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赤錆色の霧  作者: 機乃 遙
シェル・ショック
27/67

荒んだ事務所へご招待

 ニナ・ハインズはラリュング中央病院に搬送されたが、彼女はあくまでも住所も本名も不詳のストリートチルドレンとして扱われた。それはおそらく、母親に連絡をするべきではないと判断したリリーのおかげだろう。

 リリーもわたしも考えていたのは、親による虐待の事実である。というよりも、現在の彼女の境遇を並び立てるだけでも、ハンナ・ハインズが育児放棄をしていたと断定することができよう。

 緊急搬送されたニナは、すぐに治療が始まった。点滴だけで大きな手術にはならなかったのは、不幸中の幸いというべきだろう。失神の原因は、医師曰く、栄養失調と心理的なショックによるものだと判断された。しかし、いったいなにが彼女の精神に衝撃を与えたのか、それだけはニナ・ハインズ本人のみが知るところだった。手がかりがあるとすれば、彼女が発した『じゅう』という言葉。それだけだ。

 彼女は一人部屋にかつぎ込まれ、病床でぐっすりと眠っている。右手には点滴が打たれ、すうすうと寝息を立てていた。

 わたしとリリーは、部屋の外の廊下からその様子を見ていた。ちょうど取調室をのぞいている時との同じような構図だった。

 そうしてわたしたちが彼女を見ていたとき、一仕事終えた医師が戻ってきた。白衣姿の肥満気味の男は、どうやらうまい飯にありつけているようだ。

「警察の方ですか?」と医師。

「はい、わたしは」とリリー。「こちらはあの少女を発見した探偵のミス・ウェザフィールド」

 わたしは小さく頭を下げた。

 医師は大きなため息をつく。

「しかし、身寄りのない子で、これほどの重症だとまずいですな」

「重症なんですか?」とわたし。

 医師は深く頷いて、「私は詳しくはないんですが、心理的にかなり参ってるみたいですね。心的外傷後(PT)ストレス障害(SD)のきらいがあるように思えます」

「PTSD……治療はできますよね?」

 わたしは確信を持った声で問うた。

 なぜわたしがこう言ったのかと言えば、わたし自身、かつてそのような症状にあったからだ。PTSD――またの名を砲弾恐怖症シェル・ショック、あるいは戦闘ストレス反応コンバット・ストレス・リアクション。しかしこのようなストレス反応も、原因である記憶を殺すことで、ある程度症状を緩和することができる。現にわたしがそうなのだ。わたしは、左腕を亡くした幻肢痛ファントム・ペインの記憶を、文字通り亡霊ファントムにすることで押さえている。治療は、できないことはなかった。

 しかし、医師は黙って首を横に振った。

「残念ながら、難しいと思われます」

「それはどうして?」

「あまりに幼すぎるんです。ショック症状を緩和するためには、まずその根元となる記憶を探る必要があるんですが……それが幼少期の記憶ともなると、彼女の人格形成に必要な記憶を根こそぎ消し去ることになります。そうなると、彼女は彼女でいられなくなる……植物状態になる可能性も……」

「つまり」とリリーが口を挟む。「自然に彼女が、トラウマを克服するのを待つしかない?」

「そうなります。かなりの苦行になると思いますし、治る見込みも低いですが……無理に治療を行うよりは、彼女のためだと思います」

 医師はそういうと、小さく頭を下げて去っていった。


 残されたわたしたちは病室に入り、病床のニナ・ハインズを見ていた。

 リリーは今後の捜査について考えあぐねているようだった。警察としては、彼女の状況はしかるべき処置を施すべきものであると感じているのだろう。しかし、わたしは別のことを考えていた。

 わたしは、ベッドの上から垂れ下がった手を握り、軽く手の甲にキスをした。

「ねえ、リリー。ひとつ考えがあるんだけど」

「考え?」

「そう。……彼女、わたしが引き取ってもいいかしら」


     *


 それから、意識を回復したニナ・ハインズは、わたしが引き取ることになった。依頼主である母親に告げなくていいのか? とリリーはわたしに尋ねたが、依頼主も今やわたしにとっては容疑者の一人である。その嫌疑が晴れるまでは、ニナを安全な場所へおいておくべきだと主張した。リリーは案の定、「さすが道楽探偵ね」と蔑みの言葉をくれた。

 そうしてニナが搬送されてから二日目の昼、わたしは彼女をクルマに乗せて、ピルグリム・サーカスに向かった。彼女はわたしの家で住むことについて何ら疑問も抱いていないようだったが、遠慮だけはしているみたいだった。渋滞にハマってわたしが苛立たしげにハンドルを叩くたび、「本当にいいんですか?」と問うてくるぐらいだ。

 彼女のその傾向は、わたしの事務所を見ると最高潮に達した。図書館を改装した地上二階、地下二階の邸宅。裏口の駐車場にクルマを入れると、ニナは口をあんぐりと開けていた。

「ここがおうちなの?」とニナ。

「そうよ。今日からここがあなたの家。だから、ただいまって言うの」

 クルマを降り、ガレージから玄関へ。自動格納機が、わたしのブリストンを地下ガレージに運んでいった。ニナはそのギミックにまたも大口を開けていた。


 二階のリビングまで上がると、わたしは真っ先にニナをシャワールームに連れて行った。この数日間、浮浪者として過ごし、さらには病床で過ごした彼女は、ろくに風呂も入っていない。消毒液のアルコールの臭いと腐敗臭とが混じり合って、鼻をふさぎたくなるような臭いを発していた。

 脱衣所に入ると、わたしは問答無用でニナの服を脱がした。青のワンピースの下には、黄ばんだ白い下着を着ていた。わたしはもちろんそれも脱がした。

「さあ、入った入った」

 彼女の背中を押して、シャワールームへ。すぐに蛇口をひねって、あついシャワーを浴びせかけた。

 ニナは、驚いたように声をあげた。あたたかいシャワーなど久しぶりだったのだろう。驚きの表情のあとは、すこし安堵し、朗らかな顔になっていた。

「さあ、洗ってあげるから。両手をあげなさい」

 横柄な警官のようにいってから、わたしはスポンジにボディソープをたっぷりかけた。何度も握って泡立ててから、ニナの細いカラダへスポンジを押し当てる。ゴシゴシとこするたびに、彼女がいかに劣悪な環境にあったかがわかった。スポンジ越しに伝わる、やせ細った少女の肉感。とても健康的な子供には見えない。こんな状況で、よく一人で生きてこれたものだ。

 おなかと胸、手足に背中、首と洗って、今度は頭に移る。シャワーをたっぷり浴びせてから、わたしはシャンプーを手に取り、ニナのプラチナブロンドをわしゃわしゃとまさぐった。はじめは泡立ちも悪かったが、さすがに三度目になると、ニナの頭は白い泡でいっぱいになった。シャンプーのいい香り。自然と彼女の顔にも色が戻る。

 そうして全身を洗い終えると、ふかふかのタオルでよく拭いてやった。髪の毛はドライヤーと櫛を使ってよくブラッシング。女の子は、ちゃんとした扱いをしてあげねばならないのだ。


 しかし、一つ問題があった。着替えである。風呂に上がったあと、とりあえずわたしのTシャツを着せてあげたが、ブカブカでどうにも不格好だった。袖から手は出ないし、丈は太股まである。

「少しデカいわね……。ちょっと待って、クローゼットを漁ってみるから。ソファーにでも座って、テキトーに本でもラジオでも使ってていいから」

 わたしはそういって、ソファーのほうを指さした。そして、自分の不甲斐なさを呪った。

 ソファーには、わたしが愛用するタオルケットと枕が転がっている。そういえばここ数日、ベッドに戻った覚えがない。コーヒーテーブルには食べたままの食器が散乱し、キッチンにはその倍以上の洗い物が、さながら吸い殻だらけの灰皿のごとく積み上がっている。わたしのズボラさを体現するようなリビングだ。

「あぁ……ごめんね、散らかってて。好きに使っていいから、ちょっと待っててね」

 コクリとうなずくニナ。

 引き取るとは言ったものの、わたしにはベビーシッターの経験もない。それどころか、自分一人の私生活を回すので手一杯なのだ。先が思いやられた。


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