俺教始動
「ほらよ」
勝八が桶を逆さにすると、その中から水の精霊がにゅるんとまろび出、真下の湖へと着水する。
下水道から隠し階段を通った先にある古代文明の遺跡。
そこへ、勝八はドロシアを連れてきていた。
「ひゃー」
精霊でも水の冷たさは感じるのか。
彼女は童女のような声を上げ、水面をかき分けていく。
「こんな場所があるとハ……」
ちなみにゾマも一緒である。
下水道でドレスが汚れてはいけないと、彼女はいつもの蛮族スタイルへと戻っていた。
水面に反射し、黄金色をしたゾマの瞳が爛と輝く。
「なー。俺も驚いたよ」
ぱっしゃぱっしゃと背泳ぎを開始したドロシアを眺めながら、勝八は彼女に応えた。
嬉しそうに体を反らせるドロシアは、若干膨らみが足りないものの健康的なプロポーションをしている。
もっと水を与えたらバインバインにならないものか。
勝八が顎に手を当て考えていると。
「……カッパチ」
勝八の邪な考えを察知して、ゾマが低い声を出す。
「あー、いや、隊長がこの場所のことしばらく黙っててくれるみたいで助かったよ! 王様にはとりあえず魚のお頭持ってって、まだ魔物がいるかもしれないとかどこから来たか調べるとか言い訳してくれるみたいだ」
何となくお説教の予感を感じ、勝八は早口で別の話題を口にする。
とりあえず、フリオ隊長は時間稼ぎをしてくれるらしい。
どこまで引き延ばせるかは分からないが、他の魔物がいる可能性が無いわけではない。
黙ってもらった事と引き換えに、勝八も調査に協力するつもりであった。
「ソウカ……」
それで誤魔化された――というよりは追求を諦めた表情で、ゾマは息を吐く。
野獣の目を持つ勝八を警戒してかゾマが胸元を直すので、勝八は視線を逸らすので精一杯だった。
そうしていると、ちょうど良いところでドロシアが円形の湖を一周して戻ってくる。
「どうだ? この場所は」
「まぁまぁね」
膝を屈めて勝八が尋ねると、ドロシアはぷいと顔を背けて答えた。
彼女のいう「まぁまぁ」は、大分満足だという意味である。
先ほどまでの様子を見れば、それは勝八にも理解できた。
「そっか。連れてきて良かった」
嬉しくなって、勝八は顔を綻ばせた。
そんな彼を、ドロシアはチラチラと横目で窺う。
「それで、彼女をここへ連れてきてどうするのダ?」
二人の様子をしばらく黙って見つめていたゾマが、しびれを切らした様子で尋ねた。
「……どうするって?」
それに対し、ひざを曲げたままの勝八はアホ面で彼女を見上げる。
「何か考えがあって、この場所を隠匿したのではなかったのカ?」
彼のリアクションにこちらも困惑したようで、ゾマは眉根を寄せた。
「え、水も綺麗だし神殿って感じだし。ここってドロシアに似合うなー喜ぶだろうなーと思って」
だが、勝八には何か企みがあってドロシアをここへ連れてきたわけではない。
キュール君がこの場にいれば「じゃぁ前回の超珍しい思案顔は何だったんだよ!?」とつっこむだろう。
しかしそれも「この場所に連れてくればドロシアもちょっとは軟化するかも」という浅はかな考えで作られた表情である。
「それだけカ?」
「それだけ」
念を押されても勝八の返答は変わらず、ゾマはがくりと肩を落とした。
「私の、為なの?」
こちらも勝八に何ぞか企みがあると思っていたのか。
ドロシアが目をぱちくりとさせる。
勝八が頷くと、彼女はもじもじと俯いて口の中で何か呟いた。
「ワタシはてっきり、この場所を使って水神信仰を復活させるつもりなのだと思っていタ」
一方、ゾマは遺跡の中を見回しながらそんな事を言う。
「あぁ……そういや使えそうだな」
ドロシアの喜ぶ顔が見たいのは確かだ。
しかし、彼女への信仰を高めた方が彼女のためにもなるし、この世界のためでもある。
自身が先ほど口にしたように、この場所は確かに水精霊の神殿にぴったりの場所だ。
なのだが、ここを具体的にどう使えば良いのか、勝八にはさっぱり分からない。
「ウムム……」
それは世俗に疎いゾマも同じのようで、彼女は周囲を見回しながらウムムと唸る。
難しい顔をしている二人を余所に、ドロシアが再び泳ぎ始めたところで。
「何似合わない顔してんだい」
猫のようなしなやかさで階段を降りてきたらしい。
いつの間にか音もなく、マリエトルネが勝八の背後に立っていた。
「うお! ドキっとするだろ!?」
その声に飛び上がった勝八は、振り向いて「いきなり声をかけられたら」&「普段見慣れぬ表情に」ドキッとするだろと注意と冗談を同時に放った。
「……意外と余裕あるね」
両方とも伝わったらしく、マリエトルネは呆れたような表情で彼を見る。
下水道奥にある遺跡の話は娼婦たちにもしてあり、マリエトルネは勝八たちを冷やかしに来たようだった。
「この場所を、水神復活に使えないカと相談していタ」
一方気配察知に優れるゾマはマリエトルネの接近に気づいていたらしい。
冷静に彼女へと説明する。
「やっぱりね」
すると、マリエトルネは頷いて周囲を見回した。
間を少し置いてから、彼女は再び口を開く。
「その件だけどね。アタシらでも手伝おうって話になったよ」
「本当か!?」
前述のように、この世界の事など何も分からない勝八と都会の理には疎いゾマである。
やり手ババア――経験豊富なマリエトルネが手伝ってくれるとなると、かなり心強い。
喜色を見せる勝八をうるさそうに追い払う仕草をして、マリエトルネは話の続きをした。
「アンタには命を助けてもらったからね。当分はアタシらも暇だし」
「いや、助けたのはドロシアのトコまで案内してもらったのでチャラだろ」
マリエトルネの協力があるのは、絶対にありがたい。
はずなのだが、考え無しの勝八は余計な事を言ってしまう。
同じ事を思ったのか、マリエトルネも憮然とした顔をする。
彼女は少々の沈黙を挟んで、言葉を付け足した。
「そこのドロシアに拠り所を作ってやるんだろ。そういうのが無い辛さってのは、アタシも分かるつもりだからね」
顔を背け、言い訳をするように早口で語るマリエトルネ。
あの可愛げの無い彼女がツンデレめいた真似をしている。
その事に勝八がほっこりしていると。
「故郷が焼けてゴミ漁る生活して人買いに拾われて……神様なんていないと思ってたからね」
不意に、背けられた彼女の口から闇が溢れ出した。
その口調は数十年――いや、数百年もの時間を積み重ねた老婆のようである。
いつのまにやら岸へと戻ってきたドロシアが、ぎゅっと、心配そうな表情で彼女を見上げる。
「神様の奇跡ってのがあるなら、アタシも見てみたい」
そんな彼女を安心させるよう微笑んだ後、マリエトルネは勝八へと告げた。
似たような言葉を、勝八はこの間聞いていた。
「ワカル」
それは、彼女に頷き歩み寄ったゾマのものである。
彼女もまた、両親の死で神の力を疑っていた一人だ。
ゾマの瞳に同じものを感じたのか。
二人はがっちりと握手した。
「奇跡、ねぇ」
一応神の使者であり、緩の内情を知っている勝八としては複雑な気分である。
しかもこの話の流れでは、勝八が彼女らに神の奇跡を見せなければならないらしい。
「分かる……」
ちらりとドロシアを窺うと、彼女もまた小さく頷いている。
緩が不器用だったおかげで、非実在神問題を抱えている人間……それに精霊は多いようだ。
水精霊の次は緩神布教活動を行うべきかと考える勝八。
「で、実際の作戦なんだけどね」
そんな彼に、握手の後身長差のあるハグまでしてもらいスッキリした顔のマリエトルネが呼びかける。
「おう」
それを羨ましいなと思いつつ応える勝八。
するとマリエトルネは、唇をひん曲げて語った。
「アンタには、教祖になってもらうよ」
「は?」
「客引きはアタシがやるから」
「……何するつもりだよ」
勝八が唖然とした後問いかけると、彼女はニタリと邪悪な笑みを浮かべた。
こうして、やり手ババアを加えた勝八たちの活動が始まったのである。
◇◆◇◆◇
ある日の夜。商業の街グリフ。
グリフでは珍しい着流しを着た青年。ゲイシャ=カブキは一日の仕事を終え、帰宅しようとしていた。
古傷の刻まれた右足が痛む。
普段の生活には支障がないが、今日のように酷使すると、どうしても引きずるような歩き方になった。
「くそっ」
壁に手をつき、叱咤するように棒になった右足を叩く。
だが、それで動きが良くなるはずもなく、痛みも鈍い。
それがまた彼を苛立たせ、睨むように前方へ顔を向けたときだった。
「ちょいとお兄さん」
色っぽい声が、ゲイシャへと投げかけられる。
見ると道の先に女が立っており、彼へと妖艶に微笑んだ。
一目で娼婦と分かる襟刳りの広い衣装。
こんな人通りの少ない路地で立ちんぼとは余程買い手がいないのかと思いきや、多少年増だが色気があり器量も悪くない。
「こんな場所で商売でござるか?」
彼女にゲイシャが応えたのは、そんな物珍しさが相まってであった。
普段ならさっさと通り抜けるのだが、この足ではそれも出来ない。
それに――。
「あの、他に場所が無くて……」
年増の娼婦の後ろにいる少女が、一際彼の目を引いた。
幼い。十になるかならないかの少女である。
か細い声に庇護欲を沸き立てるつぶらな瞳。
ドレス姿に不釣り合いな座布団のような帽子を被っているのは気になったが、それがまた彼女の神秘性を増している。
その可憐さにゲイシャがぼんやりしていると、何故だか年増の娼婦も目をまん丸と見開いていた。
「コホン」
「あ、えーと。良かったらこの子のお相手してくれない?」
夜風が冷えたのか少女が小さく咳払いをすると、彼女は慌てた様子で言葉を口にする。
「あ、相手?」
どもるゲイシャだが、もちろん意味は分かっている。
このご時世、この年頃の少女でも体を売るのは珍しくない。
「初めてだからさ。料金もサービスするよ?」
すすすっと体を寄せて、年増の娼婦が彼に囁く。
都会は恐ろしい所である。
「やっぱり嫌ですよね……」
ゲイシャが戸惑っていると、逆に少女のほうはくるりと背中を向け、何処かへと去って行こうとしてしまう。
キラリ。夜闇に彼女がこぼした宝石の如き涙が光った。
「あ、ちょっと待つでござる!」
その宝石をつかみ取ろうとするが如く、ゲイシャは無意識に手を伸ばしてしまった。
「はい、ご同伴ー」
年増の娼婦がそれを腕ごと素早く掴むと、ニタリと笑う。
「いや、拙者はただ……」
「いいからいいからー」
抗弁しようとするゲイシャだが、彼女は有無を言わさず彼を何処かへと連れて行こうとする。
「ヒヒヒ」
帽子を被った少女もまた、何かこの世ならざる邪悪な笑いを漏らしたような気配がした。
何かおかしい。
罠の気配がする。
そう思っても抗えず、ゲイシャは二人について行った。
そして――。
自分は騙されている。
そう思ったのは、梯子を苦心して降り下水道に降り立ってから。
自分はとんでもない事に巻き込まれたのではないか。
ゲイシャがそう思ったのは、下水道の壁にぽっかり空いた穴から更に地下へと降りる事になってからだった。
「大丈夫ぅ? もう少しだからね」
年かさの娼婦が、彼に肩を貸しながら励ます。
もう少しで何処につくというのか。
問いただしたい気分だが、それをした途端燭台を持って前を歩く少女が魔物へと変じ襲いかかってくるのではないか。
そんな妄想が頭を離れず、ゲイシャは何も言えずにいた。
先ほどから前を歩く少女の帽子が、ガサガサと蠢いている気配がする。
黄土色の壁にゆらゆらと、彼らの影絵が映し出される。
それが物の怪に変じていないか何度も確かめながら、ゲイシャは階段を降っていった。
それから、こつんこつんと降る音がしばらく響き、ゲイシャはようやくその場所へとたどり着いた。
「この……珍妙な場所は」
巨大な湖である。
それも、下水の更に下にあるとは思えないほどに澄んだ湖。
円を描くその湖の周囲に、薄水色の外套を纏った人間がずらりと並んでいた。
そして中央。
湖の真ん中には小島が出来ており、そこに、同じく薄水色の外套を羽織った、しかし外套の上からでも分かるほど筋肉の盛り上がった男がいた。
被ったフードからはねじれた角が突き出しており、顔は猪か何かの骨を加工した兜――もしくは仮面で覆われており、表情が伺えない。
その中央にはまった宝玉が、ギラリと光った。
「ここは、水精霊神ドロシアの神殿」
同時に男が、よく通る声で語る。
水精霊神。そんなものゲイシャは聞いたことがない。
彼が唖然としていると、先導する小柄な少女、そして彼を支えてきた娼婦までもがどこから取り出したのか水色のローブを身に纏う。
男に気を取られてちらりとしか見えなかったが、小柄な少女の頭にも角のようなものがあったような気がし、再びおののくゲイシャ。
「神に導かれし者よ。聖別されし祝水を口にするが良い!」
ゲイシャの動揺お構いなしに、男が両腕を掲げる。
周囲の人間も同じ動きをし、ゲイシャの不安は更に強まった。
ここ最近、カルト宗教の噂など流れていただろうか。
かつて獲物の腹を裂き肉を食らっていた恐ろしい集団がいたらしいが、もしやその再来ではなかろうか。
もしくは男たちは死霊か悪魔の類であるか。
逃げ出す算段をするゲイシャだが、この足ではそれも叶いそうにない。
そうこうしている内に、小柄な少女が手前の湖から桶へと水を汲み、一番近い神官(カルト宗教でも神官は神官だろう)に何事か囁く。
神官が手をかざすと桶がポゥと光り、それを手に娘はこちらへと戻ってきた。
「さぁ……」
ゲイシャへと、桶が差し出される。
このまま飲めと言うのだろうか。
「どうしました?」
ゲイシャが戸惑っていると、少女は首を傾げる。
ローブから覗く黒色の瞳が、光を受けると翡翠のような輝きを見せた。
「え、ええい!」
それに絆されたわけではない。
だが、このままでは逃れられそうもないと判断したゲイシャは、桶を受け取って被るように傾けた。
「イッキ! イッキ!」
すると、周囲から手拍子とともにそんなコールが巻き起こる。
桶で塞がれ見えないが、前に立つ少女もそれに参加している気配がする。
なんだか分からないまま乗せられたゲイシャは、桶に入った水をごくごくと飲み干していく。
そんな無茶ができたのは、若い女性ばかりらしい周囲のコールに圧されたからだけではない。
――水が、美味いのだ。
いや、美味いという表現は適当でないかもしれない。
水はさらさらと彼の喉を、胃を、体中を駆けめぐり、仕事の疲れを洗い流していく。
そして疲労が去った後には、全身の血液が入れ替わったような爽やかさが隅々まで満ちていく。
故郷で石清水を飲んだ時でさえこんな感覚はなかった。
「ぶはー!」
水を一気に飲み終えたゲイシャは、大きく息を吐いた。
周囲を見回すと、先ほどのコールは幻覚だったのかと思えるほど、ローブを着た人々は静寂と静粛を保っている。
ゲイシャがじっと見つめても、小柄な少女はニコニコとしているばかりだ。
「体の具合はどうだ?」
何という可愛らしさだとボンヤリする彼に、中央の男が問いかけてくる。
「具合とは何のこと……あっ!」
言われ、ゲイシャは己が体の異変に気づいた。
いや、正確には異変ではない。
――右足から痛みが消えているのだ。
上げてみると、足はまるで生え替わったかのようにスムーズに動く。
一体どうして。
疑問に思い祭壇の男を見ると、彼は斜め後ろを見て何かを確認するような仕草を見せる。
「……あ、おう。えーと、これが水精霊神の力だ」
ゲイシャが目をぱちくりしている内に男は前を向き直し、少々自信なさげに返事をした。
やはり怪しい。
怪しい……が、この水の力で古傷の痛みが消えたことに間違いはない。
「お兄さん。他にも病気や怪我の人がいたら、ここに連れてくると良いわ。私達、いつもこのぐらいの時間に集まってるから」
年かさの娼婦――いや、神官だったのか。
彼女がゲイシャに体を寄せ、そんな囁きを口にする。
「あの、王国や衛兵さんには、この場所を秘密にしてください」
更に小柄な少女が、純真無垢な顔で言葉を足す。
「あ、あぁ、分かったでござる」
ゲイシャはそれに対し、人形のように何度も首を振った。
体制に隠れた密教。
やはり怪しい。
「向かいの爺さんが肺を悪くしておるからな。明日、連れてくるでござる」
それでも、気づけば彼はそんな返事をしてしまっていた。
この場所の雰囲気に圧されたせいもある。
自身の傷が治ったおかげもある。
だが、それよりも。
「そうですか。お願いしますねっ!」
丁寧に頭を下げ、ゲイシャへと可憐な笑顔を向ける少女。
彼女に魅せられたというのが一番の理由だと、ゲイシャは後に気づくのであった。




