09
「あれって、ネコ…だよね?」
賽銭箱の近くに祭られているのは、小さな黒猫と一回り大きな虎猫、ちょっと離れたところにブチネコ。
御神体が猫三匹? しかも、この組み合わせは、どことなく懐かしいものを連想させる。
これって、なんだったか、児童文学で見たような気が…。
「とっきー、ここのご利益すごいよ」
さっきまでの疲れを吹っ飛ばすぐらいの勢いで、璃奈が壁を指差してはしゃいでる。
壁一面には、事細かにご利益がこれでもかというほどに羅列されていた。
縁結びから学業成就、金運上昇から健康祈願・病気平癒。
安産祈願、子宝祈願、家内安全、交通安全、商売繁盛、五穀豊穣、待ち人から失せ物まで、
日本中のご利益を網羅したんじゃないかってぐらい、必死に埋め尽くされている。
「いっぱいありますねー」
その表現が大事だな、『たくさん』じゃダメ、『いっぱい』じゃなきゃダメだ。
「本当に、いっぱいあって…なぁ」
「この発想は、一番してはいけない部類に入るわね」
呆れた様子で、怜奈がため息をつく。
たしかに、これだけのご利益を列挙すれば、何か一つぐらい叶ってもおかしくない。
何かの偶然で効果があれば、それをご利益と名乗っていいわけだから。
神がやるには浅ましいが、神の名を語る者がやるには相応しい…な。
「さっすがクロネコだね。時間帯指定まであるよ」
紗希が指差す場所に提示されているのは、円グラフのようなもの。
それで見るに、午前3時から4時までの間が神の恩恵を一番賜れる時間ということらしい。
「他にも、何か書いてあるよ。
願いは、赤裸々に語ること、体面を気にしたり、少しでも保身を挟めば、その願いは叶わない。
叶うのは、心底願っていること一つだけ、その他の浅い願いは叶わない…だって」
つらつらと綾乃が読んでいるのは、どうやら、その神の恩恵にあやかりに行くときの作法らしい。
まだまだ続きがあるそれは、壁の端まで続いている。
「見事な予防線だね。
その程度さえ守れないようなら、ワシが望みを叶えるに足る存在ではないわ…ってことかな」
言葉の裏にある意図を読み取って、紗希が挑戦的な笑みを浮かべる。
条件を複雑にして、叶わなかったら願うお前たちの態度のせい。
叶えるつもりがなさそうな神様も、悪意があるようにしか思えない難易度設定も、何もかもがうさんくさい。
だけど…ここに集まってる中には、うさんくさい話ほど喜ぶ人種が確実に数人いる。
「これは、夜の散歩の当てが出来た…ってとこかな?」
「うんうん、おにいちゃんは分かってるね。その回答は、間違いなく満点だよ」
「え、でも、ここまでくるとき、街灯とか、ほとんどなんにも…」
「だいじょぶだいじょぶ、懐中電灯くらい旅館で貸してくれるって」
提灯とかのほうが雰囲気出るかな、と、色々考える紗希の中ではもう開催決定らしい。
「肝試しは、夏にやるものであって、冬にやるものじゃないわ」
「季節限定じゃないから、大丈夫だって」
なんとか平然とした声を取り繕った怜奈の言葉が、璃奈のツッコミでむなしく消される。
「いいね、こういうの一回やってみたかったんだ」
なぜか綾乃も便乗で盛り上がり、楽しそうな三人を横目に、舞衣と怜奈が、おもいっきり腰がひけているな。
舞衣は外見の小動物っぽさが表すとおり、暗い中でなら、風の音だけで慌てて逃げ出しそうなほど。
怜奈は恐怖症の中に幽霊と暗闇があるから、もうどうしようもない。
「なんにしても、夜中に行くなら、その前に仮眠ぐらいは取らせてくれるとありがたいな」
◆
「馬より先に下りないと、馬は坂を下りない…だったかな」
もう少し軽く握ってくれると、肌触りとか、手の柔らかさとか、あったかさとか、こう違った楽しみかたもできるんだけど…。
こんなに力いっぱい手を握りつぶされてると、手をつないでることしか嬉しさがない。
一段下がると、もうこれ以上は骨格的に無理なんじゃないかと思うぐらいの勢いで、指が握りつぶされる。
「だから、はやいって言ってるでしょっ!!」
握ってくれてる細い指は、不安げにずっと震え続けてる。
『後ろ向きに降りると階段しか見えないから、高いところにいる気がしないんじゃない?』
そんな璃奈の言葉を本気にして、後ろ向きで階段を数段下りたところで断念。今の怜奈は、お空を見上げて現実逃避中だ。
そこから見える景色が恐いんじゃなくて、高い場所にいるという事実が恐いはずなんだけど。余計なことを言うとより重症になるだろうから、黙っておく。
「ほら、降りる」
「まだよ、まだ後18秒あるわ」
腕時計の針を見つめて、怜奈が必死に抗議する。
3分で一段という、いつ終わるとも知れぬ修行。
まあ、俺は手を握ってるだけでも幸せだから、それでもいいんだけど。
「だから、おぶってもらえばいいのに。とっきーの腕力なら、お姫様抱っこだって大丈夫でしょ?」
登ってきたときより遥かにゆったりなペースのおかげで、璃奈は元気なもんだ。
高いヒールをカツカツと慣らしながら、楽しそうに怜奈を煽る。
「いいのよっ!!」
おっかなびっくり、足場の悪い山道のような足運び。
長いスカートの裾を少しだけつまんであげ、確実に次の段に足がついたことを確認してから重心を動かす。この瞬間は、もうこれでもかっていうぐらい、ぎゅっと手が握られる。
横目で見た怜奈は、うっすらと目尻に涙をためて、ふるふるとしている。
他の皆には、階段をゆっくり歩くのは危ないから…とか言って、先に降りさせた。しかも、皆には璃奈につきあって怜奈がゆっくり歩いてるってことにしてあるけど…。
本音は、この顔を他の誰にも見せたくない…だろうな。
思わず、『よしよし、恐くない』と頭を撫でてやりたくなる表情だ。
「大丈夫か?」
「…なんとか」
もう話す余裕もなくなり始めてる怜奈の指を、ぎゅっと握り返しておく。頼られるって、いいなぁ。
ずっと、頼ってくれれば、それほど嬉しいことはないのに。
ピピピピピピピ。
「ひぅっ…」
突然の無機質な電子音で、握っていた俺の手を抱きしめるように怜奈がしがみつく。
全面に怜奈の身体が押し当てられて、布越しにあいつの全身の柔らかさとその震えが伝わってくる。
しばし、ぼーっとしたい衝動をなんとか抑え込んで、咳払いする。
「携帯、なってるぞ」
「な…もうっ、なんなのよっ!!」
俺の腕を抱きしめたままで、怜奈が苛立ち混じりに携帯を取り出そうと手を伸ばす。怜奈が携帯を手に取ると、まるで計ったようなタイミングで、着信音が止まった。
「………」
震える手で握った携帯のディスプレイには、非通知の文字。そして、着信音が止まっても残っているのは、楽しそうな璃奈の笑い声。
「璃奈、携帯を見せなさい」
「ひどーい、私を疑うなんて」
ゆるみっぱなしの頬を隠そうともせずに、璃奈が言葉だけで抗議する。誰がやったのかバレバレ、でも、そんなことより面白かったことのほうが大事みたいだ。
「いいよ。そんなに言うなら、おねえちゃんのリクエストに答えてあげるから」
数歩だけ軽やかに降りると、また怜奈の携帯がなりだす。
悔しかったらここまでおいで…懐かしのそんな台詞が、あの笑顔につまっていた。
「これも、お化け屋敷とかとおんなじだよね。抱きついてもいいっていう、だいぎめーぶんが欲しいだけだもんね」
その言葉でようやく今の姿勢に気づいたのか、怜奈があわてて俺から離れる。
でも、しっかりと手は握られたままなのが、ちょっと嬉しい。
「下までついたら、覚えてなさいよ?」
「んー、わたしの記憶力じゃムリかな。でも、おねーちゃんがとっきーに抱きついてた…ってことくらいは、覚えてられるかも」
どこまでも悪戯な笑みをうかべて、璃奈がたんたんと軽やかに階段を下りていく。我を忘れられない怜奈は、一歩ずつ一歩ずつ、しかたなく降りていく。
結局、下につくまで璃奈のおかげで2回、紗希の俺へのメールで1回の合計3回はあったわけで…。
俺は璃奈と紗希に、影で小さく感謝することになる。