空飛ぶ鯱の蒲焼き
いつかの夢より抜粋
おはよう。
どちらからともなしに言い合って、朝食の席につく。
今日のメインは空で獲れた新鮮な鯱の蒲焼きだ。
私も妹も、その他の大多数と同じようにこれを好んで食べる。平均的だと謗られようが没個性と詰られようが仕方ないと思っている。
美味しいは正義だ。
頸骨や肋骨を丁寧に除かれ開かれたふっくらとした身はその奥に三十三応現身のごとき甘露を隠しているのだろう。あたかも観自在菩薩様のおわす厨子であるかのように至上の蜜を纏い、あめ色に輝いている。端々に配置された黒く香ばしい焦げは剥げかけた金箔のように品格と味があり、焼けてしわしわと縮んだ皮と相まって全体の印象をきりりと引き締めている。薬味と散らされた山椒と甘辛く濃厚なたれの香りが混じり合い、じつに旨そ――えっ。……え?
ああ! それ私の!
え? 一人食リポやってる私が悪いって?
……それとこれとは話が別だろう。そもそも人のものを盗るなんて人道に悖る行為だとは思わ――ってこら。黙々と食うな。人の話を聞け!
え? 語ってないでとっとと食べろ? 嗚呼、冷めるもんな。わかったわかったわかりましたから取るんじゃない! まったく……。
「あっ。トーリ、後ろ後ろ! リコちゃん来たよ!」
はい?
「おはようリコちゃん! 今日も早いね。どうやらよっぽど見せつけたいとみえ」
「窓からか?」
「へっ?」
「だからそいつは窓から覗いているのかと訊いて――」
「え、?」
「――って」
あーあ。
「もう聞こえないか」
ダイニングにテレビがあるはずもなく、ワズダイイングでは為すすべもなし。
とても、静かだ。
あ。
蒲焼き食ってるもなか、じゃないや食ってる最中だったんだから共食いじゃないのか? 共食いだよなそうだよな。
よし確かめに行こう。
薬指のリモコンで空調をピッと稼働させて席を立った。
ほの赤い飛沫が飛んで大惨事になったダイニングをぐるっとまわって、長細いドアからベランダへ出る。乾いた白を汚さないようにと物干しのときに使っているサンダルをつっかけることも忘れずに。
開けたドアの右上に――見える見える、見えた。
案の定泡を吹いている、びちりと並んだ牙と白黒の巨体の鯱。
これは大物だ。他に取られないうちに片付けてしまおう。
手すりつきの、肩近くまであるベランダから身を乗り出して、窓の近くを漂っているイルカのようなサメモドキに網を掛けて引く。重いのかと思っていた、が………そうでもないらしいというのは確かだったらしい。こんな大物でも私より軽い。
じゃなければ空なんて泳げないか。そうだな。
うんうんと唸りながら頷く。
一人納得して何が楽しいんだ。私は。
ドアぎりぎりだったので一苦労したが、機転を利かせてなんとかかんとか台所まで引きずり込むことに成功した。
こほん。
咳払いをひとつふたつみっつ、じゃなくて。リテイクだリテイク。やり直しを希望する。
誰に? 当然私に……、…………。
えへん。
ではここで、お手軽鯱捌きのコーナー!(無理矢理) でんででーん
さてまず血抜きと止めにと頭を落とします。鋭い肉切り包丁か骨断ちに向く牛刀がよいでしょう。磯臭い液体が飛び出しますが泡を吹いているので暴れません。また、消化器官はどうなっているのかという仕組みそのものへ解明されていませんが、咀嚼と同時に消化を完了する機能を持つことは判明していますので内臓からのゴミを心配する必要はありません。逆叉の尾を流しの上の針に刺して吊り、新鮮な血が脂混じりにどろりと垂れ落ちるのを金盥に受けます。これは後で調味料を作るために使いますがひどく臭いますので暫くは換気必須でしょう。
次に存在しない肛門から刺身包丁を斜めに差し込み、腹側を割り裂くように切り開きます。こつは縫うようなつもりで斜めに刃を入れることとよく研いだ細身の包丁を使うことです。内臓は透明で見えませんが触れますので刃先の感覚をたよりに刃を滑らせます。空気に触れると霧散しますので感触以外は気になりませんから気にしてはいけません。内臓は保存して調理する例もありますがここではそのまま外します。からだの仕組みの解明などはお偉い科学者さんたちが現在進行形で頭を悩ましていますので気にしませんあしからず。
最後に骨を外します。初めに頭を落とした部分、人間なら首のあるあたりの背鰭と背骨の間に包丁を入れてこの原理で一番太い骨を腹側へ引き剥がします。脊椎のひとつぶんずつ、丁寧に。連なった肋骨も一対一対削ぎ落とします。ここで手間を惜しむと廃棄率が跳ね上がりますのでじっくりと手をかけましょう。美味しくいただくためにも見た目は大切です。
つらつらと脳内実況を続けながら作業を進める。
最後の椎骨がぼろっと落ちた。青い石油繊維エプロンはサイケデリック。
ぼろっ。と、落ちた。笑える。はは。
場を誤魔化さなければという謎の使命感に、咳払いをまたひとつ。
これで完了です。
下ごしらえに身から鰭を切り取ってさっと洗い、冷蔵庫行きは部位ごとの用途別に切ったり削いだり叩いたりの下処理を済ませて酒に浸けておく。えんがわとスープ用、酒用にと鰭を分ける。残りは、腹身はそぎ切りにして湯引き、その他は皮を剥いで指幅に薄く切り、さっと塩水にくぐらしてベランダに吊るす。皮も薄切りにして湯引きする。辛子酢味噌で和えると美味しい。
切り取った他の部位たちは頭と一緒に皮を剥いで冷凍庫へ。冷凍すると勿論細胞組織構造が崩れて食味やなんやらが落ちてしまうのだがしかし食べきれない。塊肉のひとつ二つを塩漬けにするほどにも天日塩の買い置きはないし、まさか一戸建て住まいじゃあるまいし借り受けている一室で自家製薫製を作るほどの図太い精神も周囲への迷惑の沙汰を想像できないほど貧困な心も持ち合わせていないのだ。やはり冷凍保存が適当だろう。
多少の劣化は仕方がない。
一人には大きすぎる獲物なのだ。
仕様がない。
さてはて、お昼のしたくをせねば。
とんとんととん、と。せん切りキャベツとつんつく辛い山葵菜に塩だけを多目にふって準備完了。注いだ油が細かな泡を箸にまとわりつかせている。
熱した油の中でうす衣をまとった白身がふっくらと揚がり、油を切ると同時に双方につくサラダ味。難点は衣が水分を含むところ。澱粉と白米粉の衣でも吸水率はそれなりで、まあプロではないのだからいいとする。じゅわっと音を立てた唐揚げに更に薬味の粉末をぱらりとかけて……いただきます。
香ばしく油っぽい湯気に混じるハーブの風味、かりっと歯を立てるとさくりと口の中へ落ちてくる身。ほっくりと広がる旨味を堪能してほうと吐いた息はうっすら白い。
嗚呼、美味い。
向かい側に置いてしまった皿を見ながら、いつものように感想を並べ立てる。視線がほやほやの料理に集中してしまうのは仕方のないのことだ。むしろそうでない方が失礼だろうと俯き気味に思った。
やがてこちら側の皿は所々をくずで汚して白く染まった。完全に静止した向かいの空を見やる。それなりに均整のとれたよそい方で盛られた料理はすっかり冷めてしまったようだった。
なんとなく無気力なまま、リコを待つ。台所の片づけもそこそこに端末を見やる。なにもないから今日は遅くなるというメールが飛んでいた。
なるほどいつもの渋滞らしい。
足が痺れだすころに陽が傾いてきたので洗濯物を取り込み畳む。半数以上が赤く染まり、ほとんどには黒っぽい飛沫で模様ができていた。
あぁ〜。う〜ん、アバンギャルドになってしまった。
消臭殺菌ドライオイルのおかげで臭いもついてないし、これはこれでいいや。もう一度洗い直させるのも面倒くさい。
と、これが本音。
リコはまだ来ない。
ウィンドウは砂嵐のままだ。
まだだろうか。
一人は寂しいなあ。
日が落ちた。
夕飯の支度をしなくては。
冷蔵庫から取り出した分厚い肉に改めて醸造酒と下味の合わせ調味料をもみこむ。つけあわせにと用意しておいたポテトサラダを解凍しながら、ふと、下ごしらえの済んで後は焼くばかりと漬け込まれた残りがあったと思い出す。たれがやや血潮風味になってしまったけれどまあリコにでも振る舞おうとIH炭火で遠赤外線を当てつつ焼く。じゅうじゅうと音をたてて滴り焦げるそれに二度三度と塗り重ねて飴色に仕上げる。一方で、バターを熱した鉄板に刻みにんにくを散らして赤みのさした白い身を置く。じゅん、と一度大きな音を立てると、細かい泡を弾けさせながらいい音で焼けはじめた。レアでは美味しくないのだからと、ふっくら仕上げるための蓋を被せる。
ふわあっと広がる白い湯気で視界を染めて、香ばしく豊かな香りを胸いっぱいに吸い込む。……噎せた。顔を横に背けて咳き込む。
馬鹿をした。しかし料理に唾をかけるわけにはいかない。
気を取り直して盛り付けだ。
白いハラミステーキ定食、というのも烏滸がましいくらいに簡素なトマト色のスープとアイスクリンのような白に人参ときゅうりの彩りが華やかなマッシュド・ポテト・サラダを添えた白い赤身の膳を二つ。それから食卓の中央に置いた白い皿には黄金虫色の敷き野菜のその上に今朝のよりもやや赤みを増した焼きたてじゅわじゅわの蒲焼きが鎮座ましましている。
あ。
お昼に気がついて思ったのに。
また習慣で調理してしまった。
仕方がない。
無意識とは意識的に変化させることが難しいからこその無意識。
仕様がないのだ。
虚しさになにを並べ立てているのかわからないまま、つらつらと、食べる。呟き並べる。食べる。飲む。脳内は未だ慣れない味覚と嗅覚と視覚と口腔内の触覚の合算された料理という刺激を慣れたように処理し、反応し、感想と形容と比喩を定型通り不規則に垂れ流す。もぐもぐと。
完食とよそったときのまま止まっているというそれぞれの相を見せる二つの膳。
もはや待つことにも飽きてきた。
そうだ、明日にしよう。
疲れを感じつつ部屋へ戻ると大窓越しのベランダに妹がいた。
……サワ? 珍しいな…。
もう寝るのか? 夜型のサワにしては早い、早すぎるくらいだ。……月でも見ているのか。確かに今日は朔月十日目だったはず。ならばなおさら青いだろう。
それは当然のようにいて思考にも知覚されていて。
「おいサ――」
「トーリっ! ダメぇぇえ!」
「――っぶな、かっ、た」
嗚呼…。
「妹は……サワは死んだんだ。死んだんだったよ。はは…」
「遅く、なって。ごめんね、トーリ」
ありがとう、リコ。
さようなら、サワ。
大窓を開け放ち、立て掛けてあった電子銃を振りかぶる。
「あぁあぁあああぁあ!!」
妹を失った。妹を亡くした。サワは往なくなった。
「残された最後の血の繋がりだったのに!」
リコは静かに私の哘びを聞いていてくれた。ただ待って、いてくれた。
親しい誰かの顔を仕止めて網に掛けるまで、ただ黙って。
「さっきは助かったよ」
「トーリ……。」
「なんだい?」
「コーナラ妹は、死んでたの?」
「うん、朝に、ちょっとね……」
「それは私の……ううん。今はそんなことより警戒しなくちゃね!」
「ああ」
「そして、悼み哀しみを――」
「――捧ぐ」
死者には哀悼を、生者には離合を。それが常識だから。
だから。
「私にとって最も親しくちかしいのはリコ、君だ」
親しい者も君だけになった。
「よければ私と漁をして暮らしてはくれないか」
もちろん、君が私と同じならば、だが――。
了
通=つう(どこかおかしい) 利己=本心(無能は爪隠し) 騷=騒がしい(ただそれだけ) 哘、叫ぶ。
私―危うく 妹―マミった リコ―特には
鯱。その場にいない人のうち一番親しいあるいは親しかった人の顔をする。空を泳いでいる。回遊型。アイパッチ大きい。(mummun eater killer whale)
間違えて名前で呼び掛けると食べられる。呟くのはセーフ。
共食いできない種。蒲焼きが美味しい。刺身は不味いがベーコンとエンガワは人気がある。鰭は好みが分かれる。