ニナ・ハインズ (4)
ニナ・ハインズは失踪した。まるで何かから逃げるように。彼女は何から逃げようとしたのか? 娼婦というカラダを売る仕事からか? 無理もない、彼女はまだ十三の少女だ。男性に対する恐怖はあるはずだ。だが、わたしには、ニナが逃げ出した理由はそれだけではない気がしていた。娼館の仕事から、そして工場の劣悪な環境から逃げ出した理由は。
それにしても引っかかるのは、あのハンナ・ハインズという女だ。彼女の、あの冷めた態度。母親とは思えぬ投げやりな姿勢は、どうにも癪に障る。だが、それでも彼女は娘の捜索を願い出てきた。いまさら母性でもくすぐられたのか? そうは見えないが……。
わたしは数多の謎を抱えたまま、自宅兼事務所にクルマを置いた。そして、そういえば今日は月曜か、とふと思い出した。
それからは、鬱憤を晴らそうと地下鉄に乗り込んだ。ピルグリム・サーカスから二駅だけ乗って、ホルソーで降りる。そしてわたしは、行きつけのバー・アーロンに入った。
煤けたビルの二階に上がり、赤い扉を開いて店内へ。さすがに夜更けだからか、客の数はまばらだった。馬蹄型のカウンターには二人しかいない。スーツ姿の男二人組だった。
わたしはいつもの特等席、カウンター端に陣取ると、黙ってマスターに目配せした。彼もまた黙って、ガイネス・スタウトを一パイント用意してくれた。
わたしは、スタウトの白い泡がパイントグラスの底から浮かび上がるのを見ていた。この深呼吸でもするような動きが、わたしは好きだ。
「今日も何があったんで?」とマスターが問うた。
「ええ。ある少女を追ってるの。それがまた面倒でね。依頼主はその子の母親なのだけれど、その母親が奇妙なのよ。なんでも娘とは別居状態にあったとか。しかもその理由が、母親の再婚なのよ。十三の娘は、再婚を嫌がって家を出た。そして一人で稼いでいたらしいわ。聞くところによれば、その少女は家を出て孤児院にいたとか、孤児院を出てヤバい仕事に手を出してたとか」
「それはまた」
「それで結局、手仕事からは逃げ出したらしい。逃げ出したままどこへ行ったかはわからないけどね。その子、逃げたところで頼る相手もロクにいないと思うのだけど……片親だし、母親も母親で何か裏がありそうで……」
「なるほど。身寄りのない家出娘か。そいつはかわいそうだな」
「そうね」わたしは一口、スタウトを飲む。深呼吸するように。「とりあえず今後は、彼女の親戚や交友関係をツテにして、どこかに匿ってもらってないか調べようと思ってる。それで見つかるといいんだけど」
「匿われてる可能性も、無きにしもあらず、か」
マスターはそう言うと、グラスを拭きながら小首を傾げた。
「なに。なにか気になる点でも?」
「いや、まあ……。彼女、わざわざ孤児院に行ったんだろう?」
「そうね。家を出て、一時的に孤児院に預かってもらってたみたい」
「そのお嬢ちゃん、孤児院に逃げたってことは、頼れるツテが神様以外に無かったってことじゃあないかね」
「神にすがるしかない、か」無神論者のわたしには、理解が出来ないことだ。「神からも捨てられてしまったら、残るは……」
「この汚い、地獄からも天国からも見捨てられた、霧の街だけさ」
「そうね……。ニナ・ハインズは、ストリート・チルドレンになっている……?」
「そうかもしれんね。だとしたら、捜索は難航しそうだ」
言って、彼は肩をすくめた。
するとそのとき、向こう側のカウンターで客が目配せした。マスターが軽く頷いてから、注文を受けにいく。
わたしは、残ったガイネス・スタウトをゆっくりと楽しんだ。夜のラリュングFMを聴きながら。
彼の言ったとおり、捜査は難航しそうだ。
気付けに一杯ふっかけてから、わたしは地下鉄で自宅に戻った。ホルソー・ステイションから、ピルグリム・サーカス・ステイションへ。ものの十分足らずの旅路だ。
しかし、わたしは疲れていたのだろう。おぼつかない足取りで客車から出た。ホームに出るや、地下鉄が通る洞穴から生ぬるい風が吹き抜けた。わたしの革ジャンをも翻す強い風は、気持ち悪いほどにぬるい。まるで誰かに愛撫されるような気持ち悪さだ。
エレベーターに乗り、地上階へ。改札を出て、夜のピルグリム・サーカスに戻った。このブロックは眠らない。円形に広がる通りには、四六時中ネオンサインが輝いている。もう零時近いのに、化粧品を持った女優の顔がアップで映されていた。
今話題の女優、アンナ・シャープ。焦茶色のショートカットが特徴の彼女は、いまやラリュングの若者では知らない者はいないというぐらいだ。最近の芸能人なんて興味のないわたしも知っているのだから、相当だろう。
わたしはアンナ・シャープを横目に、さっさと事務所に帰ろうと思った。しかしそのとき、妙なにおいが鼻についたのだ。
それは微香をくすぐるスパイスのにおいだ。わたしは思わず足を止め、においのするほうを見た。そこには、一人の老人がいた。
老人は植え込みに座って、カップに盛られたスープカレーを飲んでいた。容器の中を見ると、バゲットが一切れ入っている。だがその老人は、とてもそんな旨そうなカレーを食べられる身分には見えなかった。彼の足下には、「チップ・プリーズ」と書かれた空き缶。そして小脇には赤い雑誌を抱えていた。おそらく、ザ・プロブレム紙だろう。
ザ・プロブレム。それはラリュングでも比較的安価に、手軽に手に入るペーパー・タブロイドだ。紙中毒者でなくても手軽に購入できる。しかし、このプロブレム紙の最大の特徴は、なにより安価であることだ。安値の理由として、店舗販売をせずにホームレスに路上販売をさせていることが挙げられる。そうだ、この老人は路上生活者だ。
しばらく佇んでいると、老人のほうからわたしに尋ねてきた。
「なんだい、あんた。セイヴィルの探偵じゃねえか。これはやらんぞ」
「いえ、結構。少し物思いに耽っていただけです」
「ああ、そうかい」
老人は言うと、残りのカレーをバゲットと一緒にかき込むように飲み干した。
わたしは浮浪者を後目に、事務所へと歩き出す。
――なんだ、簡単な方法があったじゃないか。ニナがもし路上生活者になっていたとしたら、炊き出しに現れるはずだ。それに幼い少女なら、ホームレス支援をしている教会側も優遇するに決まっている。きっとよく覚えているはずだ。




