忘れたいこと、忘れたくないこと。
翌日の昼間、わたしは事務所の図書室で調べごとをしていた。オンライン・ライブラリにアクセスし、ラリュング市内の記憶削除手術を行っている病院・医院を検索。その中からカルテを引っ張り出し、わたしに依頼をしてきたマダムたちの名前で検索をかけた。結果は言うまでもなく、クロだった。
わたしはそのカルテをマリーに送りつけ、とりあえず日中の仕事を終わらせた。デジタル化されたカルテデータを見てマリーは、「これなら何とかなりそうです」とメールを送ってよこした。子供たちの件は、これで何とかなるだろう。
しかし、問題はもう一つある。
本来のわたしへの依頼は何だったか。それは、騒音の原因であるあの装甲車を止めることだ。そして、その持ち主とおぼしき女こそが、サリー・へイズ。彼女はそう名乗ったらしい。
わたしはそれが彼女の本名ではないことを知っている。……わたしの本名がヘイズル・ウェザフィールドではないように。
手の甲に唇のタトゥーを持つ女。
わたしの脳裏に、霧の向こうへ葬ったはずの記憶が蘇る。
日が完全に沈んだ頃、わたしは今一度ブロウトン・ヒルズに戻った。ゆっくりとクルマを走らせ、定刻通りにたどり着くように。
子供たちの証言が正しければ、あの戦闘装甲車両は、毎晩七時五十分になると、ブロウトン・サウスにあるレイミントン・スクエア、その近くにある墓地に出現するらしい。墓地の茂みからのっそりと姿を現し、後部ハッチを開いて子供を招き入れるというのだ。
しかし、それも今日で終わりだ。
わたしはレイミントン・スクエアのバス停脇、安全地帯にクルマを停めると、問題の墓地へ向かった。腕時計に目を落とすと、時刻は七時四十七分だった。装甲車が現れるまで、あと三分。
墓地の通路に足を踏み入れると、とたんに全身が凍えるような感覚を覚えた。吐息が白くなり、肌が粟立つ。わたしは幽霊など信じないが、このときばかりはそれに近いものを感じ取った、そのような気がする。
脳裏で彼女が囁いている。右手にキスマークを持つ彼女。あの瞬間――わたしが左腕を失った時――の記憶が蘇ってきた。断片的に、幻肢痛のように。
そうしてわたしが奥の茂みに着いたとき、ついに時刻は七時五十分となった。問題の時間。彼女が現れる、約束のとき。
刹那、墓地が白っぽい靄を帯び始めた。空気がさらに冷たくなる。そして靄は、やがて霧となり、わたしの眼前を真白に満たした。
霧とは、ある種の異次元への通路である。この世と、あの世をつなぐ。
わたしは、左腕を口元へ近づけた。
「霧は来たれり……霧の女皇」
直後、白い靄をかき消すように、わたしの頭上に赤錆色の霧が立ちこめ始めた。それはまた異次元への通路であり、霧という境界線は、わたしたちにも未知の世界である。
まもなく、まったく同じタイミングで『霧の向こうの存在』が表出した。
装甲車両が、黒っぽい変色迷彩の色をうごめかせながら、闇の中に現れる。と同時、わたしの巨人が左腕だけを霧の向こうから現した。
頭上に立ちこめる赤錆色の霧から、文字通りの鉄拳が降り注ぐ。拳はまっすぐ装甲車へと振り下ろされ、堅牢な装甲板をものの数秒でアルミ缶のように押し潰して見せた。
拳は再び赤錆色の霧をまとうと、また霧の向こうへと帰っていく。ただ、屑鉄と化した装甲車を残して。
わたしは遺されたそれを、まじまじと見つめていた。
無人の装甲車両。そこからオイルが溢れ出ている。ひしゃげた銃口は、おれたパスタのように間抜けだ。しかし、これが霧の内側で平然と暴れ回っていたのだ。それも、子供たちを利用して。
わたしは心のなかで彼女に問うた。幻肢痛を消し去るため、霧の向こうに葬ったはずの彼女――死の口づけに。
「これは、本当にあなたがやったことなの……?」
しばらくして、サイレンの音とともに警察車両の群がやってきた。わたしが通報したからだ。交通事故が起きて、車両がひしゃげている……と。
はじめは交通課の人間がやってきたが、まもなく殺人課もやってきた。
「あなたは事件に対する引力みたいなものを持っているようね、赤錆」
ひしゃげた装甲車を見つめるわたしに、遅れてきたリリーが言う。
わたしは彼女の皮肉は無視し、クルマのほうを見ていた。
彼女はわたしの隣に立つと、一緒になって鑑識が装甲車を調べる様を見た。
「まだ調べている途中だけれど、この装甲車はラリュングで作られたものではなさそうよ。全面に電圧の変化によって変色する装甲を配置して、偽装効果を高めている。七色に変わる特殊迷彩ってとこかしら。武装のほうは空砲だったけれど、本来なら軍警察の装甲車すら一発でぶち抜けるぐらいの威力はある。正直、これが頭のキレる犯罪者の手に渡っていたら、なんて考えるとゾッとする」
「それじゃあ、無人のままロクな事件も起こさず、勝手にぶっ壊れて良かったわね」
「本当にね。こんな幸運、そうそう無いでしょうよ」
リリーは自嘲気味にそう言うと、クルマのほうへと向かっていった。
おそらくこれから警察は大忙しだろう。夜通しで調べを続けるに違いない。なにせ、相手は霧の向こうの兵器なのだから。ここ数日、立て続けにそのような事件が起きている。警察が血眼になるのももっともだ。
それに……。
わたしは自分のクルマに戻りながら、ズキズキと痛む頭をさすった。髪をかきあげるように額を撫で、痛みを忘れさせる。しかし、忘れることなどできない。忘れるように、手配したはずなのに。皮肉なものだ。忘れたくないモノほどしつこく付きまとい、忘れたくないモノほどあっさり消えていく。
*
依頼主のマダムからは、その夜のうちに畳みかけるように電話がかかってきた。夜更けに帰ってくると、電話を抱えたニナが「へジィ! 電話、電話!」と慌てるものだから、わたしもさすがに驚いた。
受話器を耳に当てると、開口一番ヒステリックな叫びが響いてきた。スピーカーが割れんばかりの高音だ。
「あなた、いったい何をしたんです!」
「なにをした、と言いますと?」
「依頼の件です! あなた、いったい何をしたんです?」
「ご依頼の件はしっかりと調査、解決したはずです。お子さんは帰ってきていますでしょう? 騒音も無いはずです。とはいえ、いまは警察車両のサイレンがうるさいかもしれませんが」
「確かに騒音はなくなったみたいですが……ですけど、さっきうちにグローブの記者が来て、ぶしつけにもわたしを犯罪者呼ばわりしたんです! いったい何をしたんですか?」
「さあ。わたしには分かりかねます。あくまでもわたしの仕事は、騒音の調査。そしてお子さんの説得でしたので。それ以上のことはなんとも」
「けれど、これはどう考えてもあなたが――」
と、これ以上ヒステリーな声は聞いてられなかったので、わたしは受話器をニナに渡して通話を切らせた。
わたしはクレームに応対するつもりはない。どうしても主張したいことがあるなら、ちゃんとわたしに面と向かって抗議しに来るだろう。だから、クレームの電話やメールには、基本応じないようにしている。なにせ、わたしはちゃんと仕事は果たしたのだから。
「いいの、電話切っちゃったけど?」
「いいのよ、事件は解決したもの。ところで夕飯は?」
そう言ってわたしはリビングのソファーに体を委ねる。今日は寝酒にゴッドファーザーでも欲しいところだった。




