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赤錆色の霧  作者: 機乃 遙
シェル・ショック
30/67

シェル・ショック (1)

 ニナが放った言葉。じゅう、とは、すなわち文字通りの銃であったわけだ。彼女の情緒不安定の要因は、人殺しの罪を犯したことによる恐怖。そして、自ら父を殺めた道具、銃への忌避感より生じたものだったのだ。思えばラリュング市警の警官は、銃の携行を義務づけられている。あの婦人警官も、腰から自動拳銃オートマチックを提げていたはずだ。ニナが挙動不審だったのは、おそらく、そういうわけだ。


 それからは、わたしもニナもお互いのことを理解しあい始めた。お互いの秘密にすべきところや、欠点を知っていった。それがニナにとっては殺人への恐怖、過去への恐れであるのだとしたら、わたしはミストレスのことと、掃除と片付けが出来ないといったところだろう。お互い、共同生活のうちにそれを補い合うようになっていった。

 そして彼女を引き取ってからしばらくしたある日、避けられることのできない審判の日が訪れたのである。

 すなわち、ハンナ・ハインズがしびれを切らし、わたしに怒り狂った様子で留守電を残したのだ。


     *


 当時、わたしは離婚裁判がらみの事件を扱っていた。暴力を振るう夫の調査だ。仕事は順調だった。もう、おおかた片づいたというところだった。

 仕事終わり、わたしは一杯だけふかっけて帰ってきた。そうして夕方頃には帰ってきたのだが、そのとき、わたしはハンナからの留守電を受け取ったのだ。

 ハンナは受話器の向こうで叫んでいた。

「警察に問いつめたら、ニナそっくりの女の子が保護されていると聞きました。それも、探偵が保護しているって。探偵さん、どういうことか説明してもらえませんか?」

 それから、怒り狂った調子で受話器を叩き付ける音がして、留守電は終わっていた。

 わたしは暗い部屋で、一人そのメッセージを聞いていた。ニナは家事で疲れて眠っていた。わたしがあらかじめ、今日は遅くなるから先に寝ていろと言ったのだ。彼女は寝室ですうすうと寝息を立てていた。

 ――そろそろ、ハンナ・ハインズに問いつめる時がきたみたいだ。

 わたしは脱ぎかけた革ジャンを羽織り直すと、ガレージに戻った。そして、頬を叩いて目を覚ますと、ハンナに会いにいく支度に取りかかった。


 ガレージに着くと、予想外の客が待っていた。ニナだ。彼女が薄暗いガレージの中、一人わたしを待っていた。

「ニナ、寝てたんじゃ……?」

「起きてたよ。それに、留守電も聞いた。……お母さんのところに行くんでしょ。へジィってば、わたしはずっとここにいていいって言ってくれたのに……依頼主がお母さんだなんて、言ってくれなかった。予想はついてたけど、悲しいよ……」

 うつむき加減で、ニナはクルマの前に立ちふさがった。

「もしお母さんのところに行くなら、わたしも連れてって」

「……ダメって言っても、聞かないでしょうね」

 ニナの目には決意の色があった。まぶたにはうっすらと涙があったが、それは恐怖からではないだろう。押しつけた恐怖が、彼女の勇気に負けて後込みした結果だ。ふるえた体は、武者震いだろうか。

「いいわ、ニナ。乗って」

 鍵を開け、車内へ。ニナは助手席に乗った。キーを差し込み、エンジンをスタートさせる。

 ガレージのシャッターが開き、夜のピルグリム・サーカスが見えた。ネオンサインが輝いていた。

「ねえ、ニナ。あなたひとつ勘違いしてるわ。わたしの依頼主は、ハンナ・ハインズじゃあない」

「え?」

 わたしはそういって、シガーソケットからライターを取り出した。そして、ポケットから一枚の紙切れを取り出し、火をつけた。紙は見る見るうちに燃え出す。わたしは、それを窓から投げ捨てた。

「いま、ハンナとの契約は文字通り消滅した。これからは、ニナ、あなたと契約するわ。わたしは生真面目な探偵じゃなくって、道楽探偵だから」

 アクセルを踏み込む。

 ニナを横目に、わたしは夜のラリュングを駆けた。郊外の住宅街、ハンナ・ハインズとその再婚相手がいる場所を目指して。


     *


 セイヴィル・ストリートを北上し、ラリュングFMスタジオを横目に北部住宅地へ。帰宅ラッシュの群は既にいなくなっていたので、牛歩の列に加わらずに済んだ。

 三十分ほどクルマを飛ばして、住宅街の奥へ。こぢんまりとした、古ぼけた一軒家。それがニナの実家だった。

 こんな時間だ、駐禁を切るようなお巡りはいない。わたしは路肩にブリストンを停めると、ニナと一緒に家を訪ねた。

 何回かインターホンを押したが、反応はない。しばらく待ったが、ドアの向こうから物音が聞こえることもなかった。さすがに変だと思ったわたしは、ドアノブをゆっくりと回した。幸か不幸か、鍵はかかっていなかった。何者かが先に着て、この家を荒らしていったのかもしれない。

 わたしとニナは一抹の不安を感じながらも、家の中へと入っていった。わたしはニナを背中に回して、ゆっくりと、彼女を守りつつ進んだ。

 家の中はやはり、ひどい様子だった。いや、予想以上にひどかったかもしれない。リビングにあったダイニングテーブルは二つに折れ、椅子は背もたれが消えてなくなっている。ソファからはクッション材がはみ出し、床板に至っては巨大な岩でも落ちてきたように大穴が穿たれている。

「どうなってるの、これ……」

 ニナが震え声で言った。先ほどの威勢の良い彼女も、ここへ来て、薄れかけていた。わたしのジャケットをつかむニナの手が小刻みにふるえている。

「とりあえず、ハンナを探そう」

 わたしは震えを押さえるようにニナの手を握ってやると、宅内の捜索を開始した。


 ハインズ宅には、奇妙な跡が残されているだけで、人の痕跡は認められなかった。もぬけの殻だ。破壊された家具が並び、床板がギィギィと悲鳴のように音を漏らすのみ。リビングもキッチンも浴室も見たが、どこにもハンナはいない。

 残されたのは、寝室だけだった。

 ニナは怯えていた。母に何かがあった。そうなれば、自分も無関係ではない。直感的な恐怖に、ニナはおそれをなしていたのだろう。

 寝室のドアは閉じられていた。鍵はかかっていなかったが、しかし金具が歪んでいるのか、渋くてなかなか開かなかった。結局、わたしが左腕を使って、無理矢理にぶち開けた。

 扉を開けた途端、寝室から妙な臭いが香ってきた。それは、小便や精液といったもののすえた臭い。いや、それだけではない。もっとたくさんの体液の臭いが混ざっている。そこにはハンナの汗や唾液、愛液といったものも含まれるだろう。だが、もっとも強烈な臭いを発するものは、他にあった。血液だ。

 わたしはとっさにニナの目を隠した。

「見るな、ニナ!」

 令名口調で吐き捨て、わたしは臭いの根元を見やる。

 そこにいたのは、首の切り落とされた女性だった。ベッドに横たわる彼女は、白く細長い四肢をベッドの上に投げ出している。水のように流れる胸は、固く、青ざめ始めていた。生首はベッドの下に転がり、花柄のカーペットに赤いバラを描いていた。

 床には、カーペットの花々と一緒に赤い模様が記されていた。わたしは始め、それはハンナと襲撃者がもみ合いになった形跡だと思った。だがよく見れば、それがある種の記号であるとわかった。血は、文字を成していた。ダイイングメッセージだ。

『あの男は、彼なんかじゃない』

 ――あの男。

 ハンナ・ハインズは、きっとその男に殺されたのだ。いったい、誰に……?

 そのとき、わたしの脳裏にニナの告白した言葉がリフレインした。ハンナ・ハインズの再婚相手。それは、ヘンリー・ウィンストンと瓜二つの男だったという。果たして、この世にドッペルゲンガーと呼べるものは存在するだろうか? 存在を信じない訳ではないが、わたしはそれよりも存在確率の高いものを知っている。人間になりすますことの出来る、目前の驚異を。

 そしてそのとき、その驚異が姿を現したのだ。

 寝室の天井が砕ける。轟音とともに。まるでフライパンのふたでも開けるみたいに、いとも容易く天井が開いていく。そしてそこには、星が輝く夜空ではなく、黒い怪物がいた。

 赤い一つ目をした、巨大な殺人兵器。わたしは、それを知っている。霧の向こうの兵器――フォグ。


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