*恩物
男は疲れていた──彼は先程、二年間つき合っていた恋人にふられたばかりなのだ。
二十代後半の青年は、紺色のネクタイを緩めて少し眉を寄せる。肩までの髪は焦げ茶色で、仕事だからと着ているスーツはさほど似合っているとも思えない。
容姿は悪くはないといった程度だが、見る者から見れば良い顔立ちだろう。街の喧噪にあぶれるように真っ暗な空を見上げて溜息を吐き出す。
仕事の帰りに彼女と待ち合わせ、切り出された別れの言葉は彼の耳に幾度かこだました。自分には勿体ないと思える美人だったが、とうとう愛想を尽かされたらしい。
こっちには何の取り柄もないのだから仕方がない。
そうやって諦めようと頭を力なく横に振った。その視界にふと、小さな看板が目に留まる。
あんな処にバー? 昨日もここを通ったが、見過ごしていたのだろうか?
その裏路地に見慣れない店があった。
光る看板には『Gabe-ガーベ-』と書かれている。
扉は美しい彫刻が施されていて、無意識にその取っ手に手をかけていた。心地よいドアベルの音と共に視界を満たす店内は悪くない雰囲気だ。向かって左手のカウンター内のマスターが静かに会釈する。
白髪の交じる髪を丁寧にアップしてぴしりと整ったバーテンダーの服に身を包む姿は紳士的に映る。
不思議な音楽が空間を満たし男の緊張感を和らげてゆく。男は店内を少し見回すとカウンターのイスに腰掛けた。
「いらっしゃいませ」
マスターは上品に発してコースターを男の前に置く。
「何になさいますか?」
ささやくように問いかけた。
「ブラッディマリー」
青年は唐草模様をあしらったコースターを見つめながら答える。
これは彼女の好きだったカクテルだ。未練がましいな、目を細めて赤い液体を見つめた。
別れの言葉をいともあっさり受けておいて結果がこれか? グラスのふちを指で撫でつけながら薄く笑う。
彼女と別れたかったワケじゃない。「別れる」「別れない」のケンカが格好悪いとか、めんどくさいとかそういうんじゃなくて。ただ、彼女を困らせたくなかった。
よく女が使う「相手を試す言動」ではなく、本当の別れを、その何度も口づけを交わした唇が語ったから。
本心では、すがりつきたい気持ちだったと思う。でも、本当にそこまで愛しているのかと問われれば──きっと俺は答えられないだろう、八方塞がりだ。
深い溜息が漏れる。
「失恋でもしたのかしら?」
ふいに右の方から女の声が聞こえた。
誰か座っていたっけ? 振り向くと、三つ向こうの席に女が座っていた。
その女を見た刹那、空気が張りつめる──goldenrodの髪にダークブルーの瞳、しなやかな体はまさに美しかった。
洗練された美しさにジャラジャラとした、けたたましい飾りはいらないと納得させるにふさわしい女性だ。
こういう女性は男の下心など見透かしてしまうのだろう。
「悪いこと言ったかしら」
「あ、ああ……。いや」
長いこと見つめたまま黙っていたので、彼女に気を遣わせてしまったようだ。
「いいんだ、本当のことだしね」
なんとなく彼女を安心させたくて照れ笑いで答える。
声もキレイだ、などと考えながら。
「そう。でもあなた、気を付けなさい。その目には迷いが見えるわ。今日は満月。早く帰ることね」
女は少し冷たい瞳でグラスを傾ける。
「は?」
しばらく彼女を見ていたが、言葉の意味を教えてくれそうになかった。
目に迷い? どういう意味だろう。
酔い覚ましに誰もいない道を一人歩く。夏にさしかかろうとしているこの時期の深夜はまだ肌寒さを残していた。
腕時計を見ると二時半を少し回ったところだ。
彼女にもう一度会えるかな? なんて思いながら、ややふらつき気味の足を進めた。目の前の暗い街灯は時折、小さな音を立ててついたり消えたりを繰り返している。
「ん?」
街灯の下にある物体を目が捉えた。
「猫──じゃない?」
口からついて出た言葉は、そんなものだった。今思えば、かなり間抜けな言い方だったろう。よく見れば明らかにそれは猫ではなかった。
大きく裂けた口、その口からチロチロと二股に別れた舌と、猫とは思えないほどの長い耳に黒い体はヒョコヒョコと不自然に動いている。
「キヒヒヒ、ようこそ我が主」
そいつは下品な笑みを浮かべて発した。
「うっ!?」
背筋から冷たいモノが流れるが、突然の恐怖に叫び声はおろか動くことも出来ずにいた。
そいつが、ゆっくりと歩み寄ってくる。ニヤけた表情を貼り付けて、その瞳に狂気を宿しながら。
青年は小刻みに体を震わせるが、足はまったく動こうとはしなかった。
一メートルの距離まで迫った刹那──
「ギィヤアァァァァ!?」
アスファルトに鈍い金属の弾かれる音が鳴り響き、そいつは悲痛な叫びを上げた。細長い棒のようなものに貫かれたそいつは断末魔の声を上げて消えていく。
よく見るとそれは槍のようだった。そして、もう一度会いたいと思っていた相手の美しい声が聞こえた。
「あなた、暗黒の王になりたいの?」
あの、おぞましい生き物の命を奪った槍にもたれかっているのは、まさしくあのバーにいた女性だ。
薄暗い街灯から少し離れているが確かにそうだ。
「君は……」
「迷いがあると言ったでしょう? 今までの人生を棒に振る気!? 違うわね、もう無くしたわ」
厳しい眼差しが男を射抜くように見つめていた。
「人生を棒に振る? 一体、何のことだよ。もっと解るように説明してくれないか? 俺が何をしたって──」
「忠告はした。聞かなかったのはおまえだ。今日の満月はいつもと違う。『暗黒の王』が死んで百年、満ち足りた月だ。負のエネルギーに満ちた今日、この時間に偶然、負の世界と波長が合った者が『暗黒の王』に選ばれる」
「何を言ってるんだ」
この女は何を言っている。俺をからかっているのか?
何が何だか解らない、化け猫に襲われて助けてくれた女がベラベラと理解不能な話をまくしたててくる。
女はなおも口を開いた。
「おめでとう! あなたは暗黒の王に選ばれました。いつでも人間をやめることができます。おめでとう!」
あざけりを込めた甲高い声が青年に降り注いだ。
「ま、待ってくれ! 何を言ってるのかさっぱり解らない。ちゃんと説明してくれ、頼むから」
さすがに困惑して問いかけた。彼女はしばらく青年を見つめると、溜息を吐いた。
「いいわ、教えてあげる。私はエルミ──『黒の女王エルミ』と呼ばれている。闇より人々を守りゆく者だ。『暗黒の王』というのはこの国、日本の魔物共の頂点に立つ者のことよ」
手にしていた槍はどこともなくかき消え、言葉一つ一つを丁寧に紡ぎ始める。
「暗黒の王?」
俺がそれに選ばれたって? なに言ってるんだ? とても現実的とは思えない彼女の説明に頭が沸騰しそうだ。
街灯から外れて佇む彼女は薄暗いなか、ぼんやりと青白い光をまとっているようだった。
「百年前に存在していた王は自分たちの世界だけでは飽きたらず、人間界をも支配しようと目論んだ、その魔王をとある人物が滅ぼしたの」
女はひと呼吸置き、当惑したままの男を一瞥した。
「前王は人間だった」
「え!?」
「些細なきっかけでそいつは魔物に身をやつし、王にまで上り詰めた。だから奴らは待っているのよ、魔物の力の源である負エネルギーを最も体の中に取り込める人間を」
そこに本人の性格や性質は含まれない。悪人であろうと善人であろうと、魔王になれる素質を有する。
──ここまで話を聞いても到底、信じられることじゃない。
化け猫に襲われはしたが、そこから魔王までの流れをつなげられるほどには青年の頭は柔軟には出来ていない。
女は半ば置いてけぼりを食っている青年を見やり、さらに口を開く。
「人界へ進出するには人間を王にすることが最も適している。一端、波長が合えば向こう十年は合ったままだ。逃げるか、戦うか、王になるか。選ぶのはあなた自身。もっとも、王になれば私の敵となるということだけれど」
「──っ」
青年は言葉を詰まらせた。いきなりそんな事を言われたって解る訳がない。「選べ」なんて無理な話だ。
戸惑う青年を見つめ、黒の女王エルミと名乗った女は小さく溜息を吐き出すと、ゆっくり街灯の増したに歩みを進めた。
「うっ!?」
薄明かりに照らされた彼女の姿に青年は思わず後ずさった。
長く伸びた耳に縦長の瞳孔──彼女から醸し出される雰囲気は人のそれではなかった。自分に起きた出来事が現実なのだと思い知らされる。
「解ったでしょう? これが現実よ。時間は無い。あなたの都合など関係無く、奴らはあなたを暗黒の王にするべくやってくる。考える時間は無いのよ」
そうして、青年の人生は一変した──





