ニナ・ハインズ (6)
わたしはニナ・ハインズを保護すると、クルマに乗せてラリュング市警察中央署へと向かった。ニナは思いの外おとなしく、わたしが声をかけた時も黙ってうなずくばかり。手を取って「付いて来てくれる?」と言うと、一瞬だけためらいの様子を見せたが、最終的にはおとなしく従ってくれた。
そのまま彼女を母親のもとへ連れていっても良かったのだが、警察へと連れて行った。それはすべてわたしの独断であり、契約書に交わした条項には、そのようなものはない。
母親としては、一刻も早く娘と会いたい。そう思うだろう。……普通の母親ならば。
わたしが睨んだ点はそこだ。ハンナ・ハインズは、愛情あふれる母親などではない。再婚のためならば、幼い娘を追い出すこともためらわない、ひどい女だ。
だからわたしは、ニナを警察に連れてきた。母親に返す前に、その母親が母足りうる存在かどか、見極める必要があると思ったからだ。
「なに、それで私のところまで子供を連れてきたわけ? さすが道楽探偵というか、なんというか……」
ラリュング市警察、中央署。殺人課課長のオフィス。課長のリリアン・リュウは、事務椅子に背を持たれて、タバコを吸っていた。わたしが少女を連れていようがお構いなしだ。
「彼女の母親には不審な点があるの。それに、さっきからこの子、まったく口を利かなくってね。何か事件に巻き込まれてるんじゃないかと思って。警察にそういう資料はないかしら? ――あと、子供の前でタバコは吸わないほうがいいわよ、リリー」
リリーは深くため息をつき、何かブツクサと言いながら灰皿にタバコの先を押し当てた。
「事件資料って言ってもねぇ」
「犯罪歴のある人間のリストは作ってるでしょ?」
「それをあなたに見せる理由はあるの、赤錆?」
「あるわ」と、わたしはポケットから探偵手帳を取り出す。
そこにはラリュング市長のサインもある。わたしが、捜査をしてもかまわないという許可証。そしてわたしには、警察に協力を仰ぐ権利がある。ラリュング市民として当然の権利だ。
「しかたないわね。ちょっと待ってなさい。書類と、その子供の子守を連れてこさせるから」
リリーは灰皿の中を未練がましくのぞきながら、席を立った。
リリアン・リュウがニナのことをガキと呼んだのは、なにも彼女が子供嫌いだからではない。むしろ彼女は一児の母であり、母になってからは人一倍子への愛情を注いでいた。ただし、警察にくるような子供は別である。少年課ではないが、盗みの果てに殺しに手を染めた少年少女を、彼女は何度も目にしてきた。ラリュングの汚点に骨の髄までしゃぶられた、哀れな子供たちだ。リリーはそんな子供たちと相対するとき、いつも愛を持って彼らを「ガキ」と呼ぶ。そして彼女は、ニナのこともそのような子供だと思ったのだろう。小汚い格好をした、目に生気のない少女。警察に来て落胆するのは、犯罪者だけだ。
ニナは少年課の婦人警官に連れられ、取調室に入った。わたしとリリーは、ドアにある小さな窓越しにそれを見ていた。
「彼女の名前はニナ・ハインズ。それで間違いないかしら?」
「そのはずだけれど」
「だとすれば、相当厄介な事件に首を突っ込んでるわよ、赤錆」
リリーは窓の奥に見える少女を横目に、大きなため息を着いた。
「さっき部下にデータベース資料を漁らせたけど、そこにニナ・ハインズ、またはハンナ・ハインズに関するデータは無かった。だけどね、未解決のまま捜査を封印した、いわゆるコールド・ケース・ファイルの中に彼女の名前が出てきた。
ニナ・ハインズ。当時十一歳。三年前の事件ね。……ブレイフォード地区で殺人事件が起きた。ガイシャはヘンリー・ウィンストン。ニナ・ハインズの父親だった男よ。ニナは、そのウィンストン殺しの重要参考人だった。けれど、この事件は未解決のまま終わった」
「なぜ?」
「さてね。ファイルによれば証拠不十分だそうよ。結局は『自殺の可能性がもっとも高いのではないか』で片づけられている。実際のところはどうか知らないけれど」
「担当刑事はなんて言ってるの? その事件、担当したのはもちろん殺人課でしょう?」
「ええ、そうよ。でもその刑事はいまはもういない。一年前、マフィアとの抗争に巻き込まれて死んだわ。私の先輩だった……正義感の強い人だったわ」
「それじゃあ、三年前の事件の真相を知っているのは……?」
「ニナ・ハインズか、ハンナ・ハインズ。その二人だけ、ということになるわね。資料によれば事件当時、ハンナは仕事に出かけていたらしい。水商売ね。ニナは家で寝ていたらしいわ。捜査員はニナに少しでも犯人に見覚えはないかと聞いたらしいけど、彼女は怯えたままなにも答えなかったそうよ」
「そりゃそうよ。家の中で、父親が殺されたんだから。気が動転するのも無理はないわ」
「でも、今の彼女ならどうかしら?」
リリーが取調室に目を移す。
そこには、怯えた様子で椅子に座るニナと、コーヒー片手に相対する黒人の婦人警官がいた。
ニナ・ハインズは、ゲザツキーが言うように生まれたての子鹿のように小刻みに震えていた。恰幅のいい婦人警官は優しい口調でニナを諭すが、彼女は首を横に振るばかりだった。
しびれを切らしたわたしとリリーは、結局、取調室に押し入ることにした。婦人警官は申し訳なさそうに頭を下げたが、リリーは冷めた口調で「もういいわ」と応じた。鉄仮面の女ここにありだ。
わたしは顔をうつむけるニナに対面して座った。制服姿の婦人警官から革ジャンの私立探偵に代わっても、彼女は顔色一つ変えなかった。ずっと青ざめたままだった。
「あらためて自己紹介させてもらうわ、ニナ・ハインズさん。わたしはヘイズル・ウェザフィールド。探偵よ。ある人物から依頼されて、あなたを捜していた。だけど少し考えが変わってね。まずはあなたについて少し聞かせてほしいの。あなたは、どうして逃げ回っていたの? なにがあったの? あなたのお母さんは、お父さんは、どうしたの……?」
わたしがそう問いかけたときだ。
ニナの表情が、キッと変わった。歯を食いしばり、歯茎を剥き出しに。生物としての生存、敵対の本能が表出したように。まもなく、彼女の顔はひきつり、目はうつろになった。瞳孔は大きく開き、焦点が合っていない。
「ハインズさん?」わたしは席を立ち、今にも倒れそうな彼女を支えた。「大丈夫ですか?」
ニナは応答しない。ただ彼女は、唇をわなわなと震わせながら、何か小声でつぶやいていた。もしわたしの聞いた言葉が正しければ、彼女はこうつぶやいていた。
「……じゅう」と。
まもなく、ニナの体からは一挙に力が抜け、口元もだらんと垂れ下がった。ひくついた唇からヨダレが滴り落ちる。もはや瞳はなにも映していない。
「リリー、医療班を!」
「わかったわ。すぐに呼んでくる」
リリーは取調室の壁にある受話器を持ち上げ、緊急の直通ダイアルに回した。
まもなく、中央署付けの医療班がやってきた。失神したニナ・ハインズは、すぐさま救急に搬送された。




