきたが、それとは違うおぞましさがある。
「ああ、どうだい、ミス。これはわたしの趣味でね」
シュタイナー氏は平然と言った。
「この絵はすべて、ラリュング刑務所に服役中の殺人鬼によるものなんだ。彼らのような罪を背負ってる人間が描く絵はね、どこか人と変わっているんだ。こう、世界を見る目が違うんだな。罪を負うものの創造物というのは、どこか人を惹きつける魅力があるんだ。……悪趣味だと思ったかい?」
わたしは答えなかった。しばらく黙って、横目に絵を見ていた。サイケデリックな、原色で描かれた殺人鬼の様子。刃物を持った男が、太陽神のようなオレンジ色の物体に祈りを捧げている。刃物の先端には、人間の肉塊らしきものも見えた。また、足下には血だまりらしきものも。
「まあ、そう思ってくれてかまわないよ。しかしミス、我々も罪を負う者のひとりなんだ。霧の向こうに手を出した、というタブーを犯したものの一人だ。この絵を見ていると、そういう現実を思い出させてくれる。
さて、僕の趣味のことはいい。本題に入ろう。君は、霧信者とウチの対立は知っているかい?」
「ええ、もちろん。……LAC本社のすぐ向かい、バーファス・サウス地区のことですよね」
「そうだ。そこに住んでいるのは、霧を神格化し、その向こうに手を出すことを禁忌とする霧信仰の連中だ。彼らが我々を好ましく思っていないのは、君も知っているだろう。我々は、たとえ漂着物といえども、政府からの許可を受けて、霧の向こうの兵器を研究している。とはいえ、あくまでも事件捜査のため。我々としても恐ろしく、ほぼほぼ破棄処分担当というところだけどね。だが、霧信者たちは、どうにもそれが気にくわないらしくてね。ウチとしても何度か交流を図ったりして穏便な解決を模索してきたんだが……先日、面倒なことが起きた。ウチの社員が、何者かによって暴行を受けたんだ。その正体は分かっていないが、霧信仰とウチとの対立が関係していることだけは確かだ。
ラリュング行政府の連中は、あんまり事に荒波を立たせたくないのだろう。不干渉を決め込んでいる。民事不干渉というか、なんというか……」
「そこでわたしの出番、というわけで」
「そういうことだ。理解が早くて助かるよ。我が社としては、できるだけ事は穏便に済ませたい。関係悪化のすえに訴訟沙汰になるのだけは勘弁だ。社のイメージダウンにつながるからね。そこでミス・ウェザフィールド、君に頼みたいのは、この事件の解決だ。
なにも対立の溝を埋めてくれ、なんてたいそうなことは言っていない。ただ、今後このような暴行事件が起きないためにも、調査をしてほしいんだ。頼めるかい?」
「ええ、もちろんです。料金は必要経費も含め、一日九〇パウンド。それ以上はとりません。よろしいですか?」
「ずいぶん安上がりだ」
「わたしは道楽探偵ですので」
わたしはほくそ笑み、彼の顔色をうかがった。
シュタイナーなら、日給五〇〇パウンドと言っても文句さえ付けないだろう。だが、わたしはあくまでも道楽探偵。信じるのは金額ではなく、わたしが正しいと感じる感性のみだ。




