約束と旅立ち
淀んだ沼の中、彼女は喘いでいた。
水に潜む穢れを受け止め、自らの中に溜め込み、時をかけ浄化していく。
何百年、何千年とこの作業を繰り返してきた。
最初は感謝もされてきた。
やりがいもあった。
だが、今は違う。
それらは最早、両方とも失われてしまった。
ずぶずぶと、自分と人間で作り出した底なし沼へと、彼女は沈んでいく。
神は、神はいないのですか。
あぁ、神がいないのなら、私はいっそ――。
「プール行こうぜ」
突然の勝八の言葉に、緩は顔を上げた。
異世界ウィステリア。
その名前が誕生した翌日の午後である。
「ど、どうしたの急に?」
場所は相変わらず緩の部屋の中。
緩がふと思いついた設定を、本ではなくまずメモ用紙にカリカリと書き付けていた時であった。
「いや暑いし、遊びに行きたいな、と」
彼女が問いかけると、勝八は窓の外を見つめて呟く。
とはいえ、そちらはお隣さんである勝八の家がある方向である。
勝八の代わりに、緩は別方向にある窓から照りつける太陽を見た。
梅雨もようやく明け、地面の下からは湿気をいたずらに攪拌させるような暑さが沸いてきている。
いきなりの気温上昇に、緩もびっくりしてエアコンの電源を入れてしまったほどだ。
お婆ちゃんにお小言を言われちゃいそうだなぁなどと考える緩。
それから彼女は、ふと気づいた。
「遊びにって……もしかして二人で?」
勝八に視線を戻し上目遣い。肩をすぼめて彼女は尋ねる。
勘違いなら恥ずかしい。
でも、本当に二人きりだと言うのなら……。
「おう。今からじゃ人集まんないだろうしな」
「今からなの!?」
果たして答えは緩の期待した通りのものだったが、期日は大分予想外だった。
「思い立ったが吉日って言うだろ」
つむじの上から声を出す緩に、勝八はさも良い事を言った風な笑顔で頷く。
「遊びに行ってお前が元気になる。そうすると異世界……フジの調子も良くなるだろ」
「……ウィステリアね」
説明する勝八に、緩はため息を吐いて訂正する。
なんだ、異世界の事を考えての提案だったのか。
いや、彼が彼なりに異世界の事を考えたり名前を覚えようとしてくれるのは嬉しい。
嬉しいけれど、やっぱりそれは緩の期待した答えとは違った。
「何か都合悪いか?」
浮かない顔の緩の顔を、勝八が覗き込んでくる。
いけない。この目に見つめられると何故だか心の内が読まれてしまうことがある。
「だって……今年は水着とか買ってないし」
なので、緩はもじもじしながら別の理由をでっち上げた。
今年と言うか去年も買っていないのだが、それを言うと女子力を疑われそうなので伏せておく。
「小学校の頃の奴は捨てちまったのか?」
「あんなのもう入らないよ! ……多分」
だが勝八がそもそも緩を麗しの女子高生扱いしないので、緩は大いに憤慨した。
確かに身長は小学生の頃からほとんど伸びていないが、小学校の時の水着が着れないぐらいには出るべきところは出た……はずだ。
「じゃぁ学校指定の奴で良いじゃん」
「女の子としては……それもダメ」
しかし勝八は、依然としてその辺りの機微は察してくれない。
理由があるとはいえ二人きり――そうだ。二人きりなのに、学校指定の水着を着ていくなど持っての他だ。
ヘタをしたら兄妹に間違えられてしまう。
「でも一部のマニアックな層に人気あったらしいぞ。写真欲しがる奴もいたし」
想像しプルプルと首を振る緩だが、勝八は尚もスクールの水着を推してくる。
その中には、少々看過できない単語が含まれていた。
「写真ってなに?」
そんな物を撮られた記憶は無い。
緩が首を傾げると、勝八はあからさまに「やべっ」という顔をした。
「えーと、一年のプール開きで卒アルの写真撮ったじゃん。その時に係の権田が女子の分を余計にパシャパシャと」
それから勝八はそっぽを向き、パシャパシャとカメラで撮る仕草をした。
なるほど。卒業アルバムの写真なら確かに撮られた。
しかし、あれはあくまで雰囲気を伝える為のものであり、個人をパシャパシャするものではないはずだ。
だからこそ、緩の記憶にも残らなかった訳だし……。
「と、盗撮は犯罪なんだよっ!?」
少し考えてから、緩は慌てて抗議した。舌足らずなせいで「とーさつ」と発音してしまったが、構ってはいられない。
幼なじみが犯罪に加担しているのを見過ごすわけにはいかないのだ。
というより写真を撮られたとき自分が変な顔をしていなかったか不安になっての事だったが、それはそれとしてである。
「分かってる。権田も反省して元データは消したから許してやってほしい」
緩に詰め寄られた勝八は、腕を組み重々しく頷いてそんな言葉を口にする。
「ほんとうに?」
「あぁ。去年の夏、学校に不審者のおじさんが入り込んだ事件があっただろ?」
迫力のないジト目で緩が追求すると、勝八は唐突にそんな話を始めた。
「え、あ、うん」
戸惑いながら、緩はそう返事をする。
その事件ならば、緩も覚えていた。
とはいえ、朝礼の際に「そんなことがありましたので気をつけましょう」程度の話を後から聞いただけだったが。
「俺達で捕まえたんだ。その時、おじさんは権田に語りかけた……『君は私の影だ』と」
混乱を深める彼女に、勝八はさらりとそんな事実を口する。
更には変態おじさんと盗撮魔が交わしたのでなければ緩の中二心を刺激したであろうやり取りを再現し、沈痛な面持ちで顔を伏せる。
「権田はそれから悩み続けた。俺らはえーと、励ました。結果、写真は当面コスプレ会場でだけ撮ることにして、既に現像したものは俺らで分配する事になったんだ」
何やら長い話になりそうな雰囲気だったが、途中で飽きたらしく勝八は経緯をざっくり省き、そんな風にまとめた。
突拍子もない話だが、おそらく事実なのだろう。
勝八は普段から、緩の知らないところでいろんな事件を解決したり、大抵はただ単にややこしくしたりしている。
幼なじみと言っても、知らない事は沢山ある。
つまり勝八はそれだけ好奇心旺盛で、人の悩みに首を突っ込まずにはいられない性分で。
そのおかげで、自分も今助けられている。
彼のそういうところを緩はす……凄いなぁと思うのだ。
というか、そもそも、そんな話では、無い。
「あの、それで私の写真ってどうなったの?」
ふるふると頭を振って緩が問いかけると、勝八は不思議そうな顔をしながら答えた。
「えーと、うちにあるけど」
「なんで!?」
あって当たり前といった表情である。
自身のあられもない姿の写真(ただの水着)が勝八の家のあると知った途端、緩としては爆発しそうな心境であるというのに。
「いや、これはお前担当だろうって皆が言うから。意味が分からんけど」
その上周囲にも緩が勝八の所有物だと言われているようで(カン違い)、緩はついに赤くなったまま撃沈した。
「お前に渡したほうが良いか?」
緩の態度をいぶかしみ、勝八が尋ねて来る。
「い、良いよ……勝ちゃんが持ってて」
短い逡巡の後、緩は彼にそう答えた。
多分勝八の事だから、机の奥でクシャクシャになっているだろう。
それでも、もう見られてしまったのならそのまま勝八に持っていて欲しい。
何でも知ってるようで知らない幼なじみだからこそ、小さな繋がりを大事にしたいのだ。
……それからしばらく、沈黙が続いた。
勝八はもちろん、緩まで何を話していたか既に分からなくなっている。
「じゃぁ代わりに、今度買い物行くか。水着選んでやるよ」
そんな時、先に会話の巻き戻しに成功したらしい勝八がそんな提案をしてくる。
二人で買い物に行って水着選び。
それは正しく――。
「勝ちゃん、それってデー……」
「こう、胸が大きく見えるやつ」
期待を篭めて緩が顔を上げると、勝八は自らの胸の上で山のジェスチャーをしてみせた。
「そんな配慮いらないよ!」
どうして彼はこういう雰囲気を察してくれないのだろう。
怒りを頬に溜め、緩はぷくりと膨れた。
◇◆◇◆◇
喜んだり怒ったり忙しい緩の手によって、勝八は異世界ウィステリアへと転送された。
とりあえず買い物は承諾してくれた。
写真の存在は知られてしまったが、写真立てに入れて机に仕舞ってあることだけは絶対に悟られないようにしなければ。
いや、あくまで捨て辛いから保管しているだけなのだが。
勝八が心の中の誰かに言い訳していると。
「カッパチ?」
彼の顔を、金色の瞳をした少女が覗き込んだ。
自称神の巫女、ゾマである。
「お、おおう」
それに動揺しつつ、勝八は周囲を見回した。
顔が近いこと以上に何やら後ろめたさのようなものを感じ、ゾマの方を見られない。
妻の事を考えている時に愛人に出会った気まずさ。
この場合それが近いのだが、不倫経験など無い勝八にはそんな事は分からない。
彼がいるのは、やはり破壊神ノンを信仰するゾマの里。
その長老の家であり、彼の手には新しく受け取った腰巻と骨兜が乗せられていた。
「神の元へ行ったのだナ。返事はどうだっタ」
目線を合わせない勝八を不思議そうに見つつ、ゾマが問いかける。
「え、明後日の放課後買いに行こうって」
未だにボケた頭でそう答えてから、勝八はようやくゾマの方を見る事ができた。
すると、彼女の眉間には皺が寄せられている。
ゾマが勝八の旅に同行して良いか。
勝八はそれを緩に尋ね、結果を伝えるとゾマに約束していたのだ。
こちらでの経過時間は5秒ほどでも、勝八にとっては昨日の出来事だ。
感覚が狂ったせいで忘れていた。
一方ゾマにとっては一晩中の懸念事だ。
忘れていたでは可愛そうである。
「難解な、神託だナ」
「あ、いや、一緒に来ても良いって!」
何やら勘違いして更に難しい顔になるゾマに、勝八は慌てて言い直した。
色々と間に挟まったが、最終的な結論はそれで良かったはずだ。
「そ、そうカ……!」
それを聞き、ゾマの顔がパァと明るくなる。
彼女の眩しい笑顔がずいっと迫り、勝八の胸はやはり跳ねた。
背後では、長老が置物のようにニコニコしている。
彼女に頷いて、勝八は立ち上がった。
「んじゃ、とりあえずこれ履くから」
蛇皮を手に、やはり股間の位置へ顔が来たゾマへと説明する。
と、彼女も察して背後を向いた。
「シツレイ」
そうして、向かい合った長老の目を両手で隠す。
行き過ぎた熟女趣味の無い勝八への配慮か。
それとも長老にショッキングなものを見せない為の配慮か。
判別はつかないが、ありがたい事に変わりはない。
「あラ……」
視界を塞がれた長老が上げた声は、妙に残念そうだ。
だが、それを気のせいと判断して、勝八は腰ミノを落とした。
そうして、おニューの蛇皮を腰に巻いていく。
以前はゾマの手を借りて行った作業だ。
今回は以前より短くなっている上、何故だか巻きやすく一人でもしっかり履くことが出来る。
「おっ」
その理由に勝八が気づいたのは、ウロボロスレイヴの顔を正面に持ってき、腰に紐を巻いた時だった。
蛇皮にはベルトを通すような穴……所謂ベルトループがついており、抜け殻にも表面にニスのような物が塗られている。
紐自体も強度のある物に交換されており、勝八用に調整した事が伝わってきた。
「物が物ですシ時間も取れなかった為、通常のなめし作業はできませんでしタ。ですので表面に薬品を塗り、簡単な加工をだけを施してありまス」
勝八の声で察したのか。長老がそんな説明をする。
目を隠された彼女が朗々と説明する様は、シツレイながら少々不気味である。
「村人からの感謝の気持ちでス。骨兜にも同様に、蒸れを防ぐ加工がしてありますのデ」
勝八がそんなことを思っていると、長老は目隠しのままニコリと笑った。
そんな事を言われてしまえば、勝八も角の生えた禍々しい頭骨を被らざるをえなくなる。
「うぅ、とう!」
意を決して、勝八は三つ目猪の頭骨を頭に被った。
するとそれは、彼の頭にジャストフィット。
顎紐が無くともズレる気配も無ければ、締め付けられて頭痛がするということもない。
視界も良好。
正直言って魔法より不思議な技術である。
「どうですカ?」
「学園祭でカツラ被った時より違和感無い」
長老に伺われ、勝八は素直にそう答えた。
去年の学園祭で女装した時とは雲泥の差のフィット感である。
「見ても良いカ?」
「あぁ、俺だと判断つかないから頼む」
すると今度はゾマに尋ねられ、こちらこそと答える。
付け心地は悔しいほど問題がない。
となると後は見た目だけだ。
学園祭の時は見た者全員に違和感と爆笑を与えたが、今回はどうだろうか。
ゾマが長老の目を解放し、自らも勝八と向かい合う。
すると――。
「おォ……」
ゾマが瞳を満月のように見開き、感嘆の声を上げる。
まるで地味な幼なじみが眼鏡を取ったら美人だったというようなリアクションである。
ただし勝八は地味な幼なじみの方が好きだ。
いや特定個人の話ではなく傾向として。
「とても似合っていル」
「まるで王のようでス」
勝八が関係無い話に思考をシフトさせていると、ゾマと長老が口々に彼を褒め称えた。
「やっぱそうなるよな」
ただし、喜べるかは微妙なラインだ。
要するにこの蛮族スタイルが、お前には激お似合いだと言われている訳なのだから。
「ま、いいや。ありがとな」
まぁ、ただの蛮族よりは蛮族キングの方が良かろう。
切り替えて、勝八は長老に礼を言った。
「じゃ、行こうかゾマ」
そうして、未だにぽぉっとした顔をしているゾマに呼びかける。
「あ、あァ!」
すると彼女は、旅に同行できる事を思い出したのか顔を輝かせ立ち上がる。
ぺこりと長老に頭を下げ、テントを出て行こうとするゾマと勝八。
「何処か目的地はあるのですカ?」
彼らの背中に、長老が問いかけた。
「――……風の向くほうさ!」
長い沈黙を経て、振り返った勝八は爽やかな笑顔でそう答える。
めくった入り口から差し込む朝日が、彼の姿を無駄に雄々しく照らした。
先のプランなど、勝八は一切持っていなかった。
後ろで彼の沈黙を見守っていたゾマが、「ヤハリ」と言いたげな呆れ顔を見せる。
どうも彼女の憧れを持続させるのが、自分は致命的に下手なようだ。
勝八がそんな事を考えていると。
「それは好都合だ」
テントの外から、そんな声が響いた。
勝八が入り口から顔を出すと、そこにいたのは元ユニクール近衛隊長のフリオであった。
隣には、眼鏡をかけた知恵袋キュール君も立っている。
飛び出た勝八の骨兜へと触れながら、隊長が口を開く。
「君に、頼みたい事がある」
彼が手をどけると、骨兜の真ん中――三つ目猪の第三の目があった窪みに、何かが嵌っている。
それは、白色の宝玉。
癒しの至玉と呼ばれるユニクールの国宝が勝八の額にピッタリと収まったのを確認し、彼は大きく頷いた。




