死の口づけ (1)
その日は朝からひどい雨だった。ラリュングには似つかわしくない、バケツをひっくり返したような雨だ。
ラリュング・シティは霧の街。常に四方を霧に囲われ、街中にもうっすらと靄が立ちこめている。特に朝方などは、煙のように曇っているものだ。
しかし、この日だけは違った。朝、起き抜けにカーテンを開けると、視界は大粒の雨によってかき消された。ざあざあと降りしきる雨は、わたしの視界をモザイクでもかけるようにふさいでいく。あまりにも大きな雨粒。あまりにも多くの雨。それがわたしの行き先を邪魔した。霧ではなく、雨が。
まるで爆撃機が空から水を落としているみたいだった。外から聞こえてくるのは、アスファルトを打ち付ける水音ばかり。いつもは忙しく聞こえてくるクラクションの音は、いくら耳を澄ませても聞こえてこない。ラジオをつけると、朝のクラシック・タイムが緊急特別番組に切り替わっていた。この大雨で、どうにも地下鉄まで死んでいるらしい。この状況では、外に出て行くやつのほうが阿呆というものだ。今日はどの店も休みだろう。
しかし、わたしはそうもいかなかった。
リビングの窓から空を見上げると、どす黒い雲が分厚くのしかかっている。その雲の向こう、今日はそこに満月が現れる。
彼女との刻限までには、この雨が晴れていることを祈った。
結局雨は晴れず、陽は早々に沈んでいった。多少小雨にはなったが、そんなものは誤差の範囲内だった。暗闇が街を支配しはじめ、ネオンサインが必死に闇にあがく。そんななかでも、雨は無慈悲に轟音を響かせた。銃声がごとき打撃音。大地を打つ音を。
午後十一時。わたしはガレージに降りて、クルマを用意した。わたしの愛車。ブリストン・ブレニムS800。深紅のクラシックスポーツカーは、ひっそと暗いガレージにあった。
わたしがキーを片手に乗り込むと、ニナがドタドタと足音を立てて降りてきた。彼女はここ最近、ようやく病み上がりになったばかりだった。
「へジィ、本当に行くの?」
彼女の声は震えていた。わたしを心配してのことだ。
しかし、わたしの腹は決まっていた。クルマに乗り込み、イグニッションキーを挿す。
「いくわ。わたしにもあらがえない相手はいるものよ、ニナ。……だけど、悪足掻きはできる。あなたが過去にあらがったみたいに、わたしもそうして見せるから」
アクセルを踏みつけ、ギアを一速へ。開いたシャッターの向こう、降りしきる雨の中へわたしは飛び出していった。
いくらワイパーを動かしても、雨はフロントガラスを汚し続けた。通りにクルマはまったく無かったが、必要以上に注意深くならざるをえなかった。
雨粒越しに見るピルグリム・サーカスは、万華鏡のようだった。過ぎていく光は、めまぐるしく移り変わり、わたしの視界から消えていく。しかし、それでもいつも以上に時間がかかった。本来なら、ラムズ湖までは半時間ほどで着く。なのにこの雨のせいか、倍の一時間近くかかってしまった。早めに出て良かったと、心底思った。
雨はまだ止みそうにない。滝のように降りしきる雨。路肩では川が氾濫したように水が流れている。
わたしはラムズ湖周辺の工業地帯にクルマをいれ、あたりを軽く流した。湖は水かさが増していて、濁った水がすぐそこまで迫ってきていた。
わたしはできるだけ堤防には近寄らぬようにしながら、工場地帯を回った。案の定、こんな雨の夜更けに人がいるはずがなかった。あたりはしんとしていて、やはり聞こえてくるのは雨の音だけだ。空は相変わらずどす黒く曇り、満月などどこに求めようもない。
そんななか、工業地帯の奥に一軒だけ、がらんとした場所がある。波打つ鉄製の壁は、風雨にさらされ錆び付いている。この雨でまた錆びることだろう。
かつてここは、ラムズレイク造船というれっきとした企業の製鉄所だった。しかし、施設の老朽化で製鉄所は移設となり、いまやこの建物は取り壊されるのを待つのみとなっていた。
わたしはクルマを廃工場の脇に止めると、しばし雨に打たれながら中に入っていった。
時刻は、午後十一時五十九分を回った。約束の時間まで、一分を切った。
製鉄所の中は、物一つ何もなく殺風景だった。横殴りの雨が隙間から入り込んでくるだけで、あとは何もない。ぽたん、ぽたんと雫のしたたる音が響くだけだ。あとは暗く、何も見えない。
そんななか、唯一光の射し込む場所があった。
街灯の光を取り込む、一対の換気扇。二つ穴にもうけられた巨大なファンが、ゆっくりと回転している。雨粒を受けながら、暗紫色の光を導く。そして、そこに影を落とす女がいた。
ゴウン、ゴウン……と鈍い音を立てて回る換気扇。それをバックに、一人の女が立っていた。
モッズコートを着た、短いブロンド髪の女。首から一つだけのドッグタグをさげた彼女は、焦茶色の瞳でわたしを見下ろした。
「意外と時間は守るんですね。見直しましたよ、中尉」
逆光の中、彼女は口角をあげて嗤った。
わたしのことを「中尉」と呼ぶものは、数えるほどしかいない。彼女がその数少ない内の一人だとはわかっていた。
「その呼び方はやめてもらえるかしら――二階級特進おめでとう。死の口づけ……いや、死んだ口づけかしら」
「減らず口は相変わらずですね。……では、ミス・ウェザフィールドと呼びましょうか」
「それがいいわ。あなたも今は、サリー・へイズと名乗っているんでしょう?」
「ええ」
サリー・へイズ。
死の口づけは、暗闇の中ゆったりとした足取りで立ち上がった。
ゴウン、ゴウン……換気扇の音。差し込む街灯を、闇と混ぜ合わせる。
「てっきり死んだと思っていたわ、あなたのこと」
「一度は死にましたよ。あなたの目の前で、死んでいたでしょう?」
言って、彼女は首からさげたドッグタグを持ち上げた。
本来、認識票というものは、二つのタグを首からぶらさげるものだ。一つは死体に残すためで、もう一つは仲間が持って帰るものだ。そいつが死んだと、証明するために。つまりサリーが首から下げるタグは、そういうことを意味していた。彼女は、一度死んでいる。
「でも、あなたは生きていて、現にわたしの目の前にいる」
「ええ、その通りです。それがラリュング行政府の連中は気に入らないんでしょう? 私は、街に霧を持ち込む。だから消したい。……それで、あなたをよこした」
「おおむね正解よ。……もうこんなことはやめなさい。MISTは解体された。わたしたちが戦う意味は、もうない。大佐もいなくなった。わたしたちが霧の向こうへ行く必要は、もうないのよ」
わたしはそう言ったが、サリーはしばらく黙っていた。
「あなたは間違っています、ミス・ウェザフィールド。MISTは解体されましたが、私たちが戦う意味は残されている」
「そんなものはないわ」
「いえ、あるんですよ。だから私は、この街に混沌を起こさなければならない。……そのためには、あなたが邪魔なんです、中尉!」
刹那、サリーが右手を口元に近づけた。
鋼鉄の右腕。その手甲に刻まれたキスマークに、彼女は言う。
「霧は来たれり――死の口づけ《キス・オブ・デス》」
打ち捨てられた製鉄所に、霧が立ちこめる。黒い霧が屋内を満たす。
霧とは、一種の幻影である。現在と過去とをつなげる、夢幻の空間。わたしは霞の向こうに、かつての自分を見た。
霧が晴れる。灰と黒の汚いマーブル模様。紫煙がごとき霧の向こうから、やつはやってきた。
――死の口づけ。
骸骨のような白く細い機体。青黒く輝く、妖しげな双眼。まさしく死を体現するような巨人。それがわたしを見下ろすように現れた。




